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では、一言お祈りします。神様、感謝します。このように主に守られて、また導かれて、生かされて、このように主を礼拝できますこの恵みを感謝いたします。
どうか、我らの祈りを、我らの賛美を主が受け取って聞き入れてくださることを信じて感謝いたします。
また、今から神様ご自身が、私たち一人一人に主をどうぞ悟りを与え、恵みを与え、気づきを与えて、
ただ、主を崇めて生きる者として、どうか導いてくださいますようにお願いいたします。
感謝して、期待して、イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン、アーメン、感謝します。
創世記、16回目ですね。神様が信仰の主です。神様が信仰の主です。
しばらくですね、今、緊急事態ということもありまして、メッセージをしばらくちょっと短めにさせていただきますので、
いつものように最後までですね、言葉一つ一つ聞き入れてくださればと思います。
皆さんは今まで信仰生活をしてくる中でですね、皆さんの信仰生活に大きな影響を与えたのは誰ですか。
皆さんが尊敬するある先生ですか、あるいは牧師夫人ですか、あるいはある兄弟姉妹ですか。
確かに自分の信仰を前から引いてくれたり、後ろから押してくれた、その誰かがいらっしゃると思うんですね。
本当にありがたい感謝な方々だと思うんです。
ところがですね、ここで私たちが覚えたいことがあります。
自分の信仰生活に本当に大きな影響を与えてくれた方がいたとしても、その人は全て、ただ神様に用いられたしもべ、道具にすぎないということです。
だから私たちが称えて見上げるものは人ではなく神様だけなんですね。
今日の12章にアブラムが登場します。
この葬式も皆さんおそらく葬式の中で12章からが一番多く読まれているんじゃないかなと思いますけれども。
この12章から読んでいきますとですね、私たちはアブラムという人に注目するようになります。
それが悪いとか間違っている話ではありません。
それでそこからですね、アブラムの信仰を習いましょう。
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あるいはアブラムの失敗からこのような失敗をしないようにしましょうとかね、いろんな教訓を悟りを学ぶことができます。
本当に実際にですね、学ぶことが多いんですよ。
とても有益になると思います。
ところがここで私たちが感化してはいけないことがあります。
アブラムが先に神様を訪ねたのではなく、神様が先にアブラムを訪ねました。
アブラムが先に神様を求めたのではなく、神様が先にアブラムを呼びました。
アブラムが神様に先に信仰を求めたのではなく、神様が先にアブラムに信仰を与えたということなんです。
今日の一節をよくご覧ください、皆さん。
最初の言葉、「主はアブラムに言われた。」とあります。主はアブラムに言われた。
ある意味ですね、この12章のアブラムの話から、精祖全部がそうですけれども、
少なくともこのアブラムのストーリー、記事、その始め、その主語、主体は誰なのか。
アブラムではないんですよ、皆さん。神様なんですね。
神様が主がアブラムに言われた、ここから始まるんです。
神様がアブラムに言われなかったならば、アブラムの信仰も彼の信仰の旅路も全ては始まらないんです。
違法の街で偶像に使っていた、その家の息子、アブラム。神様を知らなかったあの人。
神様が先にアブラムを訪ねて、神様が先に彼を呼んで、神様が先に彼に御言葉を下さいました。
これを注目してほしいんですね。
だから、信仰の始まりも信仰の主もアブラムではなく神様なんです。
当たり前の話なんだけれども、私たちはよくこれを忘れてしまいがちだなと思うんです。
私たちに当てはめても一緒なんですね。同じなんですよ。
私たちが皆さんが先に神様を訪ねたのではなく、神様が恵みをもって先に訪ねてくださいました。
恵みをもって。だから信仰の始まりも主も私ではなく神様なんです。
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これを言い換えて言うならば、信仰というものは神様から出るものだから、
神様がくだされば受けることができます。
逆に神様がくださらなければ受けることはできない。信仰は始まらないということなんですね。
だから神様がくだされば、信仰をくだされば、どんなものも信仰を受けることができますし、信仰の人になれるという話になります。
新約聖書のエペソビットへの手紙2章8節9節には、こういう見言葉が書かれています。
この恵みのゆえに、あなた方は信仰によって救われたのです。
それはあなた方から出たことではなく、神の賜物です。
あなた方から出たことではなく、神の賜物です。
行いによるにはありません。誰も誇ることのないためです。
だから皆さん、信仰も救いも神様から出たことなんですよ。
私から出たものじゃないんですよ。
神の一方的な賜物なんですね。プレゼントなんです。
だから信仰の主も、救いの主も、その始まりも誰ですか?神様なんですね。
今日このテーマについて、真剣に深く考えていただきたい。
それは当たり前の話だから、聞き流しさないでほしいんですけれども。
だから皆さん、私たちの信仰の対象は、人ではなく神様なんです。
神様だけが信仰の対象であり、礼拝の対象であり、褒め称えられるべき方は神様のみなんですね。
だから人は、褒められる、もちろん礼拝の対象でも、信仰の対象でもないんです。
もしも私たちが、そのわけはどうであろうが、
もし私が、皆さんが、あなたが、教会の誰かが、あるいは素晴らしい誰かの先生が、
あるいは何かの団体が、信仰の対象になる。
あがめられる、褒められる、褒められる、何かの対象になる。
そしてその人、あるいはその組織、その団体を注目する。
そして神様より人が先に思い出す。
神様より人を先に頼りにする。
そのうちに神様を失ってしまう。
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礼拝しなくなることが、私たちにあり得るということなんですよ、実は。
アブラムの信仰は、神様がアブラムを訪ねてくださって、
神様が主はアブラムに言われたように、神様が先にアブラムに言葉をくださったから、
信仰が始まったわけなんです。
その世界が始まったわけなんですよ。
だから皆さん、この12章は始まったんですけどね、先週から。
創世記を読んでいきながら、私たちはここから見つけることができます。
アブラムが自ら自分の信仰を作り出したのではありません。
アブラムが自ら自分の信仰を成長させたのでもありません。
アブラムが自ら自分の信仰を完成したのでもないことを、私たちはここから発見することができます。
繰り返しになりますが、信仰は神様から出ることですし、
神様が信仰を成長させてくださいますし、神様がその信仰を完成してくださるということなんです。
だから私たちが讃えるべき方、褒めるべき方は誰ですか?神様のみなんです。これを忘れてはいけない。
新約聖書のヘブロビットの手紙12章2節を見ると、
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさいという言葉があります。
信仰の創始者であり完成者である誰?イエスから。
誰かの牧師でもない、誰かの牧師精神でもない、誰か偉い神徒でもない、人ではない。
信仰の創始者、つまり信仰の始まりも、成長させてくださるのも、完成してくださるのも誰ですか?神様なんです。
私が最初に皆さんにお尋ねしました。
皆さんの信仰生活に、今までの信仰に大きな影響を与えられた、
確かに立派な先生方、あるいは誰か、神徒さんがいらっしゃったと思います。
その影響を私が否定するわけではありません。
ところが、もう一度繰り返しになりますが、その先生が、その神徒さんが、
いくら偉大で、いくら立派な人物であったとしても、
その方々は、ただ神の下辺、神の影、まるで孟瀬の杖のような、神の道具に過ぎないということなんです。
だから私たちが、称える、褒める時に、神様以外のものを、称えては、褒めてはいけないと思うんです。
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だから皆さん、今の私の信仰がある、そこで一番大きな影響を与えたのは、
神様ですよ、と明かしできる我々でありたいんです。
神様を明かしし、神様を褒めたたえ、神様を賛美する私たちでありたいんです。
人ではなく。
だからね、良い証は、お証は、それが救いの証であろうが、悔い改めの証であろうが、
癒しの証であろうが、小さな何かの証であろうが、その証を通して、
人は隠されて、いやもう人はもう消えてしまっていいんです。
私は消えてしまっていい、ただ神様だけが讃えられる、そういう証でありたいんです。
だから皆さんが、何かの信仰、兄弟姉妹たちの間でですね、
信仰の話をする、あるいは伝道をする、あるいは何かのアドバイスをするとしましょう。
その間違いは素晴らしいことです。
その中でそれを聞いた、分かち合った、そしてその後に残ったのは、神様だけにならなければならないんです。
人が残ってはいけないんですよ。
アブラハムが残ってはいけないように、人が残ってはいけない。
皆さん、神の前に正直になってほしいんですけど、
私たちは住み人だから、自分が褒められること、自分が讃えられることが好きなんですよ。
好むんですよ、人は。
それで人から褒められて、いやあなたは本当に素晴らしいですね、
僕が言ったらね、いやあ先生素晴らしいですね、今日のお休みは素晴らしいですね、
いやあもう先生は祈ったら何でもできますね、みたいにね、そんなことはないですけどね。
そういうふうに褒められる、讃えられたらですね、
もうね、もう高慢になってですね、どんどんどんどん自分じゃないとダメなんだ、
やっぱり俺がいるからできるんだ、みたいにですね、俺じゃないとダメなんだ、みたいに、
そういうふうに高慢のバベルの塔をですね、どんどんどんどんですね、作ってしまって、
そしてそれと高慢の沼にですね、溺れてしまうんです。
ところが不思議なことがですね、
私除いて周りはみんなそれを気づいてわかっている。
例えばですよ、ユン先生今やばい、みたいにね、いやもうやばい、
でも自分だけ気づいていない、今自分がどれだけバベルの塔を築き上げているのか、
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どれだけ自分が高慢なものになっているか、自分だけ気づいていなくて、
周りはみんな気づいてわかって、本当にみたいにね、祈っているみたい。
我々にですね、そういった罪の性質があるんです。人はね、ところがあるんです。
私が動揺している中で考えさせられて悔えられたことの中の一つがそれなんです。
自分が高慢のバベルの塔を建てていたんだなと、
私じゃないとダメなんだ、みたいなですね、高慢の錯覚の沼に溺れていった。
その罪が自分の中にあったんです。
イエス・キリストの神の座を奪い取ってですね、そこに自分がつこうとした。
そこに自分が座っていた。
それでですね、神様の出番なのに、私があまりにもデシャバルからですね、神様が、
お前はもうちょっと黙って、静まっていなさい。
私が働くから、私じゃないとダメなんだ、みたいにですね、その高慢を主がですね、目元に落ち下らかれてしまいました。
そして、私が主であるかのように振る舞ってきた私の罪を主は悟らせて、悔い改めさせてくださいました。
それで私は本当に感謝しています。
今のこの糖尿症ではありますけれども、この病気が本当に感謝なんですよ。感謝なんです。
私はね、こういうふうにですね、考えて信じて感謝しています。
私にとってこの肺癌は、我が魂の癒しの薬なんです。
体は少し弱って病んでいるかもしれませんが、魂は癒されているならば、それでもう最後だと思うんです。
ある人にとって病気はただ悪くて、避けたくて、もうただ100を治りたい、みたいなものがあるかもしれませんが、
ある人にとっては、その病気が魂の癒しの薬になりますし、感謝の種になりますし、回復の泉にもなれるということなんですね。
神様が私たちに信仰を与えてくださいました。
信仰を与えたのも神様であり、信仰を成長させるのも神様であり、それを完成させるのも神様なんです。
だからね、働くのも神様なんです。
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私が働くから何かができる、私が働かないから何かができない、そういうふうに思ったら、それはもう傲慢なんですね。
私が何かしないといけない、みたいな思いすら、死の御前に私たちは手放して明け渡さなければならないんです。
信仰は神様が働かれるのを見上げることではないでしょうか。
だから褒められる、褒めたたえられるべき方は神様だけなんですね。
だから皆さんに本当に心からお願い申し上げます。
神様が受けられる褒めれを、賞賛を横取りしないでください。
神様より先走らないでください。
ただ謙遜に静まって、神様がなさる見業を期待して、見上げて、祈る生徒教会であっていただきたいんです。
不思議にもですね、私たちが謙遜に静まって、神様を見上げて、神様に働いていただくと、不思議な神の救いが、神の見業が起こるんですよ。
雨ですか?
去年からコロナのためにですね、私たちにできることが本当に少なくなってしまいました。
とても制限されています。
ところが、それをよく考えてみたら、一方では、そのコロナのために私たちが口を閉じて、静まって、
本当に私ができることはもうないんだけれども、そんな中でも神様は私たちが何もしなくてもですね、ある意味でですよ。
何もしなくても神様は、いくらでも働けるし、いくらでも救えるし、いくらでも神の見業を起こすことができるんです。
私たちに本当にそういう信仰があるのか問われるこの時代だと思うんですね。
神の前で、静まっていてください。
中世時代のクリスチャンたちによくする言葉があります。
人に向かっては口を閉じて、神様に向かっては口を開けなさい。
人に向かっては口を閉じて、神様に向かっては口を開けなさい。
メッセージを送りたいと思います。
この朝、私に語る神様のこのメッセージを聞いていただきたいです。
聞いて悟る方には大きな見込みと祝福が与えられるでしょう。
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神様が信仰を始められ、成長させてくださり、完成させてくださいます。
だから神様がなさる、神様が起こしてくださる見業を、救いを見上げる。
そしてその方だけを褒めたたえる私たちでありたいと願います。
お祈りしましょう。