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本日は、伊丹聖書教会から講談の一斉公開になるために、河野先生をお招きしております。
幼子のようになってと題してメッセージを語っていただきます。よろしくお願いいたします。
背が低いので、ちょっとマイクを下げさせていただきます。
多分、声大きいので聞こえると思うんです。
すみません。ありがとうございます。
おはようございます。
今日は、教区の一斉講談公開ということで、名谷教会の皆さんとともに礼拝をお捧げさせていただけること、心から感謝をしております。
実は私は、大学になってからですね、名谷に引っ越してきました。
もう今、53歳なので、今からもう30年、もっと35年くらい前なんですけれども、
私は、今、ホットモットスタジアムっていうんですかね、あのすぐ近くなんですけど、神野谷というところが実家で、
名谷にずっと住んでおりましたので、今も、今日も帰りにちょっと実家に寄ったりするんですけれども、
もう本当にその、名谷に日本イエスの教会があるんだ、名谷教会があるんだということで、
とても嬉しくて、名谷教会を覚えて祈ってまいりました。
そして、今、この4月まで、ユン先生と一緒に青年部の、教区の青年部も担当させていただいて、
一緒に賛美集会に参加させていただいたりして、
本当に私にとって名谷教会は、とても親しい、親しみのある教会です。
その皆さんとともに礼拝をさせていただけることを、心から感謝をしております。
一言お祈りをして始めさせていただきます。
めぐみ深い、天の父なる神様、この朝は、名谷教会の皆さんとともに礼拝をお捧げさせていただくことができますことを、
心からも感謝をいたします。
本当にこの夏は、暑い暑い夏でありました。
本当に身も心も弱り果てるような暑さの中でありましたけれども、
けれども、あなたが私たち一人一人の心も体も魂も全てを守っていてくださって、
今日もこのように礼拝へと集ませてくださいましたから、心から感謝をいたします。
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どうか今日も、あなたが私たちに必要な御言葉を語りかけてくださいますように、心からよろしくお願いをいたします。
神様、あなたは私たちを、あなたから遠く離れているところから救い出してくださり、
神のことをしてくださり、そして本当に神の国を受け継いでいくものとしていてくださいますから、心から感謝をいたします。
神の国を受け継ぐものとしてどのように歩んでいったらよいのか、
私たちは本当にわからないままに日々歩んでいるようなものですけれども、
けれども本当にあなたの方に心を向け、また耳を傾けるときに、あなたがはっきりと教えてくださいますから、心から感謝をいたします。
今日もどうぞ、あなたのその御言葉を通して、私たちに歩むべき道をはっきりと示してくださいますように、
心からよろしくお願いをいたします。
神様、この朝様々な御事情のために、このところに来たくても来ることもできない方々がおられることを覚えます。
御高齢の方、また病の中におられる方、様々な問題を抱えておられる方、
どうぞ一人一人をあなたが覚えてくださって、そしてどうぞ何より傍らに立って御声をかけてくださいますように、
そして必要を備えてくださいますように、そして本当に癒しを与えていてくださいますように、心からよろしくお願いをいたします。
神様、本当にこの朝、天国、全世界の教会で礼拝がもたれております。
そのすべての礼拝をあなたが祝福してください。
この平谷教会の礼拝を祝福してください。
ユン先生は名田教会へと行っておられます。
名田教会の礼拝とユン先生のメッセージをどうぞあなたが祝福してください。
また、このものが使わされております、痛み清書教会の礼拝も祝福してください。
教区すべての教会よ、そして全国全世界の教会の礼拝よ、どうぞ祝福してくださいますように、心からよろしくお願いをいたします。
神様、小さなものが今から二言葉を取り継がせていただきます。
足りないものが本当に語らせていただきますけれども、どうぞ精霊様ご自身がそれぞれに語りかけてくださいますように、心からよろしくお願いをいたします。
今からの時を見てにおいだねし、心から感謝をして、イエス様の名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
それでは今日は、幼子のようになってという題で二言葉を取り継がせていただきたいと思いますけれども、
今朝まず皆さんに質問をさせていただきたいと思います。
とっても簡単な質問です。
イエス様の弟子は何人いるでしょうか。
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はい、もうね、分かりますよね。
十二人おられますね。おられましたね。
そしてその弟子たちはどういう形でイエス様の弟子になっていたでしょうか。
自分から私弟子にしてくださいと言ったのか、それともイエス様から選ばれて弟子になったのか。
選ばれてなったんですよね。
イエス様の方があなたを選びますと、本当に声をかけてくださって、そういう中で弟子になっていったわけです。
またその弟子たちは弟子になってから、弟子になったけれどもイエス様とは別の行動をしていたというか、
別のところに住んで別の行動をしていたのか、それとも一緒に住んで一緒に行動をしていたのか。
どっちだったでしょうか。
いつも一緒に住んで、いつも一緒に行動をしていたわけなんですね。
本当に弟子たちはいつもイエス様と一緒に過ごしておりました。
イエス様から愛され、そしてイエス様から直接教えていただいて、
イエス様がいろんな人の病気を治したりですね、悪霊を追い出したりですね、そういう奇跡もいつも見ていた。
弟子たちはイエス様の身近にいつもいたわけです。
それならですね、その弟子たちはどんなに素晴らしい人たちに成長したことでしょうか。
と思うのですが、どうでしょうか。イエス様の弟子たち、どんな人たちだったでしょうか。
表向きは、あの人たちはイエス様の弟子なんだと言って、いっぱい周りの人たちからは見えたかもしれません。
けれども、その中身はどうだったかというと、決して立派なものではなかったということが制度には記されているわけです。
仲間内で言い争いをすることがとても多かった。本当にそういうことが福音書を見るならば、いろんなところに書かれているわけなんですね。
今朝はこのマタイの福音書の18章を開いていただきましたけれども、その前の17章の始めを見るとですね、
皆さんもよくご存知の有名な変貌山の記事が記されています。
ここでですね、イエス様は弟子は12人いるんです。けれども、なぜか3人だけ選んで山に登るんですね。
ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて山に登りました。
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そしてこの3人の弟子たちは、モーセとエリアが現れたというね、そういう姿を見たり、イエス様が光り輝く雲に包まれたことを見たわけです。
神様の声もそこで聞きました。
また17章の終わりを見るとですね、ペテロが今度は税金のことでイエス様に質問をするわけですけれども、
するとイエス様はペテロに、海に行って最初に釣れた魚の口の中から銀貨が出てくるよとおっしゃって、
その銀貨をイエス様とペテロの税金として納めなさいとおっしゃった。
まあそういうことが記されているわけなんですけれども、ペテロだけ銀貨をもらってそれで税金を納めたんですね。
ペテロ自分のお金から税金を出さなくてよかったんです。
なんでペテロだけ税金をもらうの?
そしてイエス様は山に登られるときにどうしてペテロとヤコブとヨハネだけ連れてってもらって特別な体験をさせてもらえるの?
まあそういうことを他の弟子たちが知ったときにいろんなことを考えるんですね。
なぜあいつが選ばれたんだ?
なぜあいつだけ連れてってもらえたんだ?
なぜあいつだけなんだ?
私じゃなかったんだ?
弟子は順に言うんだよ。
私の方があいつより知恵があるのに、私の方がイエス様のためにいっぱい働いたのに、
私の方が、私の方がと自分を誇ってですね、他の人を憎だして、
誰が一番だ、私だ、いや私だと言い争っていたわけなんです。
けれどもいつまでたっても結論が出ない。
だからじゃあ師匠であるイエス様に決めていただこうということになって弟子たちはイエス様のところに行って聞くんですね。
天の御国では誰が一番偉いのでしょうか?
するとイエス様は小さい子供を呼び寄せて弟子たちの真ん中に立たせられました。
そしてこうおっしゃったんです。
まことにあなた方に告げます。
あなた方も食いあがためて子供たちのようにならない限り、決して天の御国には入れません。
とイエス様はおっしゃったんですね。
今私はゆっくりと穏やかに言いましたけれども、このイエス様の言葉を。
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きっとイエス様は結構きつい表現されているんですね。
イエス様はここで、誰が一番かとそういうことで人たちは言っているけれども、誰が一番どころではないんだと。
あなたたちは心を入れ替えなければ、この子供たちのようにならなければ天国に入ることすらできないんだと。
一番どころじゃない。天国に入ることもできないんだよということをイエス様はおっしゃったわけです。
これを聞いて弟子たちはどんなにショックだったかと思うんですね。
自分たちはイエス様に選ばれて弟子になった。
イエス様の近くでイエス様に仕えた。
一生懸命学んできた。
イエス様と共に活動してきた。
共にあなたは今の状態だったら天国に入ることさえできないなんてどういうことだ。
けれどもイエス様はこの時弟子たちの内側の姿、魂の中の状態をしっかりと見抜いておられたわけです。
弟子たちの魂の中にはまだまだ罪があるんだ。
盗んだり、殺したり、勧誘したり、偽ったり、この悪いことをするという罪は解決されたかもしれない。
見るところ立派になっているかもしれない。
けれどももっと分かりにくい、気づきにくい罪が心の中に残っている。
傲慢という罪がある。
そのことをイエス様は見抜いておられたわけなんですね。
そしてこの傲慢の罪というものが解決されなければ弟子たちは天国に入ることができない。
イエス様は弟子たちに天国に入るものとなってほしいからこそ、この時弟子たちの罪を指摘されたわけなんですね。
そしてこの弟子たちの姿とは、私たちの姿とも重なるのではないでしょうか。
私たちもイエス様を信じて、イエス様の前に罪を告白して許していただき、神様の子供になりました。
洗礼を受けてクリスチャになった。
そして今日のように毎週礼拝を捧げ、賛美をし、祈りをし、聖書を読み献金をして、与えられた様々な教会の奉仕もしている。
十戒に従って、御言葉に従って歩んでいる。
イエス様と共に歩んでいる。
私はちゃんとしたクリスチャンだ。
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イエス様の弟子なんだ。
そしてちゃんと生活している。
私は大丈夫と思っている。
けれども、その魂の奥底に私は教会生活をしっかりやっています。
私は誰よりも奉仕をしています。
世の中での経験を通して一通りのことは誰に聞かなくても分かっている。
自分のことは自分で間違うことなく判断できるんだ。
自分のことを必要以上に誇る気持ちがあったり、
人の姿を見て自反をしてしまったり、
人を見下ししまったり、
人と自分を比べて誇ってしまう傲慢の罪というのが多かれ少なかれあるのではないでしょうか。
そして、そのような思いがあることによって、
喧嘩をするというところまでは至らないかもしれない。
けれども、どこか人と気持ちの上で対立していたりする。
そういうことがないでしょうか。
私たちも、傲慢の罪を抱えてしまっているものなんですね。
そして、そんな私たちのイエス様は、
天の御国に、天国に入ることはできないであろうとおっしゃるわけです。
けれども、イエス様は、ただ天国に入ることはできないとおっしゃるだけではありませんでした。
イエス様はどういうことか。
私たちの罪の病を治してくださるお医者さんなんですね、イエス様は。
なので、ちゃんと処方箋があるわけです。
どうしたら天国に入ることができるのか。
弟子たちがどう言ったらいいのか、ちゃんと教えてくださいました。
それが、悔い改めなさいということと、子供たちのようになりなさいという二つのことだったんですね。
まず、この悔い改めるということですけれども、
傲慢な心がむくむくと起こってきたとき、
そのような心、言葉、行動を素直に認めて、
イエス様の前に、私が傲慢でした、自分は怒っていました、許してくださいと素直に告白して、祈り、罪を許していただくことです。
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けれども、これが簡単にできそうで、なかなかできない。
自分が傲慢だということに、私たちはまず、
そして、気づいても、誰かのせいにしたり、状況のせいにしたり、自分が悪いことを認めようとしない。
そして、それは大人になればなるほど、そして、傲慢なものであればあるほど、自分が悪いということを認めることができないんです。
けれども、イエス様は、精霊は、私たちはこの傲慢の罪にとどまり続けることがないように、私たちに語りかけられるわけなんですね。
時に、あなたのさっきの言葉は、人を見下した言葉ではなかったか、あなたの行動は自分を誇る行動ではなかったかと語りかけて、私たちの罪を示してくださる。
その時、私たちは、指摘されたことを素直に認めて、悔いを改めるわけなんですね。
実はですね、私もこのつい2週間ぐらい前に、本当に自分は傲慢だなと思ったことがあったんですね。
それはどういうことかというと、私は今、伊丹聖書教会に使わされておりますけれども、これはここだけの内緒にしとっていただきたいんですけれども、
私たちの教会には、この伊丹聖書教会を開拓して生み出された小山清隆先生、牧子先生が、今、礼拝に出席なさっておられます。
やっぱり先生方はですね、開拓して教会を本当に作り上げられた先生方なので、伝道の玉物もお持ちだし、すごくこの伝道の意欲に燃えておられるんですね。
で、なんですけれども、私はクリスタンの3世とかなので、どっちかというと、伝道、伝道というよりも、教会を守っていけたらそれでいいんじゃないって思っているところがあるんですね。
やっぱりそういう私の姿を見ておられて、先生方も、いや、もっと伝道しなければいけないと思われたと思うんですね。
ちょうど今、礼拝で首都の働きをずっと連続でしていますので、特にもう伝道宣教ということを毎週メッセージで私も語らせていただいている中で、伝道な強い思いを持った先生方がですね、届かれて、もっと伝道しなあかんと思われたみたいなんですね。
そして、お食事を一緒にいただいていたときに、釜野先生、もっと伝道しなあかん、もっと伝道しなあかん、ああしなさい、こうしなさいって言われたんですね。
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私それを聞いて、先生、そこまで言わなくても、私には私のやり方があるんです。もう先生、黙ってください、心の中で思ったんですね。
で、私には私のやり方があるからいいんだ、先生の言うことを聞かなくても、って思ったんですけれども、そういう自分がいる中で毎日デボーションするんですね。
御言葉を聞くわけです。そして、チクチクチクチクチクって刺されてくるわけなんですね。
先生方は本当に教会のためをもって、またあなたのことをもって、そして日本の宣教のことをもって、もっと伝道しなさいって言ってくださっているのに、それを聞かないってどういうことなん?
自分はわかっている。自分にはできる。自分のやり方でいい。あなたは傲慢になっていないかい?すごくそのことが示されたわけです。
そして私は神様の前に悔い改めました。そうです。私は本当に何の経験もない。何のやり方もわからない。本当にそういうものだったのに、本当に自分で何とかできると思って傲慢でした。
神様許してください。本当に悔い改めて私はどうしたかというと、先生の今までされてこられた伝道のやり方を私はお聞きしたいですから、先生聞かせてくださいと言って、
そして先生のご自宅を訪ねて、4時間くらい先生からこんなことやってきたよ、あんなことやってきたよということをお聞きして、
そして全部ができるわけではありませんけれども、少しずつ先生が言われたようにさせていただこうと思って受け止めさせていただきました。
本当にそういうことがあったわけですけれども、本当に私たちというのはなかなか自分の中に自分で大丈夫、自分がやってきた、言われなくてもわかっているという本当にそういう部分があるんですね。
なかなかそれに気づかないわけですけれども、神様は本当にいろんな方法を通して、あなた方の中の罪はないですか、傲慢なところはなかったですか、教えてくださるわけです。
本当にそのように示されたときに悔い改める、本当にこれが大切なことなんですね。本当にそのようなものにならせていただきたいと思います。
そしてもう一つ大切なことは、イエス様が言ってくださった処方箋、子供たちのようになることなんですね。これはどういうことか。
昔の時代の子供たちは純真無垢でした。今の子供たちはどうでしょうか。純真無垢なんてとんでもない。言うこと聞かない。見ていないととんでもないことをする。
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夏休み、子供たちやお孫さんたちに振り回された方もおられるかもしれません。みんながみんなそういうわけではないですけれども、純真無垢な、本当に言うこと聞くちゃんとした子供たちもいるわけですけれども。
でもイエス様がおっしゃっているのは、そんな子供たちのようになりなさい、言うこと聞かない子供たちのようになりなさいと言っておられるのではなくて、イエス様がおっしゃっているのは本当にまだ小さい、幼子と言われる赤ちゃんのような子供のことです。
親に100%頼らなくては一人では生きていくことのできない子供のことなんですね。ご飯を食べるのも親の助けを借り、トイレに行くときも親に手伝ってもらい、外に遊びに行くときも一人で行けないので連れて行ってもらい、何をするときも親と一緒。
お母さん、お父さん、お願い助けてと頼って、自分がどうしたらいいかを教えてもらう。そのような幼子のようになりなさいとイエス様はおっしゃる。
私たちは大人になっていろんな能力や知恵を身につけます。誇るようになっていきます。けれども自分を過信せず、自分の罪深さ、自分の愚かさ、自分の無力さ、自分の無知さ、そういうものを認めて、
いつもイエス様と一緒にいて、イエス様、私は一人ではできません。イエス様、助けてください。イエス様、私には知恵がないから教えてください。
イエス様、イエス様、イエス様とイエス様に100%頼っていく。それが子供たちのようになるということなんですね。
この悔い改めることと、幼子のようになること、この両方があって初めてイエス様は私たちを天国に入れて出す。天国に入る。この言葉を聞くと私たちは死んだ後のことを考えてしまいがちですけれども、
天国、聖書で言っている天国、天の御国の本当の意味は、神の支配しておられるところ、神様が支配しておられる恵みと祝福があふれているところという。
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私たちが心を入れ替えて幼子のようになるときに、イエス様は私たちの毎日の生活を天の御国にいるかのような生活に導いてくださるという、そういうことです。
争いのない、平和な、私たちを神様の恵みと祝福があふれる中にあぎませてくださるわけなんですね。本当に私たちの周りをまるで天の御国にいるかのような、そういうところへと神様が、それが天の御国に入れてくださるということなんです。
私たちも悔い改めて子供たちのようになって、日々の生活をあいませていただきたいと思います。このようにしてイエス様は弟子たちに教えられました。悔い改めなさい。子供たちのようになりなさい。
それを聞いた弟子たち、その後どうなったでしょうか。心を入れ替えたでしょうか。残念ながらそうではありませんでした。弟子たちは相変わらず、誰が一番偉いかということを言い争っているんです。
罪を指摘されても気づかない。気づいても認めたくない。認めても心を入れ替えることが新しい生き方をすることができない。それが実は弟子たちの姿でした。
けれども、そんな弟子たちに転機が与えられます。あることをきっかけに弟子たちは悔い改めて子供たちのようになりました。その転機は何だったと思いますか。それはイエス様の十字架と復活でした。
弟子たちがイエス様の十字架と復活を体験したとき、弟子たちはやっと心を入れ替えることができたんです。この後イエス様は十字架に向かって行かれましたけれども、イエス様の弟子たちはヨハネを除いてみんながイエス様を裏切りました。
ユダはイエス様を折り渡しました。その他の弟子たちはイエス様が捕らえられるとイエス様を捨てて逃げていきました。子供のようになってイエス様を頼るどころかイエス様には頼れないとイエス様を裏切って逃げていった。イエス様を捨てた。
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けれどもそんな弟子たちもイエス様の十字架の使徒、よみがえりを見たときに心を入れ替えました。何の抵抗もせずに言い訳もせずに、人を呪うこともせずに十字架にかけられて死なれたイエス様を見て、自分を救うために言い訳ばっかりをしてしまう。自分に危害を加えるものを決して許さない。そして呪ってしまう。
私たち人間とはイエス様は違う。この方は神だと気づきました。死からよみがえった人など一人もいない中にあってよみがえられたイエス様の姿を見たときに、この方は神なんだとイエス様は神なんだと弟子たちは気づきました。
イエス様が以前言っておられた、イエス様が本当に十字架にかかる前に言っておられた通りに捕らえられ十字架にかけられ三日目によみがえられたのを見て、イエス様の言葉というのは口から出まかせではない。
イエス様は後に起こることも全てをご存知である。ただの預言者ではない。本当の神様なんだと気づきました。
よみがえられたイエス様が自分たちの前に姿を現して優しく声をかけてくださる中で、イエス様はイエス様を捨てて裏切って本当にイエス様を捨てて逃げてしまった自分たち弟子を何もなかったかのように許し愛してくださる本当の神様なんだと気づきました。
イエス様が人ではない本当に神様なんだとはっきり分かったときに弟子たちは自分の傲慢さに気づいてやっと認めて悔い改めることもできました。
どんなに自分が何かを誇ったとしても神であるイエス様の前には自分は罪深い愚かな何の知恵も力もない一人の人間に過ぎないんだ。
そのことが分かった。自分には何の誇るところもないんだと認めて悔い改めてこんな私をイエス様許してください助けてくださいこれからの私の愛みを導いてくださいと子供のようにイエス様に聞きイエス様に従うひりくだった幼子のようなものに変えられたわけなんですね。
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今までは自分が神だったんです。自分より偉い人はいなかったんです。でもイエス様の十字架と復活を見たときにこの方だけが一番なんだ。この方以外みんな罪人なんだ。みんな弱いんだ。みんなちっちゃいんだ。
そのことが分かって初めて子供のようにイエス様に聞きイエス様に従うひりくだった幼子のようなものに変えられたわけなんですね。
それと同じように私たちもイエス様の十字架と十字架の使徒よみがえりの姿をしっかりと見つめる。そのときに人の姿ではない神であるイエス様の姿を見つめるときに私たちは本当の意味で自分の傲慢さを認めて悔い改めて子供のようにイエス様に頼っていくものと
ならせていただけるわけなんですね。最後に私自身の証をさせていただきたいと思いますけれども私は4人兄弟なんです。少女として生まれました。私の下に妹妹そして弟がいるんですけれども私の下の妹と私は1歳半しか離れていないんですね。
その次の妹も1歳半なんです。だから3年の間に女子が3人いるんですね。そしてそれから6年離れて弟がいるんですけれども弟は少し離れているので何か女の子3人がひとくくりのような形で私は育ちました。
本当に3人いる。年の近いのが3人いるのでみんな女の子ですからいつも私は比べられる中で育ったんですね。どっちが賢いだとかどっちが正しいだとかどっちが可愛いだとかどっちがどうだとか本当にいつもそういうふうに言われて育ちました。親だけじゃなくて周りからもそういうふうに言われながらそういう中で育っていったわけです。
ですから普遍と私の中に人と比べてしまうというそういう性格が身についていました。私は家の外ではいわゆるいい子として生きていましたけれども家の中ではいつも兄弟お互いを比べて言い争って喧嘩ばっかりしていました。
本当にこの弟子たちと同じ状態だったわけです。そしてその性格が献身した後でもですね、残っていた。まだ完全に清まっていない。まだ残っていると感じています。
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言い争うことはしなくても、あの人のああいうところは自分とは違うとか、あの人のあれは間違っているとかですね、人と自分を比べて心の中で批判してしまうという傲慢さがどこかに残っているわけなんですね。
でもそんなものは天の御訓に入れないとはっきりイエス様はおっしゃっているわけです。何とか減り下ったものになりたい。本当にそれが私の祈りなんですけれども、本当にそんな私にイエス様は教えてくださるわけです。
幼子のようになりなさい。周りの人を見つめるんじゃない。十字架にかかられ死んでよみがえられたイエス様を見つめたらいいんだ。人を見ないでイエス様を見なさい。イエス様に心の中を洗病してもらいなさい。比べるんだったらイエス様と自分を比べなさい。
本当にいつもそう言われるんですね。そういう中で自分が足りないものだということに気づいて、ただただイエス様に頼っていく。本当にそのようにあいませていただきたいと今、いつも願っています。本当にそういうものです。
私で最後、変な決めくくりで終わっちゃいますけれども、本当に私たちそういうところが皆さんにはないかもしれないけれども、何かしか本当に心の中に私たち弟子たちと同じようなものを持っているならばですね、本当にイエス様のこの語りかけに従って子どもたちのようになって悔い改めて日々愛のものにならせていただきたい。そのように願います。
最後に皆さんでご一緒にこのマタイの福井城の18章の3節ですね、読ませていただきたいと思います。18章の3節のカギカッコの中のところ、まことにっていうところからご一緒に読ませていただきましょう。
まことにあなた方に告げます。あなた方も悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には入れません。お祈りをいたします。