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それではメッセージの入る前に、どんなにかあったか挨拶しましょうか、みなさん。
ありがとうございます。一言、祈りいたします。
イエスは彼に言われた、私が道であり、真理であり、いのちなのです。
私を通してれなければ、誰一人、死の身元に来ることはありません。
ああ、私よ、そうです。イエス・キリストこそ道であり、真理であり、いのちです。
その道を、まっすぐにブレずに歩むことができるように、神様どうぞお助けください。
そのための今日の礼拝、またこの御言葉の時となりますよ。
御言葉を聞いているうちに、神様にお会いし、礼に思えし、また満たされ、
全ての問題、病、苦しみが消え去り、主と交わる時となりますよ。
主よ、神に聞く時、学ぶ時、
また自分自身の叩くなさを復讐させる、礼の力が上から与えられますように。
御自身が、我ら一人一人にお語りくださいますように。
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
感謝します。
外は暑いですので、中で涼しく礼拝を続けていきたいと思います。
皆さんに祈っていただいて、先週の木近土教区のティーンズバイブルキャンプ、
私は初めて参加させてもらいましたけれども、八高原というところ。
高くて涼しくていいところですね。
20度ぐらいで涼しく、またちょっと雨が降ったりしましたので、
ほぼ室内で過ごしておりましたけれども、
生徒が小学生6年生から高校3年生まで21人、また神道教師、教職者含めて25人参加で、
またハイビエという高校生選挙団体がありまして、
そこの神戸担当の鈴木正弥という先生が来られて、
闇の技を捨てて光の工具を身につけようと、そういう御言葉を語られました。
子どもたちが自分自身を振り替えたり、悔やめたり、あるいは反省したり、決心したり、
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またその中では選挙師になりたいと、将来僕会社員になりたいと献身する子どもたちも立たされていましたので、
本当に感謝しております。
少し触れてお話をしていきたいと思います。
小学6年生は子孫1人でしたけれども、がんばってメッセージも聞いていて、賛美もちょこちょこ歌っていて、
好きな賛美もできたり、また子どもたち1人1人先生方が集会の後にカウンセリングをしてくださるんですね。
それで子孫の場合は静覧台の宮崎先生が優しく丁寧にアドバイスをしてくださって、
子孫も決めましたけれども、月に1回大人の家に出るように、今日出てます。
聖書をよく読むこと、中学生になったら洗礼を受けるんじゃないかなといろいろ話がありましたけれども、
皆さんの背後のお祈りを感謝いたします。
さて今日は開かれている御言葉から、
イエスこそ未知真に命なのですというメッセージであります。
前半は先週のメッセージでちょっと重なりますけれども、
皆さん先週の説教台を覚えていらっしゃいますか。
あなた方は心を騒がしてはなりません。そうです。
どうでしょうか。皆さん心を騒がさずに心配することなく一緒にやってこの1週間を過ごされたんでしょうか。
イエス様が弟子たちに彼らの不安をイエス様は感じたわけですね。
あなた方は不安に思っているんですか。何で不安に思っているの。
それでイエス様が心を騒がしてはなりません。
神を信じ私を信じなさいと。一番大事なメッセージを語って下さいました。
そしてその後私が行くところは神の住まり、赤谷ですと言うならば天国ですね。
天国に一度帰って、そこであなた方が住む部屋をお住まいをたくさん準備して、
そしてもう一度あなた方のところに帰ってきて、あなた方を連れてあそこに行くんですよ。
だから私はそこに行くんですよと話をしました。
そのイエス様の話を聞くとですね、私の人生は一つの旅と似ているんじゃないかなと思いますね。
よく多くの詩人や哲学者たちが人生を旅に例えるんじゃないでしょうか。
人生は本当に一つの旅のようなものだと思います。
旅というものは始まりがあり終わりがあるんですね。
キャンプみたいに200日間のキャンプ、八甲原も涼しくて天国などのようなところだなといいなと思いますけれども、
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終わりがあって家に帰ってくるわけなんです。
たぶん今年の夏も皆さんどこかに行かれるんでしょうか。
ニュースを見たら日本も関西や羽田や成田にも数十万人が海外に出るみたいですけれども、
いくら長い旅をしたとしても家に帰ってくるんじゃないでしょうか。
我々人生も一つの旅のようなものであります。
お母さんのお腹からおにゃーと生まれて人生の旅が始まる。
ところが家様は当たっていませんでした。
この地上のこの旅は、この地上の家は本物の家ではない。
本物の家はあの天国にある。
それはイエスを主と信じる者のためにイエス様が用意してくださって、
また親切に我らのところにもう一度来てくださって、
イエス・キリストを神の御子として救い主として信じる私たちを連れて行ってくださる本当の父の家がある。
イエス様はそれを準備するに行くんですよ。
そしてもう一度あなたのところに私が帰ってくるねと話をしました。
ところが先週読みましたところですけれども、そういう話をしたら、
イエス様の弟子の中でトマスという人が何と言ったんでしょうか。
皆さん誤説をご覧ください。
今日のヨハネオン14章の誤説を見たら、トマスがイエス様にこう聞くんですよ。
トマスはイエスに言った。主よ、どこへいらっしゃるのか私たちにはわかりません。
どうしてその道が私たちにわかりましょうと言いました。
こういう話はヨハネオンの福音書だけでなく他の聖書にもよくよく出てくるんですよ。
何でイエス様は死なせならないのでしょうか。
よみがえるんですか。どこに行かれるんですか。何で行くんですか。いつ行くんですか。
皆さんそれを聞いている人々は誰ですか。
イエス様の弟子なんですよ。知らない者ではないんです。
イエス様と3年も一緒に寝食を一緒にして禅道をしてイエス様の話を聞いていた彼らなんです。
でもこの十字架を目の前にして3日4日前にしているこの時点にあっても彼らは理解できていないんですね。
なぜだと思いましょうか。
3年もイエス様と一緒に信仰生活をしたのにその理由は何でしょうか。
一言でお話しするならば、彼らの霊能がまだ完全に開かれていないんですよね。
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イエス様の話を聞いてはいましたけれども、イエス様の奇跡を見てはいましたけれども、
彼らの自分自身の霊の目が開かれていない。
だから霊の言葉がわからない。
どこに行くんですか。何で行くんですか。その身って何でしょうか。なぜ行くんでしょうか。
全然知らないわけです。
皆さん、この聖書、神の御言葉は霊の御言葉であります。霊の言葉であります。
霊の言葉ですから霊の目で見ないとわからないわけです。
肉の目で肉の理解で肉の知識や常識では霊の言葉を知ることができましょうか。できないんでしょうか。
できません。できません。できません。
もうジニアス天才であっても、IQが200、300であっても霊の目が開かれていないと神の御言葉を知ることができない。
ちょっと一箇所提訴いただきましょうか。
FSOB会の手紙1章18節19節を開きたいと思います。FSOB会の手紙第1章18節19節。
新約聖書の374ページです。聖書をお持ちの方は開いてくださって、隣の方がどこなのか迷っていたら開いて差し上げて。
よろしいでしょうか。18節19節一緒に読みましょう。
また、あなた方の心の目がはっきり見えるようになって、神の意思によって与えられるものがどのようなものか、
生徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く、
神の優れた力がどのように偉大なものであるかを、あなた方が知ることができますように。
アメン。
皆さん、この素晴らしい全てを知ることができるためにどうしたらいいんでしょうか。
一番最初に心の目がはっきり見えるようになることなんです。
そうなんです。皆さん、いわばここにおられる皆さんの霊の目が開かれて、はっきり見えるようになりまして、霊の目で聖書を読む、
黙想する、あるいは説教を聞く、礼拝する、そういう我々でありますように。
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そういう信仰生活をしていきたいんです。
そして、神の御言葉を食べるに貪るほど、おかわりしておかわりして食べるほど、そしてその御言葉を理解して実践できるクリスタンでありますように、ここからお祈り申し上げます。
ところが戻りまして、その家様が備えてくださるその天国にあるお住まいに、
神様が、父なる神様がおられるその天国には、自分の人間の力では行くことができないんですよね。できません。
そこは、いくら頑張り屋さんだとしても、いくら超真面目な人だとしても、
あるいはすごい遺跡をして、たくさんの賞を国から世界からもらったとしても、
イエス様が備えてくださる天国のお住まいに、人間の努力では行くことができないんです。
なぜなら、人間の偉さは真面目さ、誠実さ、善、そういったものは、正しさは、神の御前には罪に過ぎないものだからです。
さっき読みました5節のトマスの質問は、「どこに行くんですか?何で行くんですか?」という質問です。
でも実は、それはトマスが私たちのために代わりに質問してくれたような気がします。
そのトマスの質問に対してお答えになったのが、このよく知られている14の6節なんですね。
そういう流れを考えながら、もう一度、この6節を一緒に読みたいと思います。
イエスは彼に言われた、私が道であり真理であり命なのです。私を通してでなければ、誰一人父の身元に来ることはありません。
ある意味ですね、トマスのずっと愚かな質問が、もう人類歴史上最も素晴らしい答えを引き出したような気がするんですね。
皆さん、人生というものは一つの道を歩むことだと思います。
どこから来て、どこを通って、どこに行くんだろうか。
多くの人々がそれを悩んだ。ソクラテスも、ニーチェも、哲学者たちもみんな悩みました。
自分というものはどんな存在なのか。何で自分は生まれて生きていて、なぜ死ぬのか。
これが人間の哲学の主題なんです。でも人間はわからないんです。
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イエス様にお会いさえすれば、その道が、真理が、命がわかってくるんです。
まず今日の六説からいくつか教えられる教訓を一緒に学んでいきたいと思います。
イエス様はこの六説で大事なことを語られました。
ご自分が何者であるか、何であるかはっきりと語ってくださいました。
今日の六説においてはイエス様が何とおっしゃいましたか。
私が道であり、真理であり、命なんです。
皆さん、ヨハネの文章を読みますと、イエス様が7回で、
私は何々である、私は何々である、私は何々であると、
自己宣言、自己啓示がされた大事な箇所があります。
多分、どこかでよく聞いた箇所ですけれども、それを今日まとめて確認していきたいと思います。
まず第一は、六章三十五説、全部ヨハネの文章です。ちょっと開きましょうか。
それをどこかにメモしていただいて、覚えていただきたいんですけれども、
ヨハネの文章六章三十五説、いいですか。
186ページですね。三十五説、一緒に読みますね。
イエスは言われた、私が命のパンです。
私に来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者はどんな時にも決して渇くことがありません。
覚えてください。第一は何でしょうか。私が命のパンです。
その次は八章十二説です。八章十二説、192ページですね。
イエスはまた彼らに語って言われた、私は世の光です。
私に従う者は決して闇の中を歩むことがなく、命の光を持つのです。
二番目は何でしょうか。私は世の光です。
三番目に行きましょう。十章七説。十章七説、198ページです。
一緒に、そこでイエスはまた言われた、誠に誠にあなた方に告げます。
18:11
私は羊の門です。
三番目は何でしょうか。羊の門。私は羊の門です。
それから同じ十章の十一説。読みますね。
私は良い牧者です。良い牧者は羊のために命を捨てます。
四番目は何でしょうか。良い牧者。私は良い牧者です。
その次は十一章二十五説です。十一章二十五説。
一緒に、イエスは言われた、私はよみがえりです。命です。私を信じる者は死んでも生きるのです。
ここでは、私はよみがえりです。命です。
その次は十四章六説を開きましょう。
今日の御言葉ですね。もう一度読みますね。十四章の六説。
一緒に、イエスは彼に言われた、私が道であり真理であり命なのです。
私を通してれなければ誰一人死の身元に来ることはありません。
その次、七番目、十五章一説。十五章の一説。二百十一ページです。
一緒に、私は誠の葡萄の木であり、私の父は毛布です。
ここでは、私は葡萄の木である。
命であり、世の光であり、羊のもんであり、良い牧者であり、よみがえりであり、命であり、道であり、真理であり、命であり、葡萄の木である。
誰がですか。イエス・キリスト。
これを信じることが、キリスト教の信仰なんです。
イエス様はもう宣言されました。
私は光である。私は道である。私は真理である。だから私を通してなければ、神の身元に行くことはできません。
だから神様は、自らある方なんだから、どんな説明をしても、神のイエスの存在を説明しつくす、説明しきれないんです。
だから神様はご自分の存在を、実は聖書では説明して、解説していないんです。
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もう宣言するんですね。
まるで荘石一書一説が、この宇宙万物の創造を解説、説明しているんじゃなくて、天と地を救られた、宣言しているかのようです。
だからこのイエス・キリストが、神の創造が信じられるということは、恵みであり不思議なことなんですよ。
だから定められた方々が救われるということもあるわけなんです。
ところがそのイエス様が、私たちのために、皆さんお一人お一人のために、神の父にお住まいを、部屋を用意してくださる。
ところがその神の家に、そのお住まいに天国に行く道は、たくさんあるわけではないんです。たった一つの道しかないんです。
そのお父さんの天国のお住まいに行く道、一本しかない道は、イエス・キリストであり、だからイエス様が道であり、真理であり、命なのですと語る。
皆さん道というのは何でしょうか。道というものは、そこからのゴールに目標地点に行くための過程、プロセスじゃないでしょうか。
道は方法なんです。目標じゃないんです。
イエス様は、あなた方が、あの天国に行くために、私がその道なんですよ、私を通して行ってほしいんですよ、というところがどうでしょうか。
私たちを含めて世の人々を見たら、ある人々は道を行ってて、回ってしまう人が多く、大勢にいるんじゃないでしょうか。
出発はよかったんですけれども、道を迷ってしまって、さまよっている人々がどれだけ多くいるんでしょうか。
あるいは、また他の人は道を歩んではいるんだけれども、どこに行ったらいいのか、ずっと苦労して苦労して苦労して頑張って歩んではいるんだけれども、目的地に到着できない。
道があるからそこに行く、そんな感じでただ歩んでいる人生が、また大勢いるんじゃないでしょうか。
あるいは、もう一つの部類は、道でもないのにそこを歩んでいる人、だから人生に苦労が絶えない人々が、またこの世の中に大勢いるんじゃないでしょうか。
道だからといって全てが正しい道であるわけではありません。本当の本物の道が。
24:10
人生にこの道を発見した人は本当に素晴らしい。
そして、あの天国のお住まいに行く道は一本しかない。
そのキリストを見つけて、本当だ、イエスこそ道であり真理であり命なんだ、それを発見できて、そのキリストという道を歩む人こそ一番幸せな人なんだ。
ところがどうでしょうか。
たとえば、私たちは努力しようとする。頑張ろうとする。自分の力で、自分の才能で、あるいは自分の持っているもので、努力して自分の人生を最高の人生に、幸せな人生に、裕福な人生にしようとする。
しかし皆さん、人間の努力というものは、神の目から見れば、チリに、チリ悪さに過ぎないものなんです。
たとえば皆さん、イギリスとフランスの間にある海区があるんですよね。ドーバー海区というんですけれども、調べたら34キロメートルくらいらしいです。
そこはですね、本当にすごい腕のある水泳の選手だったら、そこを泳いで横断ができるんですね。たまにそういう大会もやるみたいなんですけれども。
でも皆さん、いくら水泳の実力があったとしても、この日本から太平洋を渡ってロスアンゼルスまで休まずにずっと海で泳いで生きる人は、人間はいないんです。
チャレンジする人はいるかもしれない。我々人間の善というもの、努力というもの、持ち物というものは、これと似ているんです。
すごい腕があってですね、この赤城海峡を渡って淡津島まで行ける人がいるかもしれませんけれども、あの太平洋を渡って泳いでいけないんです。
人間の善であろうが、お金であろうが、実力であろうが、真面目であろうが、神の国に行くことはできないんです。
一本の道しかいない。イエス・キリストしかいない。ここで一箇所、ちょっと聖書を開きたいと思います。
旧約聖書の神言十四章十二節です。神言十四章十二節。私の聖書では千七十五ページです。ご一緒に見ましょうか。
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一度の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。アメン。皆さん実はそうなんですよ。
世の中の人々は、この道はまっすぐな道なんだ、成功の道なんだ、金持ちの道なんだ、この社会で認められる良い地位を得る道なんだと、まっすぐにみんな走って、頑張って走っているんですよ、実は。
ところがどうでしょうか。その道の終わりは死の道である。滅びの道である。イエス・キリスト以外の道は死の道である。
これを知ることができることは、素晴らしい特権であり、恵みなんです。もう一箇所開きましょう。
新約のエペソビトへの手紙に行きまして、エペソビトへの手紙四の十八節、十八節いただきたいと思います。
エペソビトへの手紙四書十八節、三百七十八ページです。
エペソビトへの手紙四書十八節。
ご一緒に、彼らはその死生において暗くなり、彼らの内にある無知と固くならぬ心とのゆえに、神の命から遠く離れています。
そうなんです。皆さん、人間の知性がノーベル賞をもらえるほどの知性を持っていたとしても、世界の古代の哲学を全部知り尽くすことができる知性を持っていたとしても、それは暗いものに過ぎない。
無知に過ぎない。固くならぬ心に過ぎない。
だからその人生は神の命から遠く離れている、かわいそうな哀れな人生に過ぎないということであります。
皆さん、イエスこそ道であり真理であり命なのです。
だからイエス様にお会いさえすれば、人生のさまよいは終わる。なぜでしょうか。本当の道を知ることができるから。
イエス様にお会いさえすれば、人生の闇と偽りから自由にされる。なぜでしょうか。真理を知ることができるから。
イエス様にお会いさえすれば、死から命に移される。なぜでしょうか。イエスこそ命だからです。
どうか皆さん、この道を、真理の道、命の道を歩んでください。
最後に今回のティーンズパイブルキャンプで嬉しかった、この二人の女子高生、JK、すいません、女子高生、二人の高校二年生の女の子たちの素晴らしい献身の話をちょっとしたいと思います。
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一人の女の子は将来にアフリカ選挙士になりたいと。そして特に何にするか。助産師になって、そしてアフリカに行って、アフリカは本当にもう十歳、十一歳、十二歳の女の子たちが結婚させられて子供を産んだりするんですよね。
一人の旦那さんがいて、奥さんが七人、八人、十人もいる。そういう部族がたくさんいる。もう病気はもう言うほどもない。そういうところを、その女の子は名前は言いませんが、そういう夢が一年前みたいなんですけれども、神様から与えられて、もうぶれないんですよ。
そして今回のキャンプで進学者とか先生方が献身や救いの証をするんですけれども、今回の進学者と先生方はほとんど去れた方で、新しいニューフェイスがなかった。でもたまたま私が行くことになって、
そこをユン先生が新しいニューフェイスとしてもらいたいと言われて、やむを得ず僕が二日目の夜の集会の前に選挙士の献身のお明かしをさせてもらいました。
それで一番最初に、私は実は海外選挙士ですと話をして、その話をした後、その子が話をしたいと。
1時間半ですかね、選挙士になること、そしてその道のこと、いろいろ話をアドバイスをしました。
聞いているうちに、私はもうとても嬉しくて、どうしようもないと本当に嬉しかった。
国の女の子がアフリカの選挙士になりたい。神様があらゆる夢がある。そして神様が許してくださるならば、もう日本だけじゃなくて、私がアドバイスしましたけれども、進学はたくさんある。
もうアメリカにもあるし、アフリカが選挙士になるんだったら、南アフリカ共和国には素晴らしい、世界的な素晴らしい進学法の二つもあるので、そういう夢を広げて、
神様に祈ったら、神様があなたを人を通して招待してくださるんだから、祈って夢を広げてくださる。
とてもニコニコ、ワクワクして、そういう話をしているうちに、私が本当に嬉しかった。
もう一人の女の子は、事情は言いませんが、今、とてもつらい環境の中にいる女の子なんです。
そんな女の子が、牧師になりたいと、献身の間抜けのときに、ずっと前から心出しがあったんですね。
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立って、でも今、誰から見ても、そういう献身できそうな状況じゃないんです、あの女の子は。
その中でも、ずっと見たら、ちょっと目指しましたね、私は知らなかったんですけれども、
ちょっと目立っていて、メッセージもよく聞いていて、もう目がキラキラして、いい子だなと思って、
やっぱりその子が献身の思いで立ってくれました。
あの女の子を二人を見て、私が感じたことは、
個々二年生だから何歳でしたっけ、16歳ですかね、16歳。
16歳の女の子が、一人はアフリカの選挙主になりたい、一人は将来牧師になりたいと、本当にブレない。
まるであの年に、もう道を歩んでいる、しっかり掴んでいる、命にあふれている、真理を見出している、
その女子高生に出会って、僕はカウンセリングまでさせてもらって、とっても嬉しかったです。
皆さん、本当の道、真理の道、命の道を選んで、その道を歩むかまいか、それは皆さんの選択次第なんですね。
イエス様は、せして我らを強制に引っ張って、歩ませる、歩ませる方ではない。
最後のご案内をして終わりたいと思います。
この何年前か、大阪にある有名なトンカツ屋さんに行ったことがあります。
そこにはキャベツを、ただでおかわりしてくれると。
で、食べて、キャベツがなくなって、おかわりをしていただいたしね、その店員さんが何とか言ったかわかりますか。
喜んで、と言って、そして他の店員さんもみんな喜んで、と言ってですね、すぐ盛り盛りのキャベツを持ってきてくれました。
皆さん、イエス様が生きなさい、歩みなさいという道、それが時には親を通して、時には牧師を通して、
あるいは時には兄弟姉妹を通して、あるいは今回のような何かのチャンプ集会として、主がこの道を歩みなさいと語ってくれた時に、
私たちもその命あおれる道を喜んで、と歩んでいこうではありませんか。お祈りします。