1. 名谷教会 podcast
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2019-08-18 36:09

2019/08/18:力は弱さの中でこそ

 2019/08/18 聖日礼拝

斎藤亘師

コリント人への手紙第二 12:1-10

00:02
おはようございます。
今日は、純先生が夏休暇ということで、別な教会に行っておられるということをメールにいただきました。
ご家族は、韓国の方にお帰りになっていますけれども、そのことを覚えてお祈りください。
また、こうして無事にお互い、台風の中を守られてお会いできることを感謝し、
では、いつも通りご挨拶いたしましょうか。どうぞ、周りの方々と握手を持って。
それでは、お言葉の方に心を向けて参りましょう。
私がこの歌詞を読みながら、一つのことを思い出したのですが、それは教会に来て間もない一人の青年からの質問がありましてね。
彼はちょうど、イエス様の例え話のそういうところを読みながら、
農園のこの一つの出来事で、朝早くから来て、一職も働いて、その日の日当の一年割をもらった。
ところがまた、もう一人は、昼頃から来て、同じように一年割をもらった。
夕方、もう農園が終わるのにその頃来て、お願いしますと言った。それも受け止めて、そして一年割を払った。
どう考えたって、これは無理だというね。
どうも聖書というのはそういうところがあるから、理解しにくいんだという話をしておりました。
実際、私たちの今の住んでおります世界というのはね、言うならば能力の世界。
どれだけ出来るか、出来ないかというところでもって、その人に対する判断というのが決まってくるところがあります。
ですから、そういう力関係でもって出来ております。今の私たちの時代においてはね。
朝から来て一生懸命働いた人も、もう店終えだというその頃に来て働く人も、同じように日当をもらって帰れる。
03:05
しかも同額。だから朝から働いた人は損しているんじゃないだろうか。
夕方から来て働いた人は、それこそ何もしないで丸儲けみたいな。
そんな常識の通らない世界は、私はどうも理解できない。だからどうも成長するのは難しい、分かりにくいということを言ってきた一人の青年がおりましてね。
確かに彼が働いております世界もそういう社会ですから、やっぱり努力に応じたそういう報酬というのが強化されるわけです。
ところが、イエス様がそこでもって仰っていることは、私たちはその人の能力に応じてそれぞれのものが与えられるというのではない。
前提に私たちの社会、世界というのは、それは恵みと哀れになるということをそのたとえを通して仰っているわけですね。
そういったことを考えながら、この十二章を中心にパウロの手紙を読んでいただきますと、
特にパウロはその中で、この九節を読みますとね。
しかし一話、私の恵みはあなたに十分であるというのは、私の力は弱さのうちに完全に現れるからであると言われたのです。
ですから、私が君にその力が私を負うために、むしろ大に喜んで私の弱さを誇りましょうとまでパウロはそこに書いてあります。
パウロは、彼がイエステリストの机に扱ってきた世界というのは、まさに自分が経験したこともないような、教えてもらったこともないような、そういうこの恵みの世界。
彼が専門的に学び、またそのことを自分の肝に銘じてやってきた世界というのは立法の世界ですから、やっぱりその申し上げた青年のようにですね、
それをどれだけ守ったか、どれだけやり遂げたかということで評価される時代、あるいは評価される世界、パウロの世界はそういうこの世界だったわけですね。
パウロはですから、そういうところからイエス様に出会い、そしてイエス様の救いを知ってからは帰られましてね、
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パウロの証の言葉の中にはよく使われているのは、今あるのはただ主の恵みだということを繰り返し繰り返し述べております。
この故郷もその一つです。
彼はそういう主の恵みの中に自分を見入れ、そしてそこにこそイエスキリストの力が表されるということを確信してやらない。
ですから、ここを読んでいきまして思うことは、これは11章の方で見ていきますと、11章も同じですが、11章の21節を見ますとここに、
というのも恥ずかしいことですが、言わなければなりません。私は弱かったのです。しかし私があえて誇ろうとすることなら、私は愚かになって言いますが、私もあえて誇りましょう。
そして、彼はそこにいくつかの自分の誇りとする事柄を書いています。
彼はそういうことにあたっては、あえて私は愚かになって言いますが、という前置きを持ってこい。
と申しますのは、このコリントの手紙が書かれた一冊は、それはパオロ自身の事柄、彼の人口とか人格とか、あるいは彼の持っている身分と言いましょうかね、知識的な事柄とか、
そういった事に対して、言うならコリントの中に入り込んできて、そしてせっかく彼らもイデア教からクリスタになった人たちなんですけれども、なかなかイデア教の教えから切り離されないで、
やはり立法をそのまま持ちながら、そしてパオロの働きに対して謝文をつけてくる。
彼は、その人たちは、キリストの福音を語っているように見えて、そうではない。
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全くその反対のことはある。我々はイエスキリストを信じるだけなんですけれどもね。ところが彼らは、さらに我々は猛者の立法というものが与えられている。それがユダヤ人の誇りなんだ。
だから私たちは、そういう誇りを捨ててはならない、立法を守っていかなければいけない、救いはそこにこそあるんだ。
仮面は、キリスト教という仮面を持っているかわかりませんけれども、その中身は、以前とイデア教の立法の世界に生きてきた自分たちの誇りの世界というものを、この言いって、そして孤輪との境界の人たちを惑わしていたわけですね。
立法の世界というのは、パオロはその筋の専門家ですから、
おそらく立法の学びにおいて彼の身に出るような人は、当時のイデア教社会においてはなかったと思う。
彼がもし上様に出はなかったならば、そのまま彼はラビとしてね、偉大なラビとして、
イダヤ人に対して、この一代の人々に向かって、この立法の世界を彼は説いたでしょうし、またその立法のもとにおいて人々をガンジガラメにしていったでしょうね。
彼らはそれぐらいの学びと経験と思っています。
ですから彼は、もしその偽クリシャンたちが言うような、あるいは偽人たちが言うような立法のということになったならば、私はそれこそあえて言うけれども、
と言って彼は偽教師たちがファウルをしないし、修飾をしているような言葉に対して、その一つ一つに対して彼は勉強しています。
今のこの立場を見てまいりますと、彼もまたそういう世界に生きてきた人として、それをイエス様に出会うまでは自分の生きがいであり、
あるいは自分の誇りであり、そしてそこにこそ私たちにとっての大切なそれがあるんだとばかりに彼は思い込んでおりました。
ですからそういうような事柄が、先ほどちょっと開きましたけれども11章の22節。
12:05
彼らはヘブル人ですか。私もそうです。
彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。
彼らはアブラハムの人ですか。私もそうです。
彼らはキリストのヒモメですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。
その老婦は彼らよりも多く、老に入れられたことも多く、また鞭打たれたことも数えきです。死に直面したこともしばしばですか。
そしてさらに彼はイザエ人たちから、どれだけの迫害を受けながら来たか、そういう一つ一つをそこに述べながら、
けれどもそれが一体私にとってどれだけの名刺のあるものなのか。迫害を受けたから、だから本当の教師だと言えるのですか。
あるいは自分が同じようにヘブル人だから、イザエル人だから、だから私はそういう点においてはまさっていますか。
そこではない。ですからファウローは、誇りとするならばあえて言うけれどもそういうことがある。
けれどもしかしながらそれだけ一体私にとって何なのか。
キリストの恵みを知った私にとってそれらは誇りとしていいんだろうか。
そういうことで、この11章の、今読みましたこの22節以下の、そして30節に行くと。
もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇る、とまでそこに言うんですね。
力と弱さというのは相において相反するものです。
今、もし私たちがね、ファウローの言葉を借りて、私は自分の弱さを誇りますと言ってですね、
一般の人々とそういう対話をしたならば、そういう弱いところがあるのか、ウィークポイントがあるのならば、
これからもうそれを押し入れようということで、それこそ鵜呑み、鷹の目で持ってですね、
一般の皆さんの社会の中によっては、そういう弱さをそこに明らかにしてならば、
15:05
もうそれこそいろんなところから足を引っ張られるんじゃないかなと思いますよ。
そういう力に生きる社会と、キリストの恵みの社会というのは、世界というのはそれほど大きな違いがある。
けどファウローは、自分のそういう偽キリストの教師たちが、いろんな点で一般的に言うファウローの弱さというところをついてくる。
申し上げたように、自分にとってもそういうイデア人としての誇りもあるし、アブラムの子孫としての先民としての意識もあるし、誇りもあるし、
またキリストの子孫とされてきたその誇りもあるし、かなりの誇りもある。
じゃあそれはイエス様の世界においてどれだけのものなのか。
ファウローは徹底してね、そういう偽教師たちが自分についてきているところのそういう問題をそこに否決しながら、
私もそうなる。
でもそれが私にとって何の誇りになるのか。
むしろ私は確かにそういう中で悪戦苦闘し、あるいは死に局面するようなことにも出会い、そして自分はそこから逃れることもあった。
ファウローは、ですからもし私に誇りとするところがあるとするならば、それも十二章の後説ですけれども、私自身については自分の弱さ以外には誇りません。
何をやったから誇れる。こういう経験をしてきたから、だから私は一般の人々よりも優れている。
この十二章に入って読んでいるこの歌詞はね、どういう世界なんだろうか。
もし万が一私がこういう経験をしちゃったらですね、狂争になったと思いますよ。
その台本の手にまで引き上げられて、あなた方は知らないでしょう、こういう世界は。
けど私は知ってですね、それこそ自分を、その経験を誇りとしてやったと思うんですね。
18:08
人間とのそういう特別な経験をして、それが恵みの中に来ているならば、それは誇りでも何でもない。
恵みがわからないとそれが自分の力になり、説得力になり、そして人々をあわせて、そして自分こそが本当のそういうものだということを、そこで言ってしまう。
しかしパウロはそういう言葉を経験しているんですけどね。
もうそれは、なんかここでは第三者、誰かがそういう経験をしたというような表現で言いながら、
しかしそれは彼は自分の証なんですよ。
けどこれ以外に彼はその証としていません。
そういう経験をしたから一体何なのか、経験としては尊いか分かりません。
しかしそれは、それ以上のものではない。
どんな経験よりも、むしろ自分の弱さということに直面して、
そしてその弱さという中に見出していくキリシトンの恵み、これがそれこそ私にとっては喜びです。喜びです。
そもそもこの子にとっては大偽紙が書かれてきたというのはちょっと申し上げましたようにですね、
ユーノナンにて狂気だけが来て、パウロの働きを殿堂を妨げようとして、あれやこれやといろんなことが、
この十二章にコリントン大臣の手紙が入りますとそういうことが出てまいりますよ。
彼はより多くの研究を進めるためにやっているんだとかね、
あるいは自分の力を誇示するためにそんなことを言っているんだとか。
そしてさらにはペトロたちはイエス様から直接人としての任命を受けされているけれども、
パウロは一体そうじゃないでしょう。
パウロが生きていた時代とイエス様のその働きの時代とは少しずれている。
だからパウロはそれこそ立法に夢中になっていましたから、
キリシトを阻害しまたあるいはクリシャンタ教会を迫害する、そういう立場で持ってやってきた。
なのにどうして今から彼がね、そういう経歴を持ちながら私たちの前では私は人だと言えるのかという、
21:01
そういう、彼こそ偽教師だ。
そういう案ばかりにパウロを個人的に信仰とか、あるいはそういう立場であるとか、
いろんな点で批評し、そしてまた彼を非難して、
彼の信頼、教会における彼の信頼というのを失礼させようとしてやってきた。
ですから、そういう彼らの中でもってね、私はあえて弱さを起こるなんて言ったのはですね、
それこそ一般的には私たちが言っていることは正しいんだと言って偽教師たちがですね、
それを言いがかりにしてやってきたと思うんです。
そういうことを戦国パウロは承知して、そして彼は繰り返し申し上げておりますけれども、
一つのことをそこに渡し済ませた。
弱さのゆえに私は何とかその弱さの根源である一つの肉体の無知を覗かれるようにとどれだけ祈ってきたか。
ここでは三度祈ったって書いてあるんです。
三度、じゃあもう四度目から祈んでもいいのかっていうそういう意味ではなく、むしろ三度ってことはもう繰り返し繰り返し、
自分にとっては何とかこの弱さが、この弱点が覗かれてくれたならば、
もうそれが覗かれたことによってどれだけ自分はイエス様のために、
そういう覗かれたという証を持ってどれだけイエス様に使えることができ、また明かしできることか。
ですから、その中のパウロは、やっぱり勝手の自分の力の中に来た時代の自分の姿を求めたわけでしょう。
けれども、そういうパウロの、私の体のこういう点を、この弱点を何とか覗いてくれと言って、
そして祈り続けた祈りに対しては、ここでは何の答えもなかった。そうですよね。
パウロの祈りは答えられなかったんですよ。あんな偉大な祈りで、
私たちの祈りの模範となるような、そのパウロですらも、
彼が真剣に向き合って祈ってきたその祈りに対して、それは何の答えもなかった。
祈りに答えられないということで言うならば、そういう経験はお互いしてきているんじゃないでしょうかね。
祈った祈りが全部答えられたならば、あるいはそれが私の誇りになってしまうか分かりませんけれども。
24:06
パウロは自分の肉体に向けられたその棘を何としても癒してほしい。
主よ何に答えてくださいと言って、彼は繰り返し祈った。しかし何の答えもなかった。
祈ってきてもね、イエス様を信頼しても、主よ何にもお答えになって、
そして私のそのつらいところ、あるいは自分のその時計を覗いてくれない。
もう遅いじゃんということで、気立ち直っちゃったんじゃないかなと思います。
ところがイエス様が彼にパウロの祈りに答えなさったのは、全く違うことでしたよ。
私は時々胸をこうやるんですね。
ここにネスが開いて、そして上手にシフトしてくれるかと思うんですけれども、
何かやっぱり突っ張ったりするんですからね、こうやるとちょっと痛みが柔らかくなる。
ですからついつい腐るようにすることもありません。
けれどもそれは私にとっては一つの棘でございます。
これを覚えておかないと、またいい加減の脱色生活をして、
そしてとんでもないことをやったらダメだという、そういう痛みが私にとってはここにあるわけです。
私の一つの棘だなと思いながらおりますけれども、
パウロはその棘がどういう意味なのか、詳しく書いていません。
ある説には、彼はどうしても視力が弱かったんじゃないかとかね、
いろんなことがそこに取り上げられておりますけれども、
肉体上の一つの棘は確かに彼を悩ませた。
だから彼は真剣に祈った、祈り続けた。
けれども何のこともない。
ある時に知った、それは何かというならば、この旧説です。
しかし主は、私のおめくみはあなたに十分である。
というのは、私の力は弱さのうちに完全に現れるからであると言われたのです。
ですから私は、キリストの力が私を追うために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
繰り返し読みますが、ここなんです。
27:00
肉体の棘に対しての答えは、何もそこでは彼は得られなかった。
けれどもそれ以上のものを知った。
その痛みがあればこそ、棘があればこそ、
特にそれはサタンの使えるようにして自分をくりしめてきていた。
しかし今自分が改めて知ったことは、
そういう弱さという中に、私のおめくみはあなたに対して十分に表されてきているということを表した。
だから弱さを知ってはじめて、キリストの大きな力を、そしておめくみを彼は経験した。
だから彼の生涯、もう二度とその肉体病に関わるところの、何とかこれを癒してほしいという祈りはそれではしてません。
私は前の教会のときに非常に癒しを強調するそういう信徒がおりましてね、
先生、やっぱり先生もお祈りして、そういう力を持ってね、私たちのこの病気を治してほしいんだ、というふうに言われてね、
いや、私にはそんな信仰がないんだ、ということも言いましたし、
私はそういう、私を導きかけたこの森山さとしという先生がそういう賜物を持っていらっしゃる先生でね、
そういう証をよく聞かせられてきた。
だからそういう力が自分にも与えられたならば、こういう開拓時代の教会においては、力なんじゃないかなと表記を覚えたこともありました。
そこにそういう癒される、愛は祈って、そして本当にそこでもっと癒しの業がなされるということにおいては、そこに大きな恵みがありますよ。
けれどもその恵みというのが、本当に恵みとしてパウロのように受け止められたらいいんですけれども、
これが誇りになってしまったら、恵みが恵みになってしまう。
あくまでもキリストの力は、そういう私たちがお互い持っております。
そして弱さがあればこそ、その弱さを通してね、その恵みをそこで豊かにしてくださる。
それがパウロの証なんですね。
私が祈った祈りには答えられなかったけれども、しかし私が祈った以上の答えをイマイジエス様は私に答えてくださった。
しかもそのままで私の恵みがあなたに十分なんだということを言ったときに、
30:01
もうそれ以上望むことが他にあるだろうかとパウロはここで言うわけですよ。
だから彼はそこで持って、この玉節ですから私がキリストのために弱さ、侮辱、苦痛、迫害に困難に我慢しています。
私が弱いときにこそ、私が強いからです。
そういう中で彼はやっぱり自分の弱さというものに向き合ってきているわけですね。
いや、こんなもん何にもなぞる。
もう私にとっては、こんなもん、そういう病も何も違うもないという、そういう力みがあったようなそういうことではない。
彼はそれを受け止めながら、けれどもその中に自分はかけがえのない、
イエス・キリストの恵みを知ったがゆえに、今自分はその中にある。
しかもそういうときに直面して、そしてもうどうしていいかわからないような、
そういうときにイエス様が私の力となってくださって、その一つ一つに対応し勝利させてくださっている。
それが私にとって誇りなんだと言っている。
そしてまた、だから私はそういう弱さと向き合って、そしてそこから逃れるのではなくして、
そういう弱さという中にイエス・キリストの恵みがあるので私はその弱さをわいて誇る。
と、イエス様が決して弱さというのは単に判定とか、あるいはどうしても信仰に勝利を得られないとかという、そういう原因ではない。
むしろ人がそういうふうに判定してくるであろう、自分の弱点というものの中に、むしろ私はそこにイエス・キリストの恵みと力として、そして今ある。
私が赤市で講師をしておりましたときに、今はもう過去の人になっちゃいましたけどね、
マット・マートンという選手と阪神タイガスで活躍した。
彼と、それからスタンレイというチプサと2人は赤市勢森教会に行って、赤市でやってくれた。
33:01
もう何一つ宣伝しないでやったところがですね、あれは8時ぐらいから、7時ぐらいかな。
ところがもう6時前から来てね、自分の椅子取りですわ。
私は教会で長く講師をしてきましたけどね、あの光景というのは見たことがない。
こんなに早口で言ったら、今から先駆けとして処理してきます。
しぼるんど伝道集会や礼和会が育ったりしないなと思ったくらいに、この2人の存在というのは大きかったですね。
そして本当に彼らがそこで証をしてくれた。
本当にスタンレイはそういう中でですね、言葉としては、もう私の方だけでお言いにしましょうか。
ピルギトの手紙の4章の私を強くしてくださる方によって何事でもできるという有名な言葉があります。
4章の13節かな。
そうですね、13節。私は私を強くしてくださる方によって、どんな事でもできる。
それを自分の生涯の聖書の言葉として与えられているんだという、そういうことでもって証をしてくれた。
あともそういう似たような証をしてくれたんですけどね。
ですから一般の人たちはどういう風に聞いただろうかなと思いましたけれども。
ただ、スタン・リッチがピルギトの手紙の4章の13節の言葉を聞いた時の私は、
ああ、彼は本当のめぐりと力の中に生きてきているんだなとそう思いました。
力でもって評価される世界に彼らは生きてきたんですけれども。
しかし、この二人がよく言ったことは、
勝利都市になっても、あるいはマートンがホームランを売ったり、何かそういう成功をされても、
エル様、感謝します、何かそういう意味合いのことを、
自分の挨拶みたいな言葉としてね、言っておいたことを思い出しますが、
実は私たちはこのキリストの恵みを知ったということによって、
マートンがフィリピンの教会に行っています、またコリンチの教会にも書き送っていますように、
私たちは自分の弱さに対して正直であるときに、
向き合うときに、そこに本当にキリストの恵みというものが現され、
勝利によって私たちは信じられるとパールが述べてきておりますこのことを、
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明るくここにとめていきたいと願います。お祈りとしております。
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