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2019-08-11 30:45

2019/08/11:神に祝福された人生の法則21(8)人間関係の法則

 2019/08/11 聖日礼拝

尹善鎬牧師

マタイの福音書

00:00
改めてみなさん、おはようございます。
では、メッセージの前に行きます。
一応、祈りします。
神様、感謝します。
私たちには、あなたが必要です。
神様の御言葉が必要です。
神様なくて、生きて生きる人は、誰一人いません。
どうか、その生きる人に今日、お会い。
あなたの御霊に満たされ、
あなたの御声にのって、
あなたの御霊によって、私たちが
奮い立たせられて、立ち上がって、
死のために生きる霊の力が、
悟りが、恵みが、
一人一人の上に、豊かに注がれますように。
神様御自身が、この朝、
どうか、あなたの御自身の御顔、御声を、
一人一人に示し、使ってくださいますように、
お願いいたします。
この物隠しで、どうか、
生きる次、お会いする、この時となりますように。
イエス様の御名によって、お祈りいたします。
アーメン。
感謝します。
神に取得される人生の法則21の8回目になります。
人は、生まれる時から、
人との関係の中で、生きていくと思います。
親との関係、兄弟との関係、
そして、ちょっと大きくなってからは、
幼稚園に行ったならば、幼稚園の友達とか、
先生とかの関係が、生まれてきます。
学校に入ったら、新しい友達とか、
また、いろんな人々の関係が、新しく築かれます。
社会人になって、バイト先とか、あるいは会社に行ったら、
上司、部下、同僚、取引先の人々、
03:00
様々な人間関係が、生まれてきます。
また、プリシャになったら、
教会の人たち、兄弟姉妹たち、あるいは福祉、
との関係が、新しく生まれてきます。
でも、全ての人間に、
最も根本的な関係が、一つあります。
実は、全ての人は、この関係の中に、みんな置かれているんです。
それを、受け入れるか、受け入れないかの、違いがあるだけなんです。
それは、誠の神様との関係なんです。
これは、必然的な関係であります。
そこで、今日は、
聖書が教える、普遍的な価値の人間関係の法則を、
御言葉が、イエス・キリストが教える、
その神のルールを、神の法則を、学んでいきたいと思います。
この中心となる御言葉が、今日の、
マタイの福音書、七章十二節です。
この歌詞を、もう一度、みんなで声を合わせて、読みたいと思います。
前の画面にもありますので、ご一緒にお読みしましょう。
それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、他の人にも、そのようにしなさい。
これが、律法であり、予言者です。
この御言葉に基づいて、お話しさせていきたいと思います。
まず、第一。
そのようにしたら、神様に喜ばれる、
そして、神を信じる者として、御言葉にふさわしい、
神様にふさわしい、人間関係を作っていけるのでしょうか。
まず第一は、キリストにあって、自分を愛することです。
人間関係の最も大事な基礎は、
自分自身をキリストにあって、
キリストの目で、
キリストの思いで愛することです。
これは、この世が言う、
自己中心とか、ただ自分自身を愛せよという話とは、
全く根本的に違います。
キリストにあって自分を愛することとは、
キリスト中心、
神中心の生き方を意味するのです。
マサイの訓書二十二書三十九節を読むと、
あなたの人間を、あなた自身のように愛せよ、という御言葉があります。
06:10
それは、キリストにあって自分自身を愛する人が、
神の心を持って自分自身を愛する人こそ、
他人を愛することができる。
人を大切にすることができるということです。
神も、一人後、イエス・キリストを十字架に渡して、
死なせるほど、私たちを愛せる、その神の愛を持って、
自分を愛し、自分をたっ飛ぶ人こそ、
他人を愛し、たっ飛ぶことができるのです。
ただ好きな人が好きな、そういうレビューとは全く違います。
人は、自分が持っていないものを、他人に与えることはできないのです。
つまり、自分の心の中に、
あの神の愛と、神の目で自分自身を愛し、自分自身をたっ飛ぶ人こそ、
その人だけが、本当の意味で、他人を愛し、他人をたっ飛ぶことができる。
しかしこれはですね、この世が言うエゴイストとか、
自己満足に陥るとか、
自分のことしか知れない人の意味を知るものではないのです。
なぜなら、本当の神様にお出会いするならば、
その神様が、ひとりごいイエス・キリストを知らせるほど、
私を愛してくださったこの神様に出会った人であるならば、
その人は必ず変えられ、霊の目が、心の目が、開かれるはずなんです。
そして、変えられるんです。
自分自身を見る目が、この世を見る目が、人を見る目が、
変えられる。
だから人間関係が、イエス・シャマが行うように、
イエス・シャマに出会った人ならば、
例えば以前は自分自身を憎んでいた人が、
この世を恨んでいた人が、
その思いとその口には、恨みと憎しみと怒りつかなかった人が、
09:02
自分のことしか知らなかった人々が、
本当のイエス・キリストに出会ったならば、
その人は、すっくり壊れるはずです。
自分のために、自分を救うために、十字架で死なれた、
あのイエス・キリストに出会って、
そのキリストの品性に変えられないとは、ありえないことなんです。
皆さんどうですか?
この観点から自分自身を見るなら、
神の愛をもって、十字架の愛をもって、
自分自身を愛し、人を愛しているのでしょうか?
自分自身を見る目が、人を見る目が、この社会を見る目が、
変えられているのでしょうか?
イエス・シャマのように変えられているのでしょうか?
イエス・シャマは自分自身を救う、我々を救うために、
死なれるほど、神様は、イエス・シャマは、我々を愛していられる。
それが分かっているならば、自分自身を神様が愛するように、
イエス・シャマが十字架で命を捨てるほどに、
その神の目をもって、自分自身を愛するように変えられる。
これが、祝福される人間関係の土台になるわけです。
二本目、今日の十二節から言いますと、
自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさいとあります。
これはもう、小学校一年生は世にでも分かるはずの言葉ですね。
こうしてもらいたい、こうしてほしいと思うならば、
先にあなたがそれをやりなさいという話なんですよね。
これを逆に言いますと、こういうふうに言えるんじゃないでしょうか。
自分にしてもらいたくないことは、人にしてはいけないということだと。
これを細かく三つ話したいと思います。
まず一つ、裁かれたくないなら、人を裁いてはいけません。
皆さんどうですか。人に裁かれたいことを喜ぶ人いますか。
人に悪口を言われることがものすごいと、もう嬉しくてどうしようもない人いますか。
地球上に誰一人いないと思うんです。
12:02
まさにの国と政策を持ちの方は、七章の一節二節をご覧くださいますでしょうか。
私が読みします。七章一節二節。
裁いてはいけません。裁かれないためです。
あなた方が裁くとおりに、あなた方も裁かれ、あなた方が計るとおりに、あなた方も計られるからです。
ここにも種まきの法則が当てはまるんですよ。
私たちがもし誰かを裁いたならば、自分も裁き、裁かれる、借り入れをするわけなんですね。
人を計ったならば、計ったその種をまいたわけなんです。
そしたら自分自身を人に計られる、その借り入れをしますよという厳重な家様の言葉であります。
でも皆さん正直どうですか。
私たちは本当に気づいているうちに、気づいていないうちに、人と一緒にいるときに、あるいは一人でいるときに、口に心の中に、思いの中に、
誰かを裁いたり、非難したり、抽象したり、恨んだり、憎んだりしたことはないでしょうか。
時には親を非難したり、あるいは夫や妻を裁いたり、あるいは自身のお母さんお父さんを非難したり、あるいは会社の上司を非難したり、
誰々を裁いたり、政治家を非難したり、国家を裁いたり、恨んだりすることはないんでしょうか。
もしも私たちにそのようなことがあるならば、神の御前に真剣に悔い改めをしなければなりません。
なぜなら、私たちの心はもともと御霊のおられる神殿だからです。神の宮だからなんです。
その神の宮を、神のイエス・キリストの体を怪我しては、大事なのは、神の人は神の言葉を言います。
15:02
私たちは皆、人に知ってもらいたいと思い、あるいは理解してもらいたい、認めてもらいたいと、そういうふうに思ったりしますよね。
だから自分のことを言ってもらうと、理解してくれる人に出会ったら、何か気持ちが良くなるかもしれない。
でも大事なのは、聖書が教えることは、そのことを実は乗り越えることなんです。
イエスの名のように、最後まで愛することなんですね。
何より誠にイエス・キリストにお出会いし、キリストに会って帰られた人は、
御霊の神聖が、その人から満ち溢れるんですね。
愛が、喜びが、忍耐が、平和が、寛容が、親切が、溢れるんです。
言葉に、行いに、生き様に、その人が歩かれたその後に、御霊の神聖が溢れるはず。
二番目として、許されたいなら人を許すこと。
私たちの心の底にある感情の一つは、自分の過ちが許されること。
それをみんな願っていると思うんですよね。
ではさ、イエス様の愛が、十字架の愛が、なぜ偉大なんでしょうか。
それは、命を捨てるほど、私たちの罪を、過ちを、悪いところを、許してくださったからなんですね。
だから人は、イエス・キリストに基に行けば、食い温めれば罪許され、平安が与えられるのです。
そして、本当の意味で、自由にされる。
釈放され、解放されるんですね。
神様の最も素晴らしい神聖の一つは、許すことだと思います。
許しだと思います。
許して愛することです。
ですから、自分も人に許してもらいたいと思うなら、人の過ちを許すこと。
憎しみほど恐ろしい病気はないと思いますね。
18:05
癌になること、精神病になること、ストレス病になること、眠れないこと、神経質になること等々、いつも怒りっぽいになること。
そこには医学的なことがあるかもしれませんが、その医学的にも表すことのできない、憎しみという癌的な独創が心の中にあるからなんです。
ですから、まことにイエス・キリストにお出会いした人は、イエス様が許されたように、人の過ちを許します。
喜んで許します。何度も許します。
そして、イエス様の中に憎しみも恨みもないように、その人の中にも、言葉にも、憎しみの欠けすら存在しません。
最も大事なことは、身様の品性は許しと和解でありますよね。憎しみではないからです。憎しみとか恨みとかは悪魔の性質なんです。
私たちは皆、不完全なものです。
許して許されることを訓練する。これに励んでいただきたいです。
許して許されるこのライフこそ、神様に祝福される人生の大事な法則なんです。
3番目、理解してもらいたいならば、人を理解することです。
人を理解するためには、その人のところに立つことです。そこにいることです。
でも、これを最大に偉大に実現された方が、イエス様なんです。
ペヴルギトの「四教十古説」を読みますと、
私たちの大災厳は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。
罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じように試みにあわれたのです。
こういう言葉があります。
皆さん、イエスキリストは私たちを理解するために、一緒にいるために、神などイエスキリストが祝福されて人間になられたんです。
ありえないことが行われたんです。
21:02
自分を祝福して、自分を癒やすくして、私たちと同じ人間になってくださった。
もちろん、イエス様は全知全能の神様だから、人間にならなくても、私たちのことを全部理解することができる方なんですよね。
しかし、イエス様は、我々人間に理解される喜びを直接にお与えになるために、自分を祝福してこそ、人間に祝福された。
そこに神の愛があるんです。
自分を祝福すること、謙遜にすること、癒やしくすることは、我々、罪の性質を持った我々には、本当に時には難しいことなんです。
でも、イエス様は自分を癒やしく…。
アメリカの格言にこういうことがあります。
人を理解するためには、人の靴を履いてみてください。
しかし、人の靴を履くためには、まず自分の靴を脱ぐことが先です。
分かりですか?
人の靴を履くためには、自分の靴を脱がないといけない。
自分を祝福すること、自分を癒やしくしてこそ、人を理解することができる。
イエス様のようにです。
よく我々が勘違いしちゃうことがあるかなと思います。
それは、弱い人だけが理解してもらいたいと思っているというふうに思うことです。
しかし、そうではないと思いますね。
強そうに見える人も、子供も、大人も、お年寄りの方も、男性も女性も、夫も妻も、親徒も牧師も、
みんな、理解してもらいたいと、実はみんな願っているんです。
そう思いませんか、皆さん。
例えば、ある人は精神が強いから、理解してあげなくても大丈夫だろうとか、
いや、あの人は信仰がなかなか強いからね、あの人は神様を祈っているから、もう信じてあげなくても大丈夫だろうと。
でも、あたしを奪うから、あたしの話をたくさんずっと聞いてほしいと思うことは、勘違いじゃないかなと思います。
人はみんな弱いものです。
人と人を比べたら、強そうに見える人、弱そうに見える人がいるかもしれませんね。
24:02
でも、神の目から見れば、みんな罪人であって、みんな弱いものにしないです。
人はみんな理解してもらいたいという願いがあります。
今日は全部、その話はできませんが、ぜひ、今日のこの対応文書、特に7章をぜひですね、最初から最後まで読んでいただきたいんですけれども。
僕氏の私から、立場からですね、言いにくい話ではあるかなと思いますけれどもね。
僕氏は、その務めとしてですね、神とを理解すること、よく聞くこと、配慮すること、神との悩みやすがいこと、悲しみ、
時には他の人への躊躇、他の人への恨みなどなど、そういう話を相談役をすること。
もちろん私自分自身、その部分には十分果たしていないものだと思って、いつも皆さんには申し上げない気持ちでいっぱいでいるものでありますが。
ところで皆さん、これはどうですか。
僕氏の悩み、僕氏のつらいこと、僕氏の悲しみを、皆さん聞いて差し上げたことはありますでしょうか。
僕氏の悩みを一時間も二時間も聞いて差し上げたことはありますでしょうか。
僕氏は当然神との話を聞く側だし、僕氏の悩みは神様に言ってほしいと思われるかもしれませんね。
でも皆さん、僕氏も祈られる必要がありますし、聞かれる必要がある弱いものであります。
これはあくまで私の個人的な考えですけれども、
時には教会の中で先生やあるいは僕自身の先生が心の病を抱えておられる先生だったらおられるんですよね。
それが鬱だったり、様々な悩みがある、心の病を持っておられる方々がおられる。
もちろん神様に行って、祈って神様に癒されるべきではありますが、
もしも僕氏が、僕氏教人が心の悩みがありそうでしたら、
僕氏教人の話や僕氏の悩みを神との誰かが、あの教会で少なくとも誰か一人が、
27:04
その先生の話を素直に聞いてさせられたならば、
その先生方はもしかしてそこまで病を抱えておられなかったかもしれない。
もちろん全ての人は最終的には神の御前に行くべきであります。
癒しも解決も喜びも神のもとにあります。
メッセージを終わりたいと思います。
人間関係の法則の最も大事なポイントは、まことにイエス・キリストにお会いして。
人格や神聖やすべてがイエス・キリストのように、
似たまも神聖のように変えられることです。
最後に一ヶ所、聖書をみんなで一緒にし合いたいと思います。
ガラテア・ビトへの手紙5章19節から23節まで読みたいと思います。
ガラテア・ビトへの手紙5章19節から23節まで読みたいと思います。
私の聖書では371ページです。
私が19から21までを読み始めますので、みんなで22節、23節を読みたいと思います。
ガラテア・ビトへの手紙5章19節
肉の思いは明白であって、式のようなものです。
不貧固、汚れ、高色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、袖身、生きどおり、
踏破心、分裂、分破、妬み、命定、幽虚、
そういった類のものです。
前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなた方にあらかじめ言っておきます。
こんなことをしている者たちが、神の国を創造することはありません。
しかし、御霊の身は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、乳和、慈悲です。
このようなものを信じる律法はありません。
皆さん、人は御霊によって、本当の意味で人は変えられます。
誠にイエス・キリストにおりあい、自分自身を、その罪を悔やらさめ、清められて、
30:05
御霊に満たされてはじめて、人は救われた者として、それにふさわしい生き方がしたとできるのです。
そして一生の間、神によって清められていくのです。
御自身を祝福されて、癒やしくされて、人となられたイエス・キリストを見習って、
私たちも自分自身を祝福し、何事でも自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにする私たちでありたいと願います。
これがイエス・キリストを信じる人の生き方です。
お祈りしましょう。
30:45

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