1. 名谷教会 podcast
  2. 2014/11/30:聖日礼拝(旧音源)
2014-11-30 37:51

2014/11/30:聖日礼拝(旧音源)

2014/11/30 聖日礼拝(旧音源)




00:01
皆さん、おはようございます。
よくいらっしゃいました。感謝いたします。
それではですね、今日はいつものように、メッセージが入る前に隣の方と挨拶をしたり、祝福したり、拍手したりしたいと思います。
よろしくお願いいたします。
おそらく前に座って、空いてますので、後ろの席が不便な方は前の方にどうぞおいてください。
よくいらっしゃいました。
それでは一言お祈りさせていただきます。
神様、今日こうして本当に素晴らしい天候の中で子どもたちと、また家族の方々がお見えになり、主の御名によって祝福の祈りを捧げることができたことを感謝いたします。
主の素晴らしい祝福が、イエス様の祝福がその子どもの上に、家族の上に、永遠まで豊かにありますように、どうか主をお守りください。
今から神の御言葉に身を傾けます。イエス・キリスト御自身が私たちにお語りくださいますように。
イエス様の表現を私たちが覚えながら感謝できますように。
イエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン
今日から教会ではアドベント、対抗節と言いまして、12月25日クリスマス、後誕あるいは生誕の日をお祝いに感謝する。
そして4週前から祷則をともしてですね、共に礼拝を捧げています。
この前ですね、インターネットのヤフーでですね、こういう面白い記事を読みました。
こう書いてありましたね。
町で散った女子高生の衝撃名言集。女子高生。あのさ、キリストってクリスマスに生まれたらしいよ。すごくない?金座一番すごい。という話でした。
本当に皆さん、この世の中はですね、クリスマスが何の日なのか、なぜパーティーをしたりケーキを張ったりお祝いするのか、知っている方もいらっしゃるんですけれども、知らない方もいらっしゃるようです。
今日からですね、4週間にわたって、イエス様の生涯を、イエス様が天に引き上げられたことから、遡って一つずつ共にお話をしていきたいと思います。
03:11
今日はその中で、今日読んでいただきましたテートの中から、イエス様の表天、つまり天に上げられたこと。
そのことがですね、この地上に残されている私たち、すべての人々にどういう意味があるのか、それを共に、この後ですね、共に考えていただきたいと、そう願っております。
まずですね、マサイの福音書、それからマルコの福音書、ルカの福音書、そのほたらき、4つの箇所がありますけれども、その中で今日は2つの箇所を読んでいただきました。
このイエス様が天に上げられた、あの時のことが書かれている箇所なんですが、その中をですね、よくよく目標して観察して読みますと、ここにはイエス様のお約束とイエス様の命令が記されていることがわかります。
そうなんです。イエス様が天に引き上げられるときに、私たちに変わることのない約束をしてくださりました。そして、命令も与えてくださりました。
この約束は永遠に変わることのない約束でありまして、祝福の約束でもあります。まずはですね、その約束がどんなものなのか、それをまず見ていきましょう。
また、私があなた方に命じておいた全てのことを守るように彼らを教えなさい。
その次です。
みよ、私は世の終わりまでいつもあなた方と共にいます。
もう一度お読みしますね。
みよ、私は世の終わりまでいつもあなた方と共にいます。
どんな約束でしょうか。
その一つは、世の終わりまであなたと共にいますよという約束です。
福岡にいるときの話なんです。
ひそん君がですね、さっきの今二年生の子が三歳か四歳のときでした。
06:04
一月に妻のはんなが、武産でセミナーがあってですね、一人で行ったんですね。一週間ほど留守でしたけれども、そのときにですね、大きくなっているひじちゃんと上の姉さんたちは、
あんまりお母さん、お母さんと下がっていなかったんですけれども、その坊やのひそんさんはですね、もう毎日毎晩ですね、
お母さんは、お母さんはいつ帰ってくるの、いつ帰ってくるの、ずっと毎日ですね、下がって夜はですね、もう寝かそうとしてもですね、なかなか寝れなくてですね、
本当に毎晩お母さん、お母さん泣いていました。子供は、自分もですね、たぶんあのときにひそん君はお母さんが見えなくなってですね、
どこに行ったじゃないか、まあ残されたんじゃないかというふうに不安を感じたようなんですけれども、
このようにですね、ひじは誰かと別れたり、あるいは残されて寂しくなったり、あるいは家族の方がお亡くなりになって悲しくなったりすると、
自分がひとりぼっちになるじゃないかという不安が襲ってくると思うんですね。
家様が天に引き上げられるときに、別たちの気持ちもそうでした。
3年間もですね、一緒に新職をともにして、ともに働いて、ともに旅をして、ともにいつも家様が、いつもですね、そばにいなかったんですね。
朝も昼も夜も寝るときも、いつもずっと一緒でした。
その家様がある日、突然いなくなったんです。
彼らにとって家様はですね、もう友達であって、先生であって、いや、年は家様の方が若いかもしれませんけれども、親模様であって、本当にいなくてはいけない大切な方でした。
その家様が見えなくなって、いなくなったので、別たちはすごい孤独感や寂しさを感じた、その時だと思います。
あるいは別たちの心の中にはですね、自分たちは家様に捨てられたのではないか、恐れたり心配してですね、苦しく思っていたんですね。
09:08
あるいはですね、政府に書かれてはいないんですけれども、家様が天にもう行かれなかったらよかったのにと思った弟子もいたかもしれません。
家様がいらっしゃらないから、これからどうしよう、家様もいないのに、殿堂はどうする、どう過ごせる、僕たちも家様のように殺されたらどうする、というふうにですね、恐れていたかもしれません。
そういう孤独と心配、恐れにですね、囚われてですね、不安になっている、心配している、これからどうしようという、彼らに家様が語ってくださった最高の約束が、
さっき私が読みました、身を私は世の終わりまでいつもあなたと共にいる、という約束の御言葉です。どうか皆さん、今日この御言葉を皆さんの心の中に受け入れていただいて、掴んでいただきたいと、そう願うのであります。
先生であって、友達であって、仲間であった家様がいなくなった。天につやけられて、この身体は見えなくなりました。
そしてですね、この寂しさや恐れで心配している彼らのその気持ちを、家様がわからないはずがないのです。聖書を見ますと皆さん、家様は私たちを思いやってくださる主と語っています。
私たちの感情を知り、私たちの孤独を知り、辛さを知り、不安を知り、また喜びも知っておられる方がイエス・キリストなんです。
この聖書の出来立ちだけではなくですね、今日の私たちにも様々な孤独、不安、あるいは恐れ、あるいは傷ついた心、心配を抱えていると思うんですね。
現代人は心配を背負って生きるという言葉があるほど、本当にそうだなと思われます。
若者たちは学校のことや就職のこと、その先は結婚のこと、あるいはお金のこと、あるいは将来のこと、あるいは様々な人間関係のことで苦しんでいる、あるいは恋人がいるならその間のことも色々心配があるです。
12:29
そして、結婚したら全ての悩みがですね、心配が消えてですね、何もなくなるんだ。そうでもない。
結婚したら、またこれから二人で暮らすだけですから、それぞれのまた悩みが心配があるでしょう。
子供が生まれてきたら、子供のことでまた色々な心配があるでしょう。
様々な事故があったり、有罪があったり、あるいは教育のこと、そして子供がおやすみになったらまた受験のことで、就職のことで、結婚のために心配する。
そして結婚したら終わりなのかと思ったら、子供が生まれてまたその孫のお世話もしなさらない。
そして姻家を捨てしめ、いよいよ人生が楽になるのだろうかと思ったきや、急にがぐんと減って、また自分の健康のことや色々なことが心配になるわけです。
少し取っていけばいくほど、周りの同年配の貴人友人の方々が一人二人、手に入れされることがあるでしょう。
様々な悩みや心配を抱えているわけです。
しかし皆さん、イエス・キリストを信じる人々には、主イエス・キリストに誓えている人々には心配がないのです。
心配しなくていいのです。恐れることはありません。
なぜでしょうか。
見よ、私は世の終わりまでいつもあなた方と共にいますとありますから。
聖書には恐れてはならない言葉が365回以上書かれているそうです。
恐れてはならない。おののいてはならない。心配するのはそういうゴミ言葉ですね。
なぜでしょうか。毎日のように私たちが心配しているから、その気持ちを知っておられるイエス・キリスト様は、
今日も心配しなくていいよ。明日も心配しようと思っているから、今日も心配しなくていいですよ。
毎日のように声をかけてくださって、恐れてはならない。おののいてはならない。私があなたと共にいると。
ですから、イエス様に仕え、イエス様を信じる人々には、子供のこと、自分のこと、病気のこと、恐れはありません。
15:12
それなら、イエス・キリストは天のなる神様でありまして、この宇宙万物をお作りになった方でありまして、
全知全能な方でありまして、いつも共におられる。そばにいてくださる。それだけで十分感謝ができ、恐れることはない。
聖書一括ですね。私が読みます。ヨハネの福音書14章27節の言葉なんですけど、こういう読み言葉をイエス様が私たちに語りかけてくださいます。
私が読みます。私はあなた方に平安を残します。私はあなた方に私の平安を与えます。
私があなた方に与えるのは、世が与えるのとは違います。あなた方は心を騒がせてはなりません。恐れてはなりません。
皆さん、イエス様が与えてくださる平安は変わりがない。真実の本当の平安なんです。偽物ではありません。本物の平安が誰から来るでしょうか?イエス・キリストから来るんです。
偽物を手にして喜ぶ人はいないでしょう。
片隅が握り捻っている、手にしているものがあたかも偽物のような平安で喜びであるかもしれません。あるいは朝霧のように一瞬消える平安であるかもしれません。
真似をした偽物の平安は、喜びはいつかは必ずそれが偽物であることがばれちゃいます。しかし、本当の平安は何年がたっても、何十年、何百年、いや、何千年がたっても変わることはないのです。
イエス・キリストこそ、私たちも真実の平安を結び合わせて、私たちに真実の平安を与えてくださるその質であることを、皆さんが受け入れ、信じていただきたいと願うのであります。
皆さんはどんな悩みや心配を抱えていらっしゃるでしょうか?
ところが皆さん、心配したとして、その問題が解決できるわけではありません。
18:09
心配するより、恐れるより、私と共にいてくださる主イエス様、私を助けてくださる主イエス様、私を顧みてくださる主イエス・キリストを信じて、受け入れ、そのイエス様がすべて思うに追っているものは私のもとに来なさい。
私があなた々を休ませてあげますとおっしゃったように、その思いを主の御前に下ろそうではありませんか。
そして、イエス様がごとされる平和の喜びのうちに生きられる皆さんとならし、それも必要に心からお祈り申し上げます。
2番目は、イエス様の約束の2番目は、聖霊様を贈るという約束です。
例えば読みますけれども、新約聖書にルカムー福音書があります。
その中で最後のルカムー福音書24章の49節に、こういう見言葉がありますね。
さあ、私は私の父の約束してくださったものをあなたに贈ります。
この私の父の約束してくださったもの、これが聖霊様なんです。
先ほど読みましたヨハネの福音書14の27節の前の節ですね。ヨハネの福音書14の26節を見ますと、その聖霊様のことをこのように書かれているんですね。
私から読みます。
しかし、助け主、すなわち父が私の名によってお仕置きになる聖霊は、あなた方にすべてのことを教え、また私があなた方に話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
つまり、どういう意味かわかりやすく説明しますと、イエス様の体はこの地上から天に引き上げられたから、体はいなくなるわけです。
そしてイエス様が天に引き上げられて、そのイエス様の代わりに聖霊様を送ってくださいました。
聖霊様は神の霊でありまして、その霊として弟子たちとイエス様を信じるついている人々といつも共にいてくださる。
だからイエス様の体は見えなくなりましたけれども、御霊としてずっと共にいてくださるわけです。
そしてその聖霊様は、助け主であって、抱きしめ主なんです。
21:05
そしてその聖霊様が本当に約束通りに来られたのか。
イエス様は弟子たちと3年働いているうちに何度もイエス様が、私が天に行ったらイエス様を送りますよ、聖霊様を送りますよ、何度もお話をしました。約束しました。
まるで親や子どもに、今度来るようになったらおもちゃを買ってあげますよ、なんとか約束するでしょう。
大人は約束を守る立派な親もいるんですけれども、私のようななかなか守れない、よくない親もいるんですけどね。
イエス様は何度も約束されて、その約束を守ったんでしょうか。先ほど読んでいただきました、人の働きを一緒にいただきましょうか。
人の働き第2章、1節からなんですが、聖書お持ちの方はお開きくださいました。
次が聖書228ページです。イエス様が天に引き上げられて、1日、2日、3日、9日、10日目の日でした。
その時にこんなことが起きました。私が読みますね。
五分節の日になって、皆が一つのところに集まっていた。すると突然、天から激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らの家全体に響き渡った。
また、炎のような分かれた雛が現れて、一人一人の上にとどまった。
その次ですよ。すると、皆が精霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国の言葉で話し出した。
ここにですね、皆が御霊に精霊に満たされたとあるんですね。
そうなんです。イエス様がですね、城におらればいいだ。御霊を贈りますよ。精霊様が来るんですよ。
御霊が天に引き上げられるあの時にも、最後に残した約束。精霊が来るんですよ。
そして、10日が経って、約束通りに精霊様が集まっている、その御霊の上に、
その精霊様は先ほど呼んだ御霊の君主には、助け主とあります。助けてくださる主という意味なんですね。
その言葉のですね、その聖書の新訳は、今のギリシャの昔のギリシャ語で書かれているんですね。
その言葉の意味は、弁護をする。弁護師の弁護をする。慰めるという意味が、この助け主という意味なんです。
24:10
そうなんです。皆さん、精霊様はですね、私たちが困っている時に、どうしたらいいのかわからない時に、どうしようもなくてもがいている時に、
弁護をしてくださる、最後の弁護師なんです。そして、誠の愛をもって慰めてくださる主なんです。
うちの妻と家族の話なんですけれども、2年前に妻のハンナが胃がんという診断をされました。
もう全然ですね、前振りのような痛みとかもなかったですから、いかめをしてですね、検査して、その結果がお医者さんから聞かれるときに、
2人で一緒に行って診断ですね。初めのときはショックでした。ところが、後悔はしていましたけれども、
2人ともイエス様を信じていて、イエス様の助けを、精霊様の助けを信じているものだから、慌てたりはしていませんでした。
そのときも感じて分かって、今もですね、本当に感謝していますけれども、イエス様は、精霊様は、一番良い時期にあなたは胃がんですよと、精霊様が教えてくださりました。
あの当時ですね、武産にですね、私の派遣協会の全世界から選挙地の家族がみんな集まっていました。約170人の子どもまでですね、みんなが集まっていました。
南アメリカからアフリカから世界から集まっている、その新人部会選挙地たちが集まっているところで、いがんであることが分かって、みんなその先生方にそれが知らされてですね、みんなから祈ってもらいました。
本当にですね、精霊十万で、もう祈り十万のあの素晴らしい先生方から、あんな風にですね、祈ってもらうことは、もう一生ほとんど経験できない地球と恵んだと思うんですね。
祈ってもらいました。愛してもらいました。慰めいただきました。胃がんでしたけれども、本当に感謝で感謝でいっぱいでした。
27:07
それだけではなくですね、イエス様はですね、精霊様は、妻と我が家のために、最古の病院をゴッドハンドのような、最古の胃がんのお医者さんに主が導いてくださりました。
教会に来てくれる、その入院の手続きまで助けてくれる人を、主が前もって私たちの夫婦のそばに主が置いてくださった。
イエス様が精霊様全ての御存じだからですね、前もって備えてくださったんです。だから心配することがないんです。
そしてですね、そのときに、妻がですね、自分はもう癒される、監視できるという筋肉が、確信が与えられていました。
そのときにですね、私もですね、夏でしたけれども、その手術が終わって、そして他の実家の近い病院に移ってから、私は福岡に戻ったんですね。
夏の7月、8月に多くの選挙チームや働きがありましたから、一人で帰ってきてですね、選挙したから自分の仕事をですね、もうしなくてはならないんですね。
でもその中で、精霊様が私に、祈るたびに優しく声を語りかけてくださいました。驚いたでしょう。心配しなくていいんだよ。
あなたの妻は癒される。私が癒すのだ。もっとも強くなるのだ。本当に精霊様が、朝ごと良いことですね、慰めて慰めてくださいました。
そしてそのお言葉通りに、妻は三分の二ぐらいカットはされましたけれども、本当に今はですね、元気よく、私よりもっと元気よくですね、手に使え、教会の働きをさせていただいているんですね。
教会の信徒の皆さんが承認なんです。これは嘘ではありません。皆さん、精霊様は私たちが悲しい時にも、辛い時にも、困っている時にも、苦しい時にも、自分の力ではどうしようもない時にも、
精霊様は共にいて、その問題を解決してくださり、慰めて祝福してくださる。皆さん、ちょっと考えていただけたらいいですか。
人がですね、何が頑張ったからといって、全てがうまくいく、成功する、幸せにならなかったら、この世界にですね、幸せじゃない人、成功できない人は一人もいないでしょう。
30:19
しかし、人間が自分の力でいくら頑張っても、いくら真面目でやっても、できないことが、もっとはるかに多いのではないでしょうか。
ここだったんですが、自分の体のことや将来のこと、例えてみたらですね、自分の力でできることは、わずか、本当に少ないんです。
だから、私たちには、この人間の力、そのはるかに上におられる、私たちがお作りになった、その主なる神様、イエス・キリスト、精霊様の力が必要なんです。
精霊様のこの助けと慰めを受け入れまして、その慰めに満ち溢れる、助けに満ち溢れる、皆さんの指示となりますように、心からお祈り申し上げます。
最後、もう一つだけ。イエス様が教廷の働きに残された命令がありました。それは、御言葉を述べ伝えることです。教会でよく言う伝道をすることです。
ところが、この伝道は、弟子たちに言われた命令でもありましたけれども、福でもあって、特権でもありました。
そして、イエス様が最後の最後に、優位言のように語られた御言葉が、私の教員となりました。
時が良くても悪くても、御言葉を述べ伝えなさい。死の果てにまで徹底しなさいという、イエス様の優位言のような御言葉でした。
皆さん、例えば、御両親が天に召される時に、最後の最後の最後の息を取る前に、何かをお願いする言葉があったとしました。
そしたらそれは、皆さんがそれを聞いたら、もう一生忘れられない、一生大切にして、必ずそれをするんですよね。同じなんです。
イエス様が天に引き上げられるあの時に、最後に残した御言葉は、私の教員となりなさい。御言葉を述べ伝えなさいということです。
ところが皆さん、伝道というものは、福音を述べ伝えるということは、牧師だけの働きではありません。
33:06
あるいは、他の法教するから伝道しなくてもいい、粋でもありません。時間があれば伝道する粋のものでもありません。
あるいは、伝道しなくても、みんなイエス様が作っている作業、そんなものでもありません。伝道は全てのクリスタに与えられた願いであり、命令であります。
他の法教を伝かうと言って伝道しなくてもいいでしょうか。そうではありません。他の法教はしなくても、伝道はしなければなりません。
時間があれば伝道するのでしょうか。そうではありません。御言葉には時が良くても悪くても。
他の政府には、都合が、あなたの都合が良くあろうが悪くあろうが御言葉を述べ捨てなさいとあります。
伝道しなくても、全ての人をイエス様が作っていくというのでしょうか。そうではありません。
先に作られた形には、責任と特権と資格がある。それを伝えなければならない。
心が伝道しなくても、それで伝道するのではなく、イエス様の心で十万であれば、精霊の御心で十万であれば、イエス様を紹介したくて、イエス様のことが言いたくてたまらない。
例えば皆さん、猫が大好きな人ですね。その人とちょっと話をしていたら、その人の口から猫猫猫猫猫猫猫猫猫猫猫の猫の餌はどこが安くて、どこの病院がいいところで猫話ばかりするでしょう。
ワンちゃんを飼っている人はですね、うちのワンちゃんがこうであって、何歳であって、それでワンちゃんの話をですね、1時間も2時間もそらそらそらするんですよね。
ちょっと言いすぎると、その人の中には猫十万でワンちゃん十万だからでしょう。同じなんです。水を注ぐと袖が溢れるんですよね。
オレンジジュースを注ぐと満たされて、オレンジジュースが溢れ出てくるんですよね。イエス・キリストに満たされていますと、私たちの口からその人から何が溢れ出てくるでしょうか。
イエス・キリストが溢れ出てくるんでしょう。その人と話し合っておればですね、イエス様がイエス様がイエス様が出てくるんでしょう。皆さんはいかがでしょうか。
宮谷教会にはですね、先日も日曜日月曜日宣言がありましたけれども、本当に一生懸命ですね、家族の方々や、あるいは隣の方々をですね、一生懸命話し合ってお知らせした方々もいらっしゃいます。
白紙を巻きましょう。そしたらですね、一生懸命ですね、ポストに入れる方々もおられる。
あれこれ、知り合いの一人と友人の一人と家族をですね、お願いしてですね、本当にお願いして、伝道集会にお連れする熱心な方々がおられる。電話をしたり、話し合ったりする。
36:03
本当にその方々にですね、私があなた伝道集会伝道集会と言ったこと一度もありません。イエスキリストに対する愛が心の内にですね、燃え盛っているから、イエスキリストを紹介せずにはいわずにはいられない。もう仕方がないのです。
そして伝道をするのです。皆さんの内側には何に満たされていて、あなたの口からはどんな話が出ているのでしょうか。
11月には父親クリスマス会、子どもクリスマス会、またクリスマス礼拝、職家礼拝という伝道の機会があります。
初めてお見えになった方々はですね、ぜひその集会にお入りくださいまして。そしてですね、教会の皆様ですね、心からですね、伝道のチャンスが与えられていますから、
今年の12月は一人でも多く、いや一人以上必ず教会に連れて来ると決心してください。来年には十人以上教会に連れて来ると決心してください。
こうして神様の心を喜ばせる考えをすれば、どんな道が許してくださるのでしょうか。どうか皆さん、イエスキリスト真珠の道に命があり、慰めがあります。
このイエス様が与えてくださるこのクリスマス真珠のこの祝福が皆様の上にありますように心よりお祈り申し上げます。お祈りいたします。
37:51

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