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2018-09-23 53:52

2018/09/23:ヨハネの福音書講解説教(41)主を愛するということ

2018/09/23 聖日礼拝
尹善鎬牧師
ヨハネの福音書 -24
00:00
はい、ありがとうございました。みなさん、あらためておはようございます。
はい、みなさんに祈っていただきまして、先週、月曜日から先週の火曜日まで、第11回日本牧会社および新党リーダーG&Gめぐみと成就セミナー、無事終わって帰ってきました。
今回、日本から43名の参加者が与えられまして、そのうちに私たちの教団からは、先生があった新党含めて11名が参加されます。
毎回4分の1ぐらいは日本屋市から参加者が与えられていると思います。
今回は、教団・教派単日含めると11教団・教派で、教会数は18教会でした。そして九州から中国、近畿、関東、また北海道の九州路からもお一人先生がお見えになりましたけれども、
私は皆さんのお祈りと、またあるいはご理解、ご協力によりまして、神戸に来てからですね、毎年向こうに行かせていただいておりますけれども、
教団の牧師でありながら、また選挙主としてこの働きも、私にとっては、自分ではできない多くの日本の教会あるいは神戸さんに奉仕できる、お使いできる、そういう奉仕が一部分ですね、私が担うことができる恵みがありまして、本当に感謝しております。
今からような日もしますけれども、このセミナーが来年も続く予定にありますので、ぜひ皆さんに祈っていただきたい。また今まで、与談からは数えたら11人の方が参加なされましたけれども、今後も祈っていただきたい。
これがまた日本のリバイバル成長にですね、祝福につながると信じておりますのでね、ちょっとですね、その概要とまた今回の発信とその後お二人の明かしを、私が代わりにさせていただきたいと思います。
次。G&Gって何なの?グルイスクロースの略字ってですね、恵みと成長というところであります。それは、富山の資音の教会が神の、ただ神の恵みによって成長がなされていることの証でもあります。
ちょっと経緯をですね、話したいと思いますけれども、韓国の富山にある資音の教会、私の派遣教会でもありますが、その今は元老博士であるチョン・ピルト先生は、昔から日本の多くの教会、集会にですね、回られました。
政界の講師に招かれたこともいらっしゃいますし、昔は関西聖書神学にも講師として招かれたこともあります。
03:02
次。
まあ、その中で日本演出のですね、福岡教会のインサイボックス先生でいらっしゃる横田竹樹先生は、だいたい35年前からチョン先生との交流を持っておられました。
そして、富山にもですね、今まで多分100回したかもしれませんね、何度もですね、訪ねられたり、チョン先生は福岡教会や九州政界、あるいは九州教室などの集会に招いたりしておられました。
まあ、そこでチョン先生もあるいは横田先生も、日本もまず牧師が変われば日本の教会も変わり、またそこからリバイバルが起こるはずだというところにチョン先生と横田先生の心が一致しまして、
そして横田先生からチョン先生にお願いしまして、日本から牧師やあるいは神道さんを連れていきますので、ぜひ研修会を開いていただけないでしょうか。
まあ、それでチョン先生も喜んで、また商業教会の多くの神道さんに支えられて、このセミナーが始まるようになりまして、今年で11回目になりました。
今まで40以上の教団、今日は群れ、単日数えると40以上になりますね。
そして延べて500人以上の先生方、あるいは新学生、あるいは神道、子ども、青年、今回も青年たちが休暇をですね、自分の夏の休暇を遊びに行こうとやめて、今回のために休暇を使った二人の姉妹もいましたけれども、
そこに参加してたくさん恵まれて、教会から総定域都会が始まったり、伝道活動が始まったり、あるいは小グループが始まったり、あるいは先生方が講壇で祈ることが始まったりね、そういう変化が起こっていると思っております。
そして今回もそういう疑問というかなんでという思いの方もいまだにおられるようですけれども、主要な教会は大教会からあんなセミナーを主催できるだろうと、そして自分たちの大きい教会だから自慢話するつもりじゃないかと、
なんで日本の牧海生や神道のためのセミナーをなんで韓国でやるのってそういう思う方がいまだに結構いらっしゃるみたいなんですけれども、実際に参加された方々は多くの神道さんから、実はもう9割は教会の財政じゃなくて神道さんのそのための献金が捧げられて、
06:14
そして運転、葬儀、食事、案内、もう何から何まで神道さんのボランティアの奉仕、あるいはおもてなし、祈りによって支えられて開催できていること、そういう疑問を持ってこられた方が、そこでですね、もう見事に叩かれてですね、本当に恵まれて帰られました。
はい、次。これが会場になっています。15階建物の4階になり、毎回ここでやっております。こういうふうにですね、きれいにセッティングしてくださって、歓迎してくれます。
このようにですね、ぷさんの空港ですけれども、今回、教団の尾崎先生ご夫妻ですね、関西空港が閉鎖されまして、水曜日に飛ぶかな、12日ですね、飛ぶかなと思ったけりゃ行けなかったので、大阪で一泊して、私と同じく福岡まで来て、そして福岡で木曜日にもう夜遅くですね、来れました。
左にある方は自分の車でですね、葬儀をして、祝辞のお供まで、最後までですね、やってくれました。
こういうふうにですね、空港で、右から3番目の方は横田武之先生、その次の方、左から3番目は横田邦郎先生、私の隣のいる青年が横田先生のお孫さん、赤城戸丸協会の加藤先生の次男さんですね、彼も一緒に参加してしまぞこり来てですね、歓迎してくれました。
そしてですね、この多くの方、名古屋からまた福岡からね、神戸さんもまた関東からもお見えになりました。
3回の聖先生からの講演がありまして、先生方だけではなく神戸さんも本当に今まで聞いたことのないような本質的な見言葉、講演が与えられて、みんなチャレンジと刺激と悟りと恵みをたくさん受けました。
昔は神戸さんやあるいは他の教職者たちのいろんな講演とか明かしとかの明かしをさせていただきました。
神戸村さんも今回6人ぐらい来ていましたので、日本語礼拝部の一番左の顔を見える光月一郎という先生が他の青年たちと遊んでくれたり、水族館にも行ってくれたりですね、最後までずっと面倒を見てくれました。
また教会の委員会のVIP室がありますけれども、そこで休憩したり食事をしたり、またいろんな教会、教団、教派を越えて交わりや悩みや若き頃のときがたくさん与えられました。
09:15
そして朝早い時間でしたけれども、塩野教会の今の朱念木先生のE先生の講演も短い時間でしたけれどもありました。
その間に賛美とか特別演奏もしてくれましたけれども、韓国の弦奏は楽器の日本の琴みたいな楽器ですけれども、そういう演奏もしてくれました。
この二人がですね、右の二人が宮崎から来た二人の青年ですけれども、高い人ですが、もう夏の休暇を使わないのでですね、今回のセミナーのために足りないから、月々休めることも全部集めてですね、今回来てですね、本当にたくさん恵まれて、もっと明るい顔して帰られました。
こういうふうにですね、食事のおもてなしも、ふぐチリでしたけれどもね、食事のおもてなしもあるちんとさんがみんなのためにおもてなさしてくれました。
またそのプログラムの中には、その教会の家で家庭集会、スモールグループ、サランパンと言いますけれども、そういうスモールグループにも2、3人参加して、そこで本当に真ん中の先生が、福岡の若い郡主教団の先生ですけれども、その先生の話は、
本当にその集まって、その若者たちが後で一緒に祈るときに、そこの教会の4人の信徒さんが、自分たちのために日本の教会のために、もう本当にもう号泣するように涙をもって切に祈ってくれる姿に、皆さん自分が本当に感動して恵まれた、いかにどれだけ日本を愛してくれるんだろうかとですね、もう本当に感謝して帰られました。
こういうふうに、子どもたち部署からのイベント、パフォーマンスもありました。
これが教育センター、7階の屋上から見える武産の景色でもあります。これが礼拝堂、本堂ですね。
今回の参加者の記念写真であります。多くの方々が来られて恵まれて、また法師さんがですね、本当にもう全部自分でですね、報酬してくださって支えられて無事終わりました。はい、以上です。
もう本当に皆さんが背後で祈ってくださって、私は報酬を取っていきましたけれども、多くの教団、教派、先生方、あるいは牧師用品、あるいは信徒さんが本当に恵まれて、信徒さんの祈りと言いましょうか、愛に震えてですね、本当に励まされて皆帰られました。
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そこで短いですけれども、3人の向こうで私がありましたので、ちょっと紹介するような感じで私を代わりにしたいと思います。
今回参加された私たちの教団のある新学生の私です。牧先生の息子でもいらっしゃいますけれども、このセミナーに誘われて、しかしこの新学生も最初は韓国に対する先入観もありましたし、
特に韓国の教会、しかも大教会だからといって、そこでセミナーに行って学べることが一体あるんだろうか。そんなふうにあまり前向き的じゃなかったですね。直前まで迷っていたそうです。
ところが参加してみたら、来なかったら一生後悔するところだった。自分はこれから来年、新学校を卒業して市教会に使わされるものですから、牧師あるいは牧会のハウツーやり方を学ぶのではなく、牧会の本質、牧師のあり方。
そこを掴んでおられる聖先生、あるいは信徒さんから学んで、触れて、ショックを受けましたと言っていました。
神の人は神の業をなす。牧師が祈る分だけ信徒は祈る。それ以上にはなりにくい。牧師が愛する分だけ信徒は愛し合う。それ以上にはなりにくい。教会の問題は牧師の問題である。祈る牧師、精霊十万の牧師、神の御言葉である聖書そのまま信じ切る牧師からそういう信徒さんが生まれるんだと。
そしてその通りに、御言葉通りに行い歩むことの大事さを学びましたとおっしゃっていました。新学校では学べないようなことを学べて本当によかったと。
市教会に使わされる前に今回のセミナーの恵みが与えられて本当に感謝でしたとね。本当に明るい会をしてたくさん恵まれてたくさん食べられておられました。
またある教会から参加なさったある教団の信徒さんのお話です。
その教会に行って信徒さんに触れて感じたこと。朱凝牧先生の牧会精神、あるいはスピリットを信徒さんまで隅々まで浸透していて、皆同じビジョン、夢を持って一致している姿。
先生方のなさることは神のことだ。だから信徒はどこまでも信頼していきたいと強く思っている、自治体にあっている信徒さんに触れて驚きました。
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なぜなら自分が考えて日本の教会はどちらかといえば牧師の牧会精神があっても信徒さんが同意しないとなかなか進めるのが難しい。
神の御心より信徒さんの意見が優先されたり、伝統が優先されたり、朱凝牧先生がいくら祈って決めたことであっても総会で打ち消されることが頻繁に起こる。
これではいけないと思いました。
韓国の教会、特に中の教会の信徒さんの素晴らしさは、朱凝牧先生だけではなく福牧師、女子伝道師など教職者に対する従順は素晴らしくていいようがないほどでした。
どこまでも従い行う信徒さんたちの信仰深さに驚きました。
また何の関係もないような日本の牧師先生、信徒さんたちのために時間を捧げ、お金を捧げ、喜んで疲れるだろうけど笑顔を忘れない、最初から最後まで責任を持って支えてくれる姿に涙しました。
日本の教会の信徒たちは本当に悔やるためなければならないと思いました。
やはり神の恵みを深く体験したから、普通の教会の信徒さんはあんなに奉仕できるんだなと思って羨ましくらいでした。
日本の信徒さんはもっと恵まれなければならない、いやまだ神の恵みを体験していないかもしれないと思いました。
私から実践したいと思いました。
これからは自分の教会の先生をどこまでも信頼して応援してついていきたいと決心しました、という証でした。
もう一人、私の教団の三浦奈子先生の証ですけれども、その先生も豊子でしたから、その先生も私と同じく福岡に来ましたけどね。
G&Gセミナーは何かを見るのではなく、神の人に出会うことでした。
私と同じく海外でクリーチャーになった帰国者クリーチャー、母教会に使わされている人、信仰の燃えている多くのクリーチャーたちにお会いできました。
教えられたことで一番心に残ったことは、愛しにくい信徒さんでも心に抱くようにして取りなし、心から愛せるようになるまで祈り祝福するということでした。
私は今まで問題のあるところから目を背けてきたんだと気づきました。即死してしまったら打ちのめされてしまいそうだからでした。
また、宣教も牧会もできない理由を見つけて安心していたのかもしれません。私の頭の上にはできないという名前の岩盤がありましたが、取り去られたように感じました。
18:08
お金があるから、人がいるからできるのではなく、祈りでした。この道のプロになりたいという思いを新たにされました。
これからやっていませんでしたけれども、創天基督会を始めていきたいと決心しました。
以上です。皆さんに本当に祈ってくださって多くの方から恵みを与えられたこと、また私自身も本当に悔やためて反省して、あるいはチャレンジもエネルギーもパッションもたくさんいただいて帰ってきました。
お祈りありがとうございました。
一言お祈りします。神様、感謝します。主がこのようにして日本の教会、日本の主を愛してくださって、またこのように韓国の西洋の教会の宗泉さじみ先生、多くの神徒さんのご行為によって、愛によって、このように日本の教会がたくさんのことを学び、チャレンジを受け、また恵みの神徒に触れて、
そしてそれぞれ帰られて、日本に帰られて、そこでまた恵みの御業が起こることを真摯感謝いたします。どうかしよ、この者も使わされて奉仕できましたことを感謝いたします。
最後での祈りをしてくださった神徒さん一人一人、どうかしが豊かに祝福してください。今から今日の御言葉を取り付かせていただきますけれども、どうかしご自身がお語りくださいますように。
神様、イエス様の皆によってお祈りいたします。アーメン。
今日は、ヨハネーノ国書公開説教四十一回目、主を愛するということ、主を愛するということについてお話をしていきたいと思います。
私たちの主なる神様、その方が唯一の神であり、唯一の作り主であること、それからその御子イエス様が唯一の救い主であられること、それから聖霊様は神とイエスの霊であること、それを信じることがキリスト教です。
ですから、キリスト教はこの主なる神様、御子イエスキリスト、御霊様を信じることですけれども、皆さん、信じることというのは何でしょうか。
誰かが皆さんに、あなたはイエス様、神様を信じると言っているんだけど、信じるって何なのと聞かれたら、皆さんは何と答えられるのでしょうか。
21:05
今日の御子道場から限ってお話をしますと、この神様、イエスキリスト、聖霊様を信じるということは、その神様、イエス様、聖霊様を愛することだと言い換えることができると思います。
実際に信じることと愛することとは切り離せないもの一体なんです。一つなんです。それは我々人間の関係においても一緒なんです。同じなんです。
例えば皆さん、皆さんが誰かを愛している。愛しているならば、その愛しているその人の言葉とかその人の約束とかを信頼しますよね、皆さん。そうですよね。信頼しませんか。
愛しているならば信頼するんです。例えば私が妻を、ハンナを愛しているから、妻の言葉や約束を信頼します、信じます。皆さん、愛することと信頼することとは一緒同じなんです。愛するから愛する相手の言葉を守るんです。
ですから私たちが神様を愛している、イエス様、聖霊様を愛していますし信じているならば、その方の言葉を守るんです。これは全部一つなんです。別々ではないんです。
例えば神様は信じているんだけど、いや、愛してはいないんです。そんなことはありえないんです。いや、私はね、神様本当に愛してますよ。イエス様愛してますよ。愛します。でも神の御言葉を守らない。矛盾です。ありえないことなんです。
信じること、愛すること、御言葉を守ることは一致なんです。これは私の意見ではありません。今日の御言葉の話なんです。だから今日の御言葉に私たちが神様、イエス様、聖霊様を信じることは何なのか、それは愛することである。
そしたら信じること、愛することとは何なのか、もう簡単明瞭で教えてください。ぜひ知っていただきたい。授けていただきたい。そして実践していただきたいと願っております。
まず今日の御言葉、二十一節を一緒にお読みしたいと思います。二十一節、聖書を開いてくださって、大きな声でお読みしましょう。二十一節、はい。
私の今しめを保ち、それを守る人は、私を愛する人です。私を愛する人は、私の父に愛され、私もその人を愛し、私自身を彼にあらわします。アーメン。
24:15
皆さんよくご覧くださいね。私の何を保ちますか。イエス様の今しめ、御言葉ですね。その御言葉を保ち、それを何する人ですか。守る人は、誰なんですか、その次の言葉。私を愛する人なんです。
つまり、神様をイエス様、聖霊様を愛するということは、その方の今しめ御言葉を守るということなんです。これは今日の御言葉で一番大事なところであります。主を愛することは何でしょうか。主の御言葉を守ることです。その通りに守ることです。加減しない。
皆さん、神様を愛すること、イエス様を愛すること、聖霊様を愛することって、何か抽象的なことでもありませんし、複雑なものでもないんです。とてもシンプルなんですよ。主を愛する者は、主の今しめ御言葉を守ります。
皆さん、考えてごらんください。私たちがイエス様を、神様を、聖霊様を愛することを、どのようにそれを明かしできるのでしょうか。どのように見せることができるのでしょうか。主の今しめ御言葉を守ることを通して、私は主を愛していることを明かしできるんです。
私たちを愛している、今ここにおられる主が、今皆さんお一人お一人に、あなたは私を愛していますか。あなたは私を愛していますかとお尋ねになりました。皆さんはそしたら、私たちは、はい主よ、私はあなたを愛していますとお答えします。
そしたらイエス様が、その証拠を明かしを見せてと、大阪としますよ。そしたら私たちは、この二十一説あるいは二十三説の通りのものであるならば、主よ、私はあなたを愛して、あなたのこの聖書の御言葉をこの通りに保って守っておりますと答えるのではないでしょうか。
なんでなら、主を愛する者は、主の今しめ御言葉を信頼して守るんです。皆さん、神様を愛する者は、神の御言葉も愛するんですよ。アメですか皆さん。本当にそうそうじゃないです。逆に言いましょう。
27:07
主の御言葉を守らない人はどういうものですか。主を愛さない者なんです。主を愛さないから主の御言葉を守らないんです。状況や能力や自分の問題じゃないんです。環境の条件の問題じゃないんです。根本的に神様を愛するならば、主の御言葉を愛して守るんです。
しかし神を愛さないから守らないんです。愛さないから主の御言葉を軽々しく思ってしまうんです。ないがしろにしてしまうんです。
ある信者がいたとしましょう。この信者は口先では主を愛します、信じます、従います、何度も言います。ところがなかなか神の聖書の御言葉を守らないとしましょう。
その人は果たして神様を、イエス様を、聖霊様を愛している人と言えるのでしょうか。言えないんですよね。そしてその人が主を愛さないだけではなく、主に愛されない人でもあるんです。
23節を一緒に読みたいと思いますね。23節を読みましょう。イエスは彼に答えられた。
誰でも私を愛する人は私の言葉を守ります。そうすれば私の父はその人を愛し、私たちはその人のところに来てその人と共に住みます。
24節も、私を愛さない人は私の言葉を守りません。あなた方が聞いている言葉は私のものではなく、私を使わせた父の言葉なのです。
皆さん、簡単ですけれども、これは本当に重要な言葉なんです。イエス様を、神様を、聖霊様を愛する者は、神のイエスの言葉を守ります。そして神に愛されるんです。逆もありますね。
守らない人は主を愛さない人です。愛さない人は主の言葉を守りません。24節の言葉。私を愛さない人は私の言葉を守りません。皆さん、私たちがなぜ神の言葉を守るのでしょうか?主を愛するからです。イエスを愛するから、聖霊様を愛するからです。
30:03
もし私たちが神の御言葉をかのじて守らないならば、なぜ守らないのでしょうか?お金の問題、健康の問題、年齢の問題、状況の問題ではありません。根本的に神を愛さないからです。
ぜひ気づいていただきたい。主の御言葉を守らない人は、主を愛さない人なんですよ。これは皆さん本当に恐ろしいことなんですよ。呪いのようなものなんですよ。皆さん、私たちが神様に愛されないと、私たちは生きられないんですよ。
では、主の今しめ御言葉は何でしょうか?もちろんこの聖書は全部ですけれども、このヨハネノクイーン書すぐ前の13章にイエス様がこのように教えてくださいました。ちょっと開きましょう。ヨハネノクイーン書13章34節と35節です。
この最後の晩餐のその席で、ほぼ全体の流れとして語られたわけです。だからまず、これが新しい今しめですよと教えてくださって、今日の14章に行って、この私の今しめを守る人は、私を愛し神を愛する者ですよ。
これを守らない人は、私も神も愛さない人ですよ。その人は神に愛されませんよというふうな流れなんですね。13章の34と35節、一緒に読みましょう。
あなた方に新しい今しめを与えましょう。互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなた方が私の弟子であることを全ての人が認めるのです。
アーメン。皆さん少なくとも、この最後の晩餐の時、イエス様はもう地上での時間が短いんです。旧約聖書、この新旧約聖書を総まとめとして、新しい今しめとして、それを縮約して、エキシスのような御言葉を教えてくださいました。
イエス様の今しめは何でしょうか、皆さん。互いに愛し合うことです。その愛のレベルはどれくらいのレベルでしょうか。イエス様が十字架で命を捨てて、苦しみをせって、死なれるほどの愛です。すべてを捨てる、その愛をもって互いに愛し合うこと。この今しめを守る者が主を愛する者です。
33:21
互いに愛し合う、十字架の愛をもって愛し合う人こそ、神を愛する者であって、イエスを愛する、聖霊を愛する者であって、主に愛されている者なんです。そして、その主がその人の友に住んでくださると、十四の二十三節にあります。この通りに私たちは信じなければなりません。
神に愛される人って何でしょうか。主の今しめを守る者が主に愛される人です。主の今しめを守る者、愛し合う者、十字架の愛をもって愛する者こそ、主を愛する者なんです。
ですから皆さん、私も含めて、私たちが誰かを愛すること、誰かを許すこと、それはね、ただの道徳的な美徳を乗り越えて、私たちが神様を、イエス様を、聖霊様を愛するかどうか、その方に愛されるかどうか、その方と共に住むかどうかに関わる非常に大事な御言葉であります。
私たちは大体、神様が救ってくださったから、世の終わりまで共にいてくださる安心感を持っている。ある意味ではそれは間違いでないかもしれませんが、今日の御言葉としたら、何にもしなくても愛されるとは言い切れないんですよ。
他にも旧約聖書から、主の忌ましめを申しますならば、代表的に十回があるんじゃないでしょうか。
すべての忌ましめはここにかかるわけなんです。
36:13
主を愛する者は、主の忌ましめを守る者です。主を忌ましめを守らない者は、主を愛さない者です。いくら口先で愛していますと言いながらも、主の忌ましめを軽んじてしまう、あるいは愛していないとするならば、実は私たちは主を愛していないんです。
愛していないということは、すでにその関係が割れていることなんです。
例えば皆さん、ある夫婦がいたとしましょう。夫婦が同じ家で同じご飯を食べて、同じリビングでテレビを見ているんだけれども、愛さない。そしたらそこには何の人格的な関係もないんです。
愛の関係がない。ただのこの魂のないカラフルな体だけがその家にただいるだけなんです。
それを幸せな家庭、夫婦と本当に愛し合う人格的な関係と言えるのでしょうか。言えないでしょうね。そうじゃないですか。
キリスト教は関係の宗教なんです。三味一体の神様、神様、イエス様、聖霊様が一人であって人格的に交わって互いに愛し合うんです。
この愛と人格的な三味一体の関係に私たちが入れていただいたわけなんです。
だから神様を信じて信仰を持つということは、主を愛して、主に愛されて、主を信頼して、私たちも人格的に主を愛して信頼してついていく、その方の言葉を愛して守ること、これが信仰なんです。
そしてこれが私たちの本当の幸せなんです。これを知らないから人生は迷うんです。これを知らないから、気づいていかないから別のものを掴もうとするんです。
それが家であれ、お金であれ、名声であれ、成功であれ、そういうものを掴もうとするんです。
しかしこの関係が素晴らしく美しくできていないと、他のものはいくら掴んでいても、家庭関係も夫婦関係も同じなんです。
いくらベンツに乗っていても、部屋が十個ある大邸宅に住んでいても、財産が何億円持っていたとしても、夫婦が愛さない。知らない知らないんです。
39:13
皆さんぜひ覚えていただきたい。
誰でも私を愛する人は私の言葉を守る。主を愛さない人は主の言葉を守らない。主を愛する者は主の言葉を守る。
神様はその人を愛してくださる。そして神様、イエス様、聖霊様がその人のところに来て、その人と共に住んでくださるんです。
イエス様がおっしゃいました。私たちはその人のところにいたから、私たちはイエス様が言いました。私たちが神様、イエス様、聖霊様がその人のところに行ってくださるんですよ。
共に住んでくださるんですよ。本当に晴れるじゃないでしょうか。
もっとそれじゃなくて話をさせてください。このようにもしも主を愛さない人であれば、主の言葉を守らない人であれば、すでに神との関係が割れてしまった関係状態なんです。
その人が果たして救われた人と言えるのでしょうか。もしかしたら救われていない人かもしれない。
だから皆さん、神の言葉を今しめを守ることを、私たちはまず私自身から軽々しく適当に守っては。
主の今しめを守ってください。愛するならば、主の今しめを。神を愛し、イエス様を愛し、聖霊様を愛するならば、その方もこの聖書のお言葉をその通りに信じて守りましょう。
勝手に言ってはいけないんです。イエス様を愛する人はイエスの言葉を守ります。イエス様を愛さない人はイエスの言葉を守りません。愛さないからです。
実は主を愛するかどうかの問題なんです。主を愛さない人が果たして救われた人と言えるのでしょうか。
既に関係が壊れている。この関係がもしも、私たちが皆さんがその関係が、神様との愛の関係が実は壊れているならば、それを修復してやり直さなければならないんです。もっと大きな危機が訪れる前に。
42:21
24節、もう一度ご覧ください。私を読みしますね。24節。私を愛さない人は私の言葉を守りません。あなた方が聞いている言葉は私のものではなく、私を使わせた日の言葉なのです。
本当に皆さん、この朝私たちはこの御言葉を本当に重みのある言葉として、私たち一人と二種が今ここにいてくださって語られる御言葉として受け止めなければならない。そして守らなければならないんです。
ねえ、あなたは私を愛さない人ですよとイエス様に言われたらどうするんですか。もうそれで私たちは希望がないんです。いくら長い間教会に通ったとしても、いろんな法治をしたとしても、あるいは復活したとしても、あなたは私の御言葉を今し守らなかったから、あなたは私を愛さない人ですよとイエス様が言われたらどうするんでしょうか。
皆さん、この私を愛さない人は私の言葉を守りませんという言葉は非常に大事な御言葉であります。だから、神とイエスと聖霊様との愛の関係、その方の御言葉を守る信頼の関係、人格の関係を正しく築き上げていかなければならないんです。
そこに関心を持たなければならないんですよ。そこには関心がない。そしたら、そもそも私を愛する心がないから。
だから私たちは、ただ教会に通っているだけだとして、みんなが天国に行くわけではありません。イエス様を愛する者、イエスの今し御言葉を守る者が、神を愛し、イエス様を愛し、イエス様に、神様に愛される人が天国に行く。その人が神の子供なりです。
だから皆さん私たちは、本当に命を懸けて、父の御言葉を一つ一つ正しくそのまま受け入れて守らなければならないんです。
45:02
今回の父さんのセミナーに行く前に、台風が取られていろいろありましたけれども、行く前から皆さんに本当に私自身支えられて、また支援もいただきまして、ずっと帰ってくるまで皆さんが祈ってくださって、
行く前から愛されて、また行ってからも向こうでもたくさん愛を受けて帰ってきました。
皆さんがご存知のように台風で関西空港が閉鎖されていたのでしょうか。
そして私も台風も来ましたし、もう行くことをやめようと思ったところ、向こうからもう許せないと来ないと困りますから、ぜひ来てくださないと言われて、何か神様が私に委ねてくださる報酬があるだろうと思って、
チケットがほとんどなかったんですから、仕方なく月曜日に福岡に行って、月曜日のチケットも全部ありませんでしたから、やむを得ずホテルで一泊して火曜日に行きましたけれども、いろいろ費用も発生したわけですが、
行く前から皆さんが多くの方が献金のような形でサポートしてくださって、私の必要を本当に皆さんを通して主が本当に溢れるほど満たしてくださりました。
また向こうにいても多くの方々から本当に愛されて、また本当に選挙献金として多くの方々に満たしていただきました。
行く前から皆さんから、行ってからも多くの方々の主を愛する心、選挙を愛する心、日本を愛する心、あるいは本当に小さなものですけれども、主の下部を愛する心をたくさん受けて感じて帰ってきました。
そこで向こうに行って、あいにく今回関西から出発予定だった私を含めて野崎先生5歳、新学生1人、また宮原先生奥様、だから5人ですよね。
5人がもうみんなそれぞれ福岡まで新幹線に行って、その間にある方はホテルに泊まって、そこで行って帰り、また福岡に行ってまたみんな帰られて、大変なことになってしまったんですね。
それで多分、漁費もたくさんかかったんだと思って、心配していて、祈って何かお役に立つことがないんだろうかと思って、私が信頼している向こうの水曜の協会の会計さんの女性の親徒さんがいますけれども、
うちの家が井戸時から年始に放置してくれた婦人ですが、彼女にこっそり会って、事情をちょっと話をしましたね。
48:02
こういうふうにみんな、私が知っている限りは大体ちょっと厳しい中で、結構漁費が高くなってきましたから、何か助けてさせるやり方はないんでしょうかねと、その姉妹と相談したんですよ。
そしたら姉妹が、そしたらもう本当に日本語でやるから元気にしましょうよと。それでもいいんでしょうかねと。私はいいんですよと。
それはお世辞じゃなくて、本当に私はいいんだから、4人でも何かしてあげたいと。そういう気持ちが伝わったみたいなので、姉妹が会計さんだから、その府省の牧師と相談して、結構な献金を一人一人に差し掛けてくれましたね。
その様子を見て、本当にまだ二度と会えるかどうか分からない。どこから来たのか知らない。今まで知っていた人でもないし、初めてお会いしている人である。
何かお分かりに立つことがないでしょうかという、このものの、昔の牧師だったからね、ユン先生の話だからそうしましょうよとね、そういう従ってくれた神様が、その夫人の、その牧師の心をどれくらい喜んでいたんでしょうかと思いましたね。
皆さん、主を愛する人は、その人の心の姿勢、態度を見ればすぐ誰でも分かりますね。本当に愛しているかどうか分かるんです。
実は我々自分自身が本当に主を愛しているかどうか、自分自身が一番実は分かっているんです。
実は愛して愛して、主を礼拝して、ついているんだろうか。
でも、まあ愛していないわけではないんだけれども、命を捨てるとは愛してはいないんだろうと、実は自分自身が一番分かっているんです。
それだけでなく、まだね、私が向こうに行っている間、皆さんが教会にね、荘典に、あるいはそれぞれおられるところで、セミナーのために、参加者のために、あるいは私のために、祈ってくださったんですよね、皆さん。
祈ってくださって、本当にいろいろアクセントがあったりね、ありましたけれども、両方、川の間に挟まれたようなものとして、いろいろね、通訳や問題解決やがですね、何でもやったみたいにですね、何でもさせていただきまして、
それも自分の奉仕かなと思いますけれども、その時々ですね、本当に両大の教会の皆さんが祈ってくださって、それができたと思いましたね。
51:11
そこでですね、向こうで食事をしている、そこである、他の教会から来られた先生方と話をしてですね、こういうふうに聞きましたね。
先生方の教会では、この研修会のために信徒さんが集まったり、荘典とか、祈っておられるんでしょうか、どうでしょうかと言ったら、どこもいない。
少なくとも私が聞いてみた、他の教会の先生方、教会のみんな一緒、いや、たぶんないでしょうねと言われるんですね。
そして私は答えましたね、いや、両大の教会は信徒さんが、もう荘典に私がいなくても集まって、御言葉を見て、祈って、このG&Gセミナーのために、みんなのために祈っているんですよと、ちょっと自慢話しましたね。
そしてその先生方は、うらやましい顔をしていました。
みなさん、この取りなしの祈りの力は、主を愛する人にできることなんです。
主を信頼するから、取りなしの祈りをするんです。
神を信じる者は、主を愛する者は、取りなしの祈りの力を信じます。
なぜでしょうか。私が祈れば、不可能のない神様が働いてくださるから、できないことはないんです。
みなさん、取りなしの祈りの力は、本当にすごいことなんです。
その祈り、その力、恵みをぜひ体験していただきたい。
メッセージを終わりたいと思います。
皆さんは、神様、イエス様、聖霊様を愛していらっしゃいますか。
そうするならば、その方の戒めを正しくお守りください。
軽んじてはいけません。適当に守ってはいけません。
その時点で、その人は、神を愛さない者になります。
互いに愛さってください。和解し合ってください。許し合ってください。
主の者を、主の主に、アベルのようにお捧げしてください。
安息日を守ること、親を敬うこと、寛容してはいけない。
薄んではいけない。偽証してはいけない。
全てありますけれども、根源は、主を愛するということであります。
命なら限り、主を愛して、主の戒めを守って、喜んで守って支えてまいりましょう。お祈りします。
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