死とは何か
みなさん、おはようございます。
短くお祈りをして、そこからメッセージに入りたいと思います。
一言、お祈りをさせてください。
愛する天の父なる神様、今日も主の御前へと私たちを招いてくださって、ありがとうございます。
本当に、主の初めに、私たちは礼拝においてあなたを奥義、
今一度、本当に様々なことがある私たちの人生の中においても、
主が私たちを本当に心から愛し抜いてくださっていること、
あなた御自身の恵みによって持ち運んでくださっていること、
その恵みに、あなた御自身に目をとめて、あなたを仰ごうとしています。
どうか、このひとときを導いてください。
あなたが私たちに限りない愛を、あの十字架によって表してくださいました。
十字架において流されたイエス様の血汁において、私たちの罪が完全に許され、
三日目に甦えられた命を通し、私たちに今も主と共に生きる永遠の命を与えてくださいました。
本当に主よ、あなたを仰いでいます。
あなた御自身が本当に豊かで愛にあふれた方であることを、このひとときも表してくださいますように。
ここに来たくても来れない方がいらっしゃいます。
家で礼拝を守っておられる方、施設で礼拝を守っておられる方々がいらっしゃいます。
神様、お一人一人に届いてくださいますように。
また今、イスラエルでは戦争が起き、ウクライナでもその戦争はとどまっていません。
日本においても様々な問題がなおもありますし、
松下において傷ついている方々もいらっしゃることを覚えますが、
神様がその痛みのうちにいてください。
お一人一人を慰めてください。
どうかこの戦争において、本当に命を落とす方々、本当にあなたが守ってくださいますように。
お願いいたします。
これからの時をあなたに委ねます。
どうか主が立ち、私たちを導いてください。
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
ファミリーウエルカム礼拝にようこそおおいでくださいました。
心から歓迎をいたします。
この礼拝は年に数回、機会を設けて、できるだけ私たちの身近なテーマを設定して、
それを聖書ではどう言っているのかなということを一緒に聞こうとしている、そのような礼拝です。
今朝は一つのテーマを設定をさせていただきました。
チラシにも書きましたが、死を超える希望というテーマです。
いわば今朝ご一緒に見つめたいのは死というものなんです。
どうでしょうか。死という言葉を聞かれて、もしかしたらドキッとされる方がいらっしゃるかもしれません。
私たちはおそらく意識的にか無意識的にか分かりませんが、
死を見ないように、もしくは死について考えないようにしたい、
そういうお互いであるかもしれません。
しかし、これはどう表現していいかなとつくづく思いますが、
ただ厳然たる事実として思わされるのは、私たちは誰しも必ず死を迎えるということです。
そしてそれは究極的にはいつ、どこで迎えるかということは、誰にも分からないということです。
人生には何が起こるか分かりません。
私は今年で36歳になる人間なんですけれども、
ただ私がこの場にいる方々の誰よりも長く生きれるという保証はありません。
明日何があるか分からない世界に、
今日何があるか分からない世界に私たちは生きています。
そしてそれ故に、ある種私たちが生きているということは、
とても当たり前のことではないわけです。
尊いことです。
そして同時に、私たちが生きているということには、
常にどうしても死というものが隣り合わせにある。
その事実もまた否定できないと思うんですね。
チラシに少し書かせていただきましたが、
古代から実は死をめぐって、ヨーロッパの方ですけれども、
メメントモリという言葉がございます。
これは古代ヨーロッパから言われている言葉ですけれども、
意味としてはラテン語なんですが、
死を意識して生きなさいという言葉です。
死を意識して生きなさい。
調べてみますと、一説では、
とある修道会では、このメメントモリという言葉が、
お互いへの挨拶の言葉として使われていたということが
記録されているらしいんです。
お互いにおはようの代わりにメメントモリという、
死を意識して生きようと互いに言い合っている。
おそらく中世の時代でしょうか、
飢餓や戦争において命を落とす人がたくさんいた。
人々は多くの死を目の当たりにしながら生きてきた。
そのような中で、ある種メメントモリと挨拶をする。
死は誰も見たくはないわけです。
しかしながら、ある種その挨拶の言葉の中に、
私たちは死から目を背けるだけではどうしようもないのではないか。
ある種それは死に向き合い、死に備えるという意識を持っていたのかもしれません。
これは私たちにとっても大切なことなのです。
死は見つめたくありません。
しかしやはり避けられない事実として、
死を見つめ死に備えるということがもしかしたら必要なのかもしれない。
では死に備えるとはどういうことなのでしょうか。
ちょっと重たいテーマですね。
言葉にしづらい話をしていくかもしれませんが、
しかし勇気を持って語りたいと願っています。
今朝は死とは何か。
そして死への希望とは何なのか。
聖書が何を語っているのか。
そのことを一緒に見ていきたいと願っております。
先ほど聖書を朗読してくださった方に、
2ヶ所を読んでいただきました。
最初のヘブル人への言葉に少し目をとめてみたいのです。
このヘブル人への手紙の最初に読んでいただいた9章の、
今日は26から28を読んでいただきましたが、
特にこの27節の言葉。
ヘブル人への手紙の9章の27節の言葉というのは、
死への希望
どちらかというと聖書の中では珍しいほどにはっきりと
死について、そして死の先に何があるのかについてはっきりと語っている言葉です。
27節をお読みしますと、こういう言葉があります。
そして人間には一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっているようにと、
そのような言葉があります。
死ぬことと死後に裁きを受けること。
ある種これはとても厳粛な言葉です。
人は死を迎えます。
そして死を迎えた後に聖書が語ることには、
私たちは私たち一人一人の命を創造し、
私たちの人生をこれまで見つめてこられた神様の御前に一人一人が立たされるということです。
裁きという言葉は近しいニュアンスでお答えするならば、
法廷ということなのかもしれません。
神様の御前に私たちは自らがどのように歩んできたのか、
ある種その人生の総決算と申しましょうか、
そのようなことを迎える時があるということです。
そしてその時にある種これも厳粛な事実ですが、
私たちが神様の御前に立つ時、それは一人だということです。
何かをそこに持っていくことができるわけでもなく、
しかし誰かが私をそこで支えてくれるわけでもなく、
私たちは私という存在と神様という存在の前に、
その私という存在が立たされるということを少しだけ怖い気がします。
ただ死にある種向かっていくということは、
いろいろな表現の仕方があるかもしれませんが、
このような表現の仕方がされることがあります。
それは死に私たちが向かっていくということは、
一人になっていくということである。
一人になっていくということである。
そういうのかもしれません。
一つだけご紹介をさせていただきますと、
福岡県というところに、
皆さんご存じですね。
福岡県に栄光病院という病院があります。
栄光ですね。キリスト教ではよく言う栄光ですけれども、
栄光病院という病院があります。
その栄光病院というのは、
日本で最大のホスピスケアをやっている病院なんです。
ホスピスというのは簡単に言うならば、
これは終末治療ということですよね。
終末治療です。
つまり病状がもはや末期の状態になってしまっている方々に対して、
延命治療だけではなく、
ある種死という現実と対峙しながらも、
その死を丁寧に迎えていくことができるようにサポートをするという、
そういう領域です。ホスピスです。
日本で走り出しというか、
そういう形でホスピスを始めたのは、
一人のクリスチャンの先生によって始められました。
ここに本があるんですが、後で後ろに置いておきますが、
下稲葉康幸先生というお医者さんなんです。
この先生が、幸福な死を迎えたい栄光病院ホスピスの現場からという本を書いておられます。
この本の中では、実にホスピスの現場から、
多くの方々の最後を一緒に医者として見取った先生の経験が書かれてあります。
ある種それは、死とは何か。
そして死という現場において、
一体何が本当の希望になり得るのかということです。
先生は本の中で、死に私たちが向かうときに、
4つほどのある種痛みを経験するとおっしゃいます。
この理解というのは、WHO、世界保健機関ですけれども、
世界保健機関でも、おそらくこの4つの種類のケアが必要だろうということが
認められているものです。
1つは、私たちは死に向かうにあたって、
身体的な痛みを経験する、病気によって痛みを経験する。
そして2つ目は、精神的な痛みを経験する。
自分が健康なときとは精神状況が変わるので、
様々な不安がある。痛みを経験する。
そして3つ目には、社会的な痛みがある。
今までいろいろな人間の関わりの中で、いろいろな仕事の関係の中で
自分は生きてきたけれども、死に向かうにつれてその関係が
一つ一つ経たれて、本当に一人になっていってしまう。
そのような痛みがある。
もう一つ痛みがあるというのです。
それは何かというと、4つ目は、霊的な痛み、
スピリチュアル・ペインというものがあるといいます。
これは認められているのです。
スピリチュアル・ペインとそれは何か。
こう説明されます。
自分の死に向き合うことに由来する魂の痛み。
自分の死に向き合うことに由来する魂の痛みといわれます。
いわばそれは、誰しも説明ができないことなんです。
自分はこの先どうなっていってしまうのか。
私という存在はこの先にどうなっていくのかわからない。
根源的な不安がある。
様々な形でその痛みが現れてくるとおっしゃいます。
例えばそれは、私は生きている間に許されたいんだという思い。
私は許されたいという在籍感に囚われるという人が例えばいます。
孤独感であったり疎外感に傷つくということがあります。
そして先ほど申し上げましたが、
死の先に何があるかわからないという不安がある。
ホスピスの現場ではこのようなそれぞれの痛みに合わせてケアがなされます。
身体的な痛みに関しては病状に合わせた医療マネジメントというものがなされますし、
精神的な痛みに対してはその痛みに寄り添うカウンセリングやコミュニケーションがしっかりとなされていきます。
社会的な痛みに対しては最後までご家族との関係の中でその人が最後を迎えられるように家族のケアをしていく。
そのようなことがなされていく。
栄光病院での聖書の希望
しかし4つ目です。
この4つ目の霊的な痛みにはいったい何ができるのでしょうか。
死への根源的な恐れに対して何ができるのでしょうか。
この病院ではこの霊的なケアとして聖書の希望が語られるんです。
聖書の希望が語られる。
下稲葉先生はお医者さんなんですけれども、実は新学校を出た牧師になってもいいような先生で、
よく聖書のことを精通しておられる方で、
下稲葉先生はある種賛美歌と聖書の言葉を通して、
聖書が語る希望を患者さんたちに語っていかれるんですね。
でも、小難しいことは言わないんです。
一番最初の切り出しはこういうことをおっしゃられるそうなんです。
それは患者さんに対して、まさに死に対して不安を感じている患者さんに対して、
こうおっしゃられるそうです。
大丈夫ですよ。イエス様におすがりすれば、必ず天国に迎えてくださるよと。
それだけなんだそうです。
大丈夫ですよ。イエス様におすがりすれば、必ず天国に迎えてくださるよと。
その一言から始まっていかれるそうです。
でも私は牧師として、まさにその通りだなと思わされます。
聖書が語る死に対する希望、それは先日めて申し上げるならば、
死に対して、いや、大丈夫ですよと聖書が語っているんです。
イエス様による希望の伝え方
大丈夫ですよ。
聖書にはいろいろな大丈夫について書いてあります。
例えば、聖書のお箇所を開きませんが、
例えばこういう大丈夫ですよがあるような気がするんです。
大丈夫ですよ。
あなたの人生にはいろんなことがあったでしょう。
それは良いことも、そして時には人にも言えない悪いこともあったかもしれません。
死を前にあなたはその在籍官に苦しんでいるかもしれません。
けれども、あなたの罪を全部背負って、
あなたの代わりに命を捧げられた、
あの十字架に命を捧げられたイエス様というお方がいらっしゃるんですよ。
大丈夫ですよ。
死を前にして親しかったあの人やこの人や家族が離れていってしまって、
孤独の中で寂しさを覚えて痛みを覚えてしまっていたとしても、
あなたは決して一人にはなりませんよ。
どんな孤独や疎外感を覚えても、
あなたを愛してあなたが死を迎えても決してあなたを手放さないイエス様というお方がおられるんですよ。
創生書は語ります。
もう一つ、大丈夫ですよ。
死の先に神様の前にあなたがたとえ一人で立たされることになったとしても、
大丈夫ですよ。
そのあなたのかたわらに一緒に立ってくださるお方がいる、
イエス様というお方がいらっしゃるんですよ。
聖書が語る大丈夫ですよというのはきっとこういうことだと思うんです。
大丈夫ですよと。
聖書が語っている希望とは教会が掲げている十字架に関係をいたします。
何度も申し上げて恐縮ですが、
しかし私たちは互いにいつか死を迎えます。
その時に神様の御前に一人立たされると聖書は述べます。
そこで死の御前に総決算がなされる。
私も含めてそうですが、
良いことばかりして生きられる人間などいません。
ある種それは、いろいろな矛盾であったり問題であったり、
もしかしたら追い目を抱えながら、
私たちは互いに生きていくお互いだと思います。
しかし、そのような罪や罪責感を抱えて、
神様の御前に私たちは立ち往せるでしょうか。
聖書は語ります。
私たちがその罪のために、神様の御前に滅んでしまわないために、
神の愛と永遠の命
そして私たちが死の先に天国へと向かうために、
私たちを愛して、その罪の全部を背負って、
あの十字架で血を流し、命を捧げられたイエス様がおられるんですね。
そしてイエス様は死から三日目によみがえり、
今も私たちと共に歩み、私たちの人生をいかなる時も支えてくださる。
そう聖書は語ります。
そして聖書は、このイエス様を信頼するならば、
まさにおすがりするならば、
私たちの罪は、あのイエス様の十字架の血潮によって完全に許される。
そしてあなたはもはや財政機関を抱える必要など何一つない。
あなたは神に罪許された神の子としてこの世界で、
そして死の先も生きていくんですよ。
それが聖書の語る福音です。
そして最初のヨハネの3章の16節、
今日の礼拝の最初に読みましたけれども、
永遠の命が私たちに与えられると聖書は語ります。
永遠の命というのは死んだ後にずっと生き続ける命というイメージではなくて、
どちらかというと永遠の命というのは、
永遠なる神様と結び合わされた命のことを言うんです。
それはこの世界で生きている時もそうだし、
この世界を終えて死を超えたとしても、
私たちと神様の愛の結びつきは絶対に切れないですよ。
だから天国という場所へと行くんですよ。
それが聖書の言葉だと思います。
下稲葉先生が語られた言葉の通りかと思います。
大丈夫ですよ。
イエス様におすがりすれば必ず天国に迎えてくださるよと、
その言葉の通りだなとつくづく私自身も思わされます。
もう一つお読みいただいた聖書の言葉にも聞いて、
もう中盤を終えていきたいと思いますが、
もう一つ読んでいただいた聖書の言葉は、
ローマ人への手紙の8章の38節、39節というところでした。
もう一度お読みしますと、こういう言葉ですね。
ローマ人への手紙の8章の38から39、お読みします。
私はこう確信しています。
死も、命も、見つかりたちも、支配者たちも、
今あるものも、後に来るものも、力あるものも、
高いところにあるものも、深いところにあるものも、
その他のどんな秘蔵物も、
私たちの主キリストイエスにある神の愛から、
私たちを引き離すことはできません。
死も、命も、私たちの主キリストイエスにある神の愛から、
私たちを引き離すことはできません。
と聖書が語ります。
この言葉自体をしたためたのは、実はパウロという人物でした。
この人は、簡単に言うと、とても苦労した人です。
もともとパウロという人は、イエス様のことを信じていないどころか、
敵としていたんですね。
敵としてイエス様の弟子たちを迫害していた人です。
しかし十字架で死んだ後、イエス様が三日目に甦えられて、
パウロがイエス様の弟子たちを迫害していたときに、
死から甦えられたイエス様とパウロは出会って、
パウロはイエス様を信じるようになるんですね。
そしてイエス様を信じ、イエス様を愛していく中で、
彼は徐々に徐々に彼の生き方も変わるんですが、
同時に彼は多くの人たちから苦しめられ、
命を狙われ、最後はこの手紙のタイトルになりました、
ローマというところで、極の中で彼は刑を執行されて死んでいきます。
けれども、まさにこの死を前にした彼自身、
彼はその死を前にしても言うのです。
いや、死によってしても、神と私の愛の喚起を引き放すことなどできない。
人生にはいろんなことがあった。
でも最後の希望は、最後の最後の希望は、
この私のことを神は手放さないんだという希望しかない。
そうなんだと彼は言うのです。
先ほど死の先に神の裁きに立たされるとヘブル人への手紙を読みました。
裁きの座につかれる神様はどういう顔をしているでしょうか。
私たちよく想像するのですが、
ものすごく厳しい裁判官のような顔をしているようなイメージをするのです。
でもそうではないのだと思うのです。
これは昔聞いた令和ですけれども、ある先生がこうお話をされました。
裁きの座につかれている神様はどのような顔をしているだろうか。
それは神様の目には、
全ての人が、一人一人の命が神様の手によって作られた大切な存在なんです。
全ての人を神様は愛しておられる。
そして神様の御前に一人一人が人生の創付決算を迎える。
神様は愛なるお方ですから、愛の眼差しをもってその人を見つめるのです。
しかし同時に神様は義なるお方、聖なるお方だから、
その人自身の罪を見逃すということができないのです。
もしも神様が裁きを下すときに、
おそらく神様がその罪を、私たちの罪を見つめるときに、
鬼のような顔をしているのではないのです。
きっと悲しそうな顔をしているのだと思うのです。
なぜあなたは私が御子イエスを、あなたの罪も背負って十字架で血を流した、
そのようなことまでしたのに、なぜあなたはこのイエスを信じなかったのか。
そして同時にこういう例もお話しされました。
イエス様を信じて神様の御前に行く人。
神様の御前には、私たちのこれまでの歩みがすべて明らかにされていきます。
罪に対して見逃すことはできない。
神様は悲しい顔をなされる。
しかしそのときに、私がイエス様を愛していた、
その愛していたイエス様が私たちの傍らに立たれるのです。
そして十字架のために釘で打ち抜かれた御自身の手のひらを、
父なる神様にお見せになられて、
父よどうかこの人のことを許してあげてください。
この人が様々な罪があったでしょう。問題もあったでしょう。歪みもあったでしょう。
言えないこともあったでしょう。
でもその罪のために、私がすでにあの十字架で血を流したのです。
私がこの傷跡がその証拠です。
神様どうかこの人の罪を許してあげてください。
私がその罪をすでに背負いました。
そのようにイエス様が言われる。
その言葉に父なる神様は悲しみから喜びの川へと変わります。
ああ、この子は死んでいたのに生き返り、いなくなったのに見つかったのだと。
その人はイエス様と共に天のみくねへと入っていく。
まさにイエス様におすがりすれば必ず天国に迎えてくださるよ。
その通りにです。
最後に一つのお話をして終わりたいと思います。
先ほど栄光病院のことをご紹介いたしました。
この本また置いておきますので見ていただいたらと思いますが。
この栄光病院で最後お迎えになられた一人の方のストーリーが書かれています。
俊夫さんという方の証なんですけれども。
この俊夫さんという方について少しお話をして終わりますが、
この方は51歳の若さで末期の肺がんになられました。
ホスピスに運ばれてきて。
この方の人生というのはこれまで自動販売機の会社の社長さんをなさっていたんですね。
脇目も振らずに一生懸命この会社のために働いてこられた。
けれどもやっと会社が軌道に乗り始めたと思った矢先に
この末期がんが知らされた。
結婚はなさっていました。
けれども夫婦仲もなかなかうまいこといかず奥様とは離婚をなさった。
一人娘がいましたが、一人娘は奥様と一緒に住むことになって
この方は最後まで一人、最後奥さんが来るんですけども
一人でこの病気を受け止めなければならなかった。
肺がんが末期と知らされた後、この方は気丈にもあまり取り乱すことなく
粛々とご自身の人生の整理をなさっていくんですね。
会社をその後どなたかに譲って、自分のための脳骨動も準備をされるのです。
年老さんの信仰の深まり
しかし粛々と準備をしていく中でも最後までこの死に対する不安が消えなかったそうです。
やがて病状は悪化し寝たきりになってしまいました。
その時に初めて年老さんはご自身の弱さを見せられたそうです。
先生に、下稲葉先生に対してこうお願いされたそうです。
先生、三美歌を歌ってください。三美歌を歌ってください。
先生に三美歌を求めて、その年老さんの傍らで先生がよく三美歌を歌われたそうですね。
この後ご一緒に歌いますけれども、忘れないでという曲を先生はその傍らでずっと歌われたそうです。
歌詞はこういうものです。
忘れないで、いつもイエス様は君のことを見つめている。
だからいつも絶やさないで、胸の中の微笑みをと。
死が近づく年老さんはこういう手記の言葉を残されました。
倒れてから早い一年、我が人生に悔いあり。
生きるんだ、生きたい、生きるんだ。
病気に勝て、勝て、負けてなるものか。
体が軽い、思考力が軽い、能力が軽い、命が軽い、全部軽いと。
軽いという言葉を繰り返されます。
それはおそらく、自分を支えてくれているものがないんです。
そして年老さんはその中で何度も賛美歌を先生に願われた。
イエス様が私のことを見つめている、この時も私のことを見つめている。
そのことに自分の支えを求めるかのようにです。
イエス・キリストへの信仰と希望
やがて年老さんはこのイエス様を信じるんです。
そして洗礼を病院で受けられました。
洗礼というのはイエス様を信じますと告白する式ですね。
下稲葉先生は洗礼の式の中でこう祈られたそうです。
神様、あなたはこの年老さんのためにイエス様をお使わしくださいました。
年老さんの罪を許すために、キリストは身代わりとなって裁きを十字架で受けてくださいました。
そして今、心を開いてイエス様を信じ、仰ぐ信仰を授けてくださいました。
洗礼式が終わった後、年老さんがこのように挨拶されたそうです。
自分の気持ちが軽くなりました。
今までのことは後悔もありましたが、これですっきりした感じです。
新しい命に行きますと、そうおっしゃられたそうです。
そしてこの後、この方は召されるまで忘れないでという賛美を求め続けられたそうです。
その歌を聴きながら、涙しながら天に召されていかれた。
下稲葉先生は年老さんの人生をこのようにまとめて記しておられます。
年老さんは自負心に満ち、人を寄せつけない雰囲気の人でした。
多分そんな生き方をしてきた人だったようです。
しかし、彼の命の土台が激しく揺さぶられて、
一人の素朴な弱い自分の姿を目の当たりにすることになります。
そして彼は素直に、先生助けて、先生賛美かをと訴えたのでした。
彼は賛美かと御言葉に表されているイエス・キリストと、
そのイエス・キリストの福音に、
それこそ素朴にタッチすることができました。
それが彼に新しい命に行きますと言わせたのです。
そのように人生をまとめておられます。
どうでしょうか。
私たちは、私自身はですが、この年老さんの人生を読みながら、
自分自身に多く重なる部分があるなあと思わされました。
どこかで思っているのです。
自分の力で生きてきた。
これだけのことを築いてきた。
それ自体は否定されるものではありません。尊いものです。
しかしながら同時に、さまざまな痛みや傷や、
さまざまなものを負いながら私たちは生きてきた。
しかし人生で踏ん張れない時がやってきた時に、
いや、命が揺さぶられる時に、死を前にする時に、
私たちがもはや自分の足で立てない時に、
私たちはどこに軸を求めるのか、
実は目に見えるところにはない。
賛美歌がその時に年老さんの慰めになりました。
忘れないでイエス様はいつも君のことを見つめている。
私たちがもはや自分の足で立てない時、
私たちを痛むほどに愛し、私たちを支え、
私たちを共にいてくださろうとする神が、
それは死を超えても離れず、
神の裁きの座にまで共にいてくださろうとする
イエス・キリストがおられるんですね。
私はこう確信しています。
死も命もその他のどんな秘蔵物も、
私たちの主キリストイエスにある神の愛から
私たちを引き離すことはできません。
大丈夫ですよ、イエス様におすがりすれば
必ず天国に迎えてくださいますよと
下稲葉先生が言われた言葉を皆さんに
今朝お送りしたいと思います。
私たちを愛し、私たちを天国へ迎え入れるために
ご自身をあの十字架へと捧げられた
イエス様がいらっしゃいます。
下稲葉先生のお言葉をお借りして
今朝はぜひ皆さんにおすすめをしたいのです。
ぜひイエス様におすがりいただきたい。
イエス様におすがりいただきたい。
聖書が語ることのできる死を超える希望というのは
そこからしか始めることができないんです。
イエス様におすがりいただきたい。
そのことを願って、これは強制ではありませんが
しかし願っています。
一言お祈りをしてメッセージを終えます。