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2017-12-10 37:10

2017/12/10:クリスマス・シリーズ・メッセージ(2)イエスさまといのち

2017/12/10 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ヨハネの福音書 1:1-14


00:01
みなさん、おはようございます。今日も礼拝にようこそいらっしゃいました。
では、メッセージに入る前に、隣の方と挨拶しましょうか。
ありがとうございます。では、一言お祈りいたします。
この方に命があった。この命は人の光であった。アーメン。感謝します。主よ、私たちに命を与えてくださり、ハレルヤ、主よ感謝いたします。
この命に生きるものとしてください。そして、この朝、イエスさまといのち、この題にして、主よ、主が私たちに命をくださったこと、そして命に生きることとは何なのか、どうか神様が私たち一人一人に、主よ教えてくださり、悟りを与えてくださって、その通りに歩んでいけるように、どうか主よ、霊の力をまた挙げましょう。
また、真理を知る、本当に知恵を豊かにお与えくださいますように、お願いいたします。主よ、我らの体が疲れている方がおられるでしょうか、強めて、主よ、本当に元気を与えて、主よ、本当に、私のように昇っていく、その霊の力を主がお与えくださいますように、お願いいたします。
主よ、すべてを未定に委ねて、信じて、期待して、イエスさまの皆によってお祈りいたします。
アーメン。
感謝します。
クリスマスシリーズの説教をさせていただいております。
今日はその2番目として、イエスさまといのち、イエスさまといのちというタイトルでございます。
聖書は、読んでいただきました、ヨハネーノ福音書1章の1節から、14節のところであります。
先日は、イエスさまと救い、イエスさまと救いというタイトルでした。
特に、その預言と成就という観点から、イエスさまの誕生と救いを見てみました。
今日は、その救い主としておいでになったイエスさまが、なぜいのちであられるのか。
そして、私たちには、なぜイエスさまのいのちが必要なのか。
それについて、御言葉を通して恵みをお受けしたいと思います。
キリスト教は、いのちの宗教とも言われています。
03:06
なぜなら、神さまは、すべての生き物のそのいのちを想像をなさった方であれ、また、いのちの根源であられるからです。
ローマ書11章36節を見ますと、こういう言葉があります。
すべてのことが、神から発し、神によってなり、神に至るからです、という言葉があります。
そうです。すべてのいのちは、神さまから発します。神さまから始まります。
神なるイエスさまは、今日の4節にありますように、いのちの光として、この地においでになりました。
では、イエスさまといのち、そしてそれが私たちにどういう恵みと関係があるのか、どういう真理があるのか、今日は大きく4つのことを一緒にお受けしたいと思います。
1番、イエスさまを信じて救われた者は、すでに永遠のいのちを得ている、持っているということを確信しつつ歩みます。
私たちがイエスさまを救い主として信じています。
救われたならば、私たちはイエスキリストをお持ちしています。
だから、そのいのちの光であられるイエスキリストを持っているわけですから、そのいのちの光も持っている。
つまり、それは永遠のいのちを持っているということであります。
それが聖書が教えてくださる真理であります。
だから皆さん、イエスキリストを自分の救い主として信じて従っている私たちは、さらに永遠のいのちを得るために頑張るのではなく、すでに永遠のいのちを所有している。
それを確信して感謝して喜んで体験させていただくことであります。
それは私の話ではない。
聖書はイエスを救い主として信じる者は、永遠のいのちを持ちますと宣言しているんですね。
聖書ですね、一箇所開きましょうか。
ヨハネの福音書5章24節。
今日ちょっと聖書の箇所が多いんですけれども、一緒に開きたいと思います。
まずはヨハネ、ヨハネの福音書第5章24節です。
06:03
182ページです。
一緒にお読みしたいと思います。
3、誠に誠にあなた方に告げます。
私の言葉を聞いて、私を使わせた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、
裁きに遭うことがなく、死からいのちに移っているのです。
アーメン。
本当に感謝のことなんですよね。
イエス様を信じる者は何を持っていますか。
永遠のいのちを持っています。
皆さんは何を持っていますか。
永遠のいのちを持っています。
神様を信じる者は、永遠のいのちを受けている。
裁かれることはない。
死からいのちに移っていることが、神の御言葉として宣言されている。
それを信じることこそ信仰なんですね。
もう一箇所。
同じヨハネの福音書、次のページになりますが、6章の47ページ。
47節示しました。
ヨハネ6章の47節です。
187ページです。
ヨハネの福音書、6章、47節。
一緒に、誠に誠にあなた方に告げます。
信じる者は、永遠のいのちを持ちます。
アーメン。
皆さん、だから私たちは、聖書を通して、神のイエス様の宣言してくださる御言葉をお聞きしています。
誠に誠に。
これは、誠に誠にイエス様が2回も強調して、これは本当ですよ、間違いありませんよ、ということなんです。
だから皆さん、聖書に、特にヨハネはそれを強調して記しましたけれども、
イエス様の言葉に誠に誠にあったら、これは本物だと思って、それを真剣に、その通りにお受けしますという信仰を持って読んでほしいんですね。
誠に誠にあなた方に告げます。
信じる者は、永遠のいのちを持ちます。
これはイエス様の宣言です。
これよりもっと確実な証拠がどこにあるんでしょうか。
疑うことはありません。
命の主が、永遠の命の主が、信じる者は永遠の命を持ちますと。
まるでこの御言葉に、イエス様御自身が、命の主が、印鑑を押してくださって、天にある命の書に登記してくださった、確証してくださったわけなんですね。
09:10
そして私は感謝のことは、イエス様が言われた言葉は、その御言葉は、その通りに成し遂げられるということであります。
例外はありません。
誠に誠にあなた方に告げます。
信じる者は、永遠の命を持ちます。
それを確信して、感謝して、主を見上げて、自分のうちに与えられた永遠の命を体験させていただく、味わっていく、喜んでいくことが信仰であります。
また続いて私がお読みしますけれども、ユハネノ福音書11章25、26節にはこういう御言葉があります。
イエスは彼女に言われた。
私はよみがえりであり命である。
私を信じる者は、たとえ死んでも生きる。
また生きていて私を信じる者はいつまでも死なない。
あなたはこれを信じるかとあります。
このあたりイエス様が私たちにお問いかけになっています。
あなたはこれを信じるか。
あなたは永遠の命を持っていることを信じるか。
私を信じる者は、たとえ死んでも生きることを信じるかとイエス様が問われています。
もう一箇所ユハネノ福音書20章31節にはこういう御言葉があります。
しかしこれらのことを書いたのは、あなた方がイエスは神の子キリストであると信じるためであり、
またそう信じてイエスの名によって命を得るためであると。
ユハネノ福音書20の31節にあります。
イエスの名によってイエス様の皆によって命を得るためであると。
どうでしょうか皆さん。
神を信じる者、イエスを救い主として信じる者はすでに永遠の命を持っています。
これからもらうんですよ。
だから頑張りなさいではない。
イエスを救い主として信じることには私たちの何の遺産も功績も何も実はいりませんね。
信じる信仰によって、神の恵みによって救われ、永遠の命が与えられています。
だから私たちに必要なのは、私は永遠の命を持っているものなんだ。
イエス様が保証してくださる、精霊様が保証してくださるんだということを確信することなんですよ。
例えば皆さん、毎朝朝起きたら皆さんの知事ですよ。
奥様がですね、あなたは私の夫でありますか。
毎日それを確認したら何になるんでしょうか。
それは大変なことでしょうね。
子供がですね、私のお父さんですかって毎朝聞く、聞かれる。
12:04
それはおかしいなんですよ。
イエス様が語ってくださいました。
イエスを信じる者は永遠の命を持ちますと。
そしたらハレルヤ感謝します、アーメン信じますと。
それを受け止めさせていただいて、持っているんだとね。
それが信仰なんです。
だから私たちは弱い自分、時にはつまずく自分、時には謝ってしまう自分自身を見て失望して、
その救いを、永遠の命を疑うのではなく、
その目を24時間365日イエス様を見上げていくときに、
そこから希望があふれ流れてくる。
そこからイエス様のお声を、イエス様の御言葉を読んでいくときに、
ああそうだ、イエス様を信じる者は永遠の命を持っていると。
イエス様が語ってくださったなら、だからこれはもう確実な真理であると。
確信に満ちるようになるのです。
2番目考えていただくことは、今はその永遠の命を、命の光を持っています。
所有していますと確信していくときに、私たちが忘れてはいけないことがあります。
それは私たちの周りには、その命の光を必要としている人々が、
イエス様の希望が必要としている人々が大勢いるということであります。
皆さんの周りの家族を含めて、友人の方、知人の方々を思い浮かべてみてください。
本当に命の光が必要な方が大勢いらっしゃるのです。
その方々は感じていないかもしれませんが、永遠の命の光を持っている私たちから見れば、
本当にあの人、この人にはイエスの光が本当に必要であることを皆さん感じてわかっていらっしゃるでしょう。
ある方は生きる目的がない、生き甲斐もない、希望もない、お金がないわけではない、家族がないわけではない。
体の病気があるわけではない。
でも多くの人々が生きる、知人も目的も希望も光もない。
ところが、そういう方々を考えますと、私は闇が好きだ、私はずっとこの闇でもいるぞと、
15:06
この希望のない人生が私はとても好きと思っている人は一人もいないでしょう。
いないとは思いますね。
全ての人は光の中にあって喜んで感謝して希望に満ちて生きることを実はみんな願っています。
死ぬほど願っています。
だから命の光としておいでになったイエス・キリストこそ全ての人に必要なんです。
皆さん、皆さんの周りに外を見てもその人の中を見ても希望が見えないような方々がおられるでしょうか。
あるいは本当にその闇からそこからも脱出したい、出て行きたいと願っている方々がおられるでしょうか。
その方こそ本当のクリスマスが必要である、本当のイエス・キリストが必要であられます。
そしてイエス様はこのように語られました。
聖書を開きましょう。ヨハネ6の35節です。
ヨハネ6書の35節、186ページです。
一緒にお読みしましょう。
イエスは言われた、私が命のパンです。
私に来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者はどんな時にも決して渇くことがありません。
アーメン。そうです。
イエス様こそ唯一の命のパンです。
みんな飢えています。みんな渇いているんですね、実は。
その魂がもう酔われて泣き出しているその霊の声を私たちは察して、それをわかって、
その人々に私たちがいただいているこの永遠の命、命の光を紹介して、お伝えして、述べ伝えていかなければならないんです。
どれだけ多くの人々が飢えているのでしょうか。
これは食べ物の乏しさではなく、霊の命の欠乏であります。
これは神様とイエス様に対する欠乏であります。
だから規律度が必要なんです。
また多くの人々が異端やカルトの宗教にですね、そこに足を入れ込んでしまって、
そこからまだまだ脱出できない方々が大勢日本にいる。
18:02
ところがローマミトの手紙6章23節には、罪からくる報酬は死です。
しかし神のくださる賜物は私たちのシューキリストイエスにある永遠の命ですとあります。
だから神様がくださろうとしておられる賜物は何でしょうか。
シューイエスキリストにあるシューキリストイエスにある永遠の命であります。
人々にある全ての闇は罪から来たものであります。
だからイエスキリストにお会いさえすれば、その罪の問題が解決され、闇が消え去り、
その人の人生に命の光が照らされて、そしてその命の光を持つようになり、
キリストイエスにある光のうちにあいむように変えられていくのです。
だから全ての人には命の光が必要なんです。
どうか皆さん、このクリスマスシーズンこそ、命の光についてお話しできるとても素晴らしいチャンスだと思います。
それもある意味で感謝のことは、世界中の多くの国々でクリスマスになると、
キリスト教やイエス様に対する心が固い人も少し隙間隙間できるんですね。
そこを皆さん狙って、このときこそ葉書でもいいでしょう、電話一本でもいいでしょう。
あるいは実際に訪問してお茶でもしていいでしょう。
あるいは教会の集会にお誘いしていいでしょう。
そしてそのときに、その人々に命の光について、
皆さんが持っているこの永遠の命の希望についてお話したらいいんじゃないでしょうか。
そういうふうにしてクリスマスを過ごしていこうではありませんか、皆さん。
この街を見ても、希望のない人々が実は大勢いるかなと思います。
丁寧に退職して、することなくて盆栽ばかりしているおじちゃんおばあちゃんの方々。
あるいはグラウンドでゲートボールばかりやって島つぶしをしている方々。
もちろん健康のためにいいかもしれませんが、実はそこにはそんなに希望はないんじゃないでしょうか。
そういう人々に必要なのは、命の光であらゆるイエス・キリストお一人のみであります。
では私たちは何をどうしたらいいんでしょうか。
それが3番目になります。
それはまず私たち自分自身が命の光の中に歩むこと。
21:03
そしてその命の光が私たちから輝く光ることであります。
皆さんここに光がありますけれども、光が私はここにおりますよ、おりますよ、叫ばなくても分かりますよね。
みんなが分かりますよ、そこに光があるということは、私たちの中にある永遠の命、命の光も同じではないでしょうか。
どうか私たちのお家にイエス・キリストによって与えられているこの命の光を輝く照らしましょう、光らせましょう。
そして多くの人々に希望をお見せしましょう。
ところがこの中で一つ私たちが注意していただけないことがあります。
それは確実に救われたクリスチャンである、そして永遠の命の光を持っていることは間違いないでしょうけれども、
どれだけ私たちがその永遠の命を豊かに体験しているんだろうか。
あるいはそれをどれだけそれを輝く光らせているんだろうかということであります。
たまにはそうでないときもあるかもしれない、なかなか光っていない、気がけているときもあるのではないでしょうか。
この理由は一つ考えられることは、私たちがこの霊の思いじゃなくて肉の思いに負けてしまうからでしょう。
ローマ人への手紙8章6節にはこういう言葉があります。
肉の思いは死であり、見たまによる思いは命と平安ですとあります。
そうなんです。
神の見たまによる思いは命と光であります。
だから肉の思いに従って生きるその道は死であります、闇であります。
しかし見たまによって従っていくその道は命であって平安であります。
皆さん、私たち人々はみな罪の本性を持っているものであります。
だからといって放棄しなさいという意味ではない。
イエスの霊が私のうちにある。
イエスの命の光が私のうちにあるならば、
見たまの思いが私の思いとなるように、私の思いが見たまの思いと一致となるように、
見たまの思いによって支配していただいて、
そして命の光を明るく強く光らせていきたいと願うものであります。
ところがこの命の光というものは皆さん、実は正義清めと直結しているものであります。
24:13
私たちの生活が、私たちの習慣が、私たちの趣味が、言葉が、思いが全てが清いときに、
その人はこの地上の人でないほど、
清い命の光を光る、発するクリスチャンになるということであります。
一箇所聖書を開きたいと思います。
新約聖書の第一手もて四書五節です。
第一手もて四書五節、私の聖書では409ページです。
聖書を開きましょう、皆さん。
第一手もて四書五節、一緒に読みます。
神の言葉と祈りとによって清められるからです。
アーメン。
ここに何と書かれているのでしょうか。
何によって清められるのでしょうか。
神の言葉と祈りによって清められるのです。
皆さん、だから法則はとてもシンプルで簡単です。
一生私たちが神の言葉と祈りをもって武装する、
御言葉と祈りを豊かに味わう、
あるいは御言葉と祈りをもって自分自身のこの肉の思いを打ち砕いて、
聖霊様に服従させて、
あるいは御言葉と祈りを他のどんな楽しみより楽しんで喜んで生きる人こそ、
清い清められたクリスチャンである。
そしてその人には命の光が太陽のように光るということであります。
皆さん覚えていただいてください。
命の光は清めと直結しています。
だから皆さん簡単です。法則は簡単です。
毎日毎日神の言葉と祈りを楽しんでください。
皆さんこの頃何を楽しんでおられるでしょうか。
何を楽しんでおられるでしょうか。
毎日毎日神の言葉と祈りの糧を食べてください。
楽しんでください。共に歩んでください。
そしてこの御言葉と祈りによって清められて、
霊の思いをもって肉の思いを勝たせてください。
27:01
もう一度申し上げます。
清めは命の光と直結しています。
だからこの清めを失うと命の光も失うことであります。
しかし私たちがなおなお清められるならば、
そこに命の光があふれるようになるのであります。
英語によく知られている
The best is yet to comeという言葉があります。
日本語で訳するならば最高の時はこれからだ。
最良の時はこれからだという言葉があります。
ところが私はこれをこういうふうに書いてお話したいと思います。
最高の清めはこれからだ。
太陽のように輝く命の光はこれからだということであります。
これからしがなおなおさらにさらに皆さんを清めてくださいますように。
そしてその清めによって私たちの内側にあるこの命の光が
太陽のように本当に今までなかったように
素晴らしく輝く光るその日がこれからです。
これからです。
皆さん自分自身の人生にこの残りの人生に期待をしておられるでしょうか。
いや先生もう年取ってもあまり希望ありませんよそう思わないでほしいです。
イエス様は残りの人生が1年であろうが半年であろうが1ヶ月であろうが
今までなかったもののように
その人生を主に期待して清められて御言葉と祈りによって歩むならば
最高の人生として宝石のように最後の人生を輝かせてくださるんです。
クリスチャンがもし神様に対する期待がないならば誰がイエス様を信じるでしょうか。
皆さんが神様に期待がないのに。
考えていただいてください。
クリスチャンこそ神様に期待を持ってください。
神様に期待を持ってください。
ある意味でひょっとしたら私たちは今まで最高の永遠の命の光をまだ味わっていないかもしれません。
今まで最高の時を味わった時があったかもしれません。
しかし神様はそれより幾倍も素晴らしく恵みを満ちあわれてくださる。
満ち足らせてくださる。それがお出来になる神様であります。
だから皆さん最高の時はこれからですよ。
知るですが70歳以上の方々60歳以上の方々
最高の時は今からなんですよ皆さん。
やっぱり雨がないですね。
30:03
神様に雨をしましょう。神様に雨をしましょう。
信仰は神に期待をかけることであります。
それが信仰なんです。
諦めないでほしいです。
御言葉と祈りによって清められて
そして私たちのこの清めがイエス様のようになり
御言葉と祈りによって清められて
私たちのこの命の光が太陽のようにイエス様の顔のように輝いて
そして闇の中で苦しみの中でもどかしくね
生きている方々に命の光を与えたいんです。
照らしたいんです。照らしたい。
最後の4番目です。
ところがこのように御言葉と祈りによって清められて
イエス様のように命の光を輝く光るクリスチャンは
自分の命を自分のものと思わず
主のために命を失うことを喜ぶ信仰のレベルまで成長します。
一箇所先に読み上げましょうか。
ヨハネノ君書6章27節。
185ページです。
ご一緒に。
亡くなる植物のためではなくいつまでも保ち
永遠の命に至る植物のために働きなさい。
それこそ人の子があなた方に与えるものです。
この人の子を父すなわち神が認証されたがらです。
アーメン。
皆さんこの言葉を覚えていただきたいです。
亡くなる植物のためではなくいつまでも保ち
永遠の命に至る植物のために働きなさい。
つまり霊の植物のために神のもののために働きなさい。
歩みなさい。
生きなさいということであります。
皆さん神の人は永遠の命を持っている神の人は
亡くなるもののために働きません。
亡くなる植物のために一生懸命に働くことはしません。
あるいは亡くなるもののために人生を楽しむことはありません。
永遠の命に至るもののために働き歩み喜びます。
33:04
だからイエス様は大の福音書十七章三十九節に
自分の命を自分のものとした者はそれを失い
私のために自分の命を失った者はそれを自分のものとしますとあります。
また同じまたい十六章二十五節には
命を救おうと思う者はそれを失い
私のために命を失う者はそれを見出すのですとあり
一箇所開きましょうか。
マルコの福音書八章三十五節です。
マルコの福音書八章三十五節。
八十二ページです。
マルコの福音書八章三十五節。
ご一緒に。
命を救おうと思う者はそれを失い
私と福音とのために命を失う者はそれを救うのです。
アーメン。
そうです皆さん。
永遠の命を持っているクリスチャー
命の光を豊かに味わって輝いている人々は
自分の命のために生きるものではなく
イエス様と福音のために生きるものであります。
私たちみんなが
四谷教会の信徒お一人お一人の方々が
イエス様のために福音のために神のために命を失うほど
そこまで神に従順して歩んでいこうではありませんか。
ある無名の作家さんが書いた文章です。
この方が老年になってそして神の前に
悔いあるために反省して書いた文ですけれども
日本語で訳させていただきました。
こういう話です。
聞いていてください。
イエス様の下さる祝福を願う人は多いが
イエス様のために自分のものを捧げる人は少ない。
イエス様の下さる健康を願う人は多いが
イエス様のために病むことを喜ぶ人は少ない。
イエス様に子どもの成功を祈る人は多いが
イエス様のために子どもを捧げる人は少ない。
イエス様の下さる富を願う人は多いが
イエス様のために貧しくなることを喜ぶ人は少ない。
イエス様に苦しみを取り除くことを願う人は多いが
36:00
イエス様のために苦しむことを喜ぶ人は少ない。
いかがでしょうか。
考えるべき価値があると思うんですね。
メッセージを終わりたいと思います。
クリスマスにおいでになったイエス・キリスト
その方こそ命の主であります。
命の光でいらっしゃいます。
私たちはその命の光を持っているものとして
御言葉と祈りによってさらにさらに清められて
そして肉の思いを肉の欲を打ち砕いて
キリストに服従させていくときに
私たちの命の光は太陽のように輝くようになるでしょう。
そして闇の中で彷徨っている人々に希望の主命の主
キリストにその人々を導くことができることであります。
私たちの残りのこの人生が
このように祝福された人生でありますように
心からお祈り申し上げます。
お祈りしましょう。
37:10

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