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2020-04-19 21:38

2020/04/19:わたしたちが信じて、告白すること(8)義とされ、罪をゆるされ

2020/04/19 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ローマ人への手紙第一 -22

00:01
おはようございます。今日もそれぞれの場所に臨済の主が共におられることを信じます。早速、説教に入りたいと思います。
先ず説教に戻ってきました。わたしたちは、信じて、告白すること、その8回目であります。
説教題は、義とされ、罪をゆるされ、義とされ、罪をゆるされ、です。
教団の信仰告白のこの部分だけをお読みいたします。
わたしたちは、神の恵みにより、ただ、キリストを信じる信仰によって、義とされ、罪をゆるされ、神と和解し、新たに生まれて、神の子とされます。
この部分は、救うイエスを救い主として信じる、救われた私たちに何が起きたか、三民一体の神様によって信じる者に何が起きたかに対する部分です。
私たち信者の救いについて考えるときに、2つの最も大事なことがあると思います。
1番目は、義とされたこと。2番目は、罪をゆるされたこと。この2つと言えるでしょう。
この2つは、別々のことではなく、1つで結びついているものです。
罪をゆるされたから、義とされる。義とされたものは、罪をゆるされたものであるということになります。
義とされることはどういう意味でしょうか。
義とされること、これを義、義人と認められたという意味から、よく義人と言われます。
その意味は次の通りです。
義人とは、神様の一方的な恵みによる決定です。
それによって神様は、私たちのすべての罪を許し、私たちを御前に正しいと受け入れて下さいます。
それはただ、私たちに変化され、信仰によってだけ受け取るキリストの義の充えです。
03:10
今、義人とは、神様の一方的な恵みによる決定だと申します。
ここで決定と翻訳されている言葉は、ただ一度だけの行為を表す言葉です。
ですから、義と認められる義人とは、神様の一方的な恵みによるただ一度だけで、そして決定的な行為であるということであります。
それによって神様は、私たちのすべての罪を許し、私たちを御前に正しいと受け入れて下さいます。
ところで、義とされたということは、私たちの本質が完全に正しくされた、義とされたということではありません。
それは、私たちが義である正しいとの宣言を受けることです。
もともと、この義とされる、義に義とされという言葉は、法定法律用語だそうです。
つまり、神様がイエス様を救い口として信じた私たちに向かって、あなたはイエス・キリストの義のゆえに、義である正しいと宣言をして下さいよということであります。
さきあずく、私の小さいときのちょっと恥ずかしい経験でもありますが、それを例えてお話をしたいと思います。
私が小学生のときに、ポロマスと、実はしてはいけないことですけれども、危ないことですが、
いくらでも教祖をいたずらに遊びできたことがありました。
石で当てる、遠くまで投げれるみたいな、小学校四、五年生のときだったと思いますけれども、
ところが、それを投げて遊んでいるうちに、私が投げた石が人の家の窓ガラスをカチャンと割ってしまったことがありました。
06:04
それで私はもう怖くて、人の家に行って謝ることはできなかったんですね。
それで母が私の代わりに、その光を見せたお宅に行って、私の代わりに謝って、私の代わりに勉強してくれたことがありました。
母は私の代わりにサジを借りて、金銭的にも勉強をしたわけであります。
それで帰ってきた母はすぐにとても怒っていましたけれども、その後二度と事故で怒られた記憶は私にはないですね。
たぶんですね、母は私が息子だから、私を愛せるから、私の代わりに恥をかいて、私の代わりに勉強をしてくれたから、私は許されたと言えるんじゃないでしょうか。
そういった記憶がありましたけれども、神様は私たちを愛されるから、常人の私たちをイエス・キリストの義、あの十字架の義のゆえに、私たちに向かって無残宣言、義である正しいと宣言をしてくださったんです。
これを新学生とのコリントビザイの手紙、第五章二十一節に、こう言われています。
コリントビザイの手紙、第五章二十一節、私から読みます。
神は罪を知らない方を私たちの代わりに罪とされました。
それは私たちがこの方にあって神の義となるためです。
もう一度読みますね。
神は罪を知らない方を私たちの代わりに罪とされました。
それは私たちがこの方にあって、この方はイエス・キリストですね。
この方にあって神の義となるためです。
この通りですね。
ですから、義人とは神様の御前に義と認められることですが、そのためには私たちのすべての罪が許される必要があるんです。
09:09
私たちは救われた瞬間に、義とされ正しいと宣言されました。
義人が私たちを正しくしたのではなく、むしろ正しいと宣言してくださった神のゆえに正しいとされたということであります。
イエス・キリストが完成された働きに私たちの信仰を置くことによって、私たちは正しいとされるのです。
イエス・キリストの犠牲が私たちの罪を負って、神様が私たちを完全で傷のないものと見てくださるのです。
これが大事です。
信者はキリストのうちにあるので、神様が私たちを見られるとき、キリスト御自身の正しさをご覧になります。
神様が完全を求められる要求は満たされます。
ですから、神様は私たちを正しいと宣言され、義と認めてくださるのです。
ローマ御時の手紙、5章18節から19節にそのことがよくまとめられています。
こういうわけで、丁度一人の違反によって全ての人が罪に定められたのと同様に、一人の義の行為によって全ての人が義と認められ、義の地を与えられるのです。
すなわち、丁度一人の人の不純によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。
最後に、一人の従順、イエス・キリストの十字架のしという従順によって多くの人、私が、あなたが、私たちが義人とされるのです。
神様はアダムにあって堕落し、罪を犯している私たちをどのようにして御前に正しいと受け入れてくださるのでしょうか。
それは、ただ私たちに転換され信仰によってだけ受け取るキリストの義の家です。
12:10
私たちが神様の御前に正しいと、あなたは正しいと、神様に正しいものとして受け入れられるのです。
しかし、受け入れてくださるのです。聖なるお母様、罪人である私たちを正しいと、そして受け入れてくださる。
それは、私たちに転換された、つまりイエス・キリストの義が私たちに転換された。
キリストの義という頃も私たちがそれを違えた。
その信仰によってだけ受け取るキリストの義によるものであります。
ですから、イエス・キリストは私たちのあだない主として、あだない主として、私たちに代わって神の御基手を完全に守り、私たちに代わって罪の刑罰として十字架の死を死んでくださりました。
イエス・キリストが罪の刑罰として十字架の死を死んでくださった故に、私たちのすべての罪は許されて、キリストが私たちに代わって神の御基手を完全に守ってくださった故に、私たちは神の御前に正しいものとして受け入れられるのです。
ここにイエス・キリストの完全な復讐と十分なあだないを内容とするキリストの義、それを信仰という手段によって私たちは受け取るということです。
そして私たちはすべての罪を許されて、神の御前に正しいものとして受け入れられたのです。
ここでのすんこというものは皆さん、義の根拠ではありません。すんこはイエス・キリストの義を受け取るためのあだの手段にすぎない。
そしてこのすんこというものも、聖なる神の賜物であります。私たちから出たものではないのです。神様から与えられたものがすんこでもあります。
これをよく表して読む言葉が、ローマ偉大な手紙三章二十四節です。私と読みます。
15:04
ただ、神の恵みにより、キリストイエスによるあだないのゆえに、与えなしに、義と認められるのです。
お金で貼ったわけではありません。我々のしんこがすごいから、義と認められたのでもありません。ただ、神の恵みによるものです。イエス・キリストの十字架のあだないのゆえに、与えなしに、義と認められました。
最後に考えていきたいことがあります。では、義とされる、罪に許された私たちはどのように生きていけばいいのでしょうか。私たちは以前は神の敵でした。神との平和を失ったものでした。
しかし、今日お話ししましたように、神の恵みのゆえ、イエス・キリストの義が私たちに移されて、覆ってくださって、義と認められた。聖道とされた、正しいものとされた。
聖は彼を十字架のしをもって、復活をもって、宣言してくださったんですね。ですから、この義人のおかげで、正確に言うならば、神様のおかげですね。
この義人のゆえに、神様と平和の関係が開封とされた。私たちは、もはや神様と平和のものにされたわけであります。
これはですね、ローマみたいな世界に、五書一節によく言っています。五話書、五書一節です。
ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
信仰によって義と認められた私たちは、どう変わったのでしょうか。何が変わったのでしょうか。私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っている。
ずっとこれから持っていくのよ、というメッセージになっています。私たちは、皆イエス・キリストの十字架の義によって、和歌にされました。
18:01
もはや、イエス・キリストではなく、義人とされました。主が宣言してくださいました。
これは、まさに私たちの行いによるものではありません。ただ、神の恵みのゆえに信仰によるものであります。その恵みも信仰もすべて、神から出たものであります。
与えなしに与えられたものである。これが神の恵みです。恩情です。神の頼ものなんですね。
私たちは偉いと思いますが、このように神様の平和が和歌にされた私たちに、神の平和が暴れられました。
以前は、不安の中に、死の中に、恐怖の中に、呪いの中に生きていた私たちでした。
しかし、イエス・キリストを信じる信仰によって、神の恵みのゆえに、そのすべてが取り払われて、取り除かれて、そして、平和が、回復が、祝福が、救いが、永遠の良しが、我々にこさまれたということであります。
だから、もはや私は、神の平安が、神の平和が、私たちを治める、御祝福ということではないでしょうか。
義人のこの恵みのゆえに、信者は救いの確信を持つことができるんです。自分の行いによるものではありません。
神の宣言によって、私は救われ、神と平和のものにされたという確信を持つことができるんです。
神様が義人を認めてくださったことを、それを誰が取り捨てることができるでしょうか。誰が奪い去ることができるでしょうか。できないんです。
ローマ書の8章38節、39節に、こういう言葉があります。ローマ書8章38から39節です。
お読みいたします。
私はこう確信しています。
福も、命も、御使いも、権威あるものも、今あるものも、持ちに来るものも、力あるものも、高さも深さも、その他のどんな子孫物も、私たちの主、キュリストイエルスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
本当に雨じゃないでしょうか。
21:00
その他どんなものも、私たちの主、キュリストイエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできない。引き離すことはできないと、神が宣言してくださったんですね。
自当され、罪を許された生徒として、いつも主に感謝しつつ、主を愛し、主に伝え、私たちに歩んでいこうではないでしょうか。
お祈りいたします。
21:38

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