なぜそのような問題が来たのか。 復活を認めないからです。
今の時期こうなってしまったということが今終わりの時に信仰の難しさでしょう。
ですから今日はマタリの28章を通してイエスキリストの復活を私たちのものとして確かにやっていきたい。
まだ復活信仰を持っている私たちは何をするべきなのか、それを一緒に考えていきたいと思います。
今日の教会学校のメッセージ、私が今日やろうとしているメッセージを非常に縮めて、ポイントだけしっかり伝えてくださったので本当に良い勉強になりました。
また私の説明が良くなるかわかりませんけど、とにかくぜひ皆さん聞いていただければと思います。
2000年前先週金曜日イエス様が終時間にかけられてお亡くなりになりました。
それで金曜日、土曜日、日曜日、3日目の朝になりました。
マタリ28章1節見ますと、さて安息日が終わって、安息日は土曜日ですね。
主の初めの日の明け方にマクダラマリアともう一人のマリアがイエス様のお墓を見に行きました。
この二人の姉妹たち、どんな姉妹かと、カリラヤでイエス様に出会って、
それでイエス様によって自分の問題が解決でき、大きな信仰ができて、
それからカリラヤからイエルサレムに向かっていくまで自分のお金でイエス様と弟子たちに仕えてきた、本当に献身的な姉妹たちでした。
その方たちはイエス様を深く愛しました。しかしこの愛されたイエス様が、十字架で亡くなってしまいました。
その悲しみ、私たちは理解できますか。
特にこのマクダラマリアは、マルコ16章9節にも言っていますと、七つの霊に取り憑かれた。
七つということは、たくさんという意味ですから、たくさんの悪霊に取り憑かれた姉妹。
本当に本当に悲惨な状況に過ごしていた姉妹が、イエス様によって救われました。
このマリアは、イエス様に感謝で感謝で、もう全てを使いながらイエス様に捧げてきたんですね。
しかし先週金曜日、十字架にかけられて死んでしまったイエス様。
このイエス様をどうしたらいいのかという、また安息日が迫ってきたので、急いで葬ってしまったということですから、
自分たちがやるべきことを全部やれなかったということ、これを最後の奉仕として、イエス様の死体に紅尿を塗って、
これでイエス様を離れていく、離していく、そのような覚悟を持って、
朝早くお墓に行っているところでした。
ところが姉妹たちがお墓に行ってみれば、大きな地震が起こった。
主の天使が天からこだってきて、近寄って、石を転がし、その上に天使たちが座っていた。
その天使の姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
これは天使の姿ですけど、イエス様の復活の姿もこれと同じだったんです。
皆さん、イエス様は十字架にかけられて死んだ姿、命が死んで亡くなった姿は、本当に悲惨だったんですね。
もう死んだ死体でした。
しかし復活されたイエス様は、栄光の光に輝いたこの姿になりました。
もう死体に合乳を塗ろうとしていたこともいらなくなりました。
その光景を見た、このお墓を守っていたパンペイたち。
この人たちも恐ろしさのあまり震え上がって、死ぬようになったと言います。
もう姉妹たちもそれを怯えているんですね。
その時、天使たちがこの姉妹たちに驚くほどのニュースを伝えました。
恐れることはない。十字架につけられたイエスを探しているのか。あの方はここにおられない。
かねて言われた通り、復活されたのだ。さあ、遺体を置いてあった場所を見なさい。
皆さん、生きておられる復活されたイエス様を私たちは死人のように、
イエス様は死体を探すように信仰生活しているのではありませんか。
死んだイエス様は何の力もありませんでした。
しかしイエス様が蘇られた時には全然姿が違い、死んだイエス様だけを考えたら私たちは悲しくなります。
皆さん、マクダラマリアはもう救われただけじゃなくて、悪霊が追い出される素晴らしい奇跡を体験したのです。
イエス様を愛して、イエス様をよく知って、また信仰もよかったのです。
しかし彼女の心には悲しみでいっぱいでした。なぜでしょう。
復活されたイエス様に出会ったことはないからです。
今私たちも同じです。私たちもイエス様を信じています。救いの確信もあります。
イエス様を愛し、イエス様をよく知っています。
しかし私たちの心に復活の信仰がなかった時には、世の中に何かあったら怯えます、絶望します、悲しみます。
どうしよう、どうしようと言います。なぜでしょう。
復活の信仰がないからです。復活されたイエス様に出会ったことがないからです。
イエス様をいくら信じるんだと言っても、理論的に復活ということをわかっていたとしても、
イエス様に出会った体験がなければ、私たちの信仰は何か少しの小さなものに崩れてしまって、悩んでしまって、絶望に陥りやすい。
これが信仰になります。ですから復活信仰が大事です。
イエス様が復活されました。
6節に、あの方はここにおられない。彼と言われた通り、イエス様はよみがえれたのだ。
じゃあ、見なさい。イエス様の死体はいないんじゃないかと言います。
天使が私たちに教えてくださった、イエス様がよみがえられたとの証拠一つが、
イエス様が葬られた、よみがえられた、その入れられた色をこのお墓に、空っぽだということです。
これがまず私たちが見るべきこと。
イエス様の死体がなぜないのか。誰かが盗んでいったのか。
天使たちを守っているから、誰かが来て盗むことはないでしょう。
だったら、イエス様はよみがえたしかない。
もう一つがあります。
かねて言われた通り、イエス様は復活された。
イエス様が生きておられるときに、時間があれば私はエルサレムに行こう。
そこで苦しみを受け、死ぬ。
そして三日目によみがえられると、何度も何度も言いました。
しかし、これはよみがえられるということは、もう常識ではないから、
聞いても忘れる。聞いてもわからない。
だから、みんな聞いてもわからなかったんです。
しかし、このよみがえられるということは、旧約聖書でも何箇所私たちに予言されていたことでした。
詩編の66章の8節からも、この復活されることが予言されています。
イエス様の復活は予言されている通りだったから、
これは神様の計画であり、神様の身群だったんです。
またもう一つ、私たちの復活が本当だということは、復活のイエス様に出会った人は、
ローマ帝国に福音を述べされながら、ほとんど殉教しました。
嘘だというもののために殉教する人はいますか?命がけて伝える人はいますか?
しかし、イエス様の弟子たちはほとんど殉教し、
もともと証人ということは、これは殉教の意味です。
殉教する覚悟で証人にならなければ当時はできなかったから、ほとんどの人が殉教した。
その意味はそれほど確かだということです。
イエス様は確かに復活されました。イエス様は復活によって命の主、勝利の主になりました。
復活できなかったと言ったら命がないです。負けてしまったから勝利はできません。
しかし復活だから命と勝利という単語を使うことができるんです。
ではイエス様の復活が私たちにくださる意味が何か。
大勢の人は死んだら終わりだと思います。皆さんどう思いますか?
死んだら終わりですか?死んだらこの後の世界があるんですか?
ほとんどの世の中の人々は死んだら終わりだと思います。
またどのように過ごしても死んだ人には、
いい所に行ったんですよね。いい所に行かれた。
何か慰めをしようとしていい所に行かれたと言います。
これは事実、死んだら終わりで何もないんだということと同じでしょう。
だから世の中の人々は死んだら終わりだから、生きている世界が全部だから、
ここで幸せに行こう、ここで豊かに行こうとしてこの世の中で全てを尽くして頑張ります。
そして死んだ後のことも何にも考えません。
しかし聖書はこう言っていません。ヘブラリー書9章27節。
また人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることにことが定まっている。
死んだ後は裁きがあるんだと。これはもう既に決まっているんだよということ。
またヨワネ5章28節。驚いてはならない。
時が来ると墓の中にいる者はみんな人の子の声を聞き、
善を行う者は復活して命を受けるため、
悪を行った者は復活して裁きを受けるために出てくるんだと。
命を受けるための復活なのか、裁きを受けて地獄に行くための復活なのか。
復活の後、天国と地獄に分けられるよということを聖書は確かに教えています。
皆さん、復活があるということは、100年の今の人生が全てではない。
この後の人生があるということです。
また、100年の人生にこの後のために準備しなきゃいけないよということ、
大事なメッセージがあるということを考えなければなりません。
皆さん、人間の一番弱さ、私たちの問題は何か。
いつかは死ぬということです。必ず死ぬということです。
死んだら、今皆さん会社でこのプロジェクトを成功しなきゃと思っていること、
このプロジェクトをやっているうちに私が死んでしまうとしたら、
これが私とどんな関係があるんですか。
この後、私が天国に行くのか地獄に行くのかに、これが関係があるんですか。
これがよくよく考えてみますと、
世の中で私たちがやっていること、もちろんこれも大事だし、
熱心にやらなきゃいけないことなんですけど、
この後、これが私が天国に行くのか地獄に行くのか、
裁きに対して何の役割もできないと思ったら、
ここに命がけてやっている、これを持っていることを私は誇りに思っていること、
これが本当に無駄だな、無意味だなということを考えられるでしょう。
また、みるさん毎日聞くメッセージは何ですか。
テレビに引いたら有名人、名前忘れました。
最近亡くなった有名なテレビの司会者がいたんですけど、
彼はよく見ていたんですけど、あ、亡くなれた、え、と思いますね。
また、昔の私の会社の友達と似ている、この芸能人が亡くなったと。
まあ、ああ、その人もいたのかと、みんな言っちゃうんですよ。
それと私との関係が全く関係がないように、まあ、その人もいたのか。
しかし、自分が死ぬとは思いません。
しかし、自分の身近な方、まあ、前の親父さん、
ああ、彼が私より若いのに、悲しいという気持ちで、
また、私の父と母がもう数年前に亡くなりました。
ああ、それから私は今、ショックが大きいんです。
以前は何があったら、まあ、母に電話して、
いやあ、今こんな状況ですよ、と。
だったら、ああ、そうなのか、と言いながら、心配してくれるし、
まあ、なんとかしてくれるから、少し慰めができたんですけど、
正直に今は電話をかけるところもありません。
私が最後になってしまいました。
本当、私が何かあったら、お母さん何かあったの、と言ったら、
ああ、そうかと言ってくれたその一言、
これがものすごい大きな力だったのに、
今は電話をするところがない。
悲しい、悲しい。
次は私の番なのかと思われる、いろいろな工夫がありますね。
本当そうです。
じゃあ、ここで皆さん、復活ということが分かっている人、
まあ、死んだら終わりじゃない人と、
死んだら終わりだ、復活がないと思っている人の全然違いがあります。
まあ、死んだら終わりだと思っている人は、
なんでも悲しくなります。
また恐ろしくなります。
これからこの世の中、私の力でどう生きるべきなのか。
またその人に対して、ヘブラー遺書2章15節をこう言います。
死の恐怖のために、一生外、奴隷の状態にあった人たちを、
救うために、イエス様が来られた。
死の恐怖のために、一生外、怯えて、恐れで過ごしている。
皆さん、なぜ会社で命懸けて熱心にやりますか。
会社にクビになれば、私は上死ぬんじゃないかという恐れがあるようです。
みんなそうですよ。みんながそうです。
だからクビにならないように、一生懸命働いている。
これを見て、悪魔がこの恐れ、臆病を通して、
人々を一生外、奴隷の状態にさせていると言います。
世の中の人々は、みんな悪魔の奴隷として、悲しい人生を過ごしています。
しかし、復活を信じている私たちは、そうではありません。
母親の亡くなった時に、悲しい心はありましたよ。
しかし、いつか出会う。そうです。私たちは、いつか天国で出会うから。
だから、期待感があります。悲しく、これ以上悲しみません。
また、恐れを入れる悪魔、イエス様の力によって、追い出します。勝利します。
また、この世が100年で終わりじゃないから、復活して生きることを考えながら、
私は首都福音のために、一生懸命頑張ります。
そうですよ。復活があると思っている人は、これからやるべきことがたくさんあります。
人生終わりだと思っている人は、
これから悲しむこと、恐れること以外、何にもできません。
これが大事です。
だから当時、ペテロは、このローマの墓場の中で苦しんでいる人たちに何と言うのか、
第一ペテロは1章3節4節に、「私たちはイエス・キリスト復活によって、
私たちもこれから復活する、生き生きする希望が与えられた。
また皆さん、この世で殉教するんだとしても、後ほど天国に行くんですけど、
天国で私たちが与えられる報いが、どれほど素晴らしいのか。
皆さん、これからチェックしてみてください。
私は今70歳です。
この世でどのくらい生きるかな。
岡山先生が65歳で亡くなってから、私はもう5年オーバーして生きています。
これから何年かは分かりません。
5、6年かなと、私は思います。
5、6年後、私は今は貧乏ですけど、天国で世の中の財閥と比べられないほどの豊かな、
皆さん、5、6年後、私を見てください。
天国の輝しい、黄金で作った家で、豊かな、幸せな、祝福の人生を、
栄光に輝かしい生活をしている私を、5、6年後に見るようになるでしょう。
これを考えたら、世の中で何もないんです。
少し悲しみで、もう1日3食以上食べています。
心配ないでください。
この復活の希望、イエス様によって天国に生きる希望、これがあるのがどれほど素晴らしいことでしょうか。
この世の希望しかなかったら、どうかこの世の中で、
それで自己中心的に、立候補的に、うわぁ、命がけて、
しかし私は天国で、もうすでに与えられている報い、祝福があるものだから、
この世の中では、十字架を背負って、首都福井のために生きるのは、もうこれは良いことでしょう。
このような人生になります。
皆さん、イエス様の十字架が私の十字架という時に、罪が許されます。
イエス様の復活が私の復活だと信じるその時に、限界を超えるパワーが私に与えられて、
復活の命、復活の力によって生きることができるんです。
では、これから復活を信じるキリスト者、私たちは何をするべきでしょうか。
この素晴らしい復活のニュースを、私だけ聞いて終わりですか。
皆さん知らなくてもいいです。私だけ聞いて、これを私だけ楽しんでいきますか。
そうではダメでしょう。
この私が持っている復活の素晴らしいニュースを、大勢の人々に伝えるべきではありませんか。
この姉妹たちが復活されたイエス様に出会っていく時に、これでもう弟子たちに伝えました。
弟子たちはこのイエス様に出会うためにカリラ屋に行きました。
カリラ屋にある山に登ってイエス様に出会いました。
そこでイエス様が弟子たちに会いたいという理由は何ですか。
ただ聞いた話と理論的な話だけでは、復活の証人として力がありません。
イエス様に出会ったら、この人たちの心に感謝と感激があふれました。
しかし、この中でよく見ていますと、この人たちの中で疑う人がいたということです。
トマスのように、フィリップのように疑う人がいたということは、それは信徒たちの中ではいろいろなことでしょう。
しかし、イエス様は、いろいろ疑う人がいても、いろいろなことがいても、
イエス様はこの人たちが、これから世界の人々に福音を述べていたい、
イエス様の復活を明かしする素晴らしいリーダーとして思われたということが大事です。
なぜなら、皆さん、私たちが知っている知識じゃなくて、後ほど聖霊様がリバイバルとしてきます。
聖霊様がリバイバルとしてくるなら、聖霊の力によって福音を伝えることです。
私が知っている知識で、私が知っている、勉強した知識で伝えることではありませんから、
聖霊様に受け入れてやるものだから。
聖霊を受け入れる器になっているのか、これは新しいカワムクロの教会でしょう。
それを信じて、イエス様がこの弟子たちに、これから大選挙、命令を行います。
まずイエス様は3つ、イエス様がどれほどのパワーを持っているのかを明かしします。
中発説、イエスは近寄ってきて言われた、私は天と地の一切の権能を授かっている。
イエス様は来られて、十字架を背負う前、また復活をされる前のイエス様と、
十字架復活を行ったイエス様とは、また一次元違う驚くほどのパワーがイエス様にはありました。
その人パワーをよく知っていました。
ですからフィリポン2章9節、
このため神はキリストを高くあげ、あらゆる名に勝る名を与えになりました。
こうして天上の者、地上の者、地下の者すべて、イエス様の皆にひちゃまずき、
すべての下が、イエスキリストは主であると公に述べて、父である神をたたえます。
地上の者は何ですか?
天上の者、天使たち。地上の者、人間。地下の者、悪魔、悪霊。
このすべての上に立つ者として、イエスキリストをたーっと位置づけをしてください。
だからすべての口、すべての下がイエス様は主だと、これを拝めるようにしてくださいました。
この力、これを私たちがどのくらいまで知っているか。
それが力ある証人なのか、力がない証人もできない、このような状態なのかを明らかにします。
まずイエス様は自分が持っておられた権勢をすべて教えてください。
2番目、イエス様は命令されます。
だからあなたたちを行って、すべての民を私の弟子にしなさい。
まずイエス様は行きなさいと言いました。
皆さん、証をしようとしたら、行かなければ証できないでしょう。
聞く人はそこにいるのに、私はここで、ああイエス様信じます、信じます、いくら言っても意味がありません。
行かなきゃいけません。
しかし弟子たちの状態は疑わむ人もいるし、礼的な幼い状態でした。
しかしイエス様は行きなさいと言いました。
行くことは、ユダヤ人たちは難しさがあります。
なぜなら、弟子たちは今まで一度も外国に行ったことはありませんでした。
国を出たことはありませんでした。
また、ユダヤ人たちは、ユダイズム、先民意識によって、異様人たちを獣として思っています。
獣として思っている人々に福音を述べ伝える、これはなかなか難しいでしょう。
しかしイエス様は行きなさいと言いました。
じゃあ行きなさいと言ったって、どこでもいつでも行っていいですか。
いいえ、聖霊様をこれから導いてください。
イエス様をこれから導いてください。
導いて行かれるときに行けばいいです。
この後は聖霊様は全部行ってくださるから。
また言って、すべての弟子たちを私の弟子にしなさいと言いました。
ここで大事なのは、すべての人を信者にしなさいと言わなかった。
弟子にしなさいと言いました。
弟子と信者の違いは何ですか。
信者はただ信じる人。
弟子はイエス様を知って、イエス様を他の人に伝えるくらい、教えるくらいのレベルの人です。
私は今日朝、もうびっくりしました。
ヨアン・レスレンみたいに、野外で福音を伝える場面を私はチューブで見ていました。
今は室内で伝えるのはやりやすいですよ。
野外で伝えようとしたら、邪魔たけがいっぱいあるでしょう。
そこでイエス・キリストを伝えることは、これは勇気が必要だし、これはなかなかのパワーでないといけないのですが、
今日やりましたね。素晴らしい。
そうです。弟子と信者とは違います。
信者はただ信じることで、弟子は他の弟子を生むことができる。
教えることができる、このようなレベルの人を意味します。
だからイエス様が願っているのは、ただ信じる人じゃなくて、
他の人を助けること、教えることができるレベルまで、私たちがレベルアップすることを願っています。
そうするときに、地の果てにまで福音が教えられることができるでしょう。
イエス様はそれを願っています。
3番目、県政を見せてくださり、命令されたイエス様は約束をします。
この約束は何ですか。
私は世の終わりまであなたといつも共にいる。これです。
私はイエス様を感じられない。イエス様は共にいるのか。
言うときもイエス様は共におられます。
だからイエス様は共におられ、私たちが福音を伝えるときに邪魔者、
またそれを伝えるための勇気、また何を伝えるべきか、知識まで全て与えてくださるから、
私を信じて出てきなさい、ということを言ってくださいました。
結論を申し上げます。
イエス様は十字架で死んでくださり、復活されることによって、
私たちは人生の根本問題、罪の問題をどうしようか。
私はこう伝えていますけど、後ほどまた罪を犯す私たち。
だからこの罪を犯さないようにできない。
どうすればいいんだろう。
十字架のイエス様によって悔いを改めれば、罪の問題は解決できます。
これほど素晴らしいことはありますか。
また死の問題、死んで終わりなのか、いいえ、蘇られます。
また地獄の問題、地獄にいて永遠の炎の中で過ごすと全然違います。
私たちは天国に行きます。
天国に行って、この輝かしい光の中で、永遠の至福の中で喜びながら過ごします。
このすべての問題がイエス様が解決してくださりました。
それを一番妨げる悪魔、サタン。
イエス様は復活によって滅ぼしてくださりました。
私たちの邪魔をすべて解決してくださりました。
この素晴らしいイエス様。
イエス様は私たちに、あなただけじゃなくて周りの人も全部復活の力、祝福によって天国に行くように助けてくださいと言います。
それで私たちに献身を見せてくださり、命令をされ、そして約束をしてくださいます。
この素晴らしいイエス様が今も私たちと共に生きておられます。