1. 名谷教会 podcast
  2. 2014/09/07:聖日礼拝(旧音源)
2014-09-07 39:16

2014/09/07:聖日礼拝(旧音源)

2014/09/07 聖日礼拝(旧音源)




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みなさん、おはようございます。
先週は、講壇、講館、礼拝で、私は六高みどり教会で講師を卒していただきましたけれども、
先日の私先生のまた、弟子たちもみなさん、十分に恵まれたと聞いております。
それぞれですね、六高みどり教会に、この前の教師会で一度行いして、二度命じたけれども、それぞれの教会に祈りの課題があること。
また、教会はですね、MyoudaniChurch、六高みどり教会、それぞれ教会があるんですけれども、
すべての教会は、一緒にやって一つであること、同じ体であることを、改めてですね、考えさせられるという時でした。
ですから、みなさん、どうぞですね、教会のために、覚えてですね、続いて祈っていただきたいと思います。
でも、メッセージさせてもらってですね、Myoudaniには早く帰りたいな、と知らせましたけれどもね。
はい、また先週の一週間は、諮問暗記のための特別記録会が開かれまして、
月曜日から本当に、天の扉が開かれて、神の陽が降ってきた、本当に恵みに満ちた一週間でした。
月曜日から始まってですね、金曜日の朝6時から、金曜日は朝6時から夕方6時まで、なんと12時間、祈ることができたんですね。
また、朝天や午前や夜、ほぼですね、毎日20名以上の兄弟妻達が、ひたすら祈る恵みの時をもたしていただきました。
今回の全体のテーマは、回復でした。
月曜日は悔いを得るため、火曜日は憐れみと許し、水曜日は回復、木曜日は栄光。
そして、金曜日の12時間記録会には、天の扉を開く祈りについて、神様が語ってくださり、
私たちには悔いを得るためと、憐れみと許し、回復、栄光の溝をあふれさせてくださったんですね。
特にですね、金曜日は朝6時から夕方6時まで12時間です。
今まで皆さん、12時間ずっと祈れたことがあるかどうかわかりませんけれども、
03:05
11個目の、残念ながら姉妹たちだけでしたけれども、
でもですね、皆さんお仕事しているから来れないでしょうけれどもね。
本当に祈りに専念しました。
それでですね、何かに明かしてほしいなと言ったらですね、
いやいやいや、無理です、無理ですと、みんな遠慮しているから、
私は可愛い人とだけですね、話をさせていただきます。
ある姉妹がこう言いました。
えぇ、12時間祈れるんですか。緊張したそうです。
果たしてそれができるんだろうか、そういう気持ちだったそうです。
しかし、朝6時から来て、メッセージを聞いて、また祈って、
10時半また御言葉をいただいて、また祈って、
午後2時また御言葉をいただいて、また祈り始めて、
そして最後のですね、5時からまた御言葉の時が始まったんですね。
最後の5時のメッセージを神様からいただきましょうと言った時にですね、
この姉妹が、あれ、もう12時間がたちましたか、こんなに早かったんですか。
1時間、2時間過ぎたみたいだけど、12時間がこんなに早く祈れたですね。
楽しかったです、という。
そしてですね、もう次回は先生、24時間きっと通いましょうと。
私も5時に乗って通いましょうと言いました。
また他の姉妹は、本当に先生、40年ぶりに本当に祈りだし、祈りができた。
最後にですね、先生楽しかったですと。
強いられる祈りじゃなくて、僕しか言われるからもう、
祈るんじゃなくて、初めの日から本当に楽しくて感謝に満ちて、
本当の祈りができました。
祈りが何なのかはっきりと悟った1回でした。こういう証です。
またもう一人の姉妹は、メッセージなのかですね、金曜日のメッセージの中ですけれども、
手の扉が開かれて、神様から神様の力を私たちがダウンロードしましょうと言ったら、
あの言葉がもうわかりやすく心にスーッと入ってきて、
ああ、そうなんだ。神の力をダウンロードして、自分のものにする。
そして10年経っても答えられていない。そしたら11年祈りましょうと。
ああ、そうなんだ。答えられるまで祈るということ。
そういう御言葉がですね、心の中に深く入ってきた。
心がですね、すんごく一振できましたという証がそれぞれありました。
私自身もですね、本当に深く祈る。
自分の弱さ、足りなさ、ダメな所、様々な弱い所、足りない、それに足りない、本当に足りない所がたくさん抱えているものですけれども、
06:03
死の御前に砕かれた心、砕いた心で祈ろうとできた、本当に祈りの恵みの時でした。
どうぞ皆さん、皆さんお一人お一人が、また野蛮の教会が、祈りに専念し、祈りで勝利をする。
祈りで個人のリバイバル、教会のリバイバル、この国のリバイバルを経験させていただく。
私たちでありたい、そういうことを切に願っております。
一言お祈りします。
神様、今から神様御自身が私たちに語ってくださる、あなたの御言葉をお聞きいたします。
どうぞ知よ、我々の心を開いてくださって、人間の声を聞くのではなく、人間の声を評価するのではなく、
神の御声に砕かれた心、砕いた心を持って聞くことができますように。
知よ、イエス様の外世に、私たちに、この語る者にも、我々に知よ、聞く耳をお与えください。
私たちの霊の目をはっきり開いてくださって、見えるようにしてくださって、あなたの御所をそぼる恵みに預かり、刻めて、期待して、イエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン
今日は前回の続きで、キリスト教のエッセンスのシリーズ説教です。
このあるキリスト、最初は十二句でした。そして二回目は十字架でした。
今日は復活について御言葉に学べたいと思います。
イエス様が十字架に書かれて、そして三日目に蘇られたこと、それは歴史的事実であることを、私たちはみんな信じているんですね。
では復活信仰が私たちの日頃の生活において、信仰生活においてどういう意味があるのか、復活信仰について共に教えていただきたいと思います。
まず一つ目、復活信仰とは何なのか。
それはこう言えると思います。
自分は死んでイエスに生きる信仰。
自分に死にイエスに生きる信仰。
もっと簡単に言いますと、自分は死んでキリストが生きる信仰、それが復活信仰なんです。
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皆さん、復活は、イエス様の復活は十字架と対になっています。
十字架なしの復活は意味ありませんし、復活のない十字架は悲惨なものなんです。
ですから皆さん、私たちはキリストの十字架を通り抜けて始めて復活の信仰に至ることができるんですね。
これがキリスト教の信仰なんです。
ですから皆さん、ずっといつまでも十字架の御前に留まっているのではなく、十字架を通り抜けて復活の信仰に至ること。
こういうのはどうでしょうか。
毎日のように十字架の御前で悔やためばかりしているのではなく、悔やためたならば、そこに復活の喜びが満ちあふれる。
十字架を通り抜けて喜びと栄光の復活のあのキリストの御前に進むこと、それが復活信仰なんです。
ですから皆さん、十字架の御前で涙の悔やためがありましたか。
そうしたら、よみがえられたイエス様の御前で喜びの信仰を持っていくべきではないでしょう。
またイエス様は私たちを十字架で殺して、殺して、殺して、膝まぶかせて、苦しめて、苦しめて、苦しめてばかりしている方ではない。
もちろん十字架を通らせるんです。
しかし十字架を通り抜けさせていただいた私たちは、やがて復活の喜びに助かる。それが復活信仰なんです。
ですからまずは言い換えますと、十字架の信仰と復活の信仰は、
イエス様が十字架の上で死なれたように、十字架のイエス様の御前で自分の固い自我が死ぬことです。
十字架のイエス様の御前で自分の穢れが死ぬことです。
十字架のイエス様の御前で自分の傷ついた自我が、あるいは傷つきやすい自我が死ぬことです。
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十字架の御前で自分の壊れた人生も死ぬことです。それが十字架の信仰なんです。
なぜなら、死んだらよみがえるからです。死ななければよみがえりもないのです。そうなんです。
それが十字架の信仰であって復活の信仰なんです。
固い自我、傷つきやすい自我、壊れた自我、あるいは穢れた自我、あるいは悟るに鈍い自我、喜びのない自我、あるいは問題の多い自我。
そういった自分、自我が十字架の御前でキリストと共に死んだ。私たちは読んだり告白したり歌っているんですよね、皆さん。
その通りなんです。自分に死んで、やがてキリストに生きることができるんです。
そうして私たちは変えられるのです。変えられるのです。
ある教会で、ダンボール箱の紙に、大きい紙に表には、昔の自分はこんなものだったと書いて、
そして裏には、しかし今はキリストでこう変えられましたよと、最もシンプルでアメリカの教会ですけれども、
赤人という動画を最近私は見て、6分くらいの動画なんですけれども、すごく目覚まれました。
今から一緒に見たいと思うんですけれども、ちなみに私の短い下手くそな英語と、また漢語を込めながら日本語で意味屋としまじたので、
でも十分意味は通じると思います。一人一人が本当に自分のことを隠さずに、
古い自分と今の自分がどう変えられたのか、その証を今から一緒に見ていきたいと思います。
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以上です。いかがでしょうか、皆さん。
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十字架を通り抜けますと、一人一人の人生が、あらゆる関係が立て直される、回復される。
21:40
神様が最も望まれるものに変えられる。実は皆さん、これが復活信仰なんです。
復活信仰ということですよね。自分も死んだら、やがて永遠の命を受けてよみがえる。それもあっています。正しいことですけれども。
それが今は、今はというクエスチョンがあるわけなんです。
日本語の教会にも一回しましょうか、皆さん。恥ずかしいですか、皆さん。
人の前で恥ずかしいという思いとか、表したくない。もちろん国民的な性格もあるかもしれません。
西洋人と東洋人、アシア人、日本人は違うから。でも、これだけは覚えていただきたい。
家様にお会いしますと、その恥ではなく、明かりに恵み。
皆さん、このように十字架の見舞いで、死んだ人が、死がよみがえられたように変えられるんですよ。
麻薬中毒者が、神の中毒者に変えられる。別居した夫婦が、離婚した夫婦が、再びまた一つになって、今までなかった愛の夫婦に変えられること。
それが改革であり、リフォームなんです。それが復活進行ではないでしょうか。
聖書1ヶ所一緒に見てみたいと思います。新約聖書、ガラテア人への手紙2の20節です。366ページです。よろしいですか。ガラテア人への手紙2書20節。
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では、5章にお読みしたいと思います。
私はキリストともに十字架につけられました。私は死んだという、この私は、自分の全人格を意味する言葉なんです。
さまざまなこの身体だけではなく、今までの経験も弱さも強さも、堅かな心も脆い心も、傷つけた心も傷ついた心も、全てが死んだということなんです。
ですから皆さん、私たちの後ろにまだけがれがある、怒りがある、あるいは憎しみ、恨み、あるいは傷つけたり、傷ついたり、そういった弱さがあるということを、この十字架と復活の進行の観点から申し上げますと、
それは一言でこう言えるでしょう。まだまだ十字架で死にきっていないからでしょう。完全に死んでいないから、半分死んで半分生きているから、何か自分の気に入らないことがあったら、すぐ怒ってしまう。
誰かから何と言われたら、すぐ傷ついてしまう。あるいは傷つけてしまう。もちろんその気持ちは辛いでしょうけれども、この十字架と復活の進行から見ますと、実は私たちがイエス様の十字架でまだ完全に死んでいないからではないでしょうか。
死にきっていないからなのではないでしょうか。十字架でキリストと共に釘付けられて死んだ人には、実は皆さん、怒りも恨みも悲しみも傷も実はないのです。死んだから、死んだから。
そういった全ての自分自我はキリストと共に十字架で釘付けられて死んだのです。そしてキリストが生きているのです。イエス様は傷つけたり傷ついたり恨んだり恨まれたりすること、イエス様にはないのです。
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ですから皆さん、私ら黒い自分が、私もそうなんですけれども、まだ死にきっていないのですね。祭壇の上でほぐられて焼き尽くされるべきなのに、まだ半分は焼いているのだけども、半分は焼いていない。残っている。
だからすぐ怒ってしまったり、すぐ傷つけたり、すぐ傷ついたり、忘れられない。そういったことがあるのではないでしょうか。
韓国にユウキ孫という牧師先生がおられます。とても真実で謙遜で静かに牧家にされている先生です。この先生も以前はとても自我が強くて、自分の意志や自分の無力で教会を復興させようといった自我がとても強かった自分だったそうです。
しかし牧家業をしていく中で、その先生が悟った精神の一つの重要な真理がありました。それは、自分に死んでキリストに生きることでした。自分は死んでキリストが生きることだった。
その先生は本を書きました。自分に死にキリストに生きる。もちろん日本語の本はまだできていないのですが、その本の中にこういう内容が書かれています。ここを紹介したいと思います。
今日のクリスタンたちの問題は、自我に死んでいないことである。キリストの御前で自分が死ななければならないのに、死にきっていないのである。
自我がまだまだ生きているから、イエス様と戦って勝とうとするから、それが問題である。イエス様が生きて自分が死ぬべきなのに、自分が生きてイエス様が死んでいるから、それが悲しみである。
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イエス様は私たちを通して奇跡を起こすためには、必ず我々の自我が死ななければならない。
続きまして、もう一度指定していきますと、自分は傷ついたという人を本当に多く会いました。親のため、夫のため、傷ついたと口癖のように言う人をよく会いました。
ところが、このお話を裏返してみると、その人は今までずっと傷つきやすい自我をつかんできたという話でしょう。
結局、傷つきやすい自我も、傷つけやすい自我も、イエス様に全て委ねきっていないから、そういった悲しみがあることです。
続きます。イエス様が私たちに語ってくださるメッセージは、私たちが死ぬべきであるということです。
死ぬということは、自分も夢に死んで、自分も計画に死ぬ、傷つきやすい自我も死んで、全ての自我が死んで、キリストが生きることです。
死ぬことは、ある意味で悔しいことです。ところが、死ぬことを悔しいと思っているならば、それはまだ、なぜ死ななければならないのか、イエス様のお言葉の意味をわかっていないのです。
自我の死は、既にキリストで十字架でなされたイエス様の死と、自分の死を認めて、告白することだけである。
十字架に進んだ人は、そこでイエス様の死を見ることだけではなく、自分自身の死も見ることです。自分も十字架で死んだことを見ることです。
続きます。家政の例をあげましょう。
夫も妻も二人とも十字架で死ねば幸せです。
傷をずっと握りしめている弱い自我、傷つける強い自我が半分だけ死んでいるから、夫や妻が傷つきやすいものである。だから苦しいのだ。
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完全に十字架でイエス様と共に死ぬべきである。
十字架で自分が死んだということを日々二十四時間認め、告白することである。
私は死んだ。私は死んだ。イエス様と共に死んだ。
私は死んで、キリストが生きていると認めて、告白しつつ歩むことである。これが復活信仰である。
以上です。皆さんどう思われますか?本当にそうなんですよね。
復活の信仰は十字架で弱い自分も強い自分も死んだらキリストが生きる。キリストに生きる。それが実は復活信仰なんです。
大きい二番目です。復活信仰は勝ち得て余りのある信仰です。勝ち得て余りのある信仰です。
どういう意味ですか、皆さん。私が新学校に行く前に会社で仕事をしていましたけれども、前社員の体育大会がありました。
大きいグラウンドでしたんですけれども、最後の競技が十キロマラソンでした。
みんなしますとならないんです。普段マラソンをしたことがないんですね。やりました。
戻ってきたんですけれども、戻ってきてグラウンドで30分間話せない、動けない、もう死にそうでした。
しかしある人々は平気に走れるんですよ。歩けるんですよ。話せるんです。
それを見て、同じ十キロ走ったのに自分はその後全然力が余っていない。話せる力も歩ける力も余っていない。
しかし彼らは走れる力、話せる力、歩き回れる力が余っているんですね。まだまだ余っているから、あと5キロも走れないか、それほど思われる力が余っているんです。
どういうんですか、皆さん。イエス様がよみがえられたということは、死を打ち破ってもよみがえることができる力がイエス様にはまだまだ余っていることなんです。
まだまだ余裕なんです。わかりますか、皆さん。イエス様は石と戦って、あるいは渡瀬の罪を全て背負って十字架で亡くなられて、
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こうなっておられる神様ではない。死を打ち破っても、よみがえられる力が、天の力が余って、まだまだ余裕なんです。
だから死を打ち破ることができたんですね。だからそれを私たちに当てはめてみますと、死は圧倒的な勝利を収められた方ですから、イエス様が私たちの全ての病を、問題を、
罪を、苦しみを、あるいは死をといったものを、圧倒的に解決することができる、かろうじて解決できそうな、できなさそうな、そういうところまで行く神様ではなくて、
すべての人の病も問題も苦しみも、背負っても背負っても解決しても、まだまだキリストには余裕があるんです。余りがあるんです。
ああいう意味ですか、皆さん。これが復活信仰なんです。これが復活信仰なんです。イエス様がですね、私の病を癒やしてですね、癒やすためにですね、癒やして、イエス様が疲れて、ああ、しんどい、そうなっておられる形ではない。
疲れて余りがある、圧倒的な力で解決しても、まだまだ余裕なんだよ、力が余っているんだよ、知恵がまだまだ余っているんだよ、とおっしゃってくされた。そのキリストを信じる神父が復活信仰なんです。イエス様はよみがえられました。
皆さんは今までどんな復活信仰をお持ちでしたか。イエス様の復活を仰ぎみました。そして常に十字架で自分に住んで、キリストに生きる信仰を歩んでいこうでありませんか。
二十字架、死を仰ぎみる。よみがえられた死を打ち破って勝ち得ても余りのある死が、彼らの病気、心の病気、苦しみ、すべてのものを背負い得て余りがある。解決して余りがある。
私たちを喜ばせて、喜ばせても余りのある力、それがよみがえりの主なんです。イエス様は、キリストは、よみがえりの主は私たちを生かす方です。キリストに生きて、また日々よみがえる私たちでありたいと願っております。お祈りいたします。
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