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改めて、みなさんおはようございます。
今日も礼拝にお越しいらっしゃいました。
昨日はとても良い天気でしたけれども、今日は急に雨が降っていますけれども、
一緒に集まって、大人も子どもも一緒に礼拝できること、本当に感謝いたします。
それでは、周りの方と挨拶しましょうか。
おはようございます。ありがとうございます。
それでは、お祈りしてから、メッセージに入りたいと思います。お祈りしましょう。
門よ、お前の頭をあげよ。永遠の土よ、あがれ。栄光の王が入ってこられる。アーメン。
神様、今ここに、私たちの心の中に、この身動に、私たちの人生の中に、
子どもの中にも、青年の中にも、大人の中にも、男性の女性の中にも、
しよ道場を入りくださいますように。そして、私たちを祝福し、導き収めてくださいますように。
お願いをいたします。どうか、神様が私たちに語ってくださって、
みんなが神の御声を聞き、また分かるように、悟るように、
しよ、本当にまた、結神できるように、神様、祝福してください。教えてください。
感謝して、イエス様の皆によって、お祈りいたします。アーメン。
はい、今日から、受難集が始まります。
教会では、今日は、シュロの主日、ファームサンデーと言いますね。
シュロ、シュロという木があって、イエス様がエルサレムに入ったときに、
イスラエルはその木が多いですから、その葉っぱを持ってね、歓迎したことから、
シュロの聖日、主日とも言われています。
そしてこの1週間は、イエス様が十字架に向かって歩まれた1週間です。
今日の集報告数に皆さん、この御言葉ともに、十字架の足跡をお配りしましたけれども、
お持ちですか。この1週間、今日もそうですけれども、そこに書かれている御言葉と内容に従って、
今日のメッセージも、また明日から始まる柔軟集の基礎会も、これに従ってさせていただきますので、
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皆さん、また読むことだけでも十分、祈りになるかと思いますし、
もちろん、ぜひ明日から始まる柔軟集基礎会にもぜひいらしてください。
でも、どうしても来れない方々は、おうちでこれを読んで、黙祷して、別れていても、そこでまたお祈りをともにしていきたいと、そういうふうに願います。
柔軟集が始まるにあたって、みんなで覚えたいものがあります。
これは、イエス様は、私たちに平和と平安を与えるため来られたということです。平和と平安を与えるため、イエス様は来られた。
イエス様は、地の上に平和を与えるために来られました。それから、私たちには平安を与えるために来られました。
イエス様の誕生から、それが始まっています。
一か所ですね、前の画面を見てくださって、聖書をちょっと一緒に読みましょうか。子どもたちもね。
ルカノ君長2章14節ですけれども、一緒に読みたいと思います。
二十高きところに栄光が神にあるように、地の上に平和が御心にかなう人々にあるように、アメン。
ここにですね、地の上に何がですか。平和が御心にかなう人々にあるようにと。
この御言葉は、イエス様が生まれるときに天使から言われた言葉ですね、お話ですね。
つまり、イエス様が生まれになったことを通して、みんなに人々に何が与えられるのでしょうか。平和が与えられるということであります。
そしてまた次の御言葉も見てみましょう。
イエス様が御自身のことを、またその時の人々にこういうふうにイエス様が言われました。これも一緒に読みたいと思います。
私はあなた方に平和も残します。私はあなた方に私の平和も与えます。
私があなた方に与えるのは、与が与えるのとは違います。あなた方は心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。
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ここに見たら、イエス様が何を与えるのでしょうか。平和を与えて下さい。
できるだけ座っていてね。トイレの用事はもう仕方ないんだけどね。
イエス様が私たちに平和を与えて下さい。ピースを、聖者の言葉ではシャロームを与えて下さい。
そのイエス様がその平和を与えること、平和を与えることの最高のクライマックス、もう絶頂と言いましょうか、その最高の完成のために歩まれたこの一週間ですね。
そしてそれを十字架でしおもってそれを成し遂げて下さったわけです。
ところが不思議に、何千年前のあの詩編に、そのイエス様がエルサレムに入られる光景をまるで見ているかのように予言している言葉が今日のこの詩編の見言葉なんです。
正直か、あるいは前の画面をですね、ご覧下さい。詩編の24編の7節、8節をね、私は読み詰ますので、正直か前の画面をよくご覧下さい。
文よ、お前の頭を挙げよ。永遠の戸よ剥がれ。英語の王が入って来られる。英語の王とは誰か。強く力ある衆。戦いに力ある衆。アメン。
ここにですね、門とはものですけれども、実はこの門は、永遠の戸は私たちのことを指しています。そして英語の王は誰を指していますか。イエス様ですね。
つまり、詩編の見言葉は私たちにこのように言っているんです。皆さん、あなたの頭を挙げなさい。あなたの頭を挙げなさい。あなたの垂れている頭を挙げなさい。
英語の王、平和の衆が、力ある衆が入って来られるんですよ。頭を挙げてその王、イエス様を迎えましょうという見言葉なんです。
ちょっとイエス様の時代の話をしたいと思います。イエス様が大晴れになる、80年、30年、あるいは0、4年、その一世紀ですね。その時のイスラエルというところは、簡単に言いますと、もう未来が見えない国なんです。
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でも実際にですね、既に国はなくなっていました。例えば、イエス様が生まれたベトルヘムのあるユダヤの地方に、当時の王様がヘロデ王がいたんですよね。
それはローマが、あのパレスティンイスラエルも植民地に来て支配していて、ローマがユダヤという地域をうまく統治するために、ローマが建てた王に過ぎなかった。
イエスラエルは独立国家ではなかったんです。植民地でした。国がないから自分たちの王様もいません。また自分たちを守ってくれる力ある人たちもいません。あるいはローマがですね、イスラエルにとてもひどいことをしたわけですから、そこからもう独立したい。
でも自分たちを独立してくれる、そういう力ある人も勢力もないんです。みんなとても不安な時代でした。明日が見えない時でした。
その中でもですね、イスラエルの中には、でもローマと戦おう、対抗してですね、自分たちの力で何度かこのユダヤを取り戻そうとですね、戦おう、レジスタンスみたいにですね、戦おう人たちもいました。でもローマには勝てません。
あるいはもう反対で、シン・ローマ派も大勢いました。もうこの国はローマに属しているんだから、ローマに守ってもらう、その方がいいんじゃないか。みんなローマにね、ご祭りをする人たちが大勢いました。
そういう風にそれぞれですね、自分たちの生きていく道を探りながら、本当に心配の不安の日々を送っていたんです。みんな一生懸命頑張って生きていたのかもしれません。
そして福音書ですね、マサイ、マルコ、ルカ、ヨアネンの福音書の中を見ると、なぜか病人が多く登場しているんじゃないでしょうか。当時はイスラエルだけ見てもとても貧しかったんですね。病気もとても流行っていたそうなんです。
だからあの家様のあの時代のイスラエルという国は、今と日本と全く違って、一言でその要素を言うならば、もう闇、暗闇、混沌でした。
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その闇の中、混沌としたイスラエルの真ん中に、そのエルサレムにイエス様が入って来られたわけなんです。それは彼らに平和も喜びを与えるためでした。平和を告げるためでした。
イエス様は今まで申しましたように、あのイスラエルの人々、本当にイエス様は憐れんで下さいました。疲れ果てて弱っている彼らをイエス様は憐れんで、憐れんで、かわいそうに思って下さったんですね。
1ヶ所の最初を見ましょう。馬太の訓書9章36節を見ると。一緒に読みましょうかね。ほどらしも一緒に読みましょうね。3、はい。
また、訓書を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。ここにですね、イエス様が訓書をあの時の多くの人々を見たらね、
もう羊飼いのない羊のようにみんな弱り果てて、倒れていて、疲れていて、ああしんどいな、ああきついな、本当にもう疲れている、食べ物がない、お金がない、どうしよう、みんな弱っていた。
彼らを見て、イエス様はかわいそうに思われた。本当に憐れんで下さいました。だから彼らがどれだけ救って下さい、助けて下さいと願っていたのでしょうか。
今日ですから、今日ですね、この日曜日にイエス様がエルサレムに入られた。その時に多くの人々が白の葉っぱ、枝を持ってね、ホサンナ、ホサンナ、ホサンナと叫んだんですよね。
そのホサンナ、ホサンナ、ホサンナという言葉の意味は、どうか救って下さいという意味ですね。どうか救って下さい。彼らが叫んだ言葉からわかるんですよ。彼らが今どういう状況にあるのか。願望だったんですね。
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救って下さい、助けて下さいと。イエス様、何とかしてこの悲しいところから救って下さい、助けて下さいと叫んでいたんです。イエス様、あなたにもしできるなら、このきつい状況から逃げたいです。悲しい現実からも救って下さい。
私たちには希望が欲しいんです、平安が欲しいんですとね、彼らは本当に切なる気持ちで願っていたから、ホサンナ、ホサンナとイエス様を向かって叫んだわけですね。助けて下さいと。
子どもたち、ちょっと聞いてみよう。海に溺れたとしよう。そしたら、どうするの?助けて下さいと叫ぶでしょ。泳げたら泳げるんだけどね。太平洋に落ちたら泳げませんよ。それは理論だよね。助けて下さいと叫ぶわけなんです。
イエス様の時代の人々はイエス様に、イエス様、救って下さいと叫んだわけです。
さあ、ところが皆さん、本当の喜びは平安が、あるいは平和が、一体どこから来るんでしょうか。強い国になればいいんでしょうか。あるいは金持ちになればいいんでしょうか。違いますよね。
私たちの助けは、本当の神である主から、本当の神様から来るんです。これを信じる人は、その平和と平安を私たちに与えるために、まずイエス様が私たちのために解決しなければならないことがありました。
本当の平和と平安を私たちがいただくためには、取り除かなければならない課題があります。それは、神様と私たち、あるいはイスラエルの人々と神様の間にある何かなんです。
それは何だと思いますか。それは、罪というもの、悪というものであります。
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そのために、神様とも敵になっているんですね。友達関係じゃなくて、敵対関係になっているんです。だから、この間にあるこの悪を、罪を取り除いてもらわなければならない。
それを誰が知ってくれたの。イエス様が私と神様の間にある悪を、罪を取り除いてくださるために、イエス様が代わりに十字架で死んでくださりました。
ですから、十字架のあの死、罪の許しがあってこそ、本当の平安が、喜びが与えて、同時にとつ考えていただきたいことがあるんですね。
当時のイスラエルの人々も、現実的に、政治的に、社会的に、とても厳しい日々を送っていたんです。国がない、未来が見えない、お金もない、助けてくれる、自分たちの国誰もいない、そんな彼らです。
私は、そういうところは想っていないんだけれども、状況は変わっていても、ある意味で、小さなものであろうが大きいものであろうが、不安とか心配を抱えているかもしれない。
そう思っていないかもしれませんけど、中学になった、うちの息子を含めて子どもたちがいるんだけれども、楽しみにしているのか、中学生の子、どうなるんだろう、心配しているかわかりませんけれどもね。
あるいは、韓国から日本に来て、まだまだ不慣れな生活をしている兄弟たちもいたりします。また、この中学から新しく職場で働くことになった兄弟たちもいたりします。
あるいは、皆さんの家族の中に、家庭の中に何か変化が起きたりしている方もおられるでしょう。あるいは、年々年を重ねていかれる中で、不安を感じたりするかもしれません。
状況が変わって、あるいは健康のことで、あるいは病気のことで、いろんな心配がないわけではないんですね。
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私たち夫婦も、この日本に来て10年になっておりまして、向こうにいる親もですね、どんどん年を重ねていく中で、80歳過ぎて、体もだいぶ弱くなっているし、
私の母はね、もう妊娠が進んでいて、病院に入院せざるを得ない、そういう状況になっているわけなんですね。
また、私たちは人間ですから、未来のことが知らないわけですね。わからないです。
だから不安を感じるわけです。
また、自分にできることもたくさんありますけれども、できないことも多くあるから、限界を、私たちは有限さを感じるわけなんです。
できないなと。どうしたらいいのかわからないときもあります。
それで不安を感じたり、悩んだりすることが、皆さんあるんじゃないでしょうか。ないですか、皆さん。あるんじゃないでしょうか。
不安や心配や、そのね、程度は違うかもしれませんけど、いろんな心配不安を、私たちは実は感じているわけなんですよね。
子どもも大人も。どうしたらいいのか見えてくるときもありますけれども、もう全然見えないときもあるんです。
あるときには勇気があふれてですね、もう前へ進んでいくときもありますけれども、勇気がなくて落ち込むときもあったりしますよね。
あるときには信仰を持ってですね、もう孟子みたいに、御父さんみたいに、勇敢にですね、もう進む前へ前へ進むときもありますけれども、後ろ向きになったりするときもあったりするんじゃないでしょう。
私自身も皆さんの目にどう見られるかわかりませんけれども、時には不安を感じたり、悩んだりしますよね。
全然ありませんよと言ったら、それは嘘でしょうね。
以前ある信徒さんから、えぇ、ユン先生も悩むんですねと言われてですね、全然悩みなんて心配なんてしない、完璧な牧師みたいに言えたみたいですけどね。
私たちはみんな弱いものです。弱り果てて倒れているようなときもありますよ。
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頭ではわかっていても、心が動かないときもありましょう。
強くなりたいんだけれども、強くなっていない自分があって、本当にため息するときもありましょう。
弱さが特権でも自慢できるものでもありませんか。
皆さん、私たちは自分の弱さをまず認めることが大事だと思います。
自分の弱さや有限さを認めた上で、その次のステップに移ることが大事です。
例えば、自分はダメだな、もう自分は情けないな、もうできない失敗だらけの問題だなと、それを思うだけでは実はダメなんですよ。
その次のステップに移る、進むことが大事です。
今日の御言葉は7節。
門よ、お前たちの頭を上げよ、永遠の戸よ、上がれ。
倒れている、下向きになっている、後ろ向きになっている、私たちの頭を上げて、イエス・キリストを見上げることです。
そこまで行くべきなんでしょう。
だから今日の7節、8節をぜひ、この受難主義が始まるこの聖日に覚えたいんです。
もう一度、7節、8節を一緒に読みましょう。
聖書館前をご覧くださって、この御言葉が私の告白である、イエス様への神様への祈りであるという気持ちで読んでいきましょうか。
せーの、門よ、お前たちの頭を上げよ、永遠の戸よ、上がれ。
栄光の王が入ってこられる。栄光の王とは誰か。
強く力ある種、戦いに力ある種、アーメン。
アーメンですか、皆さん。
弱り果てている時、あるいは罪を犯して悲しんでいる時、
自分の霊は願っていないんだけれども、自分の中にある罪と戦っている時、倒れている時、滑ってしまった時、
その時に、イエス様、助けてください。私を助けてくださいと。
そして、自分自身の人生の中へ、自分の霊の中へ、心の中へ、生活の中へ、風の中へ、不安を感じている心の中へ、
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イエス様を王として入ってこられる、イエス様をお迎えすることなんです。
イエス様を迎えた、あのエルサレムの人々のようにです。
今年の受難週にはこのように祈りたいんです。
イエス様、あなたは混沌としたエルサレムに入ってこられました。
私たちの一休館にあなたをお迎えします。私の人生にあなたをお迎えします。
私には弱さや不安や悩み、困難があります。
強くならなくちゃと思いながらも、強くされていない自分があります。
頭でわかっていても、あなたに従っていない自分があります。
主よ、私を憐れてください。
こんな弱いものですけれども、私たちは喜んであなたをお迎えします。
イエス様、私を強くしてください。
保産な主よ、私を救ってください。
この困難から私を救い上げてください。
このように祈ろうではないでしょうか。
王としてこられたイエス様が、ついつい疲れを覚え、心も姿勢も下を向き、ため息をつきやすい私たちです。
イエス様が語っておられます。
お前たちの頭を頭を上げよ、英語の王が入ってこられると言われます。
この天からの主の声に耳を傾ける私たちでありたいと願います。
今日から始まる困難中には、どうか垂れている、下を向いている頭を上げて、
大なるイエス様、私を強くしてくださるイエス様、私を救ってくださるイエス様を見分けて歩んでまいりましょう。お祈りします。