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ねえ、感謝します。
皆さん、おはようございます。
2週間ぶりですね。感謝いたします。
暑い夏も過ぎて、9月になりましたけれども、今日はちょっと朝は暑いですけれども、このように共に忍前に集まって礼拝できますことを感謝いたします。
それでは、メッセージの前に、隣の方に挨拶をしましょうか。
はい、それでは一言、祈りさせていただきます。
これは、あなた方のための私の体です。私を覚えてこれを行いなさい。
アメン。
今日は、聖餐、聖日、礼拝、また、ちょうど、孤立人々への手紙も、聖餐の成功に至りました。感謝いたします。
この朝、主が私たちを愛しておられる、その愛のメッセージを、あるいは教訓、あるいは今しめのメッセージを、この朝、主の御声に心を傾けていただきます。
そして、従い、また、神に満たされ、イエス・キリストの十字架のお恵みに預かるこの時を、主をどうぞ、あなたが豊かに祝福してくださいますように。
イエス・サマーの皆によってお祈りいたします。
アメン。
はい、後ろのドアを閉めていただけますか。
今日は開かれています、この孤立人々への手紙のところから、主の十字架を記念する聖餐の恵みという題にして、共に恵みをお受けしたいと思います。
まず、次のようなお話で、聖餐について一緒に考えてみていきたいと思います。
あるお家に、四、五歳ぐらいの子供がいました。
その子供は、自分の部屋で一人で寝るんですけれども、いつもそれが怖いんです。
それでですね、お父さん、お母さんがいる部屋にいて、お父さん、怖いよ。部屋にお化けがあるよ。
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そして、お父さんは子供を連れて、子供の部屋に行って、電気をつけて、ほら、誰もいないでしょ。
家様が、誰々ちゃんと一緒におられるから、怖くないよ。
さあ、すると、その子供が泣きながらこう言いました。
僕は、見えない家様じゃなくて、見える家様が欲しいよ。子供だけでしょうか。
私たちも、実際に、共にいてくださる家様、見える家様、触れる家様が欲しいかもしれない。
ところが、皆さん知っていますか。その希望は、既に応えられているんです。
生産を通して既に応えられる。
神なるイエス・キリストは、私たちとまったく100%同じ、100%の人間の体として、ジュニックされました。
ところが、イエス・キリストのこのジュニックのインカーネーションと言いますね。
このジュニックがなぜ大事なのかを申し上げますと、
イエス様は神様であられますね。
私たちが見ることができませんし、触ることができない霊なんです。
しかも、聖なるお方だから、汚れた私たちは見ることができない。
光る太陽すら、まともに見られないんじゃないでしょうか。
ところが、その神なるイエス・キリストが、私たちが見て、私たちが触れる体をもって、人間としてお生まれになった時。
ところが、それは2000年前のお話なんですね。
ペペロタキはイエス様たちから見ましたし、一緒にお話できたし、触ることもできていません。
イエス様は今はこの地上におられない。
私たちと同じ体としておられないわけです。
なぜなら、そのイエス様のジュニックは、イエス様が天に昇られたこととして、もう既に完了しました。
今、イエス様は神の右の座に座しておられ、礼でおられるということです。
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ところが、そのイエス様のそのジュニックの恵みが、今日はこの聖三式、聖三を通して今もなされているということです。
つまり、もっと簡単に言いますと、この聖三式を通して、私たちはジュニックされたイエス様にお会いするということです。
ある先生はこういうふうに、これを表現しました。
聖三は、私たちがイエス様と口づけすることであって、抱きしめることだと。
まさにそうだなと思いました。
皆さん、聖三にはイエス様が直接に、これとこれは私の体だと言われたことがあります。
何と何でしょう。
イエス様、これとこれは私の体ですよと言われたことがあります。
二つあります。何でしょう。
まず一つは、境界。境界は私の体。
イエス様がこちらであって、境界は体で、私がその核を使う枝なんですよね。
もう一つは、今日の二十四節をご覧ください。一緒に読みたいと思います。二十四節。
おじさんさん、感謝を捧げてのし、それを先、こう言われました。
これはあなた方のための私の体です。私を覚えてこれを行いなさい。
そうなんですよね。ここにイエス様が言われました。
これは、つまりパント、武道士、生産、これは私たちのためのイエス様の体です。
すなわち、神なるイエス・キリストは受肉されましたけれども、
今は境界を通して、そして生産を通して、私たちのところに受肉しておられるということです。
共にいてくださるということです。
だから私たちは、境界を通して受肉された、いつも共にいてくださる、世の終わりまで共にいてくださるイエス様に日々お会いできるのです。
そして、この生産を通してイエス・キリストにその度にお会いできるのです。
今日はですね、四つでこの生産の恵みを共に考えていきたいと思います。
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まず一つ目、私たちは生産を通して神の愛を味わいます。
今日も皆さん、生産を通して神の愛を味わっていただきたい。
ではその愛はどんな愛なんでしょうか。
その愛は、永遠から永遠まで私を愛してくださる愛。
無限なる愛。限りのない愛。
許して、許して、許して、許して、許して、許してくださる。
愛を私たちはこの生産を通して喜び、味わう、受け入れられます。
皆さん、子育ての昔の時、あるいは皆さんが小さい子供の時のことを、何かですね、お父さん、お母さん知らずうちに悪いことをしてしまった。
例えばどうかな、カビのカシャンとね、割ってしまった。
そろそろお母さん、お父さんが帰ってくる時間になる。ドキドキするわけなんですよね。
そして、うわぁ、怒られたらどうしよう、怒られたらどうしよう、許してくれなかったらどうしよう、ドキドキするわけなんですよね。
ところが、お父さん、お母さんが帰ってきて、その割れたカビのことは全然言わない。
カビのことは全然言わない。せかしてないの。何も言わないで、ただ自分の子供を抱きしめてくれる。
大丈夫よ、カビよりあなたが大切だからと言ってくれる。
許されたんですよね。そしたらもうとてもうれしいじゃないでしょうか。
生産は私たちが自分を許してくださる家様に抱きしめられる時なんです。
その家様に口づけられる時が生産の恵みである。
二つ目、生産を通して私たちはイエス・キリストの恵みを味わいます。
イエス・キリストの恵み、どんな恵みなんでしょうか。それは考えてみてください。
イエス様は神様なんですよね。その神様が天皇ミザを捨てられて、創造主が地上物になられた。
聖なる方が穢れた地上の人間の体になられたということである。
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これは恵みなくしては決してありえない。恵みなくしてはしないことであります。
例えば皆さんが日本のある有名な大学の創造先生です。
ところがあまりにも仕事が多くて苦手なのにまともに入れ替えできない。
それでも日の限りにこの大学の創造を辞める。
例えですよ。大学創造の地位はとても名誉ある生意でないでしょうか。
でもそれを辞めるということです。
イエス様の受肉はそれより何百倍何十万倍以上の恵みであります。
ありえないことが起きた場である。
私たちに恵みを与えて愛しておられるか。
神なるイエス・キリストが神の地位を、その名誉を、誉れを捨てられて、
捨てられて、ちくき身分、ちくき人間、汚れた人間としてお生まれになった。
恵みなくしては決してありえないことである。
ですから私たちは聖山を通して神の天の御座をお捨てになり、
ちくきこの地の住人のような人間の体として受肉されたイエス様の恵みを喜び味わうとき、
それが聖山式である。
三つ目、聖山を通して私たちは聖霊様の働きを味わいます。
聖霊様のどんなお働きなんでしょうか。
これらすべてを悟るように、受け入れるように、私たちの魂に心の中にそれを適用してくださって悟らせてくださる恵み。
それが聖霊の恵みであります。
四つ目、最後ですけれども、聖山を通して私たちが一緒にあって一つであること、
いやまずイエス・キリストと一つであることを確認するときであります。
同時に感謝するときであります。
教会は、聖徒は、ともに聖山を取りおこえないながら、
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ともにキリストの体を記念するパンをお受けし、
キリストの十字架の式を記念するブドウ汁をお受けしながら、
イエス・キリストのゆえに一つになること、
いやもう既に一つになっていることを再確認するときが、感謝するときが聖山であります。
私が地産にいるときに、資本の教会は大きい教会ではできないんですけれども、
日本語部礼拝は聖山式のパンを丸々一つのパンにしました。
何のパンだったかな、スポンジケーキみたいなパンを丸々一つにして、
それを回すときにそれを一人ずつちぎっていただく。
それはキリストの体一つを意味するというところもあるかなと思いますけれども、
そのやり方はもちろんいろいろあるかなと思いますが、
その精神はキリストと私たちは一つであること。
教会は一つであること。
主にあって神様をお父さんとして、私たちは兄弟姉妹として一つになるということであります。
それを確認する。神の家族であることを確認する。
だからある教会の名前は神の家族なんとかキリスト教会とか、そういう教会は日本に結構ありますよね。
いい名前かもしれない。
ところがここでもう一つ考えていただきたいことがあります。
この神様の愛、家様の恵み、精霊様の幼き、あるいは教会生徒の一つになるということは、
既にこの旧神薬聖書に既にすべては記されているものであります。
全く新しいものだったり、どこかにですね、聖書にもないものではないんですよね。
なら、もう聖書の御言葉があるのに、なぜこの聖参式は必要なのかということであります。
一から聖書をいただきましょうか。
まず、神薬聖書の魔界の福音書、最後の20節を一緒に読みたいと思います。63ページです。
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もう一度。
また、私があなた方に命じておいたすべてのことを守るように彼らを教えなさい。
見よ、私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいます。
そして、家様が天に昇られたんですよね。
さあ、家様が見よ、私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいます。
ところが、身体はおられないんです。見えないんです。
でも、家様は世の終わりまで共にいますよ、とおっしゃってくださった。
ところが、いくら何度も、私はあなたと共にいるよ、共にいるよ、共にいるよ、と言葉で説明しても演説をしても、
こうして理解してほしいと説得するのではなく、
家様は生産を制定されて、そしてこの生産式を通して、私たちに、私はいつまでもあなた方と共にいますよ、とおっしゃってくださって、抱きしめてくださって、口づけてくださる、その時が生産式であります。
家様は、ですたしに、見よ、私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいます。
ということを、言葉によるのではなく、生産式を通して、私たちに示してください。
言葉で言わなくても、イエス・キリストの現在の真意が、生産を通して、私たちに伝わっていることであります。
ですから皆さん、生産は、私がいつも共にいてくださるイエス様と、より口づけをする時であって、イエス様に抱きしめられる幸せな時であって、平安の時です。
生産は、一つの体になることです。一つになることです。
私たちが主のお腹にとどまり、主が私たちの内にとどまる時です。
いや、とどまっておられることを再確認する時です。
これは言葉では、もう説明しきれないことです。
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もっとわかりやすく言いますと、生産式は、生けるイエス様と共に食事する時です。
さあ、一箇所、精査していただきましょうか。
ヨハネの黙示録、3の2つ説、新約聖書、480ページです。
黙示録、3書、2つ説、一緒に読みたいと思います。
3、はい。
皆さん、この御言葉の増重が生産式であります。
つまり、イエス様が私たちの内に入ってくださって、共に食事をしてくださる、交わりをしてくださる、
つまり、食事をするというのは、家族であるということです。
ですから皆さん、生産式は、受肉されたイエス様が、十字架の上で、私たちの全ての罪をあがなうために、
裂かれて、死なれて、そして、よみがえられたイエス・ヒリストにお会いする時であります。
イエス様の臨済の時が生産式である。
神の臨済が生産式である。
三名一体の神様にお会いして、共に食事をする、共に強い口づけをする、抱きしめられる時、それが生産である。
だからイエス様が、永遠に祈願としなさいと言われたわけであります。
メッセージを終わりたいと思います。
今日は生産式を取り行います。
今日の生産式を通して、三名一体の神様と共に一つになる恵みをお受けしたいと願っております。
お祈りいたします。