1. 名谷教会 podcast
  2. 2012/09/02:聖日礼拝(旧音源)
2012-09-02 42:00

2012/09/02:聖日礼拝(旧音源)

2012/09/02 聖日礼拝(旧音源)


00:01
聖書を朗読していただきます。
聖書は、マルコの福音書9章33節から37節、新約の84ページです。
では、内田姉妹、よろしくお願いします。
マルコの福音書9章33節
カペナウムについたイエスは、家に入った後、弟子たちに質問された。道で何を論じ合っていたのですか。彼らは黙っていた。道々、誰が一番偉いかと論じ合っていたからである。
イエスはお座りになり、十二弟子を呼んで言われた。誰でも人の先に立ちたいと思うなら、皆のおしんがりとなり、皆に仕えるものとなりなさい。
それからイエスは一人の子供を連れてきて、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱き寄せて彼らに言われた。
誰でもこのような幼子たちの一人を、私の名のゆえに受け入れるならば、私を受け入れるのです。また、誰でも私を受け入れるならば、私を受け入れるのではなく、私を使わされた方を受け入れるのです。
聖火隊の賛美、新聖火462枚に続いて、内田牧師より一番偉い者と題して、説教していただきます。
聖火隊の賛美、新聖火462枚に続いて、内田牧師より一番偉い者と題して、説教していただきます。
聖火隊の賛美、新聖火462枚に続いて、内田牧師より一番偉い者と題して、説教していただきます。
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聖火隊の賛美、新聖火462枚に続いて、内田牧師より一番偉い者と題して、説教していただきます。
聖火隊の賛美、新聖火462枚に続いて、内田牧師より一番偉い者と題して、説教していただきます。
聖火隊の賛美、新聖火462枚に続いて、内田牧師より一番偉い者と題して、説教していただきます。
聖火隊の賛美、新聖火462枚に続いて、内田牧師より一番偉い者と題して、説教していただきます。
聖火隊の賛美、新聖火462枚に続いて、内田牧師より一番偉い者と題して、説教していただきます。
聖火隊の賛美、新聖火462枚に続いて、内田牧師より一番偉い者と題して、説教していただきます。
みなさんおはようございます。
06:16
今日も見言葉の時が与えられて感謝をいたします。
今日の見言葉を開く前に一言お祈りをさせていただきます。
たとい私が人々の言葉や見つかりたちの言葉を語っても、もし愛がなければ私はやかましい鐘や騒がしい両八と同じである。
恵み深い天の父なる神様、今日のこの聖日を感謝をいたします。
新しい月をここに開いてくださり、また今日は新規日として、心を新たにしてこれから前進してまいりますから、神様どうぞ今までと変わらず伴って私たちをお導きくださるように。
暑い夏もここまで支えられまして感謝をいたします。
子どもたちにおきましても夏休みが終わって明日から新学期を迎えます。
どうぞ子どもたちが元気に、そしてまた神様のお守りと支えの中でこれから歩んでいけますようにどうぞお導きください。
私たちもまた今までと変わらず主の前にもう一度整えられてそれぞれの場に使わせてくださるように、そのためにはまた御言葉が必要であります。
御言葉を通して主御自身が私たちに語ってくださいますように、神を愛しまた隣人を愛せよ、愛がなければそのように御言葉にあります。
このアガペこそが神様が私たちに与えてくださった尊いもの、また私たちが神様から与えていただけなければならないそのアガペを今日も覚えて、そして十分に満たされてここを出ていくことができるように。
使わされたその場にあってこのキリストの愛を人々に明かししていくことができるものにしてくださるように、そのためには御言葉が必要でありますから、今日も整えてくださるように。
弱さを覚えている人たちの上にどうぞ神様の癒しが豊かにありますように、また今日いろんな事情があって来れなかった兄弟姉妹方のうちにもどうぞその場にあって主を覚えて主をあがめるときとなりますように、
また神様を知らない方々の上にもどうぞ臨んでくださって、教会のなす業を通して福音があまねく届きますように、また聞いた人たちが信じてそれを受け入れるときが来ますように、神の子としてまた新しい歩みをそこから始めることができるように助けてください。
09:11
しばらく教会から遠のいている人、どうぞ神様はいつも覚えておられますから、どうぞその場にあってもう一度主を覚え、そしてまた礼拝に集会にまた来ることができるように、その妨げをまた取り除いてくださるようにお願いいたします。
今日ここに集えたことを心から感謝し、また主の御言葉を待ち望みます。どうぞ私たちを御言葉によって養ってくださるように、今からのひとときどうぞ委ねますから主御自身がお語りくださるように、どうぞ語るものを御手に隠して十字架にどうぞ主の御愛が豊かに表されたことを私たちも覚えるときとなりますように、
全てをお枝にして主キリストの皆によってお祈りをいたします。アーメン。
読んでいただきましたようにマルコの福音書の九章に来ております。聖書研究起答会のように一章ずつじっくり学んでいくという、そういうことはできませんので、今日は九章の三十三節から三十七節のところを読んでいただきまして、
特に三十三節、三十四節、三十五節のそのところを一緒に考えてみたいと思います。弟子たちが道を行きながら何か話し合っていたという、そういうところから始まっています。そしてイエス様が弟子たちにお前たちは道で何を論じ合っていたのですか、そのように聞きました。
すると弟子たちは黙っていた。答えをしなかったんですが、イエス様はもうすでに彼らが何を論じ合っていたのか知っていたようであります。しかしあえて何を論じ合っていたのかと聞いたわけですが、弟子たちは答えなかった。
彼らの論じ合っていたことはここにありますように、誰が一番偉いかということ。弟子たちの一番の関心事、それが誰が一番偉いかという、そのことであったということがここからわかります。
今日はこの偉いということをまず考えてみたいんですが、偉いとはどういうことなのか、あるいは偉い人というのはどういうことなのか、そんなことをいろいろと考えてみたいと思うんですが、偉い、国語辞典によりますとそれは優れていることというふうに書いていました。
12:13
それでは偉い人というのは優れた人ということでいいだろうかというんですね。よく本屋さんに行きますと偉い人伝という偉い人の伝記ですよね。偉人伝というのがだーっと並んでいまして、そういうのを私たちも読んだことがあります。
大抵それは歴史上で名を成した人とか、何か功績をした人とか、そういう人たちが偉人伝に名を連ねている、その人の伝記が書かれてあるわけですが。
例えば世界史とか日本史の中で出てくるそういう人たちの中に偉人伝というのがあるわけですが、読んで字のごとく偉い人ですから偉い人なんだろうなとそういうふうに思うんですが、例えばナポレオン。ナポレオンはそれじゃ偉い人なのか。コロンブ氏は偉い人なのか。
日本史の場合だったら誰でしょうか。聖徳太子は偉い人なのか。織田信長、あるいは戦国のそういう大名たち、そういう人たちが偉い人、偉人として名を連ねている。彼らは偉い人なのか。
その分野で何か活躍した人、あるいは記録を作った人、そういう人も偉い人に名を連ねていることもあるわけです。その分野でトップになった人、記録を作って一番になった人、今でいえば金メダルを取った人が偉人の中に加えられるかもしれない。
そんなことを考えるわけですね。政治の分野ではどうでしょうか。選挙に当選したらあの人は偉い人なのか。かつて末は博士か大臣かと言われて、出世の極みが博士か大臣かという、そういう時代もあったわけですが、大臣が偉い、大統領は偉いという、そういうことなのか。
弟子たちは誰が一番偉いのかというふうにして考えていたわけですが、いわば偉い人の条件、彼らの言うあるいは弟子たちの言う偉い人の条件というのは、まず有名人であるということ。
15:00
そして何か大きな業績を成した。どんな業績かわからないんですけれども、何か人の驚くような、人の目につくような、歴史に何か残るような、そういう業績を成した、そういう人が偉いということですよね。
それでは、果たしてそういう偉人の人たちは、それじゃ彼らは悪さをしたことがないのかと指摘する人もいるわけです。偉人、偉い人というふうに名をつられますけれども、彼らは、なるほどその分野ではトップでありますけれども、一つも悪さをしたことがないんですか。
ということ。あるいは有名であって、そして何か大きな業績を成したら偉い。それじゃそんなに有名ではない。人々にはあまり知られていない。しかし、それでは偉いことにはならないのか。
その人は、人には知られていない。あるいは大きな業績ではない。小さな業績であるかもしれない。でも、その周りの人たちは、あの人は偉い人だということも聞くことがあるわけです。感謝している、そういうことがあるわけです。
私たちも子どものところに、あるいは子どもに対して何かお使いを頼みます。そしてそれをしてくると、偉いねと言います。誰もそんなことを知らないし、私とその子どもとの間のことですよね。
そんな大したものでもない。でも、その子どもにとっては一生懸命やった。そのことに対して偉かったねという場合の偉いというのは、それじゃ何だろうか。
いつも100点を取っている子どもが90点を取ってきた。そうすると、そういう親がいたとした場合、ダメじゃないのと叱られている。ところがある子どもはいつも30点しか取れない。ちょっとサボっていたんでしょうね。
ところがちょっと夏休み頑張って50点取った。そうすると、ああよくやったね。偉いねと褒めてもらえた。この偉いって何でしょうか。優れているとするならば50点よりも90点の方が優れている。でも片や叱られて、片や偉いねと褒められる。この偉いって何だろうか。
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そんなことを考えさせられるわけです。あいつはどうもスカンと偉そうにしている。偉そうにしているということが何か鼻につく。その場合の偉いというのはどういうことなんだろうか。自分は偉いんだ、優れているんだというふうに自慢しているんでしょうか。
そういうふうにして私たちは一言で偉いということを言ったり聞いたりするんですが、案外幅の広い、そしてなかなか考えさせられる、そういう言葉であるな、そのように思うんです。
また映画の話になるんですが、男はつらいよ。トラさんシリーズ。これは本当にいい映画ですね。どうぞ落ち込んだときには男はつらいよを見てください。おすすめします。
ただ慰められるだけではなくて、私はやはりこのトラさんの中にアガペを見るんですね。日本人にとってアガペとは何だろうかと考えるときに、このトラさんの中にちらちらっとアガペを見ることができる。そういう意味でもよく見させていただいているんですが、そのトラさんの歌の中にこういうのがあるんですね。
始めは、私生まれも育ちも葛飾柴又ですって始まるんですが、その歌の中にこのようにあるんですね。
俺がいたんじゃ、お嫁には行けぬ。わかっちゃいるけど、わかっちゃいるんだ妹よ。いつかお前の喜ぶような偉い兄貴になりたくて、偉い兄貴になりたい。そういう思いがトラさんにあるわけですが、奮闘努力の甲斐もなく、今日も涙の日が落ちる。
まさに奮闘努力をするんですけれども、トラさんはいつも失礼してしまうんですが、彼が偉い兄貴になりたいと思ったその偉いとは何でしょうか。もちろんここでも立派な兄貴になりたい。そういう意味なんでしょうか。
ここでも偉いという表現を使っている。弟子たちが誰が一番偉いんだろうか。自分じゃないだろうか。いや、自分ではない。あいつだろうか。一番偉い者は誰かというふうに彼らは考えていたときに、偉いとは何だろうか。
そういうふうに考えるわけですが、いろいろと考えていくときに、偉いというのは何か基準があって、それに対して誰が偉い。そして誰が一番だ。誰が二番だ。どうもそういうものではない。
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ですから弟子たちが考えているような一番とか誰がとか、そういうものではどうもなさそうな感じがいたします。これは感覚的な表現の言葉ではないんだろうか。
そのときにこの人に感謝している。ですからこの人は立派なことをしたと、私たちが感じたときにこの人は偉いんだし、何か人の目にはつかないけれども、私がその人のことをよくやった、立派だと思ったときには偉いという表現もしますし。
自分の中に何か目標になるようなもの、そういうものをイメージして、それに到達したい。そういう思いがあったときには自分の中で偉い。偉いところに偉いと言われるようなそういうものになりたい。
そんな非常に感覚的なものではないだろうか。そのように思うわけです。しかし弟子たちが誰が一番偉いかと言っていたのは、おそらく世の中で言う偉いという何か、それこそ世の中が偉いという基準を持っていて、弟子たちもそれに準じて誰が偉いのかというふうに、
思ったんだと思うんですね。それは何かというと、35節でイエス様が言っているように、誰でも人の先に立ちたいという、その弟子たちが考えている一番偉いというのは、イエス様流に言えば、そうかお前たちは一番偉いというのは一番先に立ちたいのか、上に立ちたいんだなというふうにイエス様は理解なさったわけですね。
上に立ちたい。若い人たちに分かりやすく言うと、センターに立ちたいということですよ。世の中というのはそうですよね。誰が一番偉い、誰が上なのか、誰がセンター、一番中心なのかということが私たちの目指すものだという、それにあやかって弟子たちもそのことを考えていた。
私たちが救われるとは何だろうかと考えるときに、それもいろいろあるんですが、その一つは、私たちが今まで世の中の価値観に生きてきた、それは良いこともあるし悪いこともあるし、分からなかった。
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分からないけれども、様々な世の価値観、学校で教えられたこと、あるいは親から、あるいは周りの人から、いろいろな人から教えられた、その世の中の価値観に生きていたものが、聖書を通し、信仰を通し、神様を通して、神の基準に立って価値観を決めたり、自分の生き方を決めたり、
そうするふうに、そういうように変えられていった。そのことも含めて、私たちは救われるということだと思う。
ですから、この弟子たちは、そのようにして、彼らが本当の意味で救われる前は、誰が一番偉いんだろうかというような、この世の価値観に彼らは生きていたわけですが、この箇所でイエス様のお言葉をいただくことによって、自分たちの価値観は今までは世の中の価値観であった。
しかし、これからはイエス様がおっしゃるように、この神の国の価値観に立って生きていこうというふうに、ここで示されるわけです。そして彼らもそのように変えられていった。ここにこの救いがあるわけですね。
その一つが、今日この箇所にあるわけです。イエス様は弟子たちが言う、偉いとは何なのか。偉い人とは誰か。そういう議論の中で、このように言ったわけです。
誰でも人の先に立ちたいと思うなら、あるいは人の上に立ちたいと言ってもいいです。あるいは人たちの真ん中に立ちたいと思うならば、皆の心狩りとなり皆に使えるものとなりなさい。
これは弟子たちにとっても、あるいは世の中の人たちにとっても、まるで逆転する言葉ですよね。一番偉いというのは人の先に立つことであり、人の上に立つことであり、センターに立つことだ。
ところがイエス様は、人の先に立ちたい、人の上に立つ、センターに立つということは、真狩りとなり皆に使えるものとなりなさい。あるいは人の先に立ったり、上に立ったり、センターに立ったら、皆の真狩りとなって皆に使えるものとなるんですよ。
全くそれこそ百八十度を転換してしまった。これは一体何を言っているんでしょうか。
弟子たちの言う誰が一番偉い、自分は偉くなりたい、上に立ちたい、先に立ちたい、それはおそらく自分が上に立って、そして人々を従えて、そして自分の命令を人々に下して、それによって人々がその命令に従って動く。
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その中で他の人たちが、例えばそれに逆らうようなものならば、もうそれを退ける。そういうようなことなんでしょうか。偉いというのは、一体彼らは何を考えていたんでしょうか。
皆の真狩りになりなさい。真狩りという言葉も古い言葉になってしまいましたが、これは軍隊が退屈するときに、退軍のときにその軍の最後にいて、そして敵が追ってきますよね。
敵は追ってくる。その最後にいて、自分の軍を守るって言うんでしょうか。一番分の悪い部署であると言えますが、しかしそれは非常に大事な働きですよね。その一番最後真狩りが崩れてしまうと、やられてしまう。
もちろん退くというのも一つの作戦でありますから、うまく退いて、もう一度整えて戦うためにも、その真狩りがしっかりと働かなければならない。そういう意味でも真狩りとなりなさい。そして人の先に立ちたい、人の上に立ちたいと思うなら、皆に使えるものとなりなさい。
使えるもの、それは例えばそういう世話をしなさい。あるいは気を配りなさい。あるいは他の人の能力を引き出しなさい。あるいは皆が働きやすいように環境づくりをすると言うんでしょうか。
いわゆる使える働き、下辺の働きのような、そういうものをするんですよ、というわけです。ですから弟子たちが考えていた偉い人、上に立つ人、先に立つ人というのが、ここで本当に逆転させられたというわけです。
弟子たちのおそらくイメージとして、偉くなりたい、偉くなったらこういうふうになれるんだ、それはエジプトの王、パロのような、そういうものであったんでしょうか。
この立派な王座にしっかり腰を据えて、そして周りにはべる人がいて、そして自分の命令一つで民単学を動く。誰も逆らうようなものはいない。あるいは戦国時代の殿様のような、そういうことでしょうか。
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それが偉いということなのだと思っていた弟子たち。しかしイエス様は、お前たちの言う偉いというのはそういうことなのか。しかし私は言います。誰でも人の先に立ちたいと思うなら、皆の心狩りとなり、皆に使えるものとなりなさい。
イエス様は決して、彼らの言う偉いとか、上に立つとか、先に立つとか、真ん中に立つとか、それを否定なさってはいないんです。それは尊いことでしょう。それに努力してそういうふうになろうとする。それは決して悪いことでもないし、それは否定されるものではない。
しかしもし許されて、上に立ち、先に立ち、先端にも立ち、あるいは皆からあの人は偉い人だと言われるような、そういう立場に立ったならば、そのとき皆の心狩りとなるんですよ。皆に使えるものとなるんですよということをおっしゃったわけです。
これがイエス様流のサーバントリーダーシップということなんです。
見言葉が私たちの養いでありますけれども、それが力となり、実際の生活の中でその言葉が生きて働かなければ意味がない。
ですからこのイエス様流のサーバントリーダーシップを表すこの言葉、人の先に立ちたいと思うなら、皆の心狩りとなり、皆に使えるものとなりなさい。
これが私たちのこれから家に帰って、あるいは社会に出て、いろんな場面場面でこの言葉が生きて働かなければ、私たちが礼拝でお言葉をいただいた意味がないということなんです。
あるいはこのお言葉を生かして何かできないだろう、何かこれを生かしていこう、そういうことを私たちはするわけですね。
あるこれは実際の会社経営、一つの組織ですけれども、その組織で経営をしておったその会社、それはワンマン社長の経営というのでしょうか。
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いわゆるそれこそトップダウンですよね。社長と言われるそういう一番のトップの人が全て命令を下す。それによって社員が動く。社員がそれに歯向かうようなことがあれば即左遷、あるいはもうクビですよね。
そういう会社経営、これも実際にあるわけですけれども、勢いのあるうちはそれでもいいんでしょうけれども、次第次第にその会社の中の様子がやがておかしくなってきて、そしてなかなかうまくいかなくなってくるということもあるわけですが、
ある組織、会社経営であるならば、そこにもいわゆる長とつく人があるわけですよね。そしてその位が上に行けば行くほど腰が低くなるというんでしょうか。
実るほど光明たれる稲穂かなに表されるように、その人が実績を積み、そして位も上がり、皆から信頼を受けて、そしてだんだんトップに上っていく。
そして上に行けば行くほど腰が低くなって謙遜になって、そして部下のことを気遣う。そして働きやすいような環境を整えることに精を出す。そして部下の人たちの能力を引き出してあげるような、そういう環境づくりを心がけていく。
そうすることによって皆が意見を出したり、アイデアを出したり、そういうふうに自由な雰囲気の中で会社経営をしていく。あるいは組織を動かしていく。それがいわゆるサーバントリーダーシップの組織経営ということですね。
私たちはいつもどの場面場面にあっても必ずリーダーという人がいるはずです。家庭に帰れば主人と言われる人は主ですから、その人がトップですよね、センターであると。
するならばその主人と言われる方、それがお父さんであってもお母さんであってもいいんですが、主たる者はこのサーバントリーダーシップに則るならば、その家で偉そうに命令をして皆を従えるのではなくて、その主たる者が周りの人たちのことに気を配り、そして率先して皆に使える。
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使えるというのもなかなか難しいですが、使えて、そして一人一人が能力を発揮できるように、そして皆が意見を言えるように、皆がそれぞれの賜物が生かされるような環境づくりに精を出す。
そういうことがその主たる者の務めなのだ。それがまたその人の働きなのだということなんですね。
サーバントリーダーシップに立つような人がいてくれたら、私たちはその人を推したいと思うんですね。そして自分ももしそういう立場に立ったときに、先に立つ、あるいは上に立つ、真ん中に立つ、そういうリーダーのような席にあるところに、もし立つようなことがあったら、許されて立つようなことがあったら、
家様がおっしゃるように、人の先に立つならば、皆の心狩りとなり、皆に使えるものとなりなさい。
いわば下ですから、心狩りですから、一番最後ですね。一番最後。そして上下で言えば下、縁の下の力持ちのような、そして皆に使えるものになる。
決して使えるということは何かこびるような、そういうものではありません。決してかつての奴隷のような、そういうイメージをする必要はありませんが、皆が用いられるように、生かされるように、私はリーダーとして、席にある立場として、何をすべきかというのを常に考えていく。
それが、イエス様の言われた教えであったわけです。このお言葉を私たちもよく理解して、そしてそれぞれ置かれた立場、持ち場で、このお言葉を思い出しながら、人の先に立ちたいと思うなら、皆の心狩りとなり、皆に使えるものとなりなさい。
このことを私たちは覚えていきたいと思います。私たちが許されて、今、教会というところに置かせていただいている。教会というのは、主の召使に預かって召された者たちの群れ。
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その群れのリーダー、いわば弟子たちの言葉でいえば、誰が一番偉いのか、誰がトップなのか、誰が一番先なのか、誰が中心なのか、誰がそれこそ頭なのか、主なのか、それはイエス・キリストである。
ですから私たちのこの教会という群れのリーダー、主はイエス・キリスト。このことだけは決して忘れてはならないし、私たちがこのような素晴らしい、それこそ偉大なるお方の導きのもとに集い、そしてそのお方に従っていけるということは、本当に幸いであろうかと思うんですね。
このお方に従って行きさえすれば、決して間違うことはない。なぜなら、キリスト御自身がこの自分で言ったお言葉のとおりなされたお方であるからですよね。神の国からこの世に来てくださった。本来は神の王であり、大祭司であり、大預言者である。
それこそ偉大なるトップにでもいてもおかしくない、いつも中心に頭として君臨されてもいいお方が、それこそ真狩りとなり、そして皆に仕える下辺の姿をとって困っている人を悩んでいる。そして私たちの弱き者のために仕えてくださっている。いつも私たちを下から支えてくださっている。
人目につこうがつこまえがそんなことをお構いなしに、全ての人の助け手となってくださっている。それが私たちの仕えるリーダーである。そのことを私たちは覚えて、そしてこの方に従っていきたいとそう思うわけです。
お祈りをいたします。誰でも人の先に立ちたいと思うなら、皆の真狩りとなり、皆に仕える者となりなさい。
めぐみ深い天の父なる神様、私たちがもし許されて人の上に立つようなことがあったり、またリーダーのような、指導者のような立場に立つことがありますならば、そのときはどうぞこのイエス様の姿を思い起こさせてくださり、
そしてまたこの御言葉を思い出して、皆の真狩りとなり、皆に仕える者とさせていただけるようにどうぞお導きください。イエス様の尊い皆によってお祈りをいたします。
アーメン
42:00

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