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2017-06-11 42:54

2017/06/11:ヨハネの福音書講解説教(1)初めに、ことばがあった

 2017/06/11 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ヨハネの福音書 1:1~5

00:00
みなさん、おはようございます。今日もお礼合いにようこそいらっしゃいました。
今日も神様はですね、ご自身をあらわしてくださって、その栄光で満たしてくださいますように、心からお祈り申し上げます。
先週は、正確に言いますと先々週になりますけど、6月1日から、日曜日まで、
御社教会のメンバーとですね、みなさんが心を一つにして、トラクトも新しい地域に配ってくださって、
あるいは、教室を開いてですね、また連動の時をもって、また日曜日はですね、午前もまた愛産会も午後の礼拝ももっていただきまして、
そして水曜日の朝帰りましたから、火曜日の夜はまたですね、10人ほどでしょうか、来ていただいて、共に祈りの時をまた持ちました。
本当に、向こうも彼らも恵まれたと思いますし、またみなさんもですね、きっと大きな恵みを受けたんじゃないかなと、そういうふうに思っております。
韓国の教会が決してですね、日本をですね、日本の教会はかわいそうだなと、そういう思ってくるわけでは決してありません。
神の教会として、愛をもって少しでも何かお役に立ちたいと、そして行きたいと、そういう神の愛をもって渡ってくるわけなんですね。
またみなさんが、心よくですね、愛をもって受け入れてくださって、その時が持たれていること、本当に感謝いたします。
引くにはまたですね、6月の、7月の終わりは、神戸中央教会と清泉教会には、長田聡美先生ですね、佐谷先生は、私と同じ教会からの派遣選挙師なんですね、実は。
その先生はもう遥かに昔の、清泉教会の古いメンバーですけれども、結婚の前に選挙師として日本に使わされて、
たまたま主の導きによって、長田先生とお出会いして結婚をなさったわけなんです。北海道でお会いになりましたけれども、それで清泉が、びっくりしました。
清泉の教会の選挙チームが19人が、清泉教会と中央教会に来るということを聞いております。
そのようにお互いがですね、一緒にやって一つになって、国境を越えて一緒にやって一つになってですね、
福井の全市のためならですね、パオロ先生がおっしゃったように何でもできる、そういうスピードをもって使えていきたいと思っております。
皆さんも本当に愛護の祈り、あるいは尊い献金、また交わりですね、本当に誇るから感謝申し上げます。
03:03
では、メッセージの前にお互いの方々と挨拶したいと思います。
それでは一言お祈りさせていただきます。
はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。主よ、この朝、今から神の御言葉をお聞きいたします。
どうか主よ、お語り下さいますように。その御言葉が、我らの中に受肉して抱きまして、そして御言葉が命となり光となって、我らの人生が変えられ、神のようにイエス様のように変えられますように、どうか働き、
また主よ、我らをこの朝御言葉を持って取り扱って下さいまして、神の人として主よ、生まれ変わる恵みの時として下さいますように、お願いいたします。
この物が隠して、神様御自身が主よ、この口談にお立ちになってお語り下さいますように、イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。今日から、ヨハネの福音書公開説教が始まります。全部で21章ありますから、相当長い公開説教になるんじゃないかなと思っております。
でも、我らが生きている限りには終わると思いますので、何十年するわけでもありませんし。
このヨハネの福音書には目的があります。それはですね、私が決めたものではなく、既にイエス様の弟子であって、このヨハネの福音書を記したヨハネが、
精霊の感動によって、このヨハネの福音書をなぜ記したのか、その理由、目的を我らに教えています。そこをちょっと開きたいと思います。
ヨハネの福音書第20章、30説31説です。224ページです。
06:08
それでは、30説と31説をご一緒にお読みしたいと思います。
この書には書かれていないが、まだ他の多くの印をも、イエスは弟子たちの前で行われた。
しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなた方が信じるため、またあなた方が信じて、イエスの皆によって命を得るためである。アーメン。
ここにですね、もう明確に、このヨハネの福音書が記された目的、あるいは大きく広げて言いますと、福音書が記された目的、
あるいはもっと広げて言いますと、聖書が記された目的は、本質的に二つなんです。
その一つは何でしょうか。あなた方が、イエスが神の子キリストであることを信じるためです。これが第一の目的です。
第二の目的は何でしょうか。その次、あなた方が信じて、イエスの皆によって命を得るためであります。
これがヨハネの福音書の記録目的です。
イエスがキリストであること、それを信じる。そしてそれを信じて命を、この命は永遠の命ですね、永遠の命を得るためなんです。
福音というものはゴスペル。それは複雑なものでありません。福音はシンプルで明瞭簡単であります。
イエスキリストが神の子キリストであることを信じることが福音です。
そしてそのイエスキリストの皆によって命、永遠の命を得ることが福音です。
何年前から私には一つの願いがありました。それは主よ、私の心の目を開いてくださって、あなたの栄光を見るようにしてください。
あなたの栄光が見たいです、という私にとってはとても非常に大事な真剣な祈りの課題であります、願いであります。
その中でですね、このヨハネの福音書に導かれて、そしてその中でですね、実は私たちがよく知っている、そして読みすぎてしまいやすい一箇所に導かれました。
そこに光が与えられました。それがですね、ヨハネの福音書1章14節です。
よろしかったら開いていただきまして、一緒に読みたいと思います。
09:08
では14節ご一緒にお読みしましょう。
言葉は人となって私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。
父の身元から来られた。一人の子としての栄光である。この方は恵みと誠に満ちておられた。アーメン。
皆さん、ここでの私たちはですね、私たちは誰でしょうか。イエス様の弟子。
つまり簡単に言ってイエス様を信じる人々なんですね。彼らは何を見たんでしょうか皆さん。
何を見たんですか。イエス様の栄光を見たんですね。
そしてその方には恵みと誠に満ちておられた。それをヨハネさんが、ペテロさんが、マリアたちが、彼らがそれを見たわけ。
見たわけなんです。満たされたわけなんですね。
ですから皆さんお願いしたいのは、このヨハネの福音書のシリーズ説教を通して
心にですね、こういうふうに決めていただきたい。決心していただきたい。
主よ、このヨハネの福音書を通して、まことにイエスキリストが民の子キリストであることを信じるようにしてください。
その信仰がさらに強くなるようにしてください。
イエスキリストの皆によって永遠の命を得て、さらにその命にあふれる人生にしてくださいと祈っていただきたいんですね。
そして、このヨハネの福音書の説教がですね、終わる頃、私たちの霊が魂が心が生き方が行いが言葉が考えが変えられていただきたい。
神様に喜ばれる信仰の人に変えられておる。
キリストの皆によって命を得て命にあふれる人になっていただきたい。
そして何より、私も皆さんもお一人お一人の方々がイエスキリストの栄光を見るクリスチャンでありたい。
そしてそのキリストの中にある恵みと真理が我々にも満ちあふれるようにそういう風になっていただきたい。
その願いを持ってですね、共にこのヨハネの福音書を通して語られる神の声、イエスキリストの声をぜひですね、聞いていただきたい。
逃してほしくありません。
さあ、それではヨハネの福音書をですね、簡単に、とても簡単に開願をしましょう。
ヨハネの福音書はイエス様の弟子の中でゼベダイの子ヨハネが記しました。
12:08
兄弟二人がイエス様の弟子になりましたね。
ヤコボ、ヨハネ、二人は兄弟なんです。
だからこのヨハネは、このヨハネの福音書のほかに、皆さんよくご存知のヨハネの手紙第一、第二、第三、それからもう一つありますよね。
何でしょう、皆さん。
ヨハネの目標を記した神の人、イエス様の弟子です。
ヨハネの福音書を含めてですね、福音書が四つありますけれども、そのキーワード一言で言うならば、イエスキリストです。
イエスキリスト、その方を信じて、そして永遠の命を得て、そしてイエス様の弟子になること。
その福音を私たちも伝えること、それがですね、福音の始めであり、終わりであり、すべてであります。
さあ、概略にですね、ここまでしたいと思います。
早速一節に移りたいと思います。
一節と二節を一緒にお読みしたいと思います。
もう一緒にお読みしましょう。
はじめに言葉があった。言葉は神であった。この方ははじめに神とともにおられた。アーメン。
不思議にもヨハネの福音書は一番最初に、はじめにという言葉で始まっていますね。
そして、そのはじめに言葉があった。
その言葉は神とともにあった。
そしてその言葉は神であったと語っています。
聖書にですね、はじめにで始まる聖書があります。ヨハネの福音書、そして荘石一書一節、そしてヨハネの手紙第一のはじめはですね、はじめにで、in the beginningで始まっているんですね。
聖書にですね、はじめにという言葉は二つの意味があるということです。
それはその通りに一般的に我々が知って考えているはじめです。
いわゆる時間のはじめ。
それがはじめにという意味があります。
ところが、このヨハネの福音書の一節のはじめには、その時間のはじめではなくて、永遠を意味します。
はじめもなくて終わりもない永遠であります。
それをヨハネがはじめにと言っているんです。
だからどういう意味でしょうか。
言葉は神である。その言葉は、言うまでもなくイエス・キリストですね。
15:04
だからイエス・キリストははじめがあるわけではありません。
我々はみんなはじめがありますよね。
私だったら1970年1月27日が、私の何時なのか知りませんけれど、はじめであります。
皆さんもそうでしょう。
1900年、それは私は知りませんが、30年とか40年とか50年とかね。
はじめがみんなありますよ、人間には。
ものもはじめがありますよ。
みんなこの世にあるものははじめがあります。
しかし神には、精霊様にイエス様にははじめがないんです。
永遠から永遠までおられる方なんです。
そこに何があったんですか。言葉があったんです。
その言葉も永遠から永遠までおられたわけなんです。
その言葉はイエス・キリストであります。
ところが、この日本語の訳は言葉という単語として訳しています。
よく聞かれる言葉ですけど、これは言語でロゴスと言うんですね。
よくお聞きになったことがあると思うんですけど、ロゴスと言います。
このロゴスと言う言葉が、ヨハネの福音書には40回、新約聖書には330回も出てくるんですけども、
このロゴスと言う言葉の意味が、実はこのヨハネの福音書を理解するためにとても大事ですから、
簡単にちょっと説明をさせていただきたいと思います。
まず、このヨハネの福音書は、その読み手、相手がヨハネが書いておくたべなんですよ。
それを読む人々は、いわゆるギリシャの人々がメインなんですね。
その当時、いわゆるエイリ1世紀、2世紀、3世紀、6世紀までですね、ギリシャの文化をいわゆるヘレニズムと言いますよね。
ヘレニズム文化と言います。
そこには文化や思想や哲学が非常に発達していました。
皆さんよく知っているアリストテレスとかプラトンとかストアとかですね、そういう哲学が発展していたわけです。
そのエイリ1世紀から6世紀のギリシャの哲学の重要な思想の一つが、このロゴスという言葉で集約できるわけです。
さあ、簡単に言いましょう。
哲学の時間じゃないので、簡単に言いましょう。
ロゴスは何なのか。
神がロゴスである、ロゴスが神である、これがあの当時のギリシャ人の持っているロゴスという言葉の意味なんです。
ですから、ギリシャ人がロゴスという言葉を聞いたら、神ということをみんな思うわけなんです。
18:04
不思議にもですね、あのプラトンがですね、こういう話をしました。
ある日、神からロゴスが来ると言ったんですよ、プラトンが。
まるでですね、神様から受肉されたイエス様が来られるということと似ているんじゃないでしょうか、皆さん。
だから、ユファネはこの聖書を読むギリシャ人が、よく腑に落ちて理解しやすい、みんな知っているその言葉を借りて、
イエス・キリストを話したかった、もちろん聖霊の感動ですけれども、だからユファネはですね、こういうことを言いたかったんですね。
皆さん、皆さんが毎日ロゴス、ロゴスと言っているんだけれども、そのロゴスが誰なのか知っていますか。
他にあるわけではありませんよ。そのロゴスが、本当のロゴスが誰なのか私がお教えしましょう。
イエス・キリストこそ真のロゴスですよ、ということです。それがこのユファネの福祉書なんです。
だからですね、当時のギリシャ人がこの一節からですね、初めに言葉があった、言葉はロゴスがあった、ロゴスは神と共にあった、ロゴスは神であった、読むながらですね、
ギリシャ人は、ほう、なるほどですね、興味津々、読んだわけでしょう。
さあ、一節に戻りましょう。ですから、言葉であるロゴスであるイエス・キリストは、永遠から神と共におられました。
イエス・キリストはですね、自らおられるお方であります。
始めもなくて終わりもない。アルファであり、オメガであられます。このイエス様は神様であります。
神様でありますから、イエス様は初めに天地創造をなさったお方であります。
だから、三節にこう語っていますね。三節を一緒に読みましょう。三節。
すべてのものは、この方によって作られた。作られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。アメン。
ここにですね、すべてのものですよ。人間だけではない。この地球だけではない。宇宙だけ。この宇宙すべてのものが、誰によって作られたのでしょうか。イエス・キリストによって作られた。
そして、作られたもので、このね、昔あったもの、今あるもの、後にあるもの、すべてはイエス・キリストによらずにはできたものは一つもないということであります。
言葉であるイエス様は、天地万物、宇宙万物をお作りになった方である同時に、この宇宙万物すべてのものを、いわゆる存在するようになさった方、存在させた方であられます。
21:19
皆さん、これは実はですね、この三節は非常に大事です。なぜなら、まあ遠く行かなくても、皆さん自分自身のことを考えていただきたいです。私たち一人一人がなぜ存在するのか。その理由、目的、その答えはどこにあるんだろうか。イエス・キリストにあるということなんです。
なぜなら、私たちが作られました。それはイエス・キリストによって作られたんですね。このヨガネノクイーン書1章3節を補強して、もう一部ですね、語ってくれる聖書箇所があります。大事な箇所ですけれど、ちょっと開きましょう。
コロサイビトへの手紙1章16節。私の聖書では390ページです。ご一緒にお読みしたいと思います。16節3。
皆さん、この最後のところ2行が非常に大事ですよ。万物は、その万物には私にもあなたも入ってますよ。我々みんな入ってますよ。なぜ作れたのでしょうか。
ニコによって、イエス・キリストによって作られました。そしてそれだけではなく、イエス・キリストのために作られました。さあ、ですからどうしたらいいんでしょうか。イエス・キリストに行けば、そこになぜ自分があるのか、なぜ生まれたのか、なぜ生きているのか、なぜ死ぬのか、その答えはどこにありますか。イエス・キリストにあるということです。
なぜなら、私は、皆さんは、イエス・キリストによって作られたから。イエス・キリストのために作られたからです。さあ、例えでお話したいと思います。さあ、昔にですね、遡って、この地球に初めて自動車が作られたとしましょう。1台、たった1台ですよ。作られました。高いですよ。でも、ある金持ちがその車を買いました。乗っていました。世界唯一の車ですよ。
24:10
でもですね、ある日その車が壊れてしまいました。そしたらその車の持ち主は、その車を誰に持っていけば直してもらえますか。その自動車を作った人。同じです。
私たちが生まれた理由、目的。私たちが生きる理由、目的。いや、私たちが死ぬことも。それを知るためには、誰に行けばいいんでしょうか。イエス・キリスト他にはありません。神社に行っても、お寺に行っても、何かの講演会に行ってもですね、そこにはイエス・キリストはおられない。答えはない。
なぜなら、私たちはイエス様によって作られて、イエス様のために作られたからです。人生になぜさまよいがあるんでしょうか。なぜ闇があるんでしょうか。なぜ罪があるんでしょうか。イエス・キリストにまだお会いしていないからです。
自分が生まれて生きて死ぬ理由、目的がイエス・キリストにある。その方に行けば、その方にお会いすればわかるのに、まだその方に出会っていないので、答えが知らないのです。
ですから皆さん、イエス・キリストに行って、まことにその方にお会いすれば、私たちがなぜ生まれて、なぜ生きていて、なぜ死ぬのか、その理由を、目的を、真理を知ることができます。イエス様が教えてくださいます。イエス・キリストにお会いしてください。
また、私たちはすでにクリスチャンになっている私たちのことです。イエス様を信じていながらも、争いがある。罪がある。高慢の罪がある。企画したり捌いたりする。あるいは、神様からいただく夢やビジョンがない。
教会には通ってはいますが、自分の人格、言葉、行い、顔の表情ひとつすらなかなか変わっていない。それは、イエス・キリストにまことにお会いしていないからなんです。
イエス・キリストにまことにお会いすれば、そして、そうすると、その人は徹底的に悔いをためて、被覆されて、その人生から、行いから、言葉から、考えからですね、争いが、企画が、高慢が消え去る。言葉が変えられる。行いが変えられる。その顔が、イエス・キリストに変えられるわけなんです。
27:06
だから皆さん、まことにイエス・キリストに出会った人は、その言葉が行いが、だから皆さん、まことにイエス・キリストにお会いしなければならない。この礼拝においてイエス・キリストにお会いしなければならないんです。
ただ、教会に通う人じゃなくて、ただ奉仕する人じゃなくて、まことに自分の魂が、全人格が、イエス・キリストに出会わなければならないんです。そうするとその人に、今日の御言葉にあるように、命が、光が望むのです。
新しい人に変えられるのです。一新されるのです。イエス・キリストの予定のみ、それができるのであります。命が望むから、光が望むから、その人の人格が、言葉が、行いが、考えが、悪が消え去る、闇が、罪が消え去るわけなんです。
だから四節に一書、四節に戻りまして、四節にこのように語っています。四節を一書に読みたいと思います。四節。この方に命があった。この命は人の光であった。アーメン。
皆さん、大事な二つが誰にありますか。イエス・キリストにあります。イエス・キリストの中に何がありますか。命があります。そして光があります。
ヨハネの訓示書において、この命、光という言葉は非常に大事な言葉です。イエス・キリストに命があります。イエス・キリストに光があります。まず命のことを考えていきたいと思います。
イエス・キリスト様は作り主として、この宇宙万物にあったもの、今ある、これからあるもののすべての生き物を、その命をお作りになった作り主です。創跡がそれを我々に教えています。
そしてもう一つ。イエス・キリストは、その我々のいわゆる生命だけじゃなくて、救い主として霊的な命をも我々にお与え下さいました。だからヨハネの訓示書は、イエス様は救い主として我々に永遠の命をお与えになる方を語っている。
創跡ではイエス・キリストは作り主として生き物の生命をお与えになる作られた方として語っている。だから創跡とこのヨハネの訓示書は別のものじゃなくて、あるかなり大昔のオーゴスティンという方がいて、
30:11
彼は創跡のあの光とあれはヨハネの訓示書に書かれているイエス・キリストのひな形だと語ったりしますけれども、それもある意味で一理あるかなと思いますけれども、
大事なのはですね、このヨハネは一人の人間としてこのイエス様に出会って、その方に命と光があることを彼は体験したわけです。見たわけなんです。
そしてこの真理を知ったヨハネさんはですね、もう精霊の感動によってこの方に命がありますよ、光がありますよ、これをもう語らずにはいられない。そしてですね、彼が語って叫んでいるんですよ。
皆さん、イエス様は命ですよ、イエス様は光ですよとですね、それを語って語って語り続けている。その中で大事な箇所、一箇所開きましょうか。ヨハネの訓示書、11章5節、200ページ、24節と25節、それから26節まで一緒に読みたいと思います。
よろしいですか。24から26、ちょっと長いです。一緒に読みましょう。
マルタはイエスに言った。私は終わりの日に彼がよみがえることを知っております。イエスは言われた。私はよみがえりです。命です。私を信じる者は死んでも生きるのです。また生きていて私を信じる者は決して死ぬことがありません。このことを信じますか。アーメン。
ここにですね、ヨハネはイエス様の言葉をその通りに移してですね、私は命ですと語っているんです。だから皆さん、イエス・キリストにお会いさえすれば、その人は生きる者です。命の人です。光の人になります。
しかし逆に言いまして、イエス・キリストに出会っていない。まことにキリストに出会っていない。この身体は生きているかもしれませんが、実はそのキリストから来る命、永遠の命はその人の中にはないということであります。
33:06
だからイエス・キリストにお会いさえすれば命が与えられるからその人はですね、生きる目的が分かってくる。方向が分かってくる。目標が、目的が、ビジョンが分かってくるわけなんですよね。
この真理は今日の一章の五説に行きますと、またさらに明確になります。五説を一緒に読みたいと思います。一章の五説。
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。アーメン。光は闇の中に輝いています。光は闇の中に輝く。闇を照らす。そうすると闇は消え去る。逃げ去る。
ということです。だから皆さん、闇は何でしょうか。混沌とした我らの人生です。秩序のない人生です。虚しさのある人生です。その中に光のあるイエス・キリストが輝いていただきますと、秩序のない人生、虚しい人生、混沌とした人生が消え去る。そして輝く人生になるということです。
この弱音の福音書一章の一説から五説を簡単にこのようにイメージしたらどうでしょうか。初めに神であるイエス様が神と共におられました。そしてそのイエス様は神様と共に天地創造をなさいました。そのイエス様は光としてこの闇を照らされた。
実はこれがさっき申し上げたように、創世記の一章の創造のプロセスとよく似ているんです。ちょっと創世記一章をどうしても開きたいですので、ちょっと開いていただけますでしょうか。創世記の第一章一説から簡単に見ていきたいと思います。
まずですね、一説と二説を一緒に読みたいと思います。聖書を開いてください。創世記一章一説と二説を一緒に読みましょう。
初めに神が天と地を創造した。かつ大牧として何もなかった。闇が大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
36:03
その次、三説私が読みましょう。神は大せられた。言葉があったわけなんですよね。
光あれ、すると光があった。さあ、こうなんです。神はすでにね、イエス・キリスト、神様、聖霊さんはすでにおられる。しかしこの地はどんな状態ですか、どんな姿ですか。
狼狽して、いわゆる混沌している。何もない。人生の虚しさを、そして闇がそこにあったわけなんです。しかしその中に神様は一番最初に何を作られたんでしょうか。光なんですね。光を作られました。
ところが皆さん、普通にですね、光というものは光ってますよね。光っているものは何かのいわゆる発光体がないと光らないでしょう。電灯があるか電気があるか玉があるかないとですね、光らないんですよね。
ところが、この最初の光は、実はまだ太陽は星は作られていない時なんです。太陽と星は四日目に作られたから、最初に何があったのか、光があったんですよ。発光体が地球とか、すいません、太陽とか星とか他のものがなかったのに光はあったんです。
この光は何でしょう。これはですね、もう我々人間には計り知れないことです。普通に我々はですね、太陽があるから光があると、そう認識するでしょう。星があるから光があるんです。
でも、この時は太陽がなかったのに、星がなかったのに、光る光はあったんです。つまり、神様は発光体がなくても、太陽、星がなくても、光あれと仰せられたら、それが作ることができるお方である。
光があるのは、太陽があるから存在するものじゃなくて、神様があるから光があるということを、わざわざ神様はそれを教えるために、太陽、星は四日目にお作りになったわけなんです。
この初めの創造があった。この地球を宇宙万物お作りになったと言うならば、イエス・キリストによっては、いわゆる新しい創造、新創造がなされる。それは新しく地球を作る、そういう意味じゃなくて、人々が光のあるキリストに出会って、その人生が生まれ変わる創造をなさるわけなんです。
その光として、イエス・キリストがおいでになったということであります。
39:42
22節、実に私の民は愚かな者で、私を知らない。彼らは儚子らで、彼らは悟りがない。彼らは悪事を働くのに賢くて、善を行うことを知らない。まるでこの世の神を知らない人々の様子を語っています。
23節、私が地を見ると、見よ。どうですか。茫漠として何もなく。漱石の2節と同じですね。一緒です。茫漠として何もなく、天を見ると、その光はなかった。
つまり、この地はですね、茫漠として何もなかったわけです。そこに神様が光をお作りになったということです。イエス様は神様です。イエス様は全ての命のあるものの存在の根源であられます。
4年のクリストにも一緒に戻りましょう。
皆さん、覚えて、ぜひ覚えていただきたいことは、私たちがある、存在する、それは神なるイエス・キリストによってですし、イエス・キリストのために私たちはあるということをぜひ覚えていただきたい。信じていただきたい。そしてそのために生きる人でありたい。
このイエス・キリストは光であります。命であります。だからイエス・キリストに出会った人には光に出会った人です。命に出会った人です。だから闇がない。だから迷うことはない。
42:08
だからイエス・キリストに出会った人は将来があり、夢があり、ビジョンがあり、走るべき工程、目標があるわけなんです。なぜなら、イエス・キリストから来る光と命が私の中にあるからです。
弱音の苦情には、そのようにイエス・キリストに出会って、今は闇だった人が光に映された人の話がこれから出てきます。ニコデモとか、スカルノの精とか、癒された人とか、これから出てきます。
この弱音の苦情には、その光なるキリスト、命なるキリストに出会って彼がどういうふうに変えられたのか、それを知ることもまた楽しみだと思います。
今日はここまでしたいと思います。お祈りいたしましょう。
42:54

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