00:01
一言、お祈りをお伝えいたします。
恵みと憐れみにとみたまを、
父なる神様、今やみ、ゆびき、
あなたの御言葉を共にいただきたくございます。
どうぞ、この午後のお言葉として開かれております
大切なこの言葉が、これまで見まして、
あなたを見舞いに生きる私たちの新たな糧として、
また、奉公としてあげましてください。
皆によって祈ります。
この午後は、読んでいただきましたこの
殺され人の手紙の一章の半ば、
今日は24節から読んでいただきましたけれども、
もう少し手前の方にも大切な言葉がありますので、
それも合わせて開いてみたいと思います。
パオロは、教会形成ということで、
その最も要的な御言葉として、
この27節、特に27節の後半に、
この奥義は、あなた方の中におられる
キリスト、栄光の望みですとか書いてあります。
私は、まさにこの言葉は福音の中心、
真髄でもあると申し上げることができます。
パオロは、栄光の希望であるキリストを伝えることを、
最高の光栄に満ちた務めだと、そこに記しております。
私たち全てのクリシアにとっても、
このことは同じでありますし、
教会はこのようなクリシアによって
形成されていくということが大切なんですね。
03:11
パオロは、この最高の務めということについて、
いくつかのことをその後に記しております。
注目すべきことは、24節に、
今私は、あなた方のために受ける苦しみを喜びとしています。
私はキリストの体、すなわち教会のために、
自分の身をもって、
キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。
ここで彼は明確に述べております。
一見、誤解しやすい表現が言葉があります。
キリストの苦しみの欠けたところを満たすという、
では、イエス・キリストが私たちのために、
そこに成就してくださったその救いは、
ここで言うならば、パオロのお見舞いによって完成されるのか、
そういう意味でパオロは言っているのではないのですね。
ここに、キリストの体、あるいは教会、
という言葉を用いながら、その教会のために、
この身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たす、
あるいは前の訳では補うという言葉がそこで使われていましたけれども、
不足したところを補うという意味ではない。
むしろパオロはここで、
もし自分がそういう欠けたところを補うということができるとするならば、
主のためにまた教会のために、
06:00
何か与えられる試練なり苦しみがあるとするならば、
それは私に抜けられた主からの賜物だから、
私はそれを受け止めていきたい、また喜びとしたい。
決して一時的な自己満足あるいは倒水というようなものではない。
私はここに、パオロがそれこそ福音に触れたきっかけ、
これは人の働きの七章におけるステパノという殉教者のメッセージが書いてあって、
そして八章の終わりに、このステパノは殉教していくわけです。
パオロは当時名前をサウロと言いましたけれども、
その目撃者として人々の憎しみを買って、
そしてステパノはあの素晴らしい公開説教の最後に彼は殉教していく。
しかもサウロは当時のサウロですね。
ここで言うパオロですが、
それを目撃し、また大祭司に報告する上での表現者、
ですからステパノを殉教に追いやるそのために、
その迫害者たちは来ていた子供をそこに置いて、
そしてステパノに向かう。
容赦ない全てをそのステパノに向けるわけです。
その時の現場でサウロはその迫害者たちのものを自分が引き受けて、
そして彼らがステパノに向かうということを良しとした。
石潰てこそパオロはステパノに向けなかったでしょうけれども、
しかしこのことをきっかけに、
ステパノが殉教していくその様を人々が見てこれを良しとし、
09:01
そして支持しているその様を見たサウロは、
これから以降は私が、
さらに大勢のクリスチャンたちが地方に散らばっている、
彼らを追い詰めて、そしてこのエルサレムに引いてくる。
それを当時彼はそれを大祭司からのものとして、
最高の務めとして彼はそれを誇りとしていた。
この人の働きの八章の終わり、そして九章の始めを見ますと、
彼はその場面においては迫害者、このサウロとしての勝利者の様な振る舞いを、
あるいはそういう理解を彼はしていたかも分かりませんが、
しかし後々のパオとなってからのこの現場での出来事が、
彼にどういう光を与えたか。
彼は二度三度とこの時の光景というものを、
自分が福音に触れて、そしてその救いに預かるための大切な出来事として彼は、
その時は分かりませんでしたけれども後に立って、
ああこの事のためにシュア・ステパノを通して私に本当の救いというものを、
喜びというものを私に残してくれた。
彼はだから、ステパノのこの殉教していくその苦しみの様子の中に、
彼はある意味においての教会というものを見たのではないか。
しかし十分な理解を得ない時のパオロは、
教会に対して、
憎しみを持って、そして教会を迫害するという立場で、
彼はさらにダマスコに向かおうとしていた、
その途中の出来事、
この人の働きの二十二章ちょっと、
12:07
どういう風に彼はその時の事を証言しているか、
この二十二章、
二十二章の六節、
これは私の、
ここで私が道を進んで、
真昼頃、ダマスコの近くまで来た時、
突然、天からの眩い光が私の周りを照らしました。
私は死に倒れ、私に語りかける声を聞きました。
サウロ、サウロ、どうして私を悪害するのか、
というこのくだりですね。
これは彼がサウロからパウロになっての、
勝って自分がステパノを通して、
キリストの救いをそこに見た時の証を、
彼はここに書いているわけですね。
迫害者サウロは、
その迫害者としての勢いをもって、
ダマスコに向かう。
そしてそこで、
さらなる境界の迫害を彼はしようとした。
その途中の出来事ですよね。
私は突然天からの眩い光が、
私の周りを照らした、というこの言葉の中に、
実はステパノを殉教に追いやった、
その時の光景、
悲惨な場面に殺されていくステパノのその姿、
と思いきや、
実はその時に彼の心の中にですね、
ここで言うような一つの神様からの光が、
15:02
サウロの心を後々捉えていったのではないか。
それを彼の一つの劇的な体験として、
迫害の手をダマスコに向かうべき途中、
あのステパノの輝きというのがですね、
サウロにとってはここでは、
一つの輝き、天からの光として、
サウロを照らした。
まばじゅう光、と書いてありますけれども、
実際、サウロはその光のために、
智力を失っていくわけです。
そして彼はダマスコに向かうんですけれども、
しかし、そこをここに至るまでのサウロはね、
怒りを持って、
もう誰の手も借りずに、
自分で、というそういう思いで、
ダマスコに向かうそのサウロは、
この一瞬でもってね、
彼は智力を失い、
誰かに手を持ってもらわないと、
自分の行動すらできないような、
そこにまで彼は落ちてしまった。
けれども、この時の光がね、
ここでもそうですし、また、
二十六章においてのアグリッパ王の前においての証もそうですが、
この時受けた光が、
ステファノを通しての受けたその光が、
私を変えた。
この福音に触れて、そして私は、
そこから私の生涯が変わった、
と、
言わんばかりのそのことですよ。
パウロが受けた、
この苦しみというのは、
ステファノを通してのその苦しみ、
彼が、
一見無罪かな、
形でもってその、
殉教していくその様、というのは、
パウロにはそうではなかった。
神様からの、一つの強烈な光となって、
実は彼を捕らえていた。
捕らえられていた。
そしてそれは、その光は、
ついに復活のキリストに出会ってくる。
ステファノがあそこで苦しみを受けたことによって、
今の私があるんだ、
と、言わんばかりの、
彼の証ですよ。
もし、ステファノの苦しみがなかったならば、
彼は、パウロは、
そのままだったかもわからない。
18:01
ということは、
苦しみを、ステファノの中に、
神様からの最高の賜物として、
受け止めていく、あの様子に、
彼は単なる苦しみではない。
そこまで、
苦しみを賜物として受け止める、
そのステファノ、
自身の中に、
パウロは、
今、改めてコロサヤの教会に、
書き送る一文の中でもって、
自分は、
キリストの苦しみの懸けたところを、
少しでも、
教会のために、受け止めていきたい。
ですから、ステファノも、
姿に見たその、
こえ、
というのは、
パウロにとって、苦難は、
神様からの賜物なんだな、
ということがそこで、
わかっていったんでしょう。
ですから、
フェリペイトリの手紙の1章の29節に、
あなた方がキリストのために、
この受けた恵みは、
キリストを信じることだけではなく、
キリストのために、
苦しむことでもある、
と書いています。
ここではっきりと、
パウロは、
苦しみは苦しみというだけの、
先発なものではない。
実は、
この苦しむということも、
ステファノがそうであったように、
私にとっても、
神様からのね、
この使命達成のための一つの、
賜物として与えられる。
だから、
後々のパウロは、
厳しい試練の中に身を置くんですけども、
どんな厳しい中にあっても、
これが神様の頼ものならば、
プレゼントならば、
受け止めていこうという、
苦しみに対して、
非常に積極的な受け止め方。
被害者意識ではない。
本当にそこに恵みを、
パウロはいつも見出し、
また受け止めて、
そしてあげるんだ。
ですから、
再びこのコルサイビキの手紙に戻りますが、
1章の25節に、
私はあなた方のために、
神から委ねられた務めに従って、
21:00
教会に使えるものとなりました。
神の言葉を、
余すところなく伝えるため、
と書いています。
自分が受ける苦しみということすらも、
これは、
私がイエス様のことを伝えするための、
大切な、
務めとして、
自分に任せられた、
そういう、
理解であり、
言うならば、
パウロの伝道ということに対する、
動機、
最高の務めのために奉仕する、
動機として彼は、
理解し、
そういう受け止め方をしている。
昨年、
NHKの大河ドラマで、
渋沢英一でしたかね、
あの方の生涯がずっと、
応援され、今まで、
ああいう、
ドラマというのは、
この始まった鎌倉様、
鎌倉殿の十三人、
よく見ているなと思いながら、
楽しみですよ、日曜日の場面。
どんな風に展開するのかな、
と思うんですけども、
しかし、
そういうね、
時代模様ではなくして、
日本がこれから変わるとする時に、
そういう、
群馬の、
ポッと出てきたような、
農家の青年が、
本当に日本を変えていくための、
非常に大きな使命を、
そこで持って見出して、
そしてやっていく。
実は私は、
申し上げたいのはその、
渋沢英一という方の、
年から言ったのならば、
同じぐらいの年格好でしょうか、
片岡健吉、
この方のことはよくね、
昔からメッセージの中で、
聞いたりもしてきたんです。
時の衆議院の議長までなさった、
高知教会出身の方なんですね。
そのエピソードの中に、
この片岡健吉という方は、
彼が教会でもって、
この一つの大切な務めは、
肩書きとしてはね、
やっぱり長老という、
そういうあれですよ。
だけど彼はその教会においての務めは、
昔はそういうことがありました。
下足番という。
玄関入ってきて、
靴や下駄を脱いで入っていく。
その時に、
世話をする。
そしてスリップを渡すというような。
24:01
私の前の平方希望教会でも、
特別集会とかなんかあったら、
下足番みたいな方針をする人がいないと困ったんです。
そして番号札を渡しながら入れていくわけですが。
ところがその片岡健吉という方は、
やはり現役の衆議院議長という。
だから国会においてはそういう立場です。
しかしこっちの教会に戻ってきた時には、
一人の教会に仕えるものとして、
その仕えるそれは、
まあいうような下足番だ。
けれども、これが私に委ねられた務めだ。
国会のその仕事よりも、
教会のそのためにわざわざ戻ってくるという
逸話があったぐらい、
彼は教会の、
自分に与えられたこの務めというものを
大事なさったという、
そういうエピソードを聞いたことがあります。
私たちはですから、
自分に与えられたこの務めというのは、
教会ですから役員という務めもあります。
役員の中にも会計役員もおりますし、
総務的な役員もおりますし、
いろんなそういう役員もおりますよね。
役員以外は何もしないのかというと、
そうではない。
教会はそんなんじゃないですよね。
またそういう中でもって、
それぞれ皆さんが一覧表に載っているような
教会の奉仕に立つとありながら、
これまで教会から委ねられた務めの一つとして、
自分もそこである人は総学、
ある人は献金登板、
ある人はお祈り、
あるいは聖書朗読。
私はそういう働きもないわと。
けれども出席しているときはね、
非常にこれは光栄ある務めですよ。
何の奉仕もできなくても、
教会に来てそしてそこで
礼拝を一緒に守っているという、
それはね、やはり大切な務めだと思いますよね。
パウロは苦しいことも、
どんなことも神様から委ねられた務めなんだ。
神から与えられた務めなんだという、
そういう非常に積極的な信仰の姿勢でもって、
その教会においての自分の働きをそこでする。
ある意味でパウロの表現を借りるのは、
教会の懸けたるところを担うという、
キリシトの体のある教会の
自分に与えられたその一つの務めを、
27:02
これを受け止めていくというのは、
そういった意味ではないだろうか。
ですから私は、
この法師も、
キリシトの苦しみの懸けたるところを補う、
やはりキリシトの救いの不完全を言っているのではなくてね、
自分が最高の教会が、
キリシトの教会として力強く前進するために、
自分に与えられた最高の務め、
受け付けやります、
何やります、という、
それが教会に新たな力と結束と、
また教会が一人の人を中心にこう動くのではなくて、
本当にみんながそこでもっとですね、
教会形成に励んでいくという、
その必要性、大切さがあります。
そして私たちに委ねられたこの務め、
最初に申し上げましたけれども、
もう一度二十七節、
後半を見ますと、
このお釘とは、
あなた方の中におられるキリシトを、
栄光の望みのことです。
私はここに、
奉仕の内容、
私たちクリシャンにとっての最高の奉仕の内容、
それは、
私たちの内におられるキリシトを明かしできるという、
これはもう、
クリシャンの最高の特権ですよね。
イエス様の明かしができるということ、
しかも、
私の内におられるキリシト、
この明かしをできるということは本当に、
何と大きな喜びであり優れたレビューです。
これも伝え切った、
幕僧先生の実話ですけれどもね、
この先生は、
終了会の時だったのでしょうかね、
あの、
10人か100人か、ちょっと忘れました。
まだ清められていないクリシャンの存在よりも、
一人の清められたクリシャンがあるということは、
それが教会の力で、
教会を豊かにする、
それです。
大勢集まって、そしてやっているけれども、
何かそういう点がね、
もう一つ清められていないというか、
あまりその一言でもって表現するのは難しいですけれども、
30:01
しかし本当に清められた。
この国は、
こう読みましたように、
私たちの内におられるキリシト、
この明確さが、その信仰告白が、
教会をさらに成長させ豊かにさせる。
考えてみますとね、
この国は、私たちの内にいますキリシトというこの証はね、
これはクリシャンにしかできない証ですよね。
一般の人はなくて、
このイエス・キリシトのことを知りませんし、また否定しますし、
まして、キリシトが内におられるということの、
大きな大きなこの喜びというものを、
分かりませんから、
証するにもできません。
できるのは、
このお方が私の内におられるということを、
本当に信仰においてですね、
受け止めている人によって、
証ができる。
ただ問題は、
この恵みというのを、
いや私は何年たったって、
そんな清められたクリシャンにはなれません。
ほどほどでいいんですっていう、
まあそういうことを聞いたこともありますしね、
いや私もそういう類の、
まあこの程度でいいんじゃないのっていうのはですね、
あいに考える、
タイプの人間でありますから、
ですから、
内流のキリシトと言われてもですね、
そういう点での中途半端な、
クリシャンになってしまっている。
マルコニオン福音書7章を見てまいりますとね、
これまでいつも目くじらを立てて、
イエス様の行動を監視し、
もう何でもいいから突っ込んで、
そして困らせてやろうというような、
当時の立法学者や最初だし、
ところがどこを突っ込んでもですね、
突っ込みようがない。
避難できるところがもうだんだん、
彼らには材料がなくなってしまった時に、
今度彼らは何をしたかというと、
弟子たちなんですよね。
あなたのところにわざわざやってきましてね、
あなたの弟子は、
手も洗わないで食事している。
今はいいと思いますよね。
手を洗って食事をする。
今のこういうコロナの時代っちゃおかしいですけども、
こういう時ですから、
帰ったらすぐに手を洗ってうがいしてという。
33:03
そして食事の時も、
そうしてきれいにしてやるというのが、
今のコロナ対策の大切な、
ですからいいんですけども、
弟子たちはね、立法的なんです。
衛生上いいとかなんとかじゃなくてね、
じゃあ立法にはそういうことが書いてあるのか。
具体的にはそんなね、
今日洗わないからどうのとか、
いろんなこと書いてませんよ。
枝を付けて、そして、
ああでもない、こうでもないということで、
この弟子たちのできていないところを、
それを材料にして、
あなたの弟子はこうだ、
だからあなたもダメだ、
そういうことで、
イエス様に立ち入っていきたい。
ですからイエス様には落ち度がないんですけども、
イエス様を師匠として仰いでいる、
自分の中に落ち度があるものですからね、
イエス様に申し訳ないな、
そんな思いを持ちます。
人の働きの重要視上では、
それでもクリスチャンはね、
キリストのもの。
本当はこれは、
差別語と言うんでしょうか、
軽蔑語として用語として、
我々はローマ皇帝のものだけども、
あいつらはなんと処刑された、
キリストのものだ、
そういうところからクリスチャンという名前が
使われてきた。
しかし後々、
この皇帝のものという意識高い、
オサーク・パウロもね、
そういう誇りを持っていたと思いますよ、
ローマの真剣を持つような、
そういう人ですから。
さっきそのローマが、
どうなりました?
みんなからバカにされて、
クリスチャンだと言われて、
そうしてやっていた、
それが、
やがてはローマを変え、
世界を変えていく。
キリストのものっていう、
本物のクリスチャンが、
そこにおりますとね、
世界は変わっていくんだな、
っていう、
歴史の中にもいる、
その一つの出来事を思います。
今、雪でだいぶやられておりますが、
新潟県の名古屋市というところで、
3年余り、
ぼっかい電動に当たりました。
今ある場所ではなくて、
駅から本当に近いところなんですけども、
買いたくなかった、
石川先生という方が、
それこそこう、
屋根がですね、
こういう屋根なんですけども、
ところがこんな、
家に張ってあるような、
36:01
ロマンチックに言うならば、
いつでも星空が見える、
そういう、
すき間風が、
私も本当に困りましたけどね、
すき間風が、
ベーっと、
また、
日本海沿岸のところは、
風がきついもんですからね、
すき間風から、
天井のその、
ほこりっていうんでしょうか、
それが落ちてきて、
朝顔を洗ったら、
なんでこんな黒い、
あちこち汚れてるんだろう、
笑ったのにおかしいなあと思って、
西武教会のね、
中心的になさった、
広瀬さんなんかがね、
そういう様子をご覧になってね、
やっぱり、
もっとこう、
直立愛神教会に、
教会、
手こいでして、
そして、
やった方がいいというような、
委員会の配慮もあったようですが、
それでもね、
そういう建物ですけども、
しかし、
竹田先生は、
まあ、
そこで、
春去って言ったらいいんでしょうか、
まあ無理して、
病気で倒れて、
滅された、
まだ40代半ばではなかったかな、
と思いますけども、
で、
私も、
その教会で、
3年間ほど、
奉仕する機会がありましてね、
で、
当時、
独身でしたから、
ワイシャツとかなんかは、
一応、
クリーニング会社に出すわけですね、
きちっと、
こう、
なりますからね、
で、
ある時、
出したクリーニングが、
ワイシャツが、
あの、
出来たということで、
袋に入れて、
戻ってきてありました、
私は、
その袋を見てね、
感激したんですよ、
みんなカタカナですけどね、
キリストサイト、
ええ、
私はそれを見て、
私も、
キリストサイト、
クリーニング会社は、
私の中にキリストを見たんだな、
と、
なかなか理解できませんでしたけどもね、
けどもその、
表書きだけでもね、
はあ、
教会におればこそ、
世間の人は、
一応、
キリスト、
サイト、
なんとこれやる、
寄り方をしていただくことか、
と、
あの、
そんな風に思いましたね、
いうならば、
私のうちに、
イエス様が置いてかさっている、
あるいは、
私が、
イエス様を信じて、
死とともにある、
まさに、
それになってはじめて、
キリストサイトになるんですよね、
サイトのうちにイエス様がおられる、
という、
最高の、
クリシアンとしては、
最高の、
この、
こう評価っていうんでしょうか、
呼び方だな、
と、
まあこれはクリーニングの表書きの、
ちゃきゃーってこう書いた、
まあ、
クリーニング屋さんは、
あの、
教会とか書くのめんどくさいから、
キリストを、
サイトという漢字もややこしいですから、
39:00
サイトってカタガラで、
全部カタガラで、
こう書いてあって、
けど、
受けた私は、
大変感動して、
いまだに、
忘れられないですね、
ただ、
本当にそれらしく生きたか、
と、
それは課題ですけどね、
けど私は、
クリーニング屋さんの、
片手間の、
そういうことがわかりませんけども、
しかし、
私には一つの霊的な、
メッセージって言うんでしょうか、
本当にそれらしく生きよう、
さてこの、
神からいざねられたこの務め、
最高の務めの、
目標はどこなのか、
申し上げましたように、
動機は、
私のうちに、
生きておられるキリストを、
明かしする、
その働きの目的、
目標、
この28節、
すべての人を、
キリストにやって、
成熟した者として、
立たせるためである、
前の、
訳では、
すべての人を、
キリストにある、
成人として、
立たせるためだ、
ですから私は、
成人式に、
この御言葉を、
で、
応用したことが、
一度あります、
今度の訳では、
成熟した者、
私が、
たとえ、
一人の、
CSの子供を相手にして、
話をする、
あるいは、
教会に来て、
間もない、
方であっても、
あるいは、
長く、
されてきた方であっても、
自分は、
今話をする、
その相手、
というのに対してね、
どういう思いで、
取りつむのか、
あるいは、
お話しするのか、
今は、
幼くて、
理解できないか、
分かりません、
あるいは、
教会に来て、
まだ、
知らないかもしれません、
けれども、
その人と相対して、
イエス様のことを伝える時、
その人が、
やがて成熟した、
クリスチャンになる、
パオロは、
そういう目標でもってね、
全ての人が、
成熟したクリスチャンになるため、
私は、
この務めに、
務めを委ねられて、
そして、
今、
私たちの、
保護士の、
目標は、
全ての人を、
キリストに会って、
成熟したものとして、
立たせるためだ、
42:03
私はここに、
大切な、
目標があるということを、
申し上げました、
そして、
目標を達成するために、
そういう健全な、
私のうちに生きておられる、
キリストを明かしする、
見事を伝える、
この動機、
そしてまた同時に、
そのことのために、
祈る、
だから目標達成のために、
動機もありますし、
祈りもあります、
最後に、
この委ねられた務めに対して、
パオロは、
大変力強く、
こう述べています、
この29節、
このために、
私もまた、
自分のうちに、
力強く働く、
キリストの力によって、
苦闘しながら、
奮闘、
あるいは、
努力しています、
このキリストの力によって、
奉仕にあたり、
私たちの、
奉仕の、
動力源は、
それは、
ご精霊であり、
私たちのうちに働いてくださっている、
このキリスト御神の、
力によって、
委ねられた、
この務めを果たし、
本当に私どもは、
どのような奉仕であっても、
イエス様がそのために、
それを全うさせようとして、
力を与え、
この最高の務めに生きる、
喜びをも、
合わせ、
そして、
お与えくださっている、
それが、
私ども、
キリストの体の境界に使える、
クリシャンとしての、
こんな素晴らしい恵みを、
私たちがいただいている、
言うならば、
確かに、
苦しむことも、
神様からの最高の、
賜物としていただいている、
わけですけれども、
何もかも全部、
品揃いをもって、
そして、
一人のクリシャンが、
成熟したものとして、
そこで、
出来上がっていく、
ここまで、
私たち一人一人を、
この恵みと、
ご精霊の力、
によって、
45:01
私どもは、
今を、
この生きている、
今からも、
この方によって、
生かされていく、
そしてその方針に、
私たちは、
最高の委ねられた務めとして、
果たさせていただく、
お祈りいたします。