00:00
それでは、いつものように、メッセージの前にですね、隣の方と安否を尋ね合いながら、挨拶をしませんか。
おはようございます。
感謝します。一言お祈りさせていただきます。
イエスはこれを聞いて言われた。この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。
アーメン。主よ、私たちは、神の一方的な恵みによって救われて、ただただ、神の栄光のために生きたいと願っております。
今日も、その神を賛美するため、礼拝するため、ここに集まっています。
今から神様御自身が、ここに集っている一人一人に、主よどうぞ、あなたのお声を聞かせて下さい。
気づきを与え、恵みを与え、あるいは、ひらめきを与えて下さって、あるいは、なごさみを与えて下さって、
なおなお、我々の生活が、また信仰が引き上げられ、神の心にかなって、
また、生きているこの地上で、我々の人生が一緒にあって、幸せに歩んでいけますように、主よ、祝福して下さいますように、お願いいたします。
主よ、どうぞ、お語り下さい。このものを隠して、神様御自身の身もねだけが現れますように、
イエス様の皆によって、お祈りいたします。アーメン。
感謝します。今日は久しぶりの方々も来ていただきまして、感謝いたします。
ヨハネの福音書の公開説教続きまして、三十回になっております。
今日は、十一書一節から五節までとしまして、神の栄光のために生きる人、神の栄光のために生きる人という題にして、
共に神の御言葉をいただきたいと願います。
福音書を読みますと、イエス様がよくよく会って下さって、とても親しく交わっていた人々が何人かいるんですよね。
その中で、このマルタ、それからマリア、ラザロ、この三兄弟は、
03:06
そこから外せないほど、イエス様ととても親しく過ごしていたんですね。
イエス様がエルサレムの近くに、あるいはエルサレムに登られるときには、彼らの町、ベタニアによく訪ねて下さって、
その三兄弟の家に訪ねて、よく食事をされたり、またいろいろ、いろんな話もたくさんされたんじゃないでしょうか。
ところが、今日の十一書を見たら、イエス様がベタニアの近くに来たときにですね、
その愛するあの三兄弟のラザロ、彼が病気になったことを聞きました。
マルタとマリアはですね、イエス様が近くに来られたことをどこかで聞いたことなんですよね。
そして、人を使わせてですね、「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられるものが病気です。」とね、知らせをしました。
というのは、もうとても急なことであって、そして当然イエス様がですね、とても早くですね、聞いたことも、とても早く来てくださってですね、
ラザロの病気を癒してくださるに違いないと思っていたんじゃないでしょうかね。
マルタ、マリアの、またラザロの、彼らの、この時点での彼らの考えは、自分たちのタイムスケジュールは、イエス様が今、後ではありませんよ。
今すぐにここに、この道ですね。今すぐにここに来てくださって、このラザロの病気を癒してくださると。
そして、イエス様のこの癒しの奇跡は、今すぐにここで起こるはずだと思っていたんですよね。
ところがどうでしょうか。
今日全部読んでいないんですけれども、六説を見ますと、そのようなわけで、イエスはラザロが病んでいることを聞かれた時も、そのおられるところに、なお二日とどまられたとあるんですよ。
すぐに行かれなかったんですよ。二日なんですよ。
もう、ラザロが来たし、人が病んで、もう死にかけているのに、イエス様はわざわざなんでしょうか。二日も行かれなかった。
06:07
イエス様のタイムスケジュールは、全く違っていました。
結果的にですね、イエス様は、もうラザロが死んで、四日経って、ラザロの墓に行かれたんです。
そして、これがなぜ起きたのか。イエス様は大事な話をされました。
それは四説ですね。私がお読みしますので、聖書をお持ちの方はご覧くださいますか。
イエスはこれを聞いて言われた。
この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。
死で終わるではありませんよ。これは神の栄光のためのものですよと、その理由を語ってくださいました。
今のラザロの病気は、その病気で終わるのではありません。
あるいは、ただの死で終わるのではありませんよ。
彼の病気、そして死からよみがえることを通して、神の御子が、神様が、栄光を受け取ることになりますよ、というふうな話です。
ところが皆さん、私たちには、とても理解しがたい話でありますね。
イエス様がすぐに来てくださって、はいどうぞと癒してくださったら、一番簡単でみんなすっきりするんですけどね。
そうしてくださらなかった。
この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものですと、当時のマルタ、マリア、ラザロにはわけわからないお話でした。
さあ、このストーリーの結果はどうなったのでしょうか。
イエス様は4日経って、この3巨大の家に、ベタニャンに行かれました。
すでにラザロさんは亡くなって、墓の中に葬られた後でした。
しかしどうでしょうか。ちょっと聖書をお持ちの方は開きましょうか。
11章の43節ご覧ください。
43節私がお読みします。
そしてイエスはそう言われると、大声で叫ばれた。
09:00
ラザロよ、出て来なさい。
44節一緒に読みましょうか。
すると死んでいた人が手と足をできた。
彼の顔は布切れで包まれていた。
イエスは彼らに言われた。
おどいでやって、かれら捨てなさい。
アーメン。
イスラエに行ったらですね、このラザロのお墓であっただろうというところに教会が建てられているんですけれども、
ところが、これは事実あったことでありまして、
そしてこの今日の御言葉を通して、イエス様がこのラザロの死、それから復活を通して、
私たちにイエス様が何を語ろうとしておられるんだろうか。
特にこの病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものですよというこのお言葉から、
私たちの人生に必要な天の知恵と、また人生のいろんな問題からそれを信仰につなげる力について学びたいと思います。
そしてこれらのことが究極的には神の栄光のために生きるその知恵を今日の御言葉から学びたいと思います。
第一、ラザロの病気は決して死で終わる病気ではなく、神の栄光のためのものであるという。
だからといって、イエス様はラザロの病気を、あるいはその兄弟が病んでいることを、
悲しんでいる、とても悲しんでいる、もう死にかけているからね、悲しんでいるマルタさん、あるいはマリアさんの、
彼らの悲しみとか痛みに全然イエス様は無関心であるという話では決してそうではありません。
直接にこのヨハネの福音書を書き記した記者ヨハネは、このヨハネの福音書、この実際に起きたことから何十年も経った後、
このヨハネの福音書を書き記しましたけれども、その時にイエス様はどのようなお方なのか、
特にマルタ、マリア、彼らに対してイエス様の心はどういう思いだったのかね、それをヨハネさんはわざわざ語説に書いたのではないかなと私はそういうふうに解説します。
語説、イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた、
12:06
英語のためですよと語っておられましたけれども、同時にイエス様はマルタ、マリア、ラザロを愛しておられた、
アガペの愛です、無条件で、無条件の、私たちは普段信仰を長く持っているとすればね、神の英語のためにという話をよくよく言うんですよね。
ところがここで注意というか誤解というか、覚えていただくことは、神の英語のためのもの、あるいは人生といって、
そういう人生は何の問題もなく、痛みも失敗も苦しみも何もない、無念の状態になりなさいという話ではないでしょう。
あるいは神の英語のために生きる人は、どんな痛みもどんな傷に対しても痛いとか苦しいとか言ってはいけませんよという話でもないでしょう。
まずイエス様はマルタ、マリア、ラザロ、この病気ですけどね、それを共に悲しんでおられました。
愛しておられました。神の英語のために生きる、そこには神の愛が背後にあることも、私たちは覚えてほしいです。
一箇所、すいませんが一緒に聖書を開きたいと思います。ヘブロビトへの手紙4章、新約聖書の後ろの方ですけれども、ヘブロビトへの手紙4章、15節から16節です。
私の聖書では428ページです。ヘブロビトへの手紙、第4章、15節と16節です。私がお読みいたしますのでご覧ください。
私たちの大祭祀はイエス様のことですね。イエス様は私たちの弱さに同情できない方ではありません。
罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じように心身に憐れたのです。
ですから私たちは憐れみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
15:09
という御言葉がここに書かれています。
皆さん、イエス・キリストは私たちの弱さ、あるいは失敗、あるいは苦しみ、痛み、あるいは清く生きたいんだけれども、
たまにはそれができなくなっている自分のことで、泣いている我々のことを同情できない方ではありません。
つまり、深く同情してくださるという言葉です。
福音書の他の所を見ますと、多くのイスラエの人々が貧しくて、食べ物がなくて、
当時のローマの植民の圧勢や支配がとてもひどくて、大変苦しんでいる国民全体だったのです。
彼らを見てイエス様がもう腹綿がちぎれるほど痛んでおられたという御言葉が、
ちょっと寒かったらクーラーを温度を上げた方がいいかもしれない。
それほどイエス・キリストは私たちの弱さを、あるいは痛みを、悲しみを、涙を知ってくださる、
同情してくださる、そしてそれを包んでくださって、癒してくださっておられるということ。
イエス様はマルタ、マリア、ラザヌの弱さ、彼らの病気を御存知でした。
一緒に心を痛めてくださいました。一緒に泣いてくださいました。
今日読んではないのですけれども、ヨハネの文書にちょっと戻りましたら、
イエス様が三十四節、今日の十一章の三十四節、三十五節私は読みますね。
言われた。彼をどこに置きましたか。彼はイエスに言った。主よ、来てご覧ください。
三十五節一緒に読みましょうかね。短いですけれども。
イエスは涙を流された。
イエス様は、ナザロがもう亡くなっていること、そしてそこにマルタ、マリアさんが悲しみに拭けていることをご覧になって、
18:07
イエス様は涙を流されたんです。
皆さん、イエス様は冷血な方ではないんです。ある意味でイエス様は歓声派の方かもしれない。
共に涙を流して泣いて心を痛める。皆さん同じでしょう。
私たちが心を痛めている時、何かのゆえに苦しんでいる時、疲れ果てている時、
イエス様はまず、私たちのその痛みとか苦しみとかそういう傷を包んでくださって、
癒してくださって、そういう風にイエス様にタッチされつつありながら、その神の愛と憐れみ、
その中で自分自身は自分の罪を悟ったり、あるいは悔いを改めたり、
あるいは神の心をもっと正しく知るようになっていくのではないでしょうか。
世界独りにも完璧な人は一人でもいない。
昨日もお知らせ後からしますけれども、京区の青年賛美集会が今年はまず阪神地区でやりましょうということで、
滋賀は協会で開かれましてですね、青年も二十人こうして、
壮年夫人先生方を含めて全部で三十四、五人集まりましたけれども、
メッセージの三陰谷福音協会の森先生がメッセージの中に、こういう質問を投げかけました。
先生方に対してね。先生方の中で今まで一度も失敗していたことがない方、誰もいない。
たくさん失敗したことがある方、はい。
私も手を挙げまして、失敗する時があるんです。
時には罪を犯してしまって、ああしまった、神様を許し下さい、時もあるんじゃないでしょうか。
そんな中で、私たちの心に霊についてしまった汚れを主が綺麗に拭いてくださる。
痛みを拭いさせてくださる。
そういう風にされながら、我々は自分の罪を悔やかれる。
気づきが与えられる。
というこのプロセスを私たちは経験していくということなんです。
21:00
ちょっと違うかもしれませんが、私の小さい時の一つの経験があります。
七歳八歳くらいのことですけれども、
テレビが洋服のダンスの引き出しの上に置いてあったんですね。
ところが、いたずらが酷かった子供だったから、テレビにぶら下がって遊んだりして、
テレビが落ちてしまって、自分も結構怪我をして、血がたくさん出たことがあるんです。
泣いていて、自分が壊したのに泣いていて、
お母さんが来て、まず血を拭いてくれて包帯で泣いてくれた。
そして泣いて泣いて疲れて、たぶん寝て後から起きて、
そしてからお母さんお父さんにものすごく怒られました。
ところが、傷を包帯で包んでくれた母のことがありがたかった。
ところが、自分が悪いことをしたことを、後から気づいたわけなんですよね。
ところが問題は、何ヶ月経ってまたテレビを落としてしまったこと。
幸いに二度目は壊れなかったんですね。
皆さん、イエス様は神様は、私たちをいろんな形をもって、方法をもって取り扱ってくださるんです。
神様は考えがものすごく単純で、一つの方法しかできない方ではないんです。
例えば私たちが子供をどう子育てして教育して、この悪い習慣をどう直せたらいいのか、
いろんな考えが親にあるんですよね。この手かあの手かあるかもしれない。
神様は私たちを取り扱う、その神様の取り扱いの方法は、
私たちの数え切れないほど、私たちの考えを超えるたくさんの神様の方法が、道があるんです。
一箇所、聖書を開きたいと思います。
四編の147編、中略聖書、四編、147編です。
私の聖書では1053ページです。
一節から三節まで一緒に読みたいと思います。
24:07
ハレルヤ、マコトニ、我らの神に褒め歌を歌うのはよい。
マコトニ楽しく賛美はうるわし。
主はエルサレムをたて、イスラエルの追い散らされた者を集める。
主は心の打ち砕かれた者を癒し、彼らの傷を包む。アーメン。
主は心の打ち砕かれた者を癒し、彼らの傷を包んで下さい。
そういう風に私たちは癒されながら、傷を包まれながら、神の心を知るようになるでしょう。
また、自分の過ちや罪に対しても気づくようになるでしょう。
そして、なお、神を愛する者へと変えられていくのではないでしょうか。
第二として、神を信じる者は、自分に起こる全てのことを通して、
神様が働かれるように、そして神の栄光が現れるように、その道を歩まなければならない。
皆さん、私たちが生きているうちに、元気な時もあり、病んでいる時もあります。
病気になる時もあり、治る時もありますし、治らない時もあります。
失敗の時もあり、成功の時もあります。
勝つ時もありますし、負ける時もあります。
上手くいく時もあり、上手くいかない時もあります。
その時に私たちは、自分の人生に起こることをどういう風に受け止めて、捉えて、
そこからそれらを信仰につなげる、神を見上げることができるでしょうか。
全ての人にはいい時も悪い時も、うれしい時も悲しい時もあります。
しかし、神を信じる者は、全てが相働かれて、神様が良き者に変えてくださることを信頼するのです。
27:08
それが信仰ではないでしょうか。
皆さん、人生の問題の答えはいつも1たす1は2みたいに、そんなに簡単ではないんです。
とても複雑であります。
しかし、神を信じる者は、自分の人生の全てのことを通して、神の栄光が現れるように、その道を選んで歩むのです。
これが聖書が教える大前提であります。
皆さん、覚えていてください。
私たちの人生に起こる全てのことは、神の栄光のために、
そして、神様は私たちの失敗であろうが、傷であろうが、何者であろうが、
いくらでも神様それを用いてくださって、益としてくださる、
そして、神様は自分の栄光のために、何も何でもそれを用いることが妨げられない方であることを、私たちは信じなければならない。
覚えていることは、我らのどんな失敗も、いや、我らの罪さえも、神の力を縛り付けることはできません。
これから永遠まで、神様は今まで、何者にもどんな人にも縛り付けられて、神様に何ができなかった時代は一度もありません。
なぜでしょうか。神様はね、皆さん、絶対主権を持って、ご自分の意思によって、全てを進めていかれる方なんです。
栄光をあらわしたい時に、神は何がどうでも栄光をあらわしてくださるんです。それが、おできになる方であります。
永遠から永遠まで、神の力が制限付けられたことは一度もありません。
神の力が縛り付けられて、何ができなかった時、助けることができなかった時は、一度もないんです。今からもうないんです。
ですから皆さん、私たちは成功する時、失敗の時、病気の時、元気な時、そういうことがあることをまず認めるんですね。認めるんです。
そして、クリスチャンの信仰の姿勢は、自分の健康や病気や成功や失敗を通して、でも、神はご自分の栄光をあらわすことができる。
そして、私たちはその神を賛美して、愛して、礼拝することなんです。
30:03
今まで皆さんの人生、20年、40年、50年、60年、70年、振り返って考えていただきますと、
あの時に、あの道じゃなくて、この道に歩んで、それがその時には悔しいと思った時もあったかもしれませんが、後々になって、
神はそれを通して、ご自分の栄光になるようにしてくださったことがあるんじゃないでしょうか、皆さん。あるでしょう。ないんですか。
私のことですいませんが、大学の受験、一度落ちた。それで、まだまだ下手くそですけれども、日本語を専門することになった。
大学4年生の時に、教授の推薦で日本文部所の留学に1年、超高留学に行けるんでしたけれども、
自分はもう新学校に行くんだからと思って、それをお断りして、2ヶ月の短い研修を日本に来たことがある。
もし、自分があの時に1年の留学に日本に来たならば、自分は今、ぼくしになっていないかもしれないなと、私は思うことがあります。
いろいろ失敗もありました。新学校、大学院も一度落ちて、その時に本当に自分の弱さを、傲慢さを悟りました。
神の恵みなくしては何もできないものであることを悟りました。
皆さん、神様は、私たちの失敗も成功も過ちも優れたところも、何でも神様は用いることができるということであります。
もちろん皆さん、だからといって何をしてもいいんですよ、という話ではありませんよ。
ナザロの話をもう少しお話したいと思います。
ナザロが亡くなりました。
それは皆さん、イエス様が遅く来られたからナザロが亡くなったのでしょうか?
そうではないでしょう。
イエス様のために、イエス様が遅く来たからナザロが亡くなったわけではないんですよ。
イエス様がこの3人兄弟の家に遅く行かれたのが、実は彼らを愛しておられたからなんです。
そしてイエス様は神のサインを待ってられました。
33:00
なぜでしょうか?
それはこのように何日も経ってから行くのが、むしろこの3人兄弟の信仰を強くする決定的なきっかけになることだから、イエス様はそうされたのです。
ところが皆さん考えると、イエス様が4日も経って来られたから、マルタ、マリアは本当に悲しかったかもしれない。
もしマルタとかマリアがとてもせっかちな人であったならば、もう腹が立ったかもしれない。
あんなに親しくしているのに、こんな近畿の時になんで来てくださらないんだろう。
イエス様はどこで一体何をしているんだろうと思っていたかもしれない。
メールを送りまくって、LINEを送りまくって来たかもしれない。
なんで来ないんですか?と電話をしたり。
悔しかったかもしれない。
あるいは死んでいくラザロ自分も、なんでイエス様が来てくださるんだろう。
自分はもう今死にかけているのにと思っていながら、ラザロは亡くなったんじゃないでしょうかね。
きっとですよ。
がっかりしたのかもしれない。
しかしイエス様は、ご自分の時にご自分の意思によって主権を持ってことをなさるんですよ。
それを私たちは勘違いしてはいけない。
3人兄弟の時とイエス様の時は全く違いました。
彼らの願いはラザロが癒されることでしたけれども、
イエス様の願いはもちろん癒しも含めてですけれども、
もっと遥かの高い次元の神の栄光を先にお考えになりました。
だからこの時の3人兄弟は、イエス様のその考えまでは及んでいなかったんですよね。
皆さん、この3人兄弟の様子から、私たちは自分自身の様子が見えてくるんです。
読んでないんですけれどもね、この6節以降にですね、
マルタがイエス様に、マリアがイエス様に何か訴えているように、
ちょっと悲しいというふうにイエス様に話をしていることがありますよ。
また来週に話をしますけれども、
この3人兄弟の姿から我々の様子が見えてくるんですよね。
私たちは何か自分が困っている時、病んでいる時、疲れている時、苦しい時、
大きな問題にあった時にはどう思うんですか。
イエス様がものすごい速いスピードでですね、飛んできてくださってですね、
一気に答えてくださることを、そうしてほしいなと思うんですよね、私たちは。
36:00
そういうふうに祈っているかもしれない。
でも、もちろんそういうような時もありますよ。
本当にね、もう考えただけで神様が解決してくださる時もあるんですよ、もちろん。
神様にはそれができる方でありますが、覚えてください。
我々の時と神の時はいつも同じであるわけではない。
違う時が実は多くあるかもしれない。
そしてもう一つ覚えてほしいのは、私たちが神様を信じることは、
自分の人生の問題を解決するために、自分のために神を使う、使用する信仰は、
神のためのものであって、神の栄光のためのものであります。
おそらくこの時の三人兄弟は、なぜイエス様が4日も経ったのに来ていないんだろうか。
ラザロがね、よみがえられる前までですよ。
あの子の短い4日間、訳がわからなかったでしょう。
私たちも同じではないでしょうか。
イエス様がなぜこの問題、課題をすぐに解決してくださらないんだろうか、という疑問があるかもしれない。
あるいは、なぜ私はこの長い間の悲しみの中にいるように、主は許されるんだろうか、という疑問があるかもしれない。
あるいは、イエス様はなぜ私は金持ちじゃなくて、この普通の、極普通のものにしてくださったんだろうか。
あるいは、なぜイエス様は私のこの病気を早くも癒してくださらないんだろうか、いろんな疑問があるかもしれない。
皆さんここでですね、大事なお話をしましょうね。
ここでこういう疑問がある時に、私たちには一つが問われるんです。
あなたは神を信頼していますか、という質問が問われている。
これは非常に大事ですよ。
皆さん、私たちの目で感覚で神様が働いておられる様子が見えない時でも、
神は私のために一生懸命働いておられることを信頼するのが信仰なんです。
その神を信じるのが信仰なんです。
自分の目に見えなくても、自分の耳に聞こえなくても、結果がすぐに良い結果が見えなくても、
私のために働いておられる主がおられること、その主を信頼しましょう。
39:05
結局皆さん、信仰というものは、私たちがどれだけ神を信頼するか、そこにかかっているんじゃないでしょうか。
この朝、イエス様は私たちに尋ねておられました。
あなたは私を信頼しますか。
あなたは私の時を待つことができますか。
あるいは、あなたは私の栄光のためなら、やむこともできますか。
と、主を本当に信頼するならば、私たちは、はい、そうですと答えられるのではないでしょうか。
いや、はいと答えられる信者でありたいと願います。
皆さん、神の時を信頼してください。
自分の目に見えなくても、神のお働きがあることを信頼しましょう。
たとえ私たちが健康であっても、主の栄光のために健康でありましょう。
たとえ私たちが病んでいても、主の栄光のために病んでいましょう。
私たちが成功しても、主の栄光のための成功者になりましょう。
たとえ私たちが失敗したとしても、主の栄光のための失敗者となりましょう。
今もなお神様は、ご自分の民の子供のために働いておられます。
そして神様は皆さんを愛しておられます。
神を信頼してください。
そして、信頼しつつ歩んでいく中で、傷つきが与えられ、
さらに恵みを体験し、さらに極められ、またさらに信心が引き上げられ、
時には悔やみ、時には感謝し、そういうふうに主が私たちを取り扱ってくださる。
その恵みを期待して、捨てずにずっと守ってくださる主を信頼して、
その身もねを知って従っていこうではありませんか。
お祈りしましょう。