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2021-04-25 29:45

2021/04/25:創世記(15)アブラムを選ばれる神様の恵み

2021/04/25 聖日礼拝

尹善鎬牧師

創世記 -12:3


00:01
おはようございます。
祈りにもありましたように、今日から5月11日まで、
表県にも緊急事態宣言が発令されました。
その中でも皆さん、信仰をもって、また注意しながら、
礼拝に集まっていただいて本当に感謝いたします。
主要にお分けしましたけれども、
今日の礼拝の後に、緊急事態宣言の期間中、
礼拝は2回、5月2日、9日にかかりますけれども、
礼拝をどうするかに、
礼拝研修教を皆さんと一緒に考えて、
知恵を集めて決めていきたいと思います。
礼拝の後に、そんなにかからないと思いますので、
その全員、みんな居残りくださって、
一緒に対策を立てていきたいと思います。
でも、その中で、このように礼拝が守られていること、
神様の恵みに本当に感謝いたします。
一言お祈りします。
神様、感謝します。
神様の恵みとお守りがなければ、
私たちは一瞬も生きられない弱いものです。
しかし、主の恵みによってこの世に生かされており、
また、この世に主の御前に礼拝ができること、
本当に感謝いたします。
主をここに集まっている人、また来れなかった人、
その上にも、どうか主の御言葉、主の恵みを、
あなたの心を主が示してくださいますように、
お願いをいたします。
どうか主よ、今から主御自身が、
私たち一人一人に語ってくださって、
私たちは聞く耳を持って、
どうか主の御言葉を素直に受け止めることができますように、
祝福してください。
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
今日は、荘石の15回目です。
アブラムを選ばれた神様の恵み、
アブラムを選ばれた神様の恵みです。
ノアの子孫が地に増えていくんですね。
あらゆるところに増えていきます。
ノアの息子は3人、セム、ハム、ヤベテがいてですね、
アフリカとか、アジアとかヨーロッパとかですね、
広がっていくわけなんです。
ところが聖書は、
今日、11章の後半から見ますとですね、
その聖書は、セム、ハム、ヤベテがいるんだけれども、
その3人の息子の中に、
特にこのセム、そして、
そのセムの子孫にフォーカスを当てて、
まるでですね、従務員するように、
03:02
この記録が進んでいくわけなんです。
そこで、そのセムの子孫の中でも誰ですか、
アブラムに注目しているんですよ、聖書。
ここでですね、一つの聖書の知識として、
私たちが聖書を読むときに、正しく読むための一つの、
多くのガイドラインの中の一つがあります。
それは、聖書は選択的記録物というものなんです。
選択的に何かを選んで、
それだけを記録したというものですね。
聖書はだからですね、アブラムはですね、
アダムとエヴァの以降の、
全世界の全ての人類一人一人、
もうこの地球上に起きた全てのことを、
全部網羅して書いているわけではないんですね。
神の霊感によって、
その霊感を受けた記者たちが、
孟瀬とかですね、荘石は孟瀬が記者ですけど、
その神の霊感によって、
全世界の歴史や人物や事件事項の中で、
何かあるものを選択的に記録したということなんです。
だからですね、こういった書き方があるから、
私たちが読むときには、前後が合わないような気がする。
何か順番になっていないので、
理解するのが難しい場合がよくあったりします。
ともかくこの荘石は、ノアの子孫の中にセム、
そしてそのセムの中でも、
アブラムの経図を注目していくわけなんですね。
そこに今日まず注目したい、その人物はテラという人です。
27節を見るとですね、11章の27節を読むと、
これはテラの歴史である。
テラはアブラム、ナホル、ハランを産み、
ハランはロトを産んだとあります。
アブラムを、最初はアブラムですね。
アブラムが後からアブラハムに変わります。
だから今はまだアブラムですね。
このアブラムを知るためには、
彼の父テラがどんな人だったのかを知ることが大事だと思うんです。
でもですね、ちょっと残念ながら、
聖書にはこのテラについての情報はそんなに多くないんですね。
その中で貴重な説があります。
06:03
一緒に開きましょう。
吉脇24章2節です。
吉脇旧約聖書、吉脇第24章2節。
聖書でですね、422ページですね。
422ページ。
吉脇第24章2節。
私がお読みします。
ヨシアは民全体に言った。
イスラエルの神、主はこうつけられる。
あなた方の父たち、アブラハムの父であり、
ここからよく見てくださいね。
ナホールの父であるテラは、
昔、ユーフラデス川の向こうに住み、
他の神々に仕えていた。
これがある意味で唯一の情報なんですよ。
テラがどういう物なのか。
さあ、テラはどこに住んでいたんですか。
ユーフラデス川の向こう、
ウルというね、今日も何度も出ます。
カルデア人のウルという古代の大きな港町に住んでいました。
これはだいたいペルシア湾の港町で、
大きな商業的な貿易中心の町だったそうなんです。
そこに住んでいました。
住んでいる人々の人種はカルデア人と言います。
そしてそこでテラは何をしていたのか。
特に他の神々に仕えていた。
つまり異教の神を信じていた人なんです。
簡単にまとめることができるんですね。
テラはカルデアウルという町に住んでいた。
彼は他の神々に信じていた。
仕えていたということです。
そしてありがたく、いろんな考古学的に古代遺跡や
碑文とかが発掘されていますけれども、
このテラ・アブラムの時代はカルデアウルは
いわゆるシュメル人という人々が住んでいました。
かなりの遺跡があるいは碑文が発掘されている中で、
当時のウル川もそのシュメル人の中心的な都市だったんだけれども、
このシュメル人はナンナという女神を信じていたそうです。
このナンナは戦争と聖の女神として知られています。
それから聖書ではないんですけれども、いわゆる外伝と言いますね。
09:00
聖書以外にイスラエルに昔から伝承されている書物があるわけなんですけれども、
その中にこのテラはこのナンナとか他の偶像を作る職人であっただろうと言われています。
ですから皆さん、このように偶像を信じていて、
偶像の町に住んでいたカルデア人のテラ、
そのテラの息子アブラムを神様が選ばれたということですね。
だから簡単に言いますと、神様と何の関係もなかったわけなんですよ。
神様を信じていたわけでもありませんし、触れ合ったこともないですし、
全く関係のない異教の人、しかもその偶像を作る、どれだけ熱心なんでしょう。
そんな人、テラを神様が選ばれた。
そしてそのお父さんの息子アブラムを神様が選ばれたということなんですよ。
皆さん、アブラムが誰ですか。どんな人物ですか。
イスラエルの父と呼ばれる人ですね。
だからですね、荘石を読むと、神様を呼ぶときに、
アブラハムとイサクとヤクブの神様と呼ぶでしょう。
よく出てくるんです。それほど誇らしく思う人物がアブラハムなんです。
イスラエルの十二部族の先祖です。
ダビレとソロモンの先祖です。神父の父と呼ばれる人物です。
やがてはこのアブラハムの子孫の中にヨセフが生まれ、
ヨセフとマリアからその体を通してイエス様がお生まれになるということなんです。
今日はですね、この寺、このアブラムを選ばれた神様の子の選び、
そしてその恵みをですね、一緒に考えていきたいと思います。
皆さん、神様の子の選びはどんなものなんでしょうか。
まず一つ目、それはですね、人間的な条件を超える神秘がそこにあります。
皆さん考えてみてください。
イスラエルの先祖を選ぶならば、
どうせなら最もいい信仰の人、最も立派な家系の人、
例えばノアとかエノコとかですね、
そういう人を選んだほうがいいんじゃないですか、皆さん。
そうでしょ、一般的に考えるならば、どうせ選ぶならばですね。
でもどうですか。
神様はですね、不思議にも全く神様と関係のない人物、
しかも他の神々に仕えていた人物、
12:00
もしかしたら彼はその職人だったのかもしれない、
そんな人を神様がノアの子孫の中に、セムの中に寺、
そしてその寺の息子、アブラムを主は選ばれたということなんですよ。
だから皆さん、人間的に考えたらどうですか。
アブラムの家庭的な信仰的な条件は悪いんですよ、良くないんですね。
イスラエルの父とね、信仰の父と言われるには、
そんな信仰的な環境が良くないんですよ。
皆さん、今日の私たちのことをちょっと考えてみましょう。
一般的に誰かを選ぶときにどうですか。
例えば会社のことを考えてみましょう。
コロナで就職がなかなか難しい時代であります。
皆さんに祈っていただいておりますが、
うちの長女も今就職活動しているんだけれども、
本人は嫌いかもしれませんが、なかなか難しいですね。
決まらなくて難しい時代なんです。
会社で新入社員を選ぶときに、会社側から見れば、
できれば有能で、できれば賢くて、
できれば会社に駅になる人を選ぶでしょう。
これが、この社会では通用する一般的な選択の条件、基準というものなんです。
しかし、私たちの神様の選びはどうでしょうか。
この社会で通用する選択の条件や基準を遥かに超えるものなんです。
神様の選びは、テラオ、アブラーモ、そして私たちを選んでくださった神様の選びは、
人知を遥かに超える神様の屈指計画の中で行われるものなんです。
つまり、聖書の言葉で仮に申しますと、神様は見心の良しとするところに従って、
救われるものを選んでくださる恵みなんです。
だから、私たちの頭では、理解しがたい、分かりにくい、計り知ることのできない不思議さがあるんです。
ミステリーなんです。神の選びと救いは。
それを知るために、遠くまで行かなくていいんです、皆さん。
私たち自分自身のことを、皆さん考えてみて、帰り見てみてください。
どうですか。私たちの中で、皆さんの中で、神様に救われるに十分な条件を持っている人。
いや、少しでも役に立てるほどの条件を持っているから、神様に救われたという人いますか。
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誰もいないんです。誰もいないんです。
私たちは、神様に救われるには、何の資格も条件も価値も持っていなかったものなんです。
まるで他の神々に仕えていた、そんな寺を選んでくださった神様の恵みのように。
その息子、アブラームを選んでくださった神の恵みのようになるんです。
だから皆さん、神様はこんな私たちを、この偶像の国、日本の中で、ある方々は神様を全然知らない家族の中で、
不思議にも屈指しく選んでくださって、救ってくださったのではありませんか。
だから、その選び、その救い、恵みを考えれば考えるほど、本当に奇妙なんですよ。不思議なんです。
私がどうして救われたのか。私がどうして神の子供になったのか。
私がどうしてこの素晴らしい罪許しの恵みに預かっているのか。
いくら考えても、わからないんです。こんな私を選んでくださった神様。
こんな私のために、独り子を十字架に死なせた神様の恵み。
なんで私が選ばれたのか。なんで私が救われたのか。
どの世界にこんな恵みがあるのでしょうか、皆さん。ないんですよ。ないんです。
2番目、神の選びは、私たちが何の資格や条件を持っていないだけではなく、
私たちが爪人であった時、私たちを選んで救ってくださった、屈指しい恵みなんですね。
1箇所、聖書を開きましょう。ローマ章5章6節。ローマ章第5章6節。
この箇所は、わりと私をよく引用する箇所ではありますけれども、
ローマ章5章6節から8節、聖書は新約の304ページです。私が読みます。
実にキリストは、私たちがまだ弱かった頃、弱かった頃ですね、これが1点。
定められた時に、不経験な者たち、2点目は、不経験な者たちのために死んでくださいました。
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正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。
善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。
しかし、私たちがまだ、3点目、罪人であった時、
キリストが私たちのために死なれたことによって、
神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
どうですか、皆さん。本当に、なぜ神様は私を選んでくださったのか、
なぜ私を救ってくださったのか、いくら考えてもそのわけがわからないんですね。
このローマ書の見言葉通りに言いますと、私たちが弱かった頃、
不経験な者たった時、罪人であった時、神様は私たちを選んでくださいました。
子供として受け入れてくださいました。
神なるイエス様が、悪人であった私たちのために、死んでくださったんです。
どの世界にこんな選びと恵みがあるのでしょうか。
ないんですね。ないんですよ。
そこでですね、深く考えれば、神のこの選びと救いは、
十字架の死が必ず伴われる選択であるということなんです。
十字架の死が必ずそこにあるということなんですね。
ただですね、軽く数と選んだわけではないんです。
人以後イエス・キリストの死を通した選択であるということなんです。
だから皆さん、私たちが選ばれたこの選び、恵みはですね、
こんなにですね、返すこともできない、計りしながらね、
素晴らしい選びと恵みによるものなんです。
その恵みに預かっているものが私たちなんです。
何と感謝なことなんでしょうか。
一方で皆さん、こうお話ししましたけれども、
これを角度を変えて考えれば、
だからこそ神様に選ばれることのできないほど、
悪い条件を持っている人はいないということなんです。
わかりますか。
神様が選びにくい、救いにくい、
いやこんなひどい人間があるんだろうか、そんな人はない。
神様に選ばれることのできないほどの人間は誰もいないということなんです。
だから神様のこの定めと選びと恵みには、
まるで学校の受験とかですね、なんかのような偏差値のようなレベルとかね、
21:00
そんな到落を決めるものは一切ないわけなんですね。
だから嬉しいものなんです。
だからみんなに、誰にでも救いの門は開かれていることなんです。
世の中の大学入学もそうですし、就業就職もそうですし、バイト先を決めようとしてもですね、
誰もが受け入れられるわけではないんですよ。
落ちることがあるんですね。
私だって大学受験も進学受験もですね、
1回ずつ落ちた経験がありますけどね、
到落があるわけなんですよ。
しかしですね、私たちの神様には、その人がどんな人であろうが救えない人はいません。
資格がないから選ばれない、救われない人はいないわけなんです。
ただその人が信じないから救われないだけなんですね。
3番目。
だから神の選びは、賜物の恵みなんです。
恵みなんです。
何の資格も条件も持っていない、弱かった頃、不経験な者、罪人であった時に、
私を定め選び、救ってくださった神の恵みなんです。
片手与えられた賜物なんですね。
だからそれが恵みなんです。
新約聖書に行きますと、初代教会の時代に、多くのクリーチャーを迫害して、
ステパノとかそういった頭のような人たちを処刑するに積極的に加担していた人。
それがサウルなんですね。後にパウロになるサウル。
彼はまた公文書を持って今のシリアのダマスコに行って、
そこでまたこういったクリーチャーたちを捕まえて、
投獄するか処刑するか、もうこれが私の使命だと思って熱心だった彼は、
ダマスコに行く途上でイエス様に選ばれた。
そこでイエス様に出会ったわけなんですね。
このパウロがこの初代教会の時代に使徒になって、
自分が選ばれたこの恵みをこういうふうに賛美して書いてますね。
今日のメッセージの中で一番大事な箇所かもしれませんけど、一緒に開きましょう。
新約聖書、ペソビトへの手紙、第1章4節と5節です。
24:00
新約聖書の384ページです。
ペソ、1章、4節、5節。
では私が読み出します。
4節、すなわち神は世界のもといが据えられる前から、
この方にあって私たちを選び、見前に聖なる傷のないものにしようとされたのです。
神は御心の良しとするところに従って、
私たちをイエス・キリストによって御自分の子にしようと、
愛をもってあらかじめ定めておられました。
アメン。
皆さん、ここの5節をご覧ください。
もう一度読みますね。
神は御心の良しとするところに従って、
私たちをイエス・キリストによって御自分の子にしようと、
愛をもってあらかじめ定めておられました。
皆さん、今日のこの1節に、
今日の説教の内容がもう全部書かれていると思います。
どうかこの1週間ですね、
このペソ、1章、4節、5節をぜひですね、
深く目指していただきたいなと思います。
だから皆さん、パオルのようにですね、
なんでこんな私が選ばれたのか、
なんでこんな私のためにイエス様が、
神なるイエス様がジョージカで死んでくださったんだろうか。
その恵みを知れば知るほど、味わえば味わうほど、
人は変えられ、清められ、
その品性が、生き様がイエス様のように変えられる、
そういうことが起こるはずなんですよ。
行けば行くほど信仰がですね、強められ、
その信仰と生き様が一致する人に変えられていくわけなんです。
皆さん、人を変える力は何だと思いますか。
人を変える力は何だと思いますか。
やはり神の恵みなんですね、神の恵みなんです。
もちろんその恵みは本当に幅広いものだから、
もちろん今の私の場合のようにですね、
病気を通して神様、人を変えることも神様にはできるわけなんですけれども、
でもですね、またよく考えるとですね、
病気があるから、何かの問題があるから、何かの事故があるから、
何かの課題がたくさんあるからこそ、
だからその人が本当に強めで本当に変えられるならばいいんだけれども、
みんながそうわけではないのかなと私は思うんですね。
まあともかくですね、選ばれる何の資格のない私を選んでくださったこと、
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救われるに値する何の価値もない私を救ってくださった神の救いは、
選びはただで与えられた賜物の恵みなんです。
だからこの恵みを本当に深く味わって感謝して賛美して体験して生きる人は、
その恵みによって変えられるんです。
パオルのように、ペテロのように変えられるんです。
神の恵みを味わって変えられない人はいません。
神様の限りないこの恵みは必ずしと変わらせるんですよ。必ず。
だから皆さん、信仰生活をしていく中で私たちが本当に求めていただきたいことは、
神の恵みにつかること。神の恵みを深く深く豊かに豊かに存分に味わっていくことなんです。
知識を詰めるんじゃなくて、恵みを重ねてその恵みの中に生きること。
それを味わっていくこと。
そこでキリストに出会って、神に出会う人は必ずキリストの形に変えられてきます。
自分で自分を変えようとしなくても、その恵みが圧倒的な力で私たちを引き上げてくださり、
清めてくださり、変えてくださるんです。
皆さん、神の恵みによって変えられないほど悪い人間はないんです。
神の恵みが、この人はなかなか変えにくいな、ちょっとやめましょう。
そんな人はいないんです。
だから皆さん、皆さんが今変えられているでしょうか。
イエス様の見姿に見るものとして変えられていくことでしょうか。
そしたらその人は本当に神の恵みの中に生きている証ということなんです。
メッセージをあげたいと思います。
皆さん、信仰の原点に帰りましょう。
信仰の原点に帰りましょう。
この私のような悪人、不経験な者、弱い者、敵を定め、選び、救ってくださった神様の恵みに感謝して、
それを覚えて、いつも謙遜に、いつも清く進んで、主の後についていきたいと思います。
お祈りしましょう。
29:45

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