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2017-04-16 23:18

2017/04/16:イエスはよみがえられました

2017/04/16 聖日礼拝

尹善鎬牧師

マタイの福音書 28:1-10

00:01
改めて皆さん、イースターおめでとうございまーす。
よろしくお願いします。
今日も名谷教会の成立礼合い、イースター礼合いにようこそいらっしゃいました。
今日も神様の恵みとよみがえの一種の復活の奇跡が皆様の世に語られ、また目どまることを信じて感謝いたします。
今日はちょっと席が変わってますので、左右の方だけでイースターおめでとうございますと挨拶しましょうか。
では、一言お祈りいたします。
よみがえの宙、イエス・キリストの皆を褒めたたえ感謝いたします。
主よ、この世に十字架と死を打ち破り、死からよみがえられたイエス・キリスト様が、私たちにもよみがえの希望、勝利の恵みをお与えになっていることを、主よ、真摯感謝いたします。
この朝、賛美を捧げました、また御言葉をいただきます。
ひとりひとりの話に、必ずの今日のメッセージを主よ、聖霊様が聞かせて下さいますように。
私たちの心の耳を大きく開いて、アーメン主よお語り下さい。
主よ、聞きますと御言葉をお受けする心の信仰も高めて強めて下さいますように。
そして、その御言葉の希望を掴んで、主に従っていく信仰の力も上からお与え下さいますように、お願いいたします。
感謝して、イエス様の皆によってお祈りいたします。アーメン。
今日は、信徒の方々も、また初めての方々も、あるいはキリスト様の方々もおいてになっていらっしゃいますけれども、
キリスタ、もちろんそれは外来語、英語ですね、日本語で言いますと復活祭と言います。
ところがですね、最近なのか何年前かから、この日本にアメリカから輸入した商売の一環としてキリスタが使われているんですね。
ディズニーランドとか、USJとか、あるいはチョコレート会社、パン屋さんとかね、などこれでイースターバニーとか、イースターエッグとか、
イースターを全面にですね、マーケティングの手段としてそれが使われています。
03:01
私はですね、僕として、また復活のまことの意味を知っている者として、十字架のない復活、あるいは復活のないイースター、
ただのマーケティング、商売、お金を稼ぐためにイースターが使われていることに対して、私は個人的にとても残念だなと思っております。
イースターがですね、商売の手段として使われていることと、よみがえりの主、イエス・キリストを知ることとは全く別のものだと思っております。
イースター復活は何でしょうか。
復活は、イースターは、イエス・キリストが十字架の上で、
私たち一人ひとりの罪のため、許しのため、あの十字架でとてつもない苦しみと恥じの中で死なれて、
そして、三日目に墓からよみがえられた日、その日を記念して感謝して礼拝する日がイースターなんです。
だから復活祭と言います。
ですから皆さん、イースターは十字架から始まります。
罪による死と許しがイースターを生みました。
イエス様の復活と、また将来に私たちに起きる私たちの復活、これがですね、イースターのすべてではないでしょうか。
私たちは今日、人間の最大の敵である死を打ち破られて、よみがえられたイース・キリストの勝利、
そしてその復活の喜びと恵みを共に、このようにですね、預かっていることを本当に心から感謝いたします。
今日そのイエス様のよみがえりについて三つのこと。
そのイエス様のよみがえりが一体、そしたら私たちに、皆さんお一人お一人にどんな救苦を与えてくださったのか、もたらしたのか、
三つでまとめてお話ししたいと思います。
まず第一、イエス様の復活は死に対する恐れを取り除いてくれました。
人間のですね、最大の敵は他でもなく死ぬこと、死だと思います。
などの中で死ぬことを喜んで楽しみにしていらっしゃる方おられますか。
たぶんおられないかもしれない。あるいは、キリストの方はそれを待っておられる方もいらっしゃるかもしれない。
06:03
死ぬことというのはですね、もう昔古代から人間にとっては一番恐ろしいものだと思います。
だからですね、人間はですね、昔からですね、教図のためにあらゆる手を使って薬を飲んで、いろんなですね、開発をしてですね、教図しようとしない。
それほど死に対する恐れがあるという反証でしょう、それはね。
ところが皆さん、私たちにグッドニュースが届いています。
それは、もはや私たちは死ぬことに対して恐れなくてもいいんだと。
そして、死から自由にされるのだというニュースが届いています。
このニュースを私たちに届けてくださった方がイエス・キリストです。
イエス・キリストは完全な人間であって、同時に完全な神様です。
そのイエス・サマは、完全な人間として死なれました。
そして、完全な神様として蘇られました。
つまり、イエス・サマが蘇られたことを通して、死というものを表現した、打ち破ったという、我らにですね、希望を示してくださったんです。
だから、イエス・キリストを信じる我らに、ついていく私たちに、
あなた方も私が蘇ったように蘇るんですよ、というですね、希望を示してくださった。
それがイエス・サマなんです。
ですから、私たちは、死を打ち破られた、勝利を与えてくださったイエス・サマのゆえに、
死ぬことや、死に対する悩み、心配するのではなく、
イエス・サマが死を打ち破られて、蘇られたように、私たちもその死を勝つこと、勝つのだ。
打ち破るのだと、そして蘇るのだと、それを待ち望んで信じて歩んでいける。
だから、喜びのうちに生きていけるのではないでしょうか。
アメリカのモリスという徳先生が、信学者でもありますけれども、こういう話をしました。
クリストを死から復活させたその力が、今なおクリスチャンのうちに生きて働いている。
だから、復活は永遠に続く命であると言われました。
その通りだと思います。
皆さん、蘇る死を信じるというものは、どういう意味でしょうか。
それは、世の人々と違った生き方を持つことなんですね。
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何が違うんでしょうか。
イエス・サマが蘇られたから、私たちもその蘇りを信じることです。
ですから、蘇りの主イエス・キリストを信じるクリスチャンは、死を恐れません。
なぜなら、死の後は終わりではない。
その後は、蘇りがある。希望がある。光が輝く。
素晴らしい新しい天と新しい地で、神様を永遠に賛美する、全く新しい人生が始まるということを信じて期待するから、恐れません。
心配しません。
それが信仰です。
それが、世の中の人々と全く違ったクリスチャンの生き方ではないでしょうか。
だから皆さん、神様がいて、イエス・サマを愛する母親、家族とか、信徒の方が手に召されるときに、賛美して生きるんです。
人間的に、この企業では会えませんから、悲しいでしょう。確かにね。悲しいです。
でも、その方々を天国にお送りするのです。
だから、実は喜べるのです。
言葉では言えませんけれども、感謝できるのです。
そして、またお会いすることを待っているのです。楽しみにしているのです。
それが、復活の信仰なんです。
皆さんは、その復活の信仰をお持ちでしょうか。
そうしたら、それは神様から来た大きな恵みなんです。
そして、クリスチャンが持てる特権であって、幸福なんです。
2番目、イエス様の復活は、罪の問題を解決してくれました。
我々人間が持っている、いろんな悩みとか、心配とか、いろんなことがあるかと思います。
若い人は若い人として、お年寄りの方はお年寄りの方として、いろんな悩みを、小学生も持っているかもしれません。
ところが、その悩み、心配の根源には、その根っこには何があるのでしょうか。
そこには、人間の罪というものが、そこにあるんです。
ですから、我々人間は、本来、罪を犯しては、平安を持つことができない。
平安に過ごすことができないから、自分も知らないうちに、悩んだり、心配したり、あるいは不安が押し寄せてくるようなことがある、ということが平素の大きな問題です。
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その罪の問題を解決していただく、許していただくときに、本当の平安と喜びが訪れるんです。
そして、変わるのです。世の中に、日本だけ見ても、いろんな宗教がある。あるいは、いろんな哲学がある。
いろんな思想や、関連に人間の死ぬことや、悩みとか、それに対する本が100万冊も売れたりする。
そんな宗教とか哲学、そんな本が書かれて売れているのは、どういう話なんでしょうか。
それぐらいそこに関心があるということなんですね。
ところが、そこに解決できる能力があるのでしょうか。力があるのでしょうか。ないんですよ。
なぜでしょうか。書いたその人も、実は悩んでいるから。同じだからなんです。
私の恥ずかし話ですけど、小さい時の話です。たぶん小学校2、3年生の時の話ですけれども。
1970年度の韓国は貧しい時代でしたし、私の生まれた町も、私は高校生から開発されて、今は都会になっていますけど、昔は田んぼが多くて田舎だったんですね。
それで昔は子供がいたずらっこく、人の畑で大根を勝手に剥いて、かじって食べたりしたことが、いたずらを大体許されるようなね。
それは全部、商売所だけじゃないですから、そういう時代がありました。
私も小学校遊んで、大根を剥いて食べたことが何回もありました。
ところが、ずっと心の中に何かがわざかまりみたいに、すっきりしていない気持ちがあったんですね。
ところが、ある日、おじの家に行くところに、よく鳥が飼って大根を剥いて食べた畑に、おじさんが畑仕事をしていて、
ひらむりをして通り過ぎるのを、なかなか心に加速というか、それを感じて、もじもじしていながら、おじさんの仕事をしているところに行って、
おじいちゃんと言ったら、誰なのと、実は、私、お友達と、たまにそこで大根をこっそり剥いて食べたことがありますと、許してもらえませんかと言ったら、
ものすごく怖くて、殴られたらどうしようと思ったところで、そのおじいちゃんが大笑いですと言って、
もうそうだったか、もういいよ、また食べたいのと言って、また剥いてもらって、それで、もういいです、もう食べていいのと、
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またね、お腹が空いたら、一緒でも食べてねと言われて、もうすっきりして喜んで、おじの家に行ったことがあります。
皆さん、そうなんです。子供であろうが、大人であろうが、人間の心の中には、アダムから受け継がれている現在というすりがある。
神様から離れている人間には不安がある。その不安や罪や過ちとか、そういったものを、神様に許していただくとき、ほっとすることができる。
そして、本当の喜びと平安が消えない、平安と喜びが神様から来るんですね。
その許しのために、イエス様が十字架でせられて、よみがえられた。そしてその平安と喜びを、私たちにおあたりになるということなんです。
それを、この治療で私たちが味わい楽しむ、その人生が、クリスチャンの人生ではないでしょうか。
だから、イエス様が、ヨハネの福音書14章27節で、こう言われました。
私は、あなた方に平安を残します。私は、あなた方に私の平安を与えます。
私があなた方に与えるのは、与えるのとは違います。あなた方は心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。
そのために、イエス様は平安をくださいました。その平安は消えない平安で、この世からは決して得ることができない、手にすることができない平安であります。
だから、心を騒がしてはならない。恐れてはならないとおっしゃってくださいました。
平安をお持ちになって、味わって、楽しんで、それを共通して歩んでいこうではありませんか。
三つ目を話したいと思います。
イエス様の復活は、我々に新しい道を開いてくださいました。全く新しい道を開いてくださいました。
私は確信を持って申し上げることができます。
まことに、イエス・キリストにお会いすれば、人生のさまよいは終わります。
イエス・キリストにお会いさえすれば、人生の悩み、さまよい方向は終わります。
多くの人々は、人生の道を時には迷ったり、さまよったりしません。人生の知恵を求めたりしません。
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しかし、唯一の道、希望の道はイエス・キリストです。
だから、イエス様はこう言われました。
私が道であり、真理であり、命である。
唯一の道、唯一の真理、唯一の命なんです。
イエス・キリスト以外には、まことの道はないのです。
もしも皆さんのうちに、何かの問題で、悩みで、悲しみで、迷って、さまよっていらっしゃる方がおられるのでしょうか。
イエス・キリストに、そしたら人生の悩み、さまよいは消え去ります。
そして、それは消えるだけではなく、また新しい道を示して、切り開いて、案内してくださる方が、イエス・キリストなんです。
イエス・キリストは、まことの道であられます。
その方が、われらを導いてくださいます。
イエス・キリストは、まことの光であられますから、正しい道に、良い道に、平安の道に、喜びの道に、われらを案内してくださる方です。
だから、その道を、その光を持っていて、従っていく人生には、迷うことも、さまようこともないのです。
私が大学生のときに、同じ学年の友達と、山にある施設にキャンプに行ったことがあります。
200巻3日ぐらいでしたけれども、午後の3時、2時ごろに、友達の二人と山登りを登山をしました。
ところが、登っていくときには、道を覚えて、そして明るいうちに帰ってこれるだろうと思って、どんどんどんどん奥に中に入って入ってしまったら、案外早く暗くなってしまったんですね。
山は、結構、天地より早く暗くなるんですね。
真っ暗くなって、二人は煙草も吸っていないので、ライトも持っていないし、マッチも持っていないし、レンジライトも持っていなくて、今のように携帯もスマホも持っていない時代でしたから、
二人、迷って迷って木の枝に怪我して、本当に怖くて怖くて、かろうじて探りながら降りていくときに、幸いに風が吹いて雲が溶けて満月だった。
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それで、細い道が見えて、二人、転がったり転がったりして、十二時過ぎて帰ってきたことがありました。
イエス・キリストは真ことの光なんです。真ことの道なんです。
そのよみがえられたイエス・キリストにお会いすれば、迷うことも、傷つくことも、転けることも、転がることもありません。
イエス・キリストが真ことの道に光を持って導いてくださるからです。
イザヤ教61章3節を見たら、こういう言葉があります。
死を悲しむ者たちに灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の街灯をつけさせるためである。
そういう言葉があります。そうなんです。
イエス・キリストにお会いすれば、悲しみの代わりに喜びを、憂いの代わりに賛美を与えてくださるんです。
メッセージをあげたいと思います。
今日、イスター、よみがえりの主が私たちにこう語っておられます。
イエスは言われた。私はよみがえりです。命です。私を信じる者は死んでも生きるんです。
また、生きていて私を信じる者は決して死ぬことがありません。このことを信じました。
イエス様の復活は、すべての時間と空間に神の勝利をもたらした力でした。
私たちはこの人生という制限された時間や空間の中に生きているわけですから、また復活を経験していませんが、
永遠の時間と空間が私たちのところに来たときに、私たちは必ずよみがえり復活の勝利を、その喜びを経験させていただけるんです。
だから皆さん、よみがえりの主を賛美し、よみがえりの希望をもって、すぐに従ってまいりましょう。
お祈りいたします。
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