1. 名谷教会 podcast
  2. 2012/09/30:聖日礼拝(旧音源)
2012-09-30 38:46

2012/09/30:聖日礼拝(旧音源)

2012/09/30 聖日礼拝(旧音源)


00:01
どうぞ、ご着席ください。
聖書朗読をしていただきます。
聖書のお箇所は、丸子の福音書、10章の46節から52節、
修法の方はちょっとスプリントがありますので、注意してください。
10章の46節から52節、藤田兄弟に聖書朗読をしていただきます。
お呼びします。
彼らはエリコに来た。イエスが弟子たちや多くの群衆と一緒にエリコを出られると、
手前の子バルテマイという猛人の物語が道端に座っていた。
ところが、なざれのイエスだと聞くと、
ダビテの子イエス様、私を憐れんでくださいと叫び始めた。
そこで彼を黙らせようと大勢で成しためたが、
彼はますます、ダビテの子よ、私を憐れんでくださいと叫び立てた。
するとイエスは立ち止まって、あの人を呼んで来なさいと言われた。
そこで彼らはその猛人を呼び、心配しないでよい、さあ立ちなさい、あなたをお呼びになっていると言った。
すると猛人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がってイエスのところに来た。
そこでイエスはさらにこう言われた。
私に何をしてほしいのか、すると猛人は言った。
先生、目が見えるようになることです。
するとイエスは彼に言われた。
さあ行けなさい、あなたの信仰があなたを救ったのです。
するとすぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれるところについて行った。
以上です。
続いて聖火隊に賛美していただきます、
神聖火153番、その後内田先生より何を見て生きるのか、と題しまして説教していただきます。
神聖火153番、その後内田先生より何を見て生きるのか、と題しまして説教していただきます。
03:28
神聖火153番、その後内田先生より何を見て生きるのか、と題しまして説教していただきます。
神聖火153番、その後内田先生より何を見て生きるのか、と題しまして説教していただきます。
神聖火153番、その後内田先生より何を見て生きるのか、と題しまして説教していただきます。
06:04
皆さんおはようございます。
今日も見言葉をいただく時が来ました。
一言お祈りをして、今日の歌唱を開いていきたいと思います。
私は生きている限り主に歌い、命のある限り私の神に褒め歌を歌いましょう。
天の神様、こうして安息日を与えられ、あなたの御前に集うことができたことを感謝をいたします。
日頃、個人的にあなたとの交わりが祝福されていますけれども、
日曜日の朝こうして、時と場所を一つにして、集いあなたを礼拝できるこの幸いを心からありがとうございます。
共に声を揃えてあなたを賛美できる幸いを感謝をいたします。
私の生きている限り主はあなたに歌います。
あなたを褒め歌わせてください。
あなたは賛美を受けるにふさわしいお方であるからです。
そして私たちの贖い主なるこのイエス様を仰ぎ、また十字架に表された神の愛を今ひとたび受けて、
そして私たちが罪から贖い出されたことを感謝するひとときとしてくださるように、
そしてこの礼拝でいただいた恵みを絶やすことなく常に覚えて、
御霊によって支えられていくことができるように、
血の注ぎが与えられていることを心から感謝をするとともに、
またこの福音がこの地域にあるいは日本全国に、世界中に行き渡るようにと、
教会の働きをもあなたが推し進めていてくださるように、
集う皆さんの一人ひとりの賜物が用いられて、この福音があまねく伝えられてまいりますように、
またこの神の御業がそれぞれの置かれている場所で表されていくことができるように、
この身の上に神の御業が現れるためにと、
神様が一人ひとりを支えていてくださることを信じて委ねています。
今日も御言葉を待ち望んでいます。
どうぞこの御言葉が私たちの霊の糧となりますように、
またしっかりとこの御言葉を受けて、これを携えてそれぞれの場に出ていくことができますように、
どうぞ導いてください。
語るものをも十字架に隠して、主の御言葉のみが人々の心にとどまりますように、
おゆだねをしてイエス様の尊い皆によってお祈りをいたします。
アーメン。
09:01
教会ではホームページを刷新しているところでありますが、
私もホームページを開いてくださった方に歓迎の言葉ということを載せていただきます。
その内容というのはこういうことを書いています。
人生は出会いで決まると言われます。
何に出会うか、どんな人に出会うかによって私たちの人生が大きく影響されることは間違いありません。
時には人生を決定づけてしまう出会いも確かにあります。
私たちはこのホームページを通して素晴らしい出会いが与えられることを願っています。
神の言葉、人生の道しるべと言われる聖書との出会い、
誠の神、救い主なるイエス・キリストとの出会い、
救い、慰め、励ましなどの心の支えの出会い、
そして自分自身との出会い、生き甲斐との出会いなど限りない出会いがあなたを待っています。
今まで教会に行ったことのない人にとっては、教会に行くことに不安を覚えるかもしれません。
でも勇気を持って一歩踏み出してみてください。きっと何かが始まります。
何かが変わっていくでしょう。そして新しい世界がそこから見えてくるでしょう。
そういうふうにして歓迎の言葉を書いております。
今日のこの聖書の箇所、ここにも一つの出会いがあります。
バルテマイという人がイエス様に出会って、そこから新しい歩みを始めたということ、その記事がここに書かれてあるわけです。
聖書はこのように実際に起こったことを証をしている。
過去に起こったことですけれども、神様の技がこのようにして表されたということが、聖書に記されているわけであります。
今日はこのところで、私たちが今日を生きる上で神様の願っていることを共に考えていきたいと思うわけであります。
そしてこのような、このバルテマイが経験したようなそういう出会いを、教会に来てくださる皆さんにも体験していただきたいという。
それが私たちの教会の願いでもありますし、何よりも神様が望んでおられることだということをもう一度確認しておきたいと思っております。
12:06
先ほど読んでいただきましたマルコの福音書10章の46節の言葉。
彼らはエリコに来た。イエスが弟子たちや多くの群衆と一緒にエリコを出られると、手前の子のバルテマイという盲人の物語が道端に座っていた。
この46節でイエス様に出会う前にバルテマイという人がどういう人であったのか。
そして当時彼がどんな状況にあったのかということがわかります。
一つは彼は目が見えない人であったということ。
そしてもう一つは彼は道端に座って物語をしていたということ。このことがわかります。
この二つは当時の社会がどういう社会であったのかということを物語っているわけです。
目が見えないという一つの、今日でいうハンディキャップでしょうか。
そういうものがあると彼は道端で物語をして生きていくしかなかったというそういう社会であった。
レビキーなどを読みますと、当時はツアラートというような重い皮膚病を患うとその人は社会から隔離されて、
そしていわば他の人たちと話されても時には生涯そこから出られないというようなそういう社会であったということですね。
日本でもそういうことはもうそんなに遠くない過去ですけれどもあったようにも聞いております。
いわゆる当時のバルテマイが生きていた社会というのは人権とかあるいは人間の人格とかそういうような尊厳とかそういうものを無視している。
時にはそういうことを考えない、そういう時代、そういう社会であったということがわかるわけです。
私たちはこういう聖書を読むとき、特に既に遠い何千年も前の話ですけれども、
そういう聖書の記事を読んで、例えばこの箇所であるならば、このバルテマイという人が置かれているところに私たちはどれほど立てるか。
15:11
バルテマイという人の置かれている状況に自分がどれだけ立てるか、あるいは彼の当時の心情、心の内にどれだけ私たちがそこに迫って同じようにそこに立てるかということ、それをいつも問われるわけです。
このバルテマイがイエス様が近くに来ておられることを耳にして、そして叫んだとあります。それが四十七節。
バルテマイが道端に座っていた。ところがなぜれのイエスだと聞くと、ダビデの子のイエス様、私を憐れんでくださいと叫び始めた。
彼はイエス様が近くにおられるというのを耳にして叫んだ。私を憐れんでくださいと。なぜ彼は叫んだのだろうか。
おそらく彼は今の自分はこれでいいんだろうか。いや決してよくない。何とかしたい。そう思ったから私を憐れんでくださいとイエス様に叫んだ。
そしてこのイエス様なら何とかしてくれる。私を救ってくれる。そう信じたわけですね。そしてイエス様がエリコに来てもうエリコから出られようとしている。
もうこのチャンスを逃したら二度とこのイエス様にお会いすることはないだろう。そう思ったから人々がバルテマイをたしなめようが黙らせようが
彼は必死でイエス様私を憐れんでください。そのように叫んだわけであります。そのバルテマイの必死の思いがイエス様に届いたわけです。
まさに求めよさらば与えられん。探しなさいそうすれば見つかるだろう。叩きなさいそうすれば開かれるであろう。そしてあなたの信仰があなたを救ったのですとイエス様は言ってくださった。
そしてバルテマイの目が開かれて彼は見えるようになった。その神の御業が現れたことがここに記されているわけであります。
今日私たちはこの箇所からこの二十一世紀を生きる私たちに神様は何を語っているんだろうか。そして私たちはそれでは何を見て生きるのかということを問いかけられているように思うわけです。
18:14
一つは今を見て生きるということです。今あるいは今日でもいいです。これはもちろん過去からの連続で今が与えられているわけですけれども、過去をもう一度私たちは生きることはできない。
私たちはまず与えられているこの今あるいは今日これを生きるわけです。ですからこの今ということをしっかりと見てそしてそこで私たちは何を考えそしてどうするのか。
今自分はどうなんだろうか。過去は過去としてひとまず置いておくとして今自分はどうだろうか。あるいは今日しなければならないことは何だろうか。あるいは現在の社会はどういう社会なんだろうか。
今生きている人たちは何を喜びまた何を悩み何に苦しんでいるんだろうか。そんなことを私たちは見ていく。それは現実というものですね。そういうものとしっかりと向き合うということ。それを示されるわけです。
このバルテマイという人が彼は彼なりに今の自分というものを見ておったわけです。そして今自分が置かれているこの当時の社会ですけれどもその世の中というものを彼は見ていて
彼はその現実に翻弄されてはいなかったわけです。流されてはいなかったわけです。バルテマイは今の自分あるいは今の社会これでいいんだろうか。いやそんなはずはない。私は今のこの状況から何としてでも抜け出したいというそういう思いがあったわけですね。
それは彼が今置かれている状況としっかりと向き合っていたから決してそこに流されずに何とかしたい。そう彼は思ったからユス様に憐れんでください。救ってください。そう叫んだわけであります。
その彼の思いが神様に通じた。そう言えるわけであります。この今をしっかり見て生きていくということの大切さをもう一度改めて思うわけです。今自分はどうなのか。今自分の家庭はどうなのか。今の社会はどうなっているんだろうか。
21:17
今の日本は、そして今の国際情勢はどうなんだろうか。そして今自分の所属している教会、あるいは日本の教会、世界の教会、それはどうなんだろうか。
そういうことをもう一度しっかりと向き合って一つ一つ検証していく。あるいは祈っていく。そういうことが求められているのではないか。そういう意味で今というものをしっかり見ていく。そしてこれでいいんだ。
今これはこれでいいんだということを示されたなら、そのことを確信して、そして感謝して、そしてそのまま進めばいいわけです。しかし果たしてこれでいいんだろうか。いいわけはないと示されたならば、この丸手前のように。
お客様、憐れんでください。今こういう状況にあります。助けてください。何とかしたいのですと叫ぶ、祈る、あるいはそこから始めていこうという。それこそ求めていく、探していく、叩いていく。そういうことを私たちはしなければならない。
そのためにも今どうなんだろうかということを見ていく。このことをもう一度覚えたいと思うんですね。
二つ目に何を見て生きるのか。それは夢を見て生きるということです。目をつむらないと見えないものは何かという謎々がありますけれども、答えは夢ですね。
でも夢というのは、寝ているときに見る夢だけではなくて、いわゆる目標とか、あるいは将来こうありたいとか、こういうことをしたいとかいう、そういう夢ですね。
ビジョンとも言いますが、幻とも言いますが、そういうものを見るという、それを夢を見て生きるというふうに言いますけれども、この夢、幻、目標、ビジョン、それを見て生きるのと、そういうものをなく生きるのとでは全く違います。
そこには大きな差が出てきます。私たちは、いろんな集会とか、あるいはミーティングなんかで何人かが集まると、いろいろお話をします。
24:14
あるいは会議もしますし、ミーティングをするときに、それがよくわかるんですね。もちろん反省会というのもあります。こうしたことに対して、あそこはよかったね、あれは本当によかったということで盛り上がる、そういうときもあります。
しかし、あそこはこういうふうにしたほうがよかったんじゃないかなとか、いやあそこはちょっとまずかったなというような話も当然出てきます。そうなると、皆さんの顔も心もうつむいてしまう。そういうのがあろうかと思うんですね。
ところが、そのミーティングとか会議の中で、目標を掲げよう。あるいはこういうことをしたらどうだろうか。何かビジョンを皆さんが持っているものを語り合う。それこそ夢を語り合う。こんなことをしてはどうだろうか。いやこういうこともいいんじゃないだろうか。
そういうふうに話し出すときに、皆さんの目が輝いてくる。そして次から次とその思いが湧いてきて、これもいいんじゃないか、あれもいいんじゃないか、それもしよう、あれもしよう。
もちろんできるかできないかは先のことですから、それは全て委ねているわけですが、大事なことは目標を定める。あるいは何かビジョンを持ってそれに向かっていこう。夢を持つということ。これが皆さんを元気づけ、そして力をそこに沸かせる原動力になるわけです。
それは年齢に関係ありません。それこそ今を見て、そしてそこから与えられたビジョン、目標、夢、そういうものをもっともっと語り合う必要があるのではないか。今の自分は何が欠けているんだろうか。
そうだ、この目標が欠けているのではないか。ビジョンがない。あるいは夢をもっと持つ必要があるんじゃないか。そう思ったときに何か与えられたら、それに向かって生きていこうという、そういう力がまた湧いてくるわけです。
家庭に夢がありますか、ビジョンがありますか、何か目標を定めて家庭で、家族で、みんなでこういうふうに向かっていこうという、そういう目標、ビジョンはあるだろうか。みんながそれぞれ、私はこれをする、私はあれをする。みんなバラバラであってはいけないと思うんですね。
27:06
それぞれの目標、ビジョンもありますけれども、みんなが一致して向かっていく一つの大きなビジョン、目的、そういうものがあればもっともっと変わっていくのではないか。
学校に果たしてビジョンや子どもたちに夢を与えるようなそういう教育がなされているだろうか。社会に出ればどうだろうか。そして教会に夢があるだろうか。ビジョンがあるだろうか。何か目標に向かって進んでいっているだろうか。
そんなことを私たちは考えるときに、この夢を見て生きるということの大切さ、そしてそれにチャレンジしていく。ある人が言いました。どうしてそんなに高齢になってまで元気に、それこそ現役でいられるのですかと聞きましたら、常にチャレンジしているからです。
70になろうが80になろうが、人がどう言おうが私は目標を定めて、そしてそれにチャレンジしていますということをおっしゃった。彼のその元気の源は夢をもってチャレンジすることだというふうに彼は言いました。
そういう人に、また神様はそれに応じた力を備えてくださる、そのように思うわけですね。それは小さな目標、小さな夢でいいと思うんですね。そして中ぐらいの夢とか目標、そして大きな夢。
人それぞれ違いますけれども、何か目標、ビジョン、夢を見つけて、見つからなければ祈って、そして今の自分、そして周りを見て、それが与えられるように、そういうふうに祈っていくことから始めればいいんだと思います。
教会でも、もう2012年度の半分が過ぎました。あと残りの後半、これもまた神様の支えによってこれから進んでいきますが、同時に2013年度、それに向かってもうそろそろ準備をしていかなければならない。
まさに2013年度の目標とか夢とかビジョンとか、もう何でもいいんです。皆さんがこんなことをしたい、こういうふうにありたい、ここをこうしたらどうだろうか、そういうものを掲げて、そして皆でそれを話し合えばいいわけです。
30:03
できるかできないかは神様の見ての中にあるわけです。私たちはまず夢を見ること、幻を見ること、あるいは見させていただくという、そこに今立たなければいけない。幻なき民は滅びる。
そしてその木を一支したならば、また一年、何の目標もビジョンも夢もなく淡々とその時間だけが過ぎていく。そういう時を過ごしていかなければならない。これは非常に残念です。
ですからどうぞ祈って、皆さんがそれぞれに夢を見て、幻を見て、そしてビジョンを掲げて、そしてこの後半とまた来年度に向けて進んでいっていただきたい。そう思うわけです。
幻なき民は滅びる。しかし夢と幻とビジョンを見るために神様は大きな祝福を与えてくださる。私たちはこれを信じたいと思うんです。
三つ目に何を見て生きるのか、それはイエスを見て生きるということです。バルテマイの望みは目が見えるようになることです。それは彼が目が不自由であったから、そのように彼は願ったわけです。
しかし彼はこの目は不自由で何も見えていなかった。しかし彼はイエス様が見えていたと言えるわけです。もちろん彼の視覚でしょうか、見るこの機能はなくて不自由をしていたわけですが、
人間というのは不思議なもので、一つの感覚が失われると別の感覚が冴えてくる。バルテマイもおそらくこの視覚が閉ざされたときに彼の聴覚はますます冴えていった。
だからどんなに群衆がたくさんいても、イエス様の足跡とか、イエス様の誰も聞き取れないような声も聞こえる。
ですからイエス様だと彼はわかったわけですね。周りの人はどこにイエス様なんかいる。いや、そこに確かにいる。そして彼はイエス様、私をあわれてください。彼は目が見えていなかったけれども、耳から入ってくるそういう情報によって彼の心、信仰のうちにはイエス様がはっきりと見えていたわけです。
33:05
イエス様はあるとき群衆に、あなたは何を見ているのかというふうに尋ねなさったことがあります。まさに私たちは実際に見えていてもまことの神を見ていない、そういうものではないだろうか。
あるいは聞く耳のあるものは聞きなさいとイエス様はおっしゃいました。それは実際には音は聞こえているのに、神のさやかな語る声には聞こえていない。見言葉が届いていない。見言葉を聞くことの基金と言われるような、そういう人間であります。
しかしバルテマイは目が見えずともイエス様が見えていた。私たちは今日イエス様に問われている。それはあなたたちは私に何をしてほしいのかバルテマイにそう尋ねなさったように、私たちにもイエス様はそのように問われている。
その答えは見えるようになることです。私たちの答えは見えるようになることです。イエス様はおそらくおっしゃるでしょう。あなたたちはバルテマイと違って見えているではないか。いいえ私は何も見えていません。この目で見てはいますけれども何も見えていないものです。
そう答えざるをいません。今自分に何が足りないんだろうか。何が足りて何が足りないのか。そんなことも見えていない。そういう自分であります。自分の罪は何なのか。自分の弱さは何なのか。そんなことも本当ははっきり見えていない。そういうものです。
そう答えざるをいない。あるいは自分の賜物は何なのか。きっと神様はそれぞれに何かその人でしかできないものが与えられているはずなんですが、それも見えないままに20年30年40年50年ときましたけれども、今もう一度自分に与えられているものは何なのか。それを見たく思います。
死を示してください。そういう意味でも私たちは見えていないものがたくさんあります。人の痛みや苦しみも見えているだろうか。今を見る目あるいは将来ビジョン幻を見る目が私たちにはありません。
36:26
ですから私たちは見えるようにしていただきたいのですというその叫ぶような祈りをイエス様に捧げなければいけない。そういうところに来ているのではないか。
バルテマイは見えるようになってそしてイエス様の行かれるところについていった。イエス様についていくためにはこのイエス様ご自身がしっかりと見えていなければついていくことはできない。
だから私たちは今を見る目を開いてくださり将来の夢幻を見る目を開いていただき、もう一度このイエス様というお方にしっかりと目を注いでこのお方についていけるようにイエス様を見る目を開いていただきたいという、そういう祈りを捧げたいと思うわけです。
お祈りをいたしましょう。
イエスは尋ねられた。私に何をしてほしいのか。見えるようになることです。
天の神様、祈りと見たまによって今を見る目を開いてくださいますように。将来の夢や目標やビジョンが見えるようにしてください。
そして、身を世の罪を取り除く神の子羊とあるごとく私たちの罪のために贖いとなって十字架にかかってくださったこの救い主イエス様を今はっきりと見ることができるように私たちの目を開いてください。
そして、見えるようにしてください。イエス様の尊いお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
38:46

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