1. 名谷教会
  2. 2018/05/13:ヨハネの福音書講..
2018-05-13 42:17

2018/05/13:ヨハネの福音書講解説教(28)だれも奪い去ることはできない

2018/05/13 聖日礼拝
尹善鎬牧師
ヨハネの福音書 ~30

00:01
本庁は、ユン先生より、「だれも奪い去ることはできない。」と題しまして、メッセージをしていただきます。
皆さん、おはようございます。雨の中、礼拝にようこそいらっしゃいました。感謝します。
今日はね、先ほどの祈りにもありましたように、母の日礼拝でもあります。
それですね、CSでは、お母さんの方々に来てもらって、子どもたちが先週書いたお手紙と、またCSから用意したお花をですね、差し上げました。
本当に感謝でした。また、いつも教会のいろんな働きのために講師をしてくださっておられます、教会の姉妹の方々、夫人の方々にも改めてここから感謝いたします。
それでは、メッセージの前にお互いの方と挨拶しましょうか。特に夫人の方に感謝をあらわしましょう。
さあ、それではお祈りして、礼拝を始めたいと思います。
一言お祈りさせていただきます。
私は彼らに永遠の命を与えます。彼らは決して滅びることがなく、また誰も私の手から彼らを奪い去るようなことはありません。
主よ、この朝も主が私たち一人一人に、誰も何も私の手からあなたを奪い去ることはないよと語ってくださる主のお声を聞き、従ってこの礼拝にやってまいりました。
主よ、感謝いたします。
いつもどこにいてもどんな時も、誠の良い奥者であられるイエス様のお声を聞き分けて、そして聞き従うことができるように、そのための今日のメッセージとなりますように、
主よ、どうぞ私たちに恵みと希望と悟りを、教訓を、あるいは勲会を、あるいは言いましねを、どうか主がこの朝私たちに語ってくださいますように。
そして主ご自身の栄光を表してくださいますように、お願いいたします。
取るに足らないこのものを隠してくださって、神様だけが現れますように、イエス様の皆によってお祈りいたします。
03:00
アーメン。
感謝します。
十章の続きであります。
先週のメッセージにおいて、イエス様が私たちの誠の羊のもんであり、また誠の良い羊飼いであられる、それを一緒に学びました。
つまりそれは、イエス様と私たち一人一人がどういう関係なのかということなんですね。
キリスト教信仰は、神様と私たちの関係、あるいはイエス様と教会の関係、
そしてこの関係を大事にして、そこにいろんな豊かな意味があるわけなんですね。
私たちは皆、羊のような存在です。
というのは、我々の人生において、主なる羊飼いであるイエス様が絶対的に必要であるということではないでしょうか。
なぜなら、羊は羊の門に出入りをしないと生きることができないからです。
また、羊は羊飼いから離れて、あるいは羊飼いの声に従わなければ、また同じく生きることができないからなんです。
ですから皆さん、私たちの唯一の門であられるイエス様、
そして私たちを愛して、いつもそばにいてくださって、導いてくださる羊飼いのあるイエス様を私たちも愛して、
そしてその方の声を毎日聞いていて、そしてその声に聞き従ってついていくときに、私たちに命がある。
主の力がある。恵みと祝福があるんじゃないでしょうか。
いつもではないでしょうけれども、時々たまにでも人生にいろんな難しい難問のような問題が起きたりするんですよね。
もちろんその難問を出してくださるのは神様だから、その答えは神様がご存知でしょうけれども、
06:00
私たちのこの被造物である、作られたものである私たちは、自分の人生の答えを全ては知らないわけなんです。
それで苦しんだり、悲しんだり、どうしたらいいのか、多さを知ったり、困惑を感じたりするんですよね。
その時に、なぜ人生に難しい問題が起きるのでしょうか。他人に問題があるからなんでしょうか。
人のせいなんでしょうか。あるいはこの社会の、あるいは国の、世界の問題なんでしょうか。
決してそうではないんですよね。
もちろん全てのケースがそうではないでしょうけれども、人生に難しい問題が生じてくる理由は、
羊の私たちが羊飼いの家様の声に聞き従わないからではないでしょうか。
二つのパターンがあるかもしれないですね。
もうそもそも最初からなかなか主の声を聞いていないから問題が起きるかもしれない。
あるいは聞いてはいるんだけれども、従っていないからかもしれない。
今日の御言葉を皆さん、27節をもう一度皆さんご覧ください。27節。
一番最初の文ですが、私は読みますね。
私の羊は私の声を聞き分けます。とありますね。
家様の羊は家様の声を聞き分ける。
これが家様の声なのかどうなのか、語なのかスタッフなのかが分かるわけなんですよね。
皆さんはいかがでしょうか。
家様の声を聞き分けていらっしゃいますか。
そうすれば、皆さんは家様の羊である、家様のものであるということなんですね。
でも、どうやってそれが聞き分けられるんだろうか、それは言葉では説明しきれないことだと思うんですね。
例えば、子どもが自分の親の声が分かるわけなんですよね。
例えば、多くのお母さん、お父さんがある。
誰かが息子の名前を呼ぶ。
そしたら、聞いてなくても、誰の声が自分のお母さん、お父さんの声なのか分かるわけなんですよ。
それは言葉では説明できないものなんです。
まるで本能的なようなものなんです。
09:02
似ていると思いますね。
家様の羊であれば、家様が羊飼いであるから、家様の声を聞き分けることができる。
信仰的に、あるいは礼的に、言葉では足りませんけれども、それが聞き分けられるんですね。
その羊飼いの羊だから。
羊は羊飼いの声を聞き分けて、そして従うんです。
従うから羊の、羊飼いの羊なんです。
一つお話したいことがありますけれども。
私の友人の選挙史、韓国の選挙史ですけれども、東京で勃開していてですね。
結構昔から三浦彩子さん、表典の作家さん、三浦彩子さんのことがとても関心があってですね。
本もたくさん読んでいてですね。
5、6年前からは日本で三浦彩子の特書会をやっておられる長谷川先生かな。
そういう先生と一緒にですね、日本でも韓国でもその特書会をやっていて。
今はまた三浦彩子さんをテーマにして、博士の論文も書いているんです。
彼から聞いた、本当に心温まる三浦彩子さん夫婦のお話なんですけれども。
まず一枚写真を見てみたいと思います。
まず左の、皆さんから見て左ですね。
左の写真、三浦商店とありますね。
それが、もちろんあの建物は今いないんですよ。
浅井川でですね、三浦さん夫婦が開いた雑貨屋さんをやっていらっしゃったそうなんです。
ところがその近くにイギリスからOMF、キリスト教の国際選挙団体があってですね。
名前は何でしたっけ。ヘイマンという選挙主の家族がやってきて、そこで小さな家を借りて選挙をしていた。
ところがそこは子供が5人もいてですね、大変狭いところだからね。
今から結構昔でしょう。
それで放署しておられたそうです。
そしてその三浦さんの家族ともとても仲良くですね、行き来たりしてですね、そういったところでありますね。
そしていつもその三浦さん夫婦は、イギリス人の人が自分の国ではないのに遠い日本まで来て、
しかもOMFは昔から北海道を中心にして選挙働きをしていてですね。
12:02
OMF団体が立てた局外が北海道にたくさんあるそうですけれども、それをとっても感謝して監視しておられて、
わざわざイギリスから日本まで来てくださって、しかも小さな家族を連れて選挙をしてくださることをとても感謝していて、
よき親子の友として交わりをしていたそうです。
ところがその三浦さん夫婦があの雑貨屋さんを、いろいろ大きな店ができたりして、やむを得ず辞めることになった。
あの頃の話ですけれども、そのちょうどイギリスのOMF選挙主、ヘイマン選挙主が、
もう家は狭いし、そしてこれからまた開拓のようにやっているわけですから、建物も必要ですし、
それを前々から三浦さん夫婦は知っていたそうです。
それでいつも神様に祈って、そして従うことが本当に良い信仰の習慣になっていたこの三浦さんの夫婦は、
もう前からこの雑貨屋さんをあのOMFのヘイマン選挙主のためにもお捧げしましょうと、心の中で夫婦は決めていたそうなんですね。
そして実際にそれをお渡しするというか、お捧げするというかね、そういうようなことになって、
手続の全額も向こうじゃなくて、三浦さん夫婦がそれを全額負担して、そしてお捧げしますとともに、
もうこの古い建物ですけれども、これが神の国のため、もしも使われなかったら、それで私たち夫婦は本当に光栄ですとね、むしろ三浦さん夫婦がもっと感謝していたそうなんです。
この三浦さんがあの雑貨屋さんで評点や道や力とか他の11冊の本も書いたそう、あの家で書いたそうなんですね。
そして後々になって、その三浦さんが開古録みたいなところにこう書いてあったそうです。
雑貨屋、雑貨店をやっていた家は、今はイギリス人牧師が入ってきて、そこが教会になった。
その家で評点、道や力などなど11冊の本を書かせてもらった。
その家が教会になったのである。
夜、キラキラ輝いている十字架を見て、私たち夫婦は冠の気持ちになって、初めて自分の手で建てた建物が、その家が教会になることは夢にも見なかったとですね、後々になって三浦さんが書いたそうなんです。
15:00
ところがその話はここで終わりではないんです。
それでその平満の選挙主があの雑貨屋さんで暮らしながら国会をして開拓をしていた。
ところがどんどんどんどん教会が成都して、あの雑貨屋ではもう入りきれなくなってしまって、もっと土地が欲しいなことも三浦さん夫婦が分かっていた。
そしてその雑貨店の裏の土地も実は三浦さんが捧げた。でも当時は誰も知らなかった。
そしてその捧げられた土地に称えられた教会土がこの浅井川恵みキリスト教会という。それが今も教会として使われているそうです。
しかしOMFもあの平満の選挙主も誰も知らなかった。
ところが三浦さんが店に商店された後、その恵み教会の信徒さんが実はこの土地は三浦さんからの捧げられたものですよということだったそうなんです。
私も聞いています。
私はですね、このお話を選挙主から聞いて、そして今日のメッセージを準備しながらこう思ったんですね。
ああそうだ、主の声を聞いて、また神の心を知っていて従って生きる人生とはこういうものではないのかなと思いました。
イエス様の身胸であれば、神様が喜ばれることであれば、それに従う生き方。
大悲しみにお捧げする、それを光栄と思って喜ぶ、それこそ羊飼いに従う羊、そのライフそのものではないでしょうか。
本当にとても感動しました。
ですから皆さん、私たちは、いつも牧者なる主の声を聞く訓練をたくさんしてほしいんです。
もちろん、だからといって何か神秘的な経験をしましょうという話ではありません。
あるいは自分の感情を高揚させましょうという話でもない。
この神の言葉である聖書の御言葉を読んで読んで、また読んで、牧草して、また牧草して、あるいは研究して、
自らここから本当に宝を掘るような、お芋掘りじゃなくて宝掘りをする、そういう練習を、訓練を日々していこうではありませんか。
そして悟って、さらに目が開かれて、主の心を分かって、主の声を聞き分けられる神徒でありたいと願っております。
18:10
例えば皆さん、誰かその人の心をよく知るためには、その人と旅をしなさいという話があるんですね。
旅をしたら、その人が何が好きなのか、何が嫌いなのか、どんな時に喜ぶのか、あるいはその人の内面のお話を聞くことができるし、
そしてその人のことをよく深く知ることができるんじゃないでしょうか。ちょっと似ていると思うんですね。
私たちが神の声を聞いて、また主の心を正しく深く知るためには、御言葉と祈り、祈りと御言葉に専念する他にはない。
それで今日、私も含めて、みんな信仰の基礎に立ち帰りましょうとお願いしたい、お勧めしたいと思います。
イエス様の皆によってお勧めします。皆さん、一日、聖書を一章ずつお読みください。
一日、少なくとも30分以上お祈りください。
聖日礼拝はもちろん、水曜日とかい、あるいは曽天、あるいは金曜日とかいをお勧めしたいと思います。
御言葉と祈りの基本に立ち戻りましょう。そうする時に私たちは生きることができるのです。
人と人との関係の深みは、その人とどれだけ時間をもってお互い話し合って交わっていくこと、そこにかかっているように、
信仰の深さ、深みはですね、自分がイエス様とどれだけ深いお出会いをもってそれをやり続けているのか、そこにかかっているのです。
そういうように毎日のように続けて、イエス様と深い祈りの中で、あるいは御言葉、あるいは聖書の中で、あるいは後になってCDを聴くか、
そういうような中で、その恵みの嬉しさの味をわかっている人が、素晴らしい幸せな信仰生活を起こることができるのではないでしょうか。
旧約の御言書の中に、補正約の御言書が、御言書がこう叫んでおります。
21:00
さあ主に立ち返ろう、さあ主に立ち返ろう。皆さん、信仰の基礎に、基本に立ち返ろうではありませんか。
これこそ、自分を生かし、家庭を生かし、教会を生かし、この国を生かす、唯一の道ではないでしょうか。
さて、羊の中に、羊の群れの中に、羊だけあるのではないでしょうか。
他のイエス様の話を聞くと、羊の群れの中に羊もあるのだけれども、ヤギもそこに混ざっている。
羊は羊飼いの声が聞き分けられる。しかし、ヤギは分からない。
羊は主を知って、主の声を知って、主も羊を知っておられる。
しかし、ヤギとイエス様との関係は何の関係もないんですね。
ヤギは羊飼いを知らない。羊飼いの声も知らない。ついていかない。
もう勝手にですね、たまたまそこに混じっているだけなんです。
ところが問題は、そのヤギは自分が羊かと思っていることなんです。
実はヤギなのに、自分が羊だと思い込んでいるということなんです。
ところが皆さん、どんな教会が素晴らしい良い教会なんでしょうか。
と言ったら、もしも私たちの中で、かつて実はヤギのような神道だった。
角があってですね、この人落ち着いて、あの人落ち着いて、自分落ち着いていた。
ところがその人が恵まれて、主との深い恵みをいただいて、
そして本当に従順で恩順で、恵みに満ちた羊に変えられた。
これが恵みであり、これが素晴らしい教会ということであります。
だから私たちは皆、神の恵みを経験しなければならないんです。
ところで私たちの良き羊会であるイエス様は、羊である私たちのために働いて下さるということです。
羊会は羊のために働く。
どんなことをするんでしょうか。
28節を一緒に読みたいと思います。
よろしかったら一緒に読みましょうか。
私は彼らに永遠の命を与えます。
24:01
彼らは決して滅びることがなく、また誰も私の手から彼らを奪い去るようなことはありません。
まず羊会であるイエス様は、羊の私たちに永遠の命を与えて下さるということであります。
無条件の恵みであります。一方的な恵みであります。
そして私たちはこの永遠の命を信じる者には与えられている。
そしてその永遠の命をこの地上でも生きているうちにもその豊かさを、恵みを、力を、神の恵みを豊かに経験させていただくこと。
そしてやがてイエス様が再臨なさる時に、みな新しい天と新しい日において、
イエス様と神様と精霊様とすべての生徒たちと永遠に死を賛美して礼愛して生きることを私たちは待ち望んでいるわけであります。
その羊に与えて下さる、そのために常時間にかかって死んで下さったイエス様の恵みによって、私たちが待ち望んでいる新しい天と新しい地はどんなところなんでしょうか、皆さん。
言ってみた人、誰もいないですね。
ヨハネの目白をちょっと開きたいと思います。ヨハネの目白。
ヨハネの目白、新約の後ろのところです。ヨハネの目白、第21章、1節から7節。私の聖書では500ページです。
私たちが待ち望んでいるイエス様が下さった永遠の命によって、私たちが入れていただく新しい天と新しい地はどんなところなんでしょうか、1節から私は読みますので、聖書をお持ちの方はご覧ください。
また私は新しい天と新しい地と似た、以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた聖なる都、新しいエルサレムが夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神の身元を出て天から下ってくるのを見た。イエス様が来られるんですね。その日が来るということです。3節。
その時私は溝から出る大きな声がこういうのを聞いた。見よ、神の幕屋が人と共にある。神は彼らと共に住み、彼らはその民となる。この彼らは私たちですね。また神ご自身が彼らと共におられて。4節。
27:18
彼らの目の涙をすっかり拭いとってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものがもはや過ぎ去ったからである。
この死所での苦しみも全ては過ぎ去って、新しい日には神への素晴らしさだけがある。5節だけ一緒に読みましょうか。すいませんが。5節を一緒に。はい。
すると溝についておられる方が言われた。見よ、私は全てを新しくする。また言われた。書きしるせ、これらの言葉は真実べきものであり、真実である。アーメン。
イエスキリストが私たちへの永遠の命を与えてくださった。そしてやがて再臨の時には私たちを全てを新しくしてくださる。
この死所での辛い経験、覚えたくない経験、さまざまなそういった悲しみ、辛さ、憎しみ、そういったものすべて消えて、全く新しくされることであります。
皆さん、羊はこの時を、この日を待ち望みます。今日のこの牧師録のこの御言葉を待ち望んで信仰を持ってアーメンとして受け入れようではありませんか。
羊はこの日を待ち望んでいます。死体を求めます。なぜなら、この地上での人生より良い牧師であるイエス様と共に暮らすこと、生きることが、もっと幸せであることを信じてまず望んでいるからなんです。
だから、羊の生徒は新しい天と新しい地を待望します。だから、この地上のものに羊は未練や愛着なんてない。
もう一つ本文に戻りまして、良い牧師であるイエス様は羊のために何をなさるのでしょうか。28節の後半のところを見ると、
彼らは決して滅びることがなく、また誰も私の手から彼らを奪い去るようなことはありません。29節の後半にもありますね。誰も私の父の身手から彼らを奪い去ることはできません。
30:10
つまり、神の身手、神様とイエス様とは一つですから、神の身手を持って自分の羊を必ず守ってください。何からでも誰からでも自分の羊を引っ張られる、奪われる、そういうものはないんです。
何でしょうか。羊の私たちは神のものなんだ。そして愛しているから、私たちのことが大好きだから、もう取り上げられたくないんです。必死で守る。
うちに結構前、出張に行って、空港でちょっと事件があって、あんまりそんなことはしないんですけど、UOキャッチャーをやったことがあるんです。恥ずかしいな。
UOキャッチャーをやって、それがちょっとリニューアルされたみたいなんで、それでお家に子どもが3人もいるから、ちょっとコツを教えてあげたら、なぜかその店員の女の子がコツをいろいろ教えてくれて、
あのときに、たぶん1、2年前ですけど、夏ぐらいかな。その中のキャラクターのヨシという緑の恐竜みたいなあれがあるんです。ヨシ。
ヒソンがそれが大好きなんですね。毎日それをね、6年生の男がね、毎日それを抱っこして寝て、いつもそれを持って枕にして、それを上野姉が大嫌い。それをね、こっそりね、それを隠したり引っ張ったりですね。もう必死にそれを守る。大好きみたいなんです。
皆さん、イエス様は私が大好きなんです。誰からも何からも奪いされるように許すこと、油断することはないんです。それが私たちが信じる神です。
イエス様は命を捨てるほど愛してくださるから。羊のために命を捨てるのは本当の羊一人しかいないんです。イエス様は私の魂を守ってくださる。家庭を守ってくださる。教会を守ってくださる。祝してくださる。
なんででしょうか。イエス様も羊だから。羊が偉いからではないんですよ、実は。ただ、イエス様は良い牧舎だから、忍耐をもって、愛をもって、大切にしてくださる。
33:17
皆さん、この地上に生きている私たちが不安を感じさせられるようないろんなことがたくさんあるかなと思います。体や精神の弱さもあったり、病気もあったり、死ぬこと、事故、世界的には戦争や貧乏や様々なことが起きたりします。
そんな時には、私たちの精神や心が、体が、生き方が、進度するように揺れてしまう時がたまたまあるかもしれません。ある時には結構揺れていても、よく耐えてうまく乗り越えられる時もありますけれども、ある時にはもう本当に耐えられない。
もう負けたような気がする。とてもしんどくて、希望も全部失ってしまったような気がする。そして何もできないような気がする時も、実は我々にあるんですよね。しかし、皆さん心配しないでください。
今日のこの28節をぜひ覚えていただきたい。もう暗唱していただきたいんですね。聖書の言葉はたくさんいいんですけれども、その中に本当に私たちに力になる、恵みになる言葉があるんですが、それを暗唱したらいいんじゃないでしょうか。
28節、すいませんがもう一度一緒に読みましょうか、皆さん。意味を考えながらですね、もう一度読みましょう。
3、私は彼らに永遠の命を与えます。彼らは決して滅びることがなく、また私の手から彼らを奪い去るようなことはありません。
皆さん、このイエス様の言葉を信じますか。羊のために、誠の唯一の本当の羊飼いは、命を捨てて、何がどうあっても必ず守ってくださるんです。
ところが、そこで一つ私たちが知っていただきたい、また気をつけていただくことがあります。それは、イエス様の川からは、神様の川からは、羊を必ず守ってくださるんです。
しかし、羊が羊飼いを捨てて、もう行ってしまう。離れてしまう。あなたは今日から私の羊飼いではありません。もうやめます。離れてしまったら、そしたらその関係は切れてしまうので、羊飼いも羊を実は守ることはない。
36:13
それを信仰に当てはめて考えるならば、私たちは信仰によって救われ、永遠の命が与えられ、神に守られる。
危険から、獣から、必ず羊飼いが必死に守っていく。時には洋服足をする。
もう熟する時には、こういうちょっと陰のところにコーラ穴があると、そこに羊全部入れるんですって。夜にですね。
そうすると、入り口があるわけなんですね。そこに羊飼いが横になって、自分が門になるわけ。
そして、獣が入ってこないように、羊飼いが勝手に出れないように、そういうふうに身をもって守るほど助けてください。
しかし、そこから羊飼いが逃亡してですね、逃げてしまうならば、羊飼いとの関係がもう切れてしまう青党なんです。
信仰的に考えますと、我々は信仰によって恵みのゆえに救われ、しかし信仰によって救われた人には、その信仰にふさわしい身を結ぶのです。
羊は羊らしく歩みます。それをイエス様は、マタイの福音書7章に、こういうふうに語られました。
ちょっと開きましょうか。聖書をお持ちの方。すいませんが、マタイの福音書7章、17節から読みたいと思います。
聖書の新訳の12ページです。
同様に、良い木は皆良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
良い木が悪い実をならせることはできないし、また悪い木が良い実をならせることはできません。
良い実を結ばない木は皆切り倒されて火に投げ込まれます。
20節一緒に見ましょうか。すいません。お願いします。
こういうわけで、あなた方は、実によって彼らを見分けることができるのです。
イエス様が語られました。その実を見ればわかる。
信仰の行いを見れば、これが信仰からきたのかどうかわかる。
39:03
見分けるということであります。
一軸の火からは、一軸の実が結ぶ。
実によって彼らを見分けることができるという御言葉をぜひ覚えていただきたい。
そして、救われた者として、その信仰にふさわしい生き方を、
力、力いただいて、恵めいただいて、会いましていただくことではありませんか。
終わりになりますけれども、羊飼いであるイエス様は、私たちを守ってくださる。
何がどうあっても必ず守って祝福してくださる。
時にはイエス様は代わりに重荷を背負ってくださるから、
私たちの肩こりから、私たちを守って軽くしてくださる。
私の前に荷を下ろしなさい。重荷を下ろしなさい。
私が背負うからね。そして私があなたをおんぼするからね。
皆さん、何かの重荷で疲れているでしょうか。気が重いでしょうか。
どうしたらいいのか、迷っているんでしょうか。
イエス様にあなたの重荷を下ろそうではありませんか。
今日の最後の御言葉の最後のところを一緒に読みたいと思いますけれども、
ユハネノ福音書、今日の述書の最後の29節。199ページです。
ユハネノ福音書、第10章、29節です。199ページ。
すみませんが一緒に読みましょうね。29節。
私に彼らをお当たりになった父は、すべてに勝って偉大です。
誰も私の父の御手から彼らを奪い去ることはできません。
ここにね、すべてに勝って偉大です。何がですか。
神の御手の力か。その御手をもって私たちを守ってくださる。
だから何もその神の御手の力より偉大なものはないから。
神様がどうか皆さん日々の生活の中で、このすべてに勝って偉大である神の御手の力、その恵みを、喜びを、安全さを経験していただきたい。
喜びを味わっていただきたいと願っております。これが信仰の道であります。
どうかこの真理の御言葉を信じていただいて、
今日もこの一週間も、良き牧舎である家様の声を聞いて、従って、主を知って、そして主も私を知って、
42:07
共に交わりを持って、この恵みの道を共に歩んで参りましょう。
お祈りします。
42:17

コメント

スクロール