1. 名谷教会 podcast
  2. 2012/09/16:聖日礼拝(旧音源)
2012-09-16 45:42

2012/09/16:聖日礼拝(旧音源)

2012/09/16 聖日礼拝(旧音源)


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ご着席ください。 聖書朗読をしていただきます。
聖書箇所は、マルコの福音書、10章17節から22節までです。 新約聖書の86ページをお開きください。
今朝は、私を正子姉妹にお願いいたします。 どうぞよろしくお願いいたします。
イエスが道に出て行かれると、一人の人が走り寄って、 見前にひざまずいて訪ねた。
先生、たっとい先生、永遠の命を自分のものとして受けるためには、 私は何をしたらよいでしょうか。
イエスは彼に言われた。なぜ私をたっといと言うのですか。 たっとい方は、神お一人のほかには誰もありません。
今しめは、あなたもよく知っているはずです。 殺してはならない。
肝炎してはならない。盗んではならない。 偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。
父と母を敬え。すると、その人はイエスに言った。 先生、私はそのようなことを皆、小さい時から守っております。
イエスは彼を見つめ、その人を慈しんで言われた。 あなたには欠けたことが一つあります。
かえって、あなたの持ち物を皆売り払い、 貧しい人たちに与えなさい。
そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。 その上で私についてきなさい。
すると、彼はこの言葉に顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。 なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。
聖火隊の賛美、新聖火20番に続いて、 藤田牧師より、天に宝を積みなさいと題して、 説教をしていただきます。
首都は孤独厚しきかが 迷い悩みを
とこしまれに変わらざる 父のもとに導く
大きな祈りは 首都は孤独厚しきかが 迷い悩みを
見えぬ身も手ささりなも 語れば知らぬ話を
03:10
月も星も全ては 首都は孤独厚しきかが 迷い悩みを
月も星も全ては 首都は孤独厚しきかが 迷い悩みを
朝に繰り返せず 見えぬ身も手ささりなも 語れば知らぬ話を
月も星も全ては 首都は孤独厚しきかが 迷い悩みを
夜を閉じ望みもて 疲れはじむ嬉しさ
大きな祈りは 首都は孤独厚しきかが 迷い悩みを
朝に繰り返せず 見えぬ身も手ささりなも 語れば知らぬ話を
皆さんおはようございます 今日も御言葉をいただきますが
宗法にも載せておきましたように 明日は敬老の日ということであります
06:04
ですからこのときをお借りいたしまして そのための祝福のお祈りをさせていただき
皆さんも心を合わせて祈っていただけたら 幸いであります
伊沢賞四十六章の三節四節
私に聞けヤコブの家とイスラエルの家の すべての残りの者よ
体内にいるときから担われており 生まれる前から運ばれた者よ
あなた方が年をとっても 私は同じようにする
あなた方が白髪になっても私は背負う 私はそうしてきたのだ
なお私は運ぼう 私は背負って救い出そう
恵み深い天の父なる神様 この幸いなときをありがとうございます
またこの日本において 明日は敬老の日として定められ
幸いなときを与えられていますから ありがとうございます
聖書にありますように あなたの父と母を敬え
また同じように年老いた方々にも 敬意を払いなさいと
御言葉を感謝をいたします
そしてあなたはどんなときにも 背負っていてくださり
そしていつも私たちの励ましとなり支えとなって
この生涯を導いてくださり
また永遠の命をもってあなたがともにいてくださることを
覚えて皆をあがめます
私たちの生涯は限りありますけれども
どの時期においてもあなたはともにいて
私たちの主として私たちを背負っていてくださいます
春もあれば夏のときもあり
そしてやがて秋から冬へと向かいますけれども
冬と言われるような晩年にあっても
あなたは変わらず私たちの主として支えてくださり
そして恵みを施してくださることを感謝をいたします
冬でしか味わうことのできない
その幸いをあなたは用意してくださっています
また冬でしか見ることのできない景色を
私たちも見させてくださる主でありますから
どうぞどの時期にありましても
同じように私たちは主を仰ぎ
またあなたが私の主として
私たちも生涯この方と歩んでいけるように
今日もまたあなたがお支えくださるように
09:01
私たちもまた高齢の方々のことも覚えて
時には弱気を覚えられておられる方々もいます
これまでの歩みの中でさまざまなことがありましたでしょう
またその方々から教えいただき
またそれに習うものとして
特に今日のこの信仰の世界を築いてくださった
私たちの信仰の先輩方に習って
また教えていただき
ご指導をいただきながら
私たちも会いませていただけるように
神様どうぞお祝福を与えてくださるように
お願いをいたします
またそれぞれのご家庭やあるいは社会にあって
祝福をされますようにお願いいたします
神様どうぞこの日本の国を
憐れんでくださるようにお願いをいたします
まだまだ福音の息届いていないこの地にありますけれども
あなたはどの国にあっても
どの国の民であっても
等しく愛し支えてくださっていますから
神様どうぞ私たちの祖国
この愛する日本をあなたが覚えて
名を支えてくださり
これからの行く道をも
伴っていてくださるようにお願いをいたします
こうして教会が建てられ
また主を仰ぐ民がいるということの
この幸いを覚えます
どうぞそれぞれの教会にあって
教会の働きとして
また主に信ずる人たちが
一生懸命労していますから
神様どうぞそのことに覚えてくださって
福音が行き渡りますように
日本は混沌としている状態でありますけれども
そんな中にありましても
主は私たちとともにいてくださり
この日本を導いてくださることを信じます
特にこの日本を導くリーダーたちの上にも
あなたのどうぞ憐れみと支えがありまして
どうぞそれを超えた
主のその導きと
また主が願っておられることが
この地にあって実現することができますように
身国で行われるとおり
この地でも行われますように
この日本でも行われますようにと切に願います
まず私たち自身が今日も御言葉をいただき
御言葉をもって支えていただき
新しい霊の注ぎをいただいて
ここから出ていくことができるように
どうぞお一人お一人のうちに今望んでください
今日来ることができたことを感謝し
また今日いろんな事情で夜明けを覚えてこれなかった
一人一人にあなたが今望んでください
また新しい魂
今まで主を知らなかった人たちにも
どうぞこの誠の神が
12:01
出会ってくださるようにお願いをいたします
上か吐きをもってその方を求めていく
その思いを与えてくださるようにお願いいたします
今日も御言葉をいただきます
どうぞ御言葉に託された主の御思いを
私たちも知ることができますように
語るものを十字架に隠して
主の御言葉だけが残りますように
全てを委ねて主キリストの
皆によってお祈りをいたします
アーメン
私たちはよく
御利益とか御利益信仰とかいうものを聞きます
私たちのこの信仰が御利益なのかどうか
それは答えは出ていませんけれども
ただ一つはっきりと違うことは
いわゆる御利益を求める信仰
宗教
と言いますのは
神様
あなたが私の言うことに聞いてくださり
そして私の願いにその通りしてくださるなら
私はあなたを信じます
そして
神様私の願い通り思ったようにしてくださらなかった
だからもう結構です
私はまた別のお方に
そのお方を信じていきます
そのお方は私の言う通りになりました
感謝します
これからもあなたに従います
そしてまたあるとき
神様私の思い通りにならなかったじゃないですか
もう今日からあなたはもう結構です
また別のお方にという
そのようにして
神様の神様渡り鳥のような
こういうふうにしていくわけですね
いわゆるその主体が私にあるわけですね
私が願ったことに対して
あなたはどう答えてくださるのか
それに対して私が選んでいく
常に主体が私にあって
それにどう答えてくださるか
これがいわゆるご利益信仰だと言えます
しかし私たちの信仰は全く逆です
まず神の国とその人を求めなさい
そうすれば必要なものは
全て添えて与えるであろう
私たちが神の国と神の義をまず求める
その中には神様がそれに対して
何か答えてくれようが答えてくれようまいが
そのことはおいて
私たちはまずこのお方を信じて
そのお方に委ねあるいは懸けて
そしてこのお方についていこう
15:02
それがまずあるということですね
そしてその後のいわゆる主権は
神様の側にある
それに対して答えてくださる
どのようにして私たちに
それにあるいは報いてくださる
あるいは私たちの願っていることが
御心にかなわないとするならば
神様は自分の主権でもって
それを表しなさらないということ
そこに大きな違いがあるんだと思うんですね
今日のテーマのことについても
そのことが大きく関わってくるんだと思うんですね
今日は御言葉にありました中に
あなたは天に宝を積みなさいということが書いてありました
天に宝を積みなさいとか
宝を天に蓄えなさいとか
そういうことを今日一緒に考えてみたいと思うんです
宝ということを聞いて
皆さんは何を連想されるでしょうか
御言葉からいろいろと引き出してみますと
クリスマスの聖誕劇で必ず出てくる
三人の博士たちが
生まれた幼子イエス・キリストの前にひざまずいて
博士たちは宝の箱を開けて
黄金入稿持役を捧げた
この宝というのはとても貴重品なもの
非常に高価なものという
そういう意味で宝の箱
それも一つであります
あるいはヘブル美帝の十一章二十六節に
エジプトの宝に勝るというそういう表現があります
これは当時の古代エジプト
大変栄えたそのエジプトにおいて
この王パロは絶大な権力を持っておったわけですね
ですからピラミッドやスフィンクスに象徴されるような
大変な金銀財宝
そういうものが溢れていたわけですが
そういうものを連想するときに
エジプトの宝という表現が出てくるわけであります
あるいは映画を極めたときのソロモンに勝ってというような
このソロモンが神殿を建てた再建したという
あのときもこの第一列置などに
その神殿にどんな材料を用いたのかというのが
こと細かに書かれているんですが
もう豪華賢乱と言いましょうかきらびやかな
そういうものであった
それらは皆当時の貴重品
18:03
高価なもの宝と言われるようなもの
一般の者たちにとってはどうて手の届かないような
そういうもの私たちはそういうふうにして
宝というものをそのようにまず連想するわけですが
それではそのエジプト王のパロ
あるいはソロモンが持っていたような
そういう金銀財宝そして宝石とかそういうものは
それらはそれをどこに蓄えていたのでしょうか
あるいはもしそこまでは行かなくても
そこそこの貴重品高価なもの財産富というようなものを
もし皆さんが持っておられたとするならば
それをどこに蓄えておきますかというわけですね
おそらくそういうものがあったとするならば
それを金庫に収めておくとかあるいは銀行に収めておくとか
あるいはそういうものを株とかそういう書類にして保管しておくとか
同産不同産さまざまありますけれども
そういうふうにして蓄えていく
あるいは積み重ねていくという
そういうことがあるわけですが
それはやはり聖書にもありますように
そういうものはこの地に蓄える
いわゆる自分が生きている間
この私の目の黒い家はそれらを自分が保管して管理して
そしてそれをこの地に蓄えていく
そういうことをするわけであります
そういうことを私たちが覚えていくときに
イエス様は群衆にこのように言ったことがあります
自分の宝を地上に蓄えるのはやめなさい
そこでは虫とサビで傷者になり
また盗人が穴を開けて盗みます
自分の宝は天に蓄えなさい
そこでは虫もサビもつかず
盗人が穴を開けて盗むこともありません
そのようにイエス様はおっしゃったわけです
自分たちの蓄えたあるいは積んできたこの地の宝
それらは必ずそうなるとは限りませんけれども
このようなときがある
それは虫がついてしまってだめになってしまう
特にこういう衣類のようなものは虫が食うことがあります
21:01
あるいは書類で置いておったものが何かで傷んでしまう
錆びついてしまう
金属であればそれが錆びついてせっかくの高価なものがだめになってしまう
あるいは傷者になってしまう
あるいは陶器だと壊れてしまう
また盗人が来てそれを盗んでいってしまう
ピラミッドはあれは王の墓であります
あそこに金銀財宝すべてが隠されていたわけですけれども
それから何百年前年たってその中に入ってみますと
もう中は何もないわけですね
それは盗人たちが盗んでいったわけであります
私たちは経験はありませんけれども
そういうふうにして財宝を持っている
それをこの地に蓄えていくということも
ある面幸いであり幸せなんでしょうけれども
反面大変心配事も多いんだろうなと想像するわけです
このような傷がつき錆びがつき虫がつき盗人が来る
そういうものがあるんだな
ある国では誘拐が絶えない
特に子どもの誘拐が絶えないという国があります
盗人あるいは誘拐犯というのはプロですから
目をつけたその人のすべて持っているもの
一切を綿密に調べて
そして子どもなりを誘拐して
そして見直し料金を補給する
そういうことで財宝財産を持っている人も大変だな
そのためのセキュリティをしっかりしないといけない
たくさんの人を雇ってそれに敬語につける
あるいはどこ行くにも誰かがついて行く
そして家にはいくつも鍵がかかっていて
というようなそういうこと
そしていつ狙われるかわからないという
そういう心配そういうものが絶えないんだろうな
そのように思います
これもまた大変だろうな
私はあるとき出かけまして
その途中で家に鍵をかけてくるの忘れたというのを気がついて
でも戻ってまた鍵をかけていくのは時間がない
そのときにまあいいか
うちに泥棒入っても何も取るものもないし
むしろうちに入った泥棒さんは気の毒やな
まあいいかというふうに思ったことがありました
24:02
何が幸いで何が心配か何が不安かというのは
まだわからないものであります
いずれにしましても人間というものは
自分が貯めた財産もちろん一生懸命働いて
蓄えた財産宝貴重なもの高価なものを
このうちに蓄えていくということであります
それに対して
家様が言われた
自分の宝は天に蓄えなさい
今日の御言葉の中にも
あなたは天に宝を積むことになります
地に宝と天に宝
これは一体どういうことなんでしょうか
私たちに問われているのは
あなた方が一生懸命働いて
あるいはそのことによって蓄えた
その富と財産と
そしていろんな貴重なもの
それを地上に蓄えるのはいいけれども
あなた方はやがてこの地を去るときがきます
そのときその蓄えたものはどうするんですか
当然それらを持っていくことはできない
それらはやがて置いていかざるを得ないということですよね
それは誰しもがわかっていることであります
それに対して
天に宝を蓄えよということを私たちは
今日考えてみたいと思うんですが
地上に対してのいわゆる天井
上を見上げてそれが天井なのか
この天に宝をというこの天というのは
私たちが上を見上げて空の向こうにという
そういうことではなく
天というのはいわば神の国
神様がおられる身国
あるいは神御自身が御支配なさっているそのところ
それをいわゆる天というわけです
もちろん私たちがこの世を去ったその先も
神様が全て御支配なさっているとするならば
そこは天でありますし
私たちが今この場にあって
死を仰ぎ見ながら礼拝を捧げているとするならば
ここに神様がおられて
神の主権によってこの場が支えられているとするならば
ここは天であります
そういうことを考えていくときに
天に宝を蓄えなさい
そのことが少し分かってくるわけであります
27:01
誠の神天地万物創造者父なる神
そして救い主イエスキリスト
精霊の神というその誠の神がおられるところ
そこに宝を蓄えなさい
そのように言うわけですね
宝ということに対して
もう少し思いをめぐらせていくと
子供のころですね
私たちの子供のころもそうですが
今の子供たちもそうだと思うんですが
時にはビー玉や
あるいはポケモンのカードや
そういうものを集めている男の子がいます
それを引き出しとか
この缶に入れています
それを見つけて
僕これ何というと
これは僕の宝物と言います
女の子にあっては
このお人形さんはいつも抱えている
これは何
私の宝物と言います
ここに宝というものがあるんだな
それは決して人から見て
高価でもない
そういう
お金のかかっているようなものではない
しかしその人にとっては
大切なものあるいはかけがえのないもの
そういうものを宝と言うんだな
ということもわかってくるわけです
そしてその
その人にとって大事なもの
あるいは何としてでも
それを得たいと思うようなもの
それもまた宝であります
一度それを手に入れたならば
もう何としてでも離したくない
あるいはあそこに宝がある
ここに宝があると聞くならば
それを何としてでも自分のものにしたい
そういうものが宝と言われるものです
それで先ほど読んでいただきました
マルコの福音書の十章に戻りますが
一人の人がイエスのところに来て
跪いて尋ねました
先生永遠の命を自分のものとして
受けるためには私は何をしたらよいのでしょうか
この人にとって最大の関心事
それが彼にとっての宝ですよね
それが永遠の命でした
永遠の命を何としてでも求めて
それを自分のものにしたい
それは彼にとっての宝であったわけです
どうしたらいいのでしょうか
何としてでもそれを手に入れたい
イエス様は言われた
今しめを守りなさい
30:00
そうすればあなたの求めている宝の
その永遠の命は与えられるでしょう
今しめを守って生きていきなさい
殺してはならない
簡易してはならない
盗んではならない
偽証を立ててはならない
欺き取ってはならない
父と母を敬え
するとその人はイエスに言った
私はそのようなことは
皆小さい時から守っております
彼はこの通り本当に小さい頃から
今しめをしっかり守っていました
だったら私に永遠の命
宝としての永遠の命は与えられるんですね
するとイエス様はこのように言いました
あなたには欠けたことが一つあります
もしあなたが永遠の命
宝を我が物にしたいとするにあたって
欠けたことが一つあります
それをあなたがすることができたら
あなたは永遠の命を与えられるでしょう
それはかえってあなたの持ち物を
皆売り払い
貧しい人たちに与えなさい
そうすればあなたは
天に宝を積むことになります
この人にとっては
全くの逆のことを
イエス様に言われたわけです
自分は財産を持っている
多くの財産を持っているというふうに書かれています
自分が財産を持っている
それも含めて
それに対して今永遠の命をいただきたい
というわけですね
イエス様はあなたの持っている
全ての財産を売り払って
その売ったお金で
貧しい人たちに施しなさい
彼にとっての宝というのが
ここで自分自身の中で
もう一度問われたわけです
今宝を欲しい
その宝を
永遠の命をいただくには
今持っている宝財産を
手放さないといけない
今持っている財産に
表される宝を
この地に置いて
手放したくなかったら
永遠の命としての宝は手に入らない
さあどちらを取るのかということを
イエス様は迫りなさったわけです
この人に対して
それを心見られたときに
彼はこの言葉に顔をくもらせて
悲しみながら立ち去った
なぜならこの人は多くの財産を持っていたからです
33:00
彼は自分の今
この地に蓄えた宝を手放すこと
によって永遠の命という宝を
売ることを拒んで
永遠の命という宝ではない
この地に今まで自分が
蓄えた財産
宝を
取ることを選んだわけです
この人はその後
どういう歩みをしたのか
聖書には書かれていません
しかし彼が
イエス様の言葉に対して
顔をくもらせ悲しみながら立ち去った
ここに希望があります
彼は何としてでも永遠の命を欲しいと
しかし自分の持っているものを手放さないといけない
しかしそれを手放したくない
その今葛藤の中に彼は置かれたわけですね
彼はもう永遠の命なんかいらない
もうそんなよりも私が蓄えたこの地の財産
それをしっかりと守っていく
それを選ぶんだ
そして彼は立ち去ったというのではなく
彼はイエス様の言葉に顔をくもらせ
悲しみながら苦しみながら
おそらく帰った
彼の苦悩の中に
彼はきっとあるとき
このことに目覚めて
自分の財産を手放そう
私はこの地の宝よりも
天に宝を積むこと
そのことによって与えられる永遠の命
これこそが誠の宝なのだ
私はそうしようと
きっとそういうときが来たんだろう
私はそう思うんですね
このときはなるほど試みられた
しかし彼はそのことに苦しんで立ち去った
私たちももう一度
これと同じような試みはないかもしれません
しかし
あなたは
本当に永遠の命を求めているのか
そのために私たちは何を
この地に蓄え
そして何を天に蓄えていくのか
イエス様は
あなた方は
地上に宝を蓄えることをやめなさい
36:01
天に宝を蓄えなさい
そのようにおっしゃったわけです
私たちにとって
大事なものかけがえのないもの
それが宝とするならば
それもやはり
大事にしていかなければならないこともたくさんあります
この地にあって
大事なもの
子どもにとってのカードやお人形さんと同じように
私たちがこの地で生きていくために
どうしても大事にしないといけない
必要なもの
大切にしていかなければならない
そういうものも確かにあります
それらはみな宝です
それは自分の命もそうです
健康もそうですね
あるいは家族であったり
家であったり
人間関係であったり
与えられた仕事であったり
生活をしていくための
やはり金銭も必要であります
あるいは人生を楽しんでいくための
そういうことも必要でありましょうし
生きがいとか
そういうものは
やはり私たちにとって
与えられた大切なもの
それらは大事にしていかなければならない
決して家様の言うあなた方が
この地に金銀財宝
そしてそういう意味での宝を
地上に蓄えてはならない
ということではありません
大事なことは
天に宝を蓄えなさいということを
私たちがもう一度ここで覚えるということです
その天に宝を
それでは積むとは
蓄えるとはどういうことなのか
これは私たちは聖書を通して
生涯学んでいくことであります
これが天に宝を積むことだ
ということを
短い時間で私たちが分かるというものではありません
聖書を通し
私たちの生涯をかけて
それに取り組んでいくこと
そのことによって
これが聖書の言う
イエス様の言う
天に宝を積むことなんだな
ということが分かってくるわけです
マタイによる福音書の25章
また開けていただいたらいいかと思うんですが
王が
その自分の民の一人に
民たちにこのように言ったことがあります
王というのはすなわち神様のことでありますけれども
マタイ25章の35節からのところですが
王はこのように言いました
39:00
あなた方は私が空腹であったとき
私に食べるものを与え
私が渇いていたとき
私に飲ませ
私が旅人であったとき
私に宿を貸し
私が裸のとき
私に着るものを与え
私が病気をしたとき
私を見舞い
私が牢にいたとき
私を訪ねてくれた方からです
するとその人は言いました
主よ
いつ私たちはあなたが空腹なのを見て
食べ物を差し上げましたでしょうか
渇いておられるのを見て
飲ませたでしょうか
あなたが旅をしておられたときに
泊まらせてあげた
裸を見て
着るものを差し上げた
病気なのを見て
あるいは牢にいるのを見て
お尋ねしたでしょうか
いや私には
あなたがそのようなことをなさって
私たちが
あなたにそのようなことをしたというのは
どうも覚えがないんですが
そのように言いました
すると王は彼らに答えました
誠にあなた方に告げます
あなた方がこれらの私の兄弟たち
しかも最も小さい者たちの一人にしたのは
私にしたのです
神は人を通して
その身業を表しなさる
そして見えない神様は
私たちが神様に何をして
差し上げるんですか
でも神様は
私にするということは
私が愛しているその人たち
その人たちに
あなたがしてくれたこと
それがすなわち
私にしてくれたのだ
私の愛する一人一人
それがいわば私が
使わせたものと言ってもいいでしょう
というわけなんですね
その一人
最も小さい者たち
それは
社会から疎外されている人たち
あるいは私たちの知らないところで
悩み苦しんで助けを求めている人たち
ここにありますような
空腹の人
上乾いている人
旅で困っている人
着物のない人
病気の人
牢に入れられている人
そういう人が
世にはたくさんいます
それは
私が
愛する者たちとして
小さな者たちとして
そこに使わせているのだ
すなわちそれは
私と同じであると言っても
過言ではない
あなたはその人たちに
してあげたではないか
ああそういえば
あの人に
こういうことがありました
確かに
病気の人に
あああの困っている人
そういうこともありました
悩んでいる人たちに何か
私のできることとして
してあげた
そういうことを
一つ一つ振り返ると
確かにそういうことがありました
それだ
それがすなわち
42:00
私にしてくれたのだ
そしてその
小さな者たちを通してした
私にしたことは
天に覚えられて
積み上げられているのだ
それがすなわち
天に宝を積むということなのだ
私たちが何かを
報いを求めて
あるいは何かしてもらいたいと思って
したことではない
それに対して報いてくださるか
報いてくださらないか
そんなことは私たち考えたことはありません
しかし
神様はそれを見ておられて
そして
やがて
あなた方が
天に
おいて
私と相まみえるとき
あなたは
蓄えたこの天の宝は
これだけのものですよ
ということを
神様は言ってくださる
私たちが
報いを求めようが
求めようまいが
私たちの
身近に
いる人たち
困っている人たち
手を差し伸べる
そして
私たちが
したことに対して
人々は喜んでくださる
ときには
ありがとうございますと感謝してください
私とその人以外誰も見ていない
しかしそれは
誰かが見ている
誰かが見ている
人は見ていなくても
主語自身はそれを見ていてくださって
その人のために
それを
天に
宝として
積んでいてくださる
そのことが
天に宝を
蓄えるということなのだ
そのことを
今日もう一度
この御言葉から
覚えさせていただいて
本当に感謝なことだな
そのように思うわけであります
これまで
皆さんもいろんなところで
その場にあって
大変なことがあったでしょう
あるいはいろんな人のお世話で
ご苦労なさったことも
あるかもしれません
教会において
あるいは家庭において
職場において
また社会において
いろんなことがあった
しかしそれらは皆
神様が
観ておられて
覚えておられて
天に宝として積んでいてくださったことなのだ
そのことを
また励みとして
これからも
進んでいきたい
そのように願います
お祈りをいたします
宝を天に蓄えなさい
天の父なる神様
今一度
自分にとって
大事なもの
あるいは
かけがえのないものが
何であるかを
考えるときと
また御言葉を
与えてくださり
感謝をいたします
45:01
私たちの
この限りある生涯
いつかは
この地上に
置いていかなければ
ならないことだけに
熱心に
なることのないように
天にまで
携えていけるものに
永遠の命に
つながる
ものに
もっと熱心に
もっと誠実に
取り組んでいくことが
できますように
主をどうか
私たちを
導いてください
終焉様の尊い
皆によって
お祈りをいたします
アーメン
45:42

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