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皆様、おはようございます。
今日は、敬老感謝礼拝であります。
この教会では、75歳以上の方々にお祝いのプレゼントをしますが、
それぞれの教会によっても、70歳以上、あるいは80歳以上の方もおられるかもしれません。
神戸政府教会では、75歳以上の方々、
75歳以上だからということで、老人だということではありません。
人は歳を重ねただけでは老いないわけです。
その目が神様をしっかりと見つめ、
一には、神様の御心とビジョンに達す時に、元気発達であります。
反対に、自分の使命やそのビジョンを失っていく時に、
たとえ働き高いであったとしても、その人は老いていくわけです。
もう、自分は何もできなくなった。
神様のお役に立てない。
そう言われる方がいます。
そうではありません。
また皆さん、口は達者であります。
両手は目の前に組んで、祈ることができます。
神様はおいで。神様はもうすぐです。
待っていてください。
と、祈りつつ、信仰を喜ぶことができます。
だからといって、皆さん早く天国に行ってらっしゃいというのではありません。
この敬老感謝は、そもすれば、
なんで私がみんなに迷惑をかけて、
何もできない、教会のお役に立てない、
自分はダメな人間だと思っていらっしゃる方々に、
教会はですね、そうじゃありませんよ。
あなたが祈ってくださったおかげで、教会がここまでまいりました。
教会に大勢の高齢者の方々がおられるということは、
前の時代に、どれほどその人々がこの重荷を負って支えてきてくださったか、
伝道に邁進してきてくださったか、
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そのことを私たちは心から感謝して、
そしてみんなで葵で礼拝を捧げることであります。
皆さんもそうでしょう。
誰も高齢者の敬老の礼拝の感謝を祝っていただきたくないと思います。
誰も年を取りたくないと思います。
体が弱くなって、けれどもそうじゃない。
今あるのは、皆さんのおかげであるということを、
この教会全体を挙げてですね、お伝えしていく。
もっと教えてください。もっと祈ってください。
もっと言葉をかけていく。これが教会の務めであります。
私たちは体が思うようにいかなくなる。痛いところがある。
すぐに息入れをする。そうでしょう。
けれどもそのような中で、神様を喜ぶことです。
今日私自身は高壇に立って、
こんな喜びと感謝で神様の前に立っています。
さて皆さんは感謝と喜びを持って、神様の前に出ておられるでしょうか。
さて今日は、この四節の二言を中心に、
私を背負われる主という題でお話をしたいと思います。
神様は、ご自分の神をさながら、
お母さんが子供を背負って歩くように、
背負われるというのが、このメッセージであります。
私も一つの記憶があります。
お父さんにおんぶされたということになります。
おんぶという言葉は、この神戸で使いますかね、どうですか。
広島では使うでしょうか。
お父さんにおんぶされたということです。
場所は記憶にあるんですけれども、
いつ頃だったのか、あるいはどこに行っていたのか。
小学校に上がる前のことであるけれども、全く分かりません。
とにかくおんぶされて、この暗い夜道でしたが、
道を歩いていたということを思い出します。
その時には、恐れはありませんでした。
いつもお父さんと一緒で、おんぶされることによって、
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安心して恐れはなくなりました。
ただ皆さんは、そのような経験がおありでしょうか。
あると思います。
さっきも言いました。
私たちは、若い時は元気はつらすであります。
年を取れば、あちらこちらに痛みがある。
体の痛みだけではなくて、精神的な弱さも弱くなってくる。
そのような時も、神様は相変わらず私を助けてください。
神様はイエス様によって、私の過去のすべての罪を許し、
そして神様の子供にしてくださって、
そして永遠の命を与えてくださいます。
お母さんが子供を背負うようにして、
神様は私たちに力添い見て、救いの見てを差し述べているわけです。
さて、この46章は、ご存知のように、イスラエルの国は亡くなり、
彼らはやがてバビオンに奴隷として移されていましたけれども、
その国から解放されるということが背景となっています。
さて、奴隷の中で食い改めた時に、70年を終えた時に、
必ず解放するという約束がありました。
さて、この46章の1節2節は、バビオンの偶像について言われた言葉であります。
46章の1節を見てください。
ベルは跪き、ネボはかがむ。
彼らの像は獣と家畜に乗せられる。
バビオンが栄えた時には、その神々に復栄し、先制して仕えてまいりました。
ところが、このバビオンがペスタ帝国によって滅ぼされようとする時に、
その偶像のベルやネボという神々が、あすで的になってしまいました。
国外に逃げる時に、今まで拝んできた神々を、
その牛や馬に乗せて逃げていかなければなりませんでした。
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そのためにかえって、その偶像がカエロを助けるのではなくて、
彼らのおもにになっていたわけです。
それは何が言いたいのか。
私たちが救われるもの、この世の中にはたくさんあるけれども、
それがやがておもにになる時が来る。
ある人は健康を重んじていますか。
ある人は趣味を重んじていますか。
でも、できなくなる時があるんです。
お金が大切ですよね。
けれども、お金がおもにになることがあるんです。
つらいことでありますが、
時々私たちが年をとると、
多くの人間関係がおもにになる時があります。
家族や親や兄弟や、この世界には多くの宗教があります。
先進国であろうが、発展途上国であろうが、
みんな何かを信じています。
世界中どこに行っても宗教のない民族がいます。
どんな無知で未開の中で生きている人にもおいても、
科学の戦隊を走る文明の中にも宗教があります。
一年中雪で埋もれているエスキモ、
イミスと言いますよね。
そういう人たちの中にも宗教があります。
そしてその神々というのは、
世界中あまり変わりなく、
二つの神に区別されます。
それは、人間に作られた神と、
人間を作った神。
よく似ているんですけれども、
人間が作った神と、
人間を作った神。
私たち日本人は宗教を作る名人であります。
いつも偉い人を祭り上げて神々にします。
太陽を拝んだり、大国を拝んだり、
大岩を描んだり、
あるいは菅原道真さんを祀った天神様があります。
徳川家康さんを祀ったのは何でしたか。
ゴンゲン様。
さらにはキスネを祀って、
お稲荷様。
ワニを祀って、
コンピラ様。
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今では天皇が亡くなると、
神様になるわけです。
ネズミ小僧、ジュロチキや、
石川御縁門を祀るジャンブルの神様。
そして科学の先端を走る日本であっても、
高速道路を作ったり、ビルを作ったり、
原子力発電所とか研究所を作るときは、
必ずお笑いをします。
私たちは多くの宗教や神々に運ばれていますから、
神様不完祥と言いますか、
そして本当の神様までも分からない、
信じられなくなりました。
そしてどの宗教もどの神も一緒だと言うんです。
まず最初に、人間に作られた神。
聖書を見ると、人間が神々を作るのも、
多くの宗教を渡り歩くのも、
自分のために作ると思います。
いろんな宗教があり、
本当にあちらこちらに私たちは歩きます。
その理由は、自分のために利益をもたらしてくれるもの。
自分のためだと言えるのではないでしょうか。
だからそれが自分のためにならなければ離れてしまいます。
神様なんかいないという人も、
自分のためにそれが都合がいいから、
それを信じようとしているので、
無神論という理論はその人の中にありません。
私もその人にのしてありました。
神様は見えないから、
あるいは神様に頼るほど私は弱くないとか、
そして自分の人生は自分で切り開いていくんだ、
なんかかっこいいことを言うけれども、
自分のためでなければそれを受けないわけです。
アフリカでも様々な宗教があります。
アフリカというのは、
一日一日食べるのも急するところでありますから、
前に路人の方々が朝早く、
これから狩りに出かけていく。
狩りに出かけていくから、
その途中の土をこのように持って、
その上に棒を立てて、
神様、これから私たちは狩りに行きますから、
どうぞ獲物が得られますように、
と言って狩りに出かけるわけです。
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そして狩りに行って、獲物を得たらどうでしょうか。
その立った土を持った棒一本のところに、
親々しく礼拝を捧げて、
いろんなものを備えるわけです。
神様、私たちの願いを聞いてくださった。
けれども、狩りに行って、
一匹も獲物がなかったら、
みんなで集まって、
その持った土を切って、
ぶち壊すわけです。
そんな宗教であります。
人間に作られた神は、
人間に対して、
NOと言わない、
否と言わない、
口応えをしないことだけであります。
もしNOと言うならば、
すぐにお洗い箱で、
そして首を切られてしまいます。
人間に作られた神様は、
人間が自分を神様として、
主人公として、
全てを自分勝手にやっていけるように
作ったわけでありますから、
まるでそれをペットカーのように、
自分を楽しませるものであるわけです。
そうでしょう、皆さん。
多くの人たちが、
教会から離れていくのも、
そうでない人もいるかもしれません。
でも結局は、
自分の利益にならないから、
教会に行ってですね、
悔やらためようとかですね、
なんだかんだ言われて、
自分の都合が悪くなるから、
ではないでしょうか。
教会に行けば、
人を許しなさいよ、
福音を伝えなさいよ、
あるいは捧げなさいよ、
いろいろ二言葉がですね、
二言葉から進められるわけです。
それが嫌なんです、人間は。
したくないんです。
もう一つは、
人間を作られた神様であります。
人間が作ったのではなくて、
人間を作ってくださった神。
その方は天使万物をもう作りになりました。
ですから人間や獣やですね、
自然界が神々になることはできないんです。
そういう全てをものを作られた神様がおられる。
そしてそのお方は、
何者にも依存しない、
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自存の神と言ったらいいでしょうか。
前も話をしましたよね、
人間は一人で生きていくことができません。
空気がなければ死んでしまいます。
植物だってそうです。
太陽の光がなければ植物は育ちません。
天使万物のこの宇宙も、
一つの均衡が取れているからこそ今あることで、
それが均衡が崩されたら、
宇宙は何もなくなってしまう。
依存の状態があります。
でも神様は何者にも依存されない。
人間が信じようが信じまいが、
あなたが必要とされようが必要としまいが、
それによってあったりなかったりするような
お方ではありません。
この人間に作られた神々と、
人間を作った神、
その二種類の神様にどういうふうに関わるかによって、
私たちの生き方も変わってまいります。
人間に作られた神を信じていこうという人は、
自分のために生きる人になります。
いつも価値判断は、
自分の利益であり、
あるいは自己中心的な生き方であり、
自分のためでありますから。
ですからその中に心の強さであるとか、
思いやりであるとか、
豊かさ、他人に対する優しさが欠けていくのは、
無理もありません。
でも反対に、
人間を作られた神様は、
自分の思いではなくて、
作られたお方の考えに、
自分たちが沿っていこうとする。
ですから自分の生き方を、
自分で勝手に生きるのではなく、
決めるのではなくて、
作り主に沿いながら聞いていく。
さてここに登場してくるこの偶像、
ベルやネブは何でしょうか。
皆さん、
偶像を一口に言いますならば、
私たちが使えなければ成り立たない神、
人間が背負わなければならない神と、
何か良いことがあると、
手を合わすわけでありますけれども、
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けれども人間で作ったものでありますから、
手で作ったものもあるでしょうけれども、
観面もあるでしょう。
ですから自分で救うことはできません。
だから私たちが、
背負っていかなければならない。
またそれが重みになる時もある。
日本の神様がこのお祭りの時にはですね、
三越に担がれて、
地域をあちらこちらですね、
回るようなものであります。
どこに移動するにも担がれていく。
以前、私が広島で、
電動ぼっかいしていた時に、
その地域に大水害が起こりました。
そして教会にある団地がですね、
北も南も西も全部の道がですね、
もう流されてしまった。
孤立してしまいました。
まあ広島だけではなくて、
その時には西日本も全域で、
そういう大洪水がありました。
まあそういう中でですね、
いろいろ皆さんに助けていただいたわけでありますけれども、
その地域の中でですね、
一番困ったことがありました。
うちの神様がいなくなった。
うちの神様が流された。
まあお地蔵様も宮も何もかも流されたわけです。
まあ教会は何とか流されなかったんですけれども、
もし教会も流されたとしても、
うちの神様は流されたということはあります。
ですからお宮さんもお地蔵さんも流されてですね、
ああ、うちの神様が流された。
いなくなった。大変だ。どうしよう。
みんなで探しに行きました。
そしたらですね、見つかったのは胴体だけでありました。
もう首は流されて、どこに行ったのか分かりません。
まことの神様は、私たちを救ってくださるお方。
そして私たちがおんぶするのではなくて、
私をおんぶしてくださる神様。
そしてあなたが信じようが信じまいが、
御言葉を通して神様の御心を教えてくださって、
そしてその御心に私たちが沿っていくときにですね、
ここにまことの幸せと感謝と楽しみがあるわけであります。
そういうことができなければ、やっぱり痛みになります。
さて、そういう中から2つのことを話しますけれども、
第一は、私たちを背負われる神であります。
私たちをおんぶされるし、背負われる神であります。
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どこに行くでも、共に行ってくださる。
この3節、4節にですね、ヘブル語の言語では、
7回、私という言葉が使われています。
私、私、私という神様御自身が、
これでもか、これでもかと出てくるんです。
私たちの神様は、私たちを愛して作られた御方。
だから必ず私たちを背負ってくださって、
持ち運んでくださって、そして作ってくださる。
私たちは、すなわち何かをしなければならない神様。
喜ばせなければならない神様ではないんです。
ただ私たちは、神様を喜んでいたらいいんです。
イエス様が来られた時にですね、もう嬉しくてたまらなくて、
イエス様の足元に座って、御言葉を聞いていたマリアのように、
神様を喜ぶことが大事。
その時に何とかして、このイエス様に喜んでもらおうと、
この絶対に心を奪われたマルタのように、
イエス様を喜ばせようとすることは不要なんです、まず。
ただそのままでつらって、足元にいる時にイエス様は喜んでくださる。
さて皆さん、今日出会いのまた途中になりますが、
途中の段階で皆さんは神様を喜んでおられるでしょうか。
今、口を開ければ、イエス様は十字架にかかって死んでくださった。
私も愛してくださったと言います。
しかしそれが、精霊の働きによって、本当に私と関わってくださらない限り、
それは何の喜びにもならない。
恋愛の中心は、私たちがそのところに座って、
座ったままで神様を喜んで感謝をしていく。
ですから、どんな礼拝でも、あるいは2000年前になされたものであったとしても、
そこでカルバイの十字架が現されて、
そしてそこで喜んでいなければ、
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上手に歌う必要はありません。
上手に祈る必要もありません。
足元で御言葉を聞いていたマリアのように、
主を見つめ、とにかく喜んでいく。
そういうことが皆さんはっきりするならば、
聖書の御言葉が、皆さんの力となり喜びとなっていく。
それがはっきりするときにですね、
神様が私を背負ってくださっている。
賢いから、信仰があるからではなくて、
作ってくださる。
それがわかってくるわけであります。
さらにこの聖書を見るならば、
神様は私たちが母の体内に作られる前から、
すなわちあなたという人間が存在する前から、
また皆さんが神様を信じていないときから、
神様はすでにあなたをその愛の手で追ってくださいました。
そして白髪になるまでも、この世が終わるまでに、
やがてその御礼とともに、
朽ちていく私たちの骨が、一瞬のうちに、
栄光の体に変えられるまで、
共にいてください。
私の昔の家はですね、
親戚に行くときにはいつも、
和歌を通らなければなりませんでした。
まあ、墓地ですね。
小さいときは、
昼までも恐ろしくて、
心臓が飛び出そうでありました。
決して一人では夜は通れません。
昼までも恐ろしいんです。
先にも言ったように、
親と歩くときはどうでしょうか。
親がそばにいるから歩けるんです。
誰か知った人が私の隣にいるから歩けるんです。
神様がそばにいるということを知るときに、
普段できないようなことが皆さんもできていきます。
心には平安と喜びと
安心で包まれていきます。
何度も言いますが、
つらくて調子の悪いときでも、
つまづいて倒れているときでも、
そこにイエス様がおられます。
聖書が言っているじゃないですか。
あなたが白髪になっても、
身を私は世の輪にまで、
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いつもあなた方とおともにいるのです。
さて、第2つ目は、
この追われる神の民、私たちです。
1ヶ所だけ聖書を開いてもらえませんでしょうか。
支援の68編の19節。
新科学聖書の2017をお持ちの方は、
ちょうど1000ページになります。
その他公約聖書や、
第3版をお持ちの方は、その前後でしょうか。
新科学の2017をお持ちの方は、
旧約聖書の1000ページ。
支援の68編の19節。
おむべきかなしゅ。
日々私たちの重荷を担われる方。
この神こそ私たちの救い。
そう書いてありますけれども、
この言語には、
重荷という言葉がないわけです。
重荷という言葉がなくて、
私たち自身ということであります。
ですから、世界で一番最初の翻訳聖書は、
日々私たちを追われる種と書いてあります。
私たちが調子が良い時でも悪い時でも、
そういう中でも追ってくださる。
そう約束してくださった神様が、
順に復して生まれくださったのが、
クリスマスになりました。
そしてイエス様は、
重荷や様々なもので打ちしがれてあるものに対して、
全て疲れた人を重荷に追っているものは、
私のもとに来なさいと教えました。
そうです。人生には様々な重荷があります。
肉体的な靴、精神的な靴、
歳をとることによって、
本当に私の人生はこれで良かったんだろうか。
みんなに迷惑をかけていないだろうか。
役に立っているだろうか。
そういう重荷。
誰にも言えない、分かってもらえない心の悩み。
ある人にとって最大の重荷は、
自分でもどうすることもできない、
罪と死の重荷だ。
どんなに喜んで歌っていても、
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そのことが気づくと、
すぐに私たちは暗くなっていく。
ある人にとって一番の重荷は、
自分自身であるかもしれない。
自分をコントロールすることができない。
ところがイエス様が、
神の見姿であったけれども、
人となってこの地上に来てくださって、
そして作ってくださるばかりか、
共に歩んでくださった。
魂なしらびが来ました。
今は、
畑でもポスターにもなっていますけれども、
この教会でもアーキップで歌いました。
また歌いたいなと思うんですけれども、
足跡という歌をご存知でしょうか。
こういうものでした。
こういう詩だったんです。
ちょっと聴いてくださいね。
ある人が晩年に夢を見ました。
彼は小高い丘の上に立って、
今まで自分が歩いてきた道すり、
人生の浜辺を振り返って眺めていました。
そしてそこにあった、
さまざまな通過したシーンがそこにあって、
その浜辺には自分がしっかりと歩いてきた、
その光景を見るわけです。
そしてもう一組の足跡もありました。
私は決してあなたを離れる。
あなたを捨てない。
そう言われたイエス様が、
ああ、共に行ってくださったんだなと思いました。
そして熱いものがこみ上げて来た。
ああ、イエス様が共に来てくださった。
けれどもところが、彼が通ってきたその過程の中で、
私とイエス様の足跡だったんだけども、
あるところでは一組の足跡しかありませんでした。
気になったので、そばにいるイエス様に尋ねました。
イエス様、私が一番苦しい時に足跡が一つしかありません。
一組しかありません。
一人の足跡しかありません。
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私があなたを必要としていた時に、
どうして私を放っておかれたんですか。
イエス様は答えられました。
かけがえのない大切な子供よ。
私はあなたを愛しているので、
いつも一緒に歩いていた。
あなたが知恵にあって苦しんでいた時、
あなたの目には一組の足跡しか見えなかった。
けれどもその時は、実は私があなたを背負っていたんだ。
そういう感じの詩でありました。
またどうぞ、その詩を皆さん購入してください。
人生には様々なことが付きものです。
でも、その困難に差し当たる時に、
イエス様は私をおんぶして歩いてください。
何度も言いますが、
しらがになっても、
死の川を通る時に、墓の向こうまで、
しかもよみがえを待つ時まで、
ずっと共に歩んでください。
そのイエス様に対して、
せさ心いっぱいの感謝をしたいと思いますし、
また皆さんとともに、一ヶ所聖書を読んで終わりたいと思います。
イザヤ書の46章の3節4節を、
いいですか、ご一緒に読みます。
3、4、ヤコブの家よ、私に聞け。
イスラエルの家のすべての残りの者よ。
災害にいた時から担がれ、
生まれる前から運ばれた者よ。
あなた方が年をとっても、私は同じようにする。
あなた方がしらがになっても、私は背負う。
私はそうしてきたのだ。
私は運ぶ。背負って救い出す。
お祈りをいたします。