00:01
改めてお願いいたします。
今日は、ヨハネの福音書講解説教44回目、イエスの弟子ですか?という話題でございます。
それの前に、周りの方と挨拶しましょうか。
それではお祈りいたします。
あなた方が多くの身を結び、私の弟子となることによって、
私の父は栄光をお受けになるのです。アーメン。
神様、感謝します。
この朝も、神様ご自身が、私たち一人一人の心の霊の中に、聞くべきお言葉をお語りくださいますように。
私たちが全身全霊で、神を見上げ、神の御言葉をいただき、
そして聞いているうちに神様に御愛し、イエスキリストに導かれ、聖霊様に感動を与えていただく、その恵みの時となりますように。
私の霊が本当に天に従えられるような、この朝の御言葉の時となりますように。
そして御言葉を聞いているうちに、主よ、うちなる人がいよいよ強くされ、清められ、また神の人として成長させていただき、
またイエスキリストの導いた見かけまで達する恵みの時となりますように。
神様どうぞ、まず私たち一人一人に聞く耳を与えてください。
ただ座っていているんじゃなくて、神の御言葉を心に深く深く刻みつけ、そして御言葉によってお取扱いをお受けして、
そして神のものへと私たちの考えも人格も品性も生き方も言葉も行いもすべてがイエスの弟子らしく、その弟子という名前にふさわしく、主よ養われますように、どうか我らを導いてください。
そのためのこの御言葉の時となりますように、主よどうぞお語りください、お助けください。
03:02
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
アーメン。
今日は開かれている御言葉から最後の8節のところ、私の弟子となることによって私の父は栄光をお受けになるのです。
そこからイエスの弟子ですかというタイトルです。
今日はまず違ったお話からメッセージを始めていきたいなと思います。
イエスからからはわかりませんけれども、日本の食の中でお寿司はもちろん全世界に流行っているように思いますけれども、
またうどんとか、あるいは日本のラーメンも結構世界中に広がっていると思うんですね。
2年前でしょうか、アメリカに行ったときにも、あるいは去年はインドネシアに行ったときにも、日本のラーメン屋さんがですね、
名前は言いませんが、日本のラーメン屋さんがアメリカにもインドネシアにも進出していることを見たことがありまして、
韓国にも今、ラーメン屋さんがたくさんありますけれども、今からもう十四、五年前ですね、
武蔵にいるときにある兄弟が、日本が好きでしたから、韓国でラーメン屋さんをやりたいと。
日本に来てですね、他のラーメン屋さんに是非来てもらって、習ったことがあるそうです。
ところがですね、なぜか一年間はお皿洗いばかりさせられてですね、他に麺の作り方も、例えばだしの作り方も全然教えてくれない。
もう一年間ずっと皿洗いばかり、掃除ばかりさせられたそう。
そして一年が経って、また一年、二年目になったら、小麦粉の配合のやり方とか、麺を作るやり方は教えてもらって。
ところが、その、なんと言いますかね、秘伝と言いますかね、だしのその、それは教えてくれない。
それでまた三年目になったら、そのだしの秘伝みたいなものを教えてもらった。
それで大体もう三年ぐらい就業みたいにですね、それをしてですね、終わり頃ですね、なんでこんなになかなか教えてくれないのか。
早く教えてくれたら、あなたも楽だし、僕も楽なのに、なんでこんなにたくさん時間をかけて教えてくれるんですかと言ったら、
その師匠みたいな人がラーメンとかを学びに来る人は、それなりに料理をなんとかちょこちょこできる人が大体なので、
06:09
自分の知っているという経験ややり方や癖やそういったものが、むしろオリジナルを学ぶのに邪魔になるから、
それを三年の間、そのもういらない余計な知識や経験や自分のやり方を全部抜き出す時間が必要なんだ。
それでですね、そうしないと、もう自分のこととオリジナルがもうおじゃ混ざってしまって、大体失敗してしまうと言われたそうなんです。
いわゆる自己流の考え方、やり方、こだわり、あるいはよくない癖を抜くということなんですね。
それでいいものが完成するという話を結構前に聞いたことがありますけれども、
彼もやって結構うまくいきましたけれども、後になってはちょっと潰れてですね、やめてしまいましたけれども。
さて皆さん、私たちがイエス様の弟子になること、この頃ですね、信仰とは何なのか、教会生活を送ることは何なのか、
イエスの弟子になることは何なのか、いろいろですね、深く考えさせられて、御言葉から教えていただいているわけですけれども。
そこで一括ですね、聖書をひたりたいと思います。
マタイの訓書十六章二十四節です。私の聖書では三十三ページです。
二十四節を御一緒にお読みしたいと思います。
このマタイの十六章二十四節と今日の十五章の御言葉は、
実はその根本は深いところはつながっている一緒だと考えます。
皆さん、イエス様の弟子になることは何でしょうか。
まず全ての信者、生徒はイエス様の弟子とならなければならない。
09:02
イエス様はまずこのマタイ十六章二十四節において教えてくださったのは、
イエス様についていきたいと思うんですか、あなたは。
そうしたならば、まず自分を捨てなさいと言われました。
皆さん、イエス様の本当の弟子になるためには、第一、自分自身を捨てることから始めるんです。
なぜなら、私たちは自分を捨てないと余計なプライド、
あるいはこの世的な生き方、あるいは考え方、あるいはたかぶり、あるいはむさぼり、
あるいはかたくなさ、あるいは陽気さ等々が残っていてですね、
イエス様の弟子になることはなかなか難しくなってきました。
あるいは弟子にはなるんだけれども、時間がものすごく長くかかる、
成長が鈍くて遅い、あるいは大変苦労する場合があります。
自分のかたの力を抜いて、自己流というものを捨てる時に、
神の霊が、イエス様から新しい命が入ってくるということなんです。
自分を捨てる時に、私たちは十字架を追うことも、イエス様について行くこともできる、
両方一緒に持てる、それはありえないということであります。
皆さんはいかがでしょうか。
この御言葉のように、自分を捨てられたでしょうか。
自分の古き考え方、生き方、やり方、癖、自己主張、プライド等々、捨てられたのでしょうか。
もう一度申しますが、イエス様の後頭の弟子になるということは、
自分を捨てること、そしてキリストに生きること。
私が福岡にいるときに、一時期、ハングル教室をさせていただいて、
12:05
その学生さんの中に、女性の中で、昔、アナウンスをされた人がしばらく来ていましたけれども、
それで、日本語の発音やアクセントを置くようなど、少し何回か教えてもらったことがあるんです。
そしたら、その方がおっしゃるには、
ユン先生の日本語はとてもいいと思いますし、悪くはないと思いますけれども、
ちょっと癖があるから、それをちょっと直したら、もっと素晴らしくなりますよと聞いたことがありまして、
そして、いろいろ発音とかアクセントを教えてもらったんだけど、なかなか直れないんですね。
すでに高校の時代から日本語を習いましたから、いつの間にか癖になって、
自分になってしまって、それが間違っているかどうかが、なかなかわからない、気づいていないことがあって、
言われて、そうなんですね、初めて気づいたことがありました。
皆さん、イエス様の弟子になるということは、その自己流という、自分を捨てることなんです。
それを言い換えますと、神様のお取り扱いを真摯に、真剣にお受けすることです。
神様のお取り扱い。
そして、自己流的なすべてのそれが抜ける。
あるいは取り除かれる。
あるいは磨かれる。
自己否認のそのプロセスを経ていく。
そして、神のお取り扱いを受けるという。
まるで宝石の原石が敷かれて、磨かれて、そして削られて、そして素晴らしい美しい宝石になるプロセスと似ていると思う。
聖書に神様は多くの人々をご自分のものにするために、そして素晴らしく用いるために、祝福のもとにするために、神様はほったらかすわけではない。
実はたくさんの神のお取り扱いが聖書に行われている。
その中の一つの箇所をちょっと開きたいと思います。
葬石に行きましょう。
葬石の三十二章を開いてください。葬石三十二章。長いですので全部読みませんが、二十二節から読み、ご覧ください。
15:15
わたくしの生徒では五十八ページです。
いわゆるヤコブの話なんですね。
二十二節からしばらく私は読みしますので、ご覧ください。
しかし彼はその世の内におけて二人の妻と二人の女奴隷と十一人の子供たちを連れて野僕の私を渡った。
彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物を渡らせた。ヤコブは一人だけ後に残った。
するとある人が夜明けまで彼と格闘した。
このある人はいわゆる神様なんですね。神の見つかりである。
ところが、二十二節。
ところがその人は、ぜひご覧ください。
ところがその人はヤコブに捨てないのを見て取ってヤコブの桃の頭蓋を打ったので、その人と格闘しているうちにヤコブの桃の頭蓋は外れた。
するとその人は言った。
あたしを晒せ。夜が明けるから。しかしヤコブは答えた。
あたしはあなたを晒せません。あたしを祝福してくださらなければ。
その人は言った。あなたの名は何というのか。
彼は答えた。ヤコブでした。
その人は言った。あなたの名はもうヤコブとは呼ばれない。
イスラエルだ。
あなたは神と戦い、人と戦って勝ったからだ。
というね、御言葉があります。
さあ、ヤコブのことを皆さん考えてみてください。
気が強いものでした。
寂しさもあるものでした。
自分の益のためなら、何でも悪賢く働くものだ。
しかしヤコブも神の人なんだから、神様はこのヤコブをこのままでは用いることができない。
用いられない。
そして神のものとして用いるために、彼を祝福のもとにするために、
神様は他にもありますけれども、この野牧の私の中で、
三つ貝と格闘して、桃の四貝を撃たれて外れてしまった。
18:01
いわゆるヤコブの尖った人生、あるいは人格、
そこを神様が削って削って削って宝石のように輝かせて、
そして彼を持ちようとして笑えた。
この後からヤコブは変えられますね。
皆さん、私たちはどうでしょうか。
私たちはどうしても、この適な習慣が身についている。
私の間違った日本語みたいなものが身についている。
あるいは、この世でのやり方がもうものすごく馴染んで慣れている。
罪の修正が残っている。
あるいは、神の前にあってもプライドが強すぎる。
あるいは自我が強い。
自己主張を神の前でも強い。
といったところが、私たちにある部分あるのではないでしょうか。
私にはありますね。
ところが、これらは皆さん実は罪から来たものなんです。
肉の思いであります。肉のやり方であります。
イエス様のリスになるこの歩みは、これらすべてが神によってお取り扱いされて、
そしてそこが磨かれたり、削られたりして、取り除かれたり、打たれたりして、
あるいは叩かれたりして、あるいは持ち上げられたりして、
素晴らしい宝石のように輝くものになっていくこと。
そのためには謙遜に素直に神のお取り扱いを受けなければならない。
神様は魂のマスターなんです。
そして神様は主権を持って時には私を削るんです。
その時には痛いんです。つらいんです。
削られたくないかもしれません。逃げたいかもしれません。
しかし逃げて逃げて、決して神に持ち入られない。
あるいは時には神様がハンマーで割るかもしれません。
21:00
あるいは神様がきれいに拭いて磨いてくださるかもしれません。
あるいはここちょっといらないね、そこを取り除くわけなんです。
時には私の高ぶりの神様が見事にも折ってくださる時もある。
あるいはどうしてもそこが直らないならば
時には恥をかかせてでも我々の罪を主が取り除いてくださる場合もある。
そういう風にして神様は御言葉を通して御魂の働きを通して私たちをお取り扱いされる。
こうして私たちはイエスの弟子になる。
ですから良い信仰を持ってイエス様の誠の弟子になるということは
もう一度申しますが、神のお取り扱いを素直に真剣に応援することです。
御純に素直に突っ張ることをしないで
神様が削られならば削られる。
神様が磨いてくださるならば磨かれる。
神様が打つならば打たれる。
神様が取り除くことをしてやられながら取り除かれる。
それをされるという受け身になることなんですね。
皆さんこの信仰の道を歩んでいかなければならない。
そうしないと何年何年信仰を持っていても
イエスの弟子には私はこのように考えまた信じます。
神様は世田谷教会に和歌山を使わせてくださりました。
もちろん今まで神様は多くの先生方を通して
その時代その時代皆さん方お一人お二人を
主は実はお取扱いされてこられたわけなんです。
あの時はあの先生を通してこの時はこの先生を通して
主は皆さんをお取扱いされて
24:01
今はこの時代は私を通して主は私も含めて
皆さんをお取扱いをしておられるということではないでしょうか。
私はそういうふうに信じております。
ですから皆さん主の皆によってお勧めいたします。
神様の神様こそ真剣ですからね。
神様の真剣なお取扱いをよくお受け下さい。
神様が皆さんの溶かした部分を削ろうとしておられるならば
逃げるんじゃなくて対抗するんじゃなくて削られて下さい。
神様が私たちの皆さんのその強い器用その実を頑固なところを
温純なものにしようとしておられるならば
お取扱いをお受け下さい。
そして神様が皆さんの高ぶりを取り除こうとしておられる
するならばもうそのままただお取扱いをされて
このようによく主のお取扱いをお受けして
時には見上がれ時には持ち上げられ時には
強く辛いほど打たれて叩かれて
そういうふうにして私たちはさらにさらに立派なイエスの弟子に
このプロセスをこのお取扱いを受けようとしない
あるいはそもそももう関心がない
あるいはまだまだ自分を知れていない
自己流的に信仰を持っていこうとするならば
決してイエスの弟子にはなれません。
聖書をたくさん知っているかといって弟子になることではありません。
あるいは牧師だからといって役員だからといって
長屋でいろんな奉仕をしていたからといって
みんなが弟子とは言えない
弟子の真似をすることはできるかもしれませんが
誠の弟子にならなければならない
モノマネをするんじゃないですね私たちは
イエスの弟子に
私たちは宇野谷教会に少しずつ日に日に
27:10
イエス様になっていかれる皆さん
あるいは神様のお取扱いを素直に受けたくて
受けたくてそして入られている方々がおられるから
本当に感謝しております。
もともとそういう方が多くおられて
神のお取扱いを受けて
そしてイエスの弟子になろうではないでしょうか
そこで一つ私たちがイエスの弟子になるため
神様のお取扱いをそのままを受けて
誠の弟子になるために
私たちがどうしても
いや必ず捨てなければならない
大敵が一つある
それはたかぶりというもの
たかぶりは私も感じますけど
自分を捨てることができないようにさせます
いわゆるたかぶりは不思議なものであってですね
自己満足に倒水させる不思議な力がある
そう思いませんか皆さん
たかぶりはもう自己満足
自分が言うのがこれはもういつでも正しい
神のお取扱いを受けようと
いや受けようとしないくらいじゃなくて
むしろ自分が神様を取り扱おうとする
これこそある意味で恐ろしいたかぶりなんですね
皆さんイエスの弟子になることは
自分を捨てることから始まりますから
そのたかぶりというものが我々には実は
みんなが持っているんじゃないでしょうか
それを身霊によって捨てさせていただくことなんです
そして神のお取扱いを
それをお受けすること
そして弟子として作り上げられること
それが信徒の歩みなり
それが弟子になる道
いや弟子として歩む道なんですね
今完成しんではないかもしれません
お互いにね
神様がですね私たちは作っている
また工事中あるいは仕込み中かもしれません
30:04
2番目イエス様の弟子になるということは
イエスの16章の24節の後半に書かれている
自分の十字架を追うことです
自分の十字架を追うこと
それこそ自分を捨てたものに
自分の十字架を追うことができます
これはただね自分が追いたい
軽いおもちゃみたいな十字架を追うのではないんです
自分の十字架を追うということは
神様が私を通して全うしようとしておられる
神の何かの使命がある
神様の思いがある
それを私たちがこの一生の間
それを全うさせていただくことなのではないでしょうか
使命というものがあまりにも重たいと感じるならば
神様の何かがある
一生が通して全うしなければならない
あれがあるんです
それを見つけて
そしてそのために生きる人こそ
本当に幸せな人だ
仕事ではありません
住まいが神戸なのか北海道なのか
その問題ではない
どんな仕事を持っているかその問題でもない
イエス・キリストの使命を教えていただいて
それを握りしめてそのために生きる人が
一番幸せな人であって神に救される人
我々は自分の十字架を追おうとしない稽古が
我々にあるんです
逃げたいんです
重たいから
つらいから
めんどくさいから
言い訳ったくなるんですね私は
だから自分を捨てて
自分の十字架を追っていくものが
イエス様についていくものなんです
皆さんのところが神様が任せてくれた使命が
ものすごい莫大な大きなものである場合もありますけれども
そうでない場合もあるんじゃないでしょうかね
もしかしたらある人々の使命は
小さなものかもしれません
小さなものだけど実はとても濃いものである
とても大事なものであるかもしれない
例えば日本の一パーセントしか
33:04
安定なクリスタンが多いわけですから
当然皆さんの家族には
神を知らない
信じようとしない
関心がそもそもない
あるいは反対する
そういう家族が大勢いらっしゃるんじゃないでしょうかね
今日はだからアンデレカードを書いていただきたいと
願っておりますけれども
多分皆さんのご家族ご親族の方の名前だけ書くならば
あの紙
その紙一枚では足らないでしょう
何十枚かもいるかもしれない
その方々のために
イエス様の愛をもって
愛してあげること
チリストに対してするように
お仕えすること
喜ぶこと
それも大切ですけれども
小さな悲鳴なのではないでしょうか
あるいは何とかして
チリストの福音を
伝えること
あれではないでしょうか
先週
教師会の中でですね
ある教会の先生と話すと
隣に座って話させていたら
ある教会の神父さんがですね
婦人の方らしいですけれども
ずっと長い間
教会が駅近いありますから
駅に行って
日曜日の午後
誰もお願いしていないのに
そのご夫人がですね
トラコと教会のトラコと
ずっと長い間配っていらっしゃるんです
それでチラシがすぐなくなるんです
そしてその先生に
チラシを先生もありませんけどとしたら
先生も喜んでまた作ってあげる
そしてその人は
一人でですね
ずっとずっとチラシを配って
教会の話をしているという話を聞いて
それこそ皆さん
家様の弟子のように
そのご夫人の方はきっと
これが自分にできる神様から
委ねられている使命だろうと
そういうふうに信じて
やっていらっしゃるんじゃないでしょうか
あるいは周りに貧しい人々
いろいろ社会的に阻害されている人々のために
何かの奉仕をすること
あるいは報いはなくても
アガペの愛をもって
ボランティアとして奉仕をすること
そしてその使命が
その時代この時代に
騒ぎくなるように
それが我らを導いて
36:01
働きをさせてくださるということだ
そういうふうに書かれているように
私だけの人生を見ても
生まれる時があり
勉強に専念する時があり
王政に働く時があり
引退の時があり
命が暮れるように人生が暮れる時
終わりの時があるということなんですね
勢いよく王政に進みに進んで
進む時があり
あるいは時には追い風にされて
なかなか前に進めない
苦労する時もあるんじゃないでしょうか
ここで一か所提出を開きたいと思います
公約聖書の伝道者の書
7章14節を開いてください
伝道者の書
7章14節
1109ページです
1109ページ
伝道者の書
7章14節です
よろしいですか
14節を一緒に読みたいと思います
順境の日には喜び
逆境の日には反省せよ
これもあれも神のなさること
それはもしのことを人に分からせないためである
神様たちに
順境の日がありますよ
でも逆境の日もありますよ
順境の日には喜び
でも逆境の日には
日本語の聖書は反省となりますが
反省を含めての深く考えることです
いわゆる熟行することなんです
皆さん
自分の常時から追って
イエス様についていく弟子のこの道は
まるで
修学生が走る50mの走りと全く違いますね
フルコスマラサンよりもっと長い旅
弟子になるということ
それは人生すべてを通して
作り上げさせてなること
完成を目指して進めていくこと
身を結び続けていく道なのです
39:02
そのために最も大事なのは
我々の人生すべての土台を
柱を建物をその中にあるもの
屋根すべてを
イエス・キリスという土台の上に置く
その上に建てさせていくこと
それをイエス様は
このヨハネの訓書において
私につながっていなさいと語られました
シト・パウルは
このイエス・キリスにつながっている言葉を
こういうふうに
シト・パウルなりに解釈して教えてくれています
ちょっと聖書を開きたいと思います
新約のコロサイビトへの手紙2章開きましょう
コロサイビトへの手紙2章
まず2節です
コロサイビトへの手紙2章2節
新約聖書の391ページです
コロサイビトへの手紙2章2節
一緒に読みたいと思います
それはこの人たちが心に励ましを受け
愛によって結び合わされ
理解をもって豊かな全き確信に達し
神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです
ここにですね
パウルはこういうふうに言っています
愛によって結び合わされること
イエス様に留まること
枝がブドウの木につながっていることは
同じことはパウルは結び合わされる
キリストに結び合わされて一つになることですね
もう一箇所その2章の6節も読みたいと思います
6節
あなた方はこのように主キリストイエスを受け入れたのですから
彼に会って歩みなさい
彼に会って歩むことは
キリストに結び合わされることであって
それはまた理解をもって豊かな全き確信に達することであるんです
そして神の奥義であるキリストを真に知るようになることが
全部一緒なんです
彼に会って歩むことは何にもしないで歩むだけではないんですよ
もう一箇所同じコロサイ3の19節です
失礼しました3の19節
2章の19節です
失礼しました2章19節
一緒に見ますね
42:01
頭に固く結びつくことをしません
この頭が元になり
体全体は関節と筋によって養われ
結び合わされて神によって成長させられるのです
アメ
一番最初に頭に固く結びつくことをしませんというのは
もう弟子になろうとしない人は
頭キリストに固く結びつくことをしないということなんです
キリストに留まらないことですね
しかしキリストに留まることって何でしょうか
結び合わされることって何でしょうか
その次の言葉を注目してください
この頭が元になり
我々の人生の元はどこだよなんですか
イエスキリストなんです
その最初の土台をどこに立てたのか
それによって後が違ってくるんです
そして続いてご覧ください
体全体は関節と筋によってまず何をされますか
養われること
つまりお取扱いをされることじゃないでしょうか
そして結び合わされることなんです
そして神によって成長させられること
これがキリストにつながることであって
弟子になることなんです
枝がブドウの木につながっていること
それはもう積極的にその中に入って
結び合わされて神によって成長させられる
その恵みの経験を重ねて
次に重ねて歩んでいくこと
それが信仰なんです
それがイエスの弟子なんです
メッセージを終わりたいと思います
ところがある方は立派な信仰を持っている
ある方は僕はもう立派じゃないですよ
日々だらけですよという思われ方がおられるかもしれません
ある物語をお話しして
昔話して終わりたいと思いますけれども
ある国の昔話はこういう昔話があります
ある農夫がありました
その家には水を汲んで運ぶ用の壺が二つありました
一つの壺は立派で丈夫なものでした
ところが一つの壺はくしびがちょっと入っていて
水が漏れたりするものでした
この農夫はいつも棒の右左に壺をかけて
ちょっと離れたところの井戸まで行って
45:01
水を汲んで入れて
そして水を毎日一回ずつ運んでいました
ところがある日水を汲んで家に大体着いたときに
物語ですからね
そのしび入った壺がその農夫にこう言いました
ご主人様僕はもうしびがたくさん入っていて
ご主人様が水をいっぱい入れても
いつもここに来たら半分しか残っていない
いつも漏れているんだから
私はもう入れない壺なんです
私は捨てて新しい丈夫な壺を買ってお使いください
と悲しげな顔を持って言っています
そしたらそのご主人さんがこう言いました
大丈夫だよ
ほらほら
この井戸から家まで前向き通っているこの道端を
あの道端にきれいなお花が咲いているんじゃない
なんであそこにきれいなお花が咲いていると思うの
実は君のところから水が少しずつ漏れていたから
あの乾いた道端が水やりをされて
そしてきれいなお花が咲いているんだよ
私はこのきれいなお花を
毎日のように楽しんで楽しんでいるんだよ
この丈夫な壺は水をたくさん運んでくれるからうれしいし
お前はきれいなお花を咲かせてくれるから
私は両方とも大事なんだよ
と言ったそうなんです
皆さん私たちは丈夫な壺かもしれませんし
日々の入っている壺かもしれません
ところが神様は私たちのことを
ある人はヤコブのように
ある人はアグラムよ
ある人は聖書には一度しか名前を書いてなくて
あんまり覚えられていない
そういう人のように
神様はそれぞれ主見を持って
御心を持って用いてください
その神の愛を覚えて
神のお取り扱いを真剣にお受けして
このイエスの弟子の道を歩んでいこうではないでしょうか
お祈りします