祈りの重要性
おはようございます。
祈っていただいたとおり、きょうは三鶴先生は、新学校のキャラバン伝道実習で、
社官補として、きのうから2日間、赤島一丸教会で、ご奉仕をされています。
今朝は2回の礼拝で、2回、2言葉をご奉仕されるということで、覚えていただければ幸いです。
一言、お祈りをさせていただきます。
天の神様、主の皆を賛美いたします。
主が愛しておられる皆様とともに、この日曜日の礼拝をお捧げできることを感謝いたします。
厳しい気候の中、お一人お一人が過ごしておられますけれども、
今日も神様が私たちに命を与え、支えておられ、持ち運んでくださっていることを覚えます。
疲れているところ、痛むところに、あなたの癒しが、支えがありますよう名を祈ります。
どうぞ主により頼みながら、この季節を過ごしていくことができますよう、私たちを導いてください。
イエス様の十字架と復活が、私たちにもたらしてくださった命と恵みを感謝いたします。
今朝ともに聞かせていただく御言葉も、この恵みを覚えつつ受け取ることができますように。
どうぞ語る者を憐んでくださり、主がこの御言葉の時を、恵みをもってご支配ください。
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
ハンナの苦しみ
今日はせっかく美鶴先生がいないのでとは言わないんですけれども、
少しだけ、最初にちょっとだけ私たち夫婦の話をしようかなと思うんですが、
美鶴先生と結婚して今6年目になりました。
まだまだ夫婦の年数としては浅いですけれども、新婚当初を最近よく振り返ります。
私は本当に美鶴先生によく話を聞いてもらってきたなということを思っています。
私は自分の気持ちを上手に言葉にするということが苦手なんですけれども、
そういう私のまとまりのない話を聞くために、
夫は時間を取り、組み取り、整理をするという、またよく共感をするということを新婚当初してくれて、
何度も励まされたなということを思い出します。
6年たった今でありますけれども、私は味を占めて何でもかんでも夫に話すようになりました。
今も夫は私の話をよく聞いてくれます。
ただ、合図地で今聞いてないんだなということがわかるようになってきたなということも感じています。
しゃべりすぎてしまう妻との生き方をこの6年間で身につけてくれたんだなと思いますし、
逆に私ももっと夫の話を聞かなければと賛成させられています。
誰かに話を聞いてもらうということが私たちにはあると思いますが、
私たちの生活の中にはそれぞれの悩みがあり、痛みがあります。
誰かにそのことを話したとき、励ましの言葉をもらう、またこうしたらいいんじゃないとアドバイスをもらう、
そういうありがたい経験をしてきていると思います。
でも自分の内側を誰かに聞いてもらうとき、私たちは一番欲しいものがあると思います。
自分のことがわかってもらえたという実感が一番欲しいのではないでしょうか。
自分の思いをわかってもらえた、受け入れてもらえたとも言えるかもしれません。
自分の思いをわかってもらえた、その事実だけで、たとえ悩みが解決してなくても、
生きる力、前を向く力をもらえる、そんな経験が私たちにはあるかもしれません。
今朝は似たような経験をしたであろう人物、ハンナの祈りの歌唱を開かせていただきました。
母の日に光先生が、この第一サムエル記の1章から語ってくださいましたが、
今日はその続き2章です。
ハンナの祈りを今朝読みましたけれども、
今日の箇所で特に覚えたいところは、2章3節の後半です。
2章3節の後半。
まことに主はすべてを知る神、その身業は計り知れません。
神様の全知全能を表している言葉であります。
すべてを知り、計り知れない身業をなされる神様が、今の私たちに関わっておられる、すべてを知る神。
神様は何をすべて知っておられるのでしょうか。
それは、私たちの涙と祈りです。
神様は私たちの涙と祈りのすべてを知っておられます。
今日共にお読みしたハンナの祈りは、一見ひたすら主を褒めたたえている、そんな祈りに見えますけれども、
このように祈ったハンナ、そのハンナの背景というものがあります。
ハンナはこれまで多くの悲しみと苦労があったということを、
第一サメルキの一章で私たちは見ました。
彼女は長らく子供が与えられなかった不妊の女性です。
このことがどれほど彼女の生きる上での苦しみであったか、
現代人の私たちは想像できるようで、しきれないところがあるかもしれません。
当時の社会において、女性の最大の役割は後取りを生むこと。
後取りを生めない不妊の女性というのは、存在意義を否定される、そのような時代の中を彼女は歩みました。
そしてハンナには、ハンナにも夫がいます。エルカナという夫がいますけれども、
エルカナにはハンナのほかに、ペニンナというもう一人の妻もいました。
そしてこのペニンナには何人も子供が与えられている、そんな状況でした。
子供が与えられていない自分と子供が与えられているペニンナとの比較、
ハンナは比較せずには折れない生活の中でいました。
しかもそのことを知ってか、一生のところにははっきりとペニンナがハンナのことを苛立たせ、
怒りをかきたてたとあるのです。
心を注ぎ出す祈り
私は高校生の時に初めてこのサムエル記の一章を読んだというか、メッセージで聞いたんですけれども、
このペニンナが嫌な女ということしか残らないぐらい衝撃的な内容でした。
聖書にこんな人間関係のひどいもつれが書いてあるんだと思いましたし、
ただこのペニンナという女性のことを思いますと、一章の5節を見てみますと、
エルカナがハンナには特別の受ける分を与えていた。
主は彼女の胎を閉じておられたが、彼がハンナを愛していたからであるとあります。
子供がいないハンナに対して愛を向ける夫エルカナに対するペニンナの嫉妬というものがあったと思います。
ペニンナはペニンナで、心にさまざまな感情を抱いていた。
どこの世界に行っても、自分にとって嫌な人というものはいると思います。
ハンナにとってはそれがペニンナであった。
傷口に塩を塗り込むような人が同じ屋根の下に生活をしている。
自分の存在意義を否定される日々、
ハンナはあまりの悲しみに食事もできない、
消水しきった生活を送っていたことが想像できます。
子供は神様からの授かりもの、現代のような不妊治療があるわけでもなく、
生きて残されていないハンナです。
拭いきれない悲しみと、終わることのないなぜですかという思いが、
ハンナの心を占めていたでしょう。
ただ、私たちはこのようなハンナの姿から、
このような彼女の姿から、ハンナの信仰が見ることができます。
ここにあるように、彼女は尽きない悲しみも、なぜですかという思いも、
神へと注ぎ出しました。
1章15節にそのように記されています。
私は主の前に心を注ぎ出していたのですとハンナは言います。
ハンナは祈っていたわけですが、
彼女はそれを心を注ぎ出したと表現しました。
理不尽な出来事に対して、
心の中にある悲しみやなぜという疑問を、
声にあげれるならばいいですけれども、
私たちの多くの場合は、
自分の心の戸口を閉めて、
耐えながら笑顔に努めるということの方が多いのかもしれません。
しかし、そのように戸口を、心の戸口を閉め続けていると、
主の前に心を注ぎ出す方法を、
私たちは忘れてしまうのかもしれません。
いったところで何も変わらない。
仕方ないと諦めてしまう。
しかし、それでは重たい思いを抱き続けなければいけない。
私たちは神様に日々祈ることがあると思いますが、
どんな祈りも神様は聞かれます。
私たちの祈りを聞かれる方は、
このハンナの祈りを聞かれたお方です。
心注いで祈ったハンナ、
その彼女の祈りというのは、
1章10節にありますけれども、
ハンナの心は痛んでいた。
彼女は激しく泣いて主に祈ったと書いてあります。
激しく泣いて主に祈った。
彼女の祈りというのはきっときれいな内容、
きれいな言葉だけの祈りではなかったはずです。
なかなか苦しみを理解してくれない夫への不満や、
嫌がらせをしてくるもう一人の妻ペニンナへの憎しみ、
そしてその中でもなお、
子供を与えてくださらない神に対して
怒りをぶつけていたかもしれません。
なぜですか。
あなたが与えてくださらないから、
あなたのせいでというように。
しかしそのような悲惨な自分の状態を
ハンナは隠さず心の戸口を全部開いて祈った。
心を注いで祈った。
そんな彼女がその祈りを通して知ったのは、
こういう自分の悲しみを祈りを主はすべて聞いて、
すべて知っておられるということです。
主はすべて知っておられる。
彼女には男の子が与えられました。
その子の名はサムエルと名付けられました。
サムエルの意味は、神は聞きたもうです。
激しく泣いて心痛めて祈ったあの祈りを、
きれいではない言葉で心注ぎ出した祈りを、
神は聞きたもう。
そう実感したからでしょう。
私たちにももしかしたら、
開くことのできない心の戸口の中にあるかもしれません。
しかし、ともに覚えたいと思うのです。
心の戸口を開き、注ぎ出す場所が私たちには与えられている。
ハンナの祈りの意義
注ぎ出す場所は、主ご自身にあるということを覚えたいと思います。
さて、今朝もう一つ、ともに覚え受け取りたいと思います。
それは、私たちの神様は、
はかり知れない御業をなされるお方だということです。
はかり知れない御業、それはどういうことか。
神様は、小さく弱いものを通して御業をなされるということです。
小さく弱いものを通して御業をなされる。
私たちはこのハンナの物語を読みながら、
また今朝のこの祈りを読みながら、
祈りの勇者ハンナというような、
模範的な祈りと理解をするかもしれません。
しかし、ハンナの祝福、
ハンナに男の子サムエルが与えられたのは、
この彼女の祈りが勝ち取ったものではありません。
今日お読みしたハンナの祈り全体が強調しているのは、
ハンナがどれほどよく祈ったかではなく、
主ご自身の姿に焦点が当てられています。
ハンナは今日の箇所でこのように祈っています。
二章の一節。
私の心は主にあって大いに喜び、
私の角は主によって高く上がります。
私の口は敵に向かって大きく開きます。
私があなたの救いを喜ぶからです。
そして二章の八節。
主は弱いものを塵から起こし、
貧しいものを飽くたから引き上げ、
高貴なものと共に座らせ、
彼らに栄光の座を継がせますと。
ハンナの祈りは、
自分がどれほど祈ったかではなく、
主ご自身に焦点が当てられています。
そしてこのハンナの祈り。
マリアの参加と内容が重なっているとよく言われます。
新約聖書に出てくるマリアの参加。
お開きできる方は一緒にお読みできればと思います。
ルカの福音書1章46節から55節。
新約聖書の108ページです。
ルカの1章46節から。
マリアは言った。
私の魂は主をあがめ、
私の霊は私の救い主である神をたたえます。
このいやしい端溜めに目をとめてくださったからです。
ご覧ください。
今から後、どの時代の人々も私を幸いなものと呼ぶでしょう。
力ある方が私に大きなことをしてくださったからです。
その皆は聖なるもの。
主の哀れみは世々にわたって主を恐れる者に及びます。
主はその身腕で力強い技を行い、
心の思いの高ぶる者を追い散らされました。
権力のある者を大いから引き下ろし、
低い者を高く引き上げられました。
飢えた者を良い者で満ちたらせ、
富む者を何も持たせずに追い返されました。
主は哀れみを忘れずに、
そのしもべイスラエルを助けてくださいました。
私たちの祖達に語られた通り、
アブラハムとその子孫に対する哀れみをいつまでも忘れずにと。
ハンナの祈り、そしてこのマリアの参加、
共に重なるテーマは、
主は小さな者、無力な者、貧しい者に目を止めて引き上げ、
傲慢な者、悪者を引き下げるというものです。
主の知恵と私たちの現実
神様は無力なハンナに目を止め、
そこから偉大な祭司であるサムエルを生み出されます。
そしてこの後、神はサウルに代わる王を、
普通は誰も見向きもされないであろう羊の世話をしていた
ラビレに王として王位を与えました。
そして神様はガリラヤのナザレという、
辺境の小さな村の無力な女性、マリアに目を止め、
救い主イエス様をお与えになりました。
いつも神様が身業を始められる場所は、
私たちが気にも止めない小さな小さな場所なのです。
それはなぜなのか、
パウロがそのことを言っている箇所があります。
これもお聞きいただければと思いますが、
コリントビトへの手紙第一、26節から31節をお読みします。
コリントビトへの手紙第一、
1章26節から31節、
新約聖書327ページです。
兄弟たち、自分たちの飯のことを考えてみなさい。
人間的に見れば、知者は多くはなく、
力ある者も多くはなく、
身分の高い者も多くはありません。
しかし神は、知恵ある者を恥いらせるために、
この世の愚かな者を選び、
強い者を恥いらせるために、
この世の弱い者を選ばれました。
ある者をない者とするために、
この世の取るに足りない者や見下されている者、
すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。
憎なる者が誰も神の御前で誇ることがないようにするためです。
しかしあなた方は神によってキリストイエスのうちにあります。
キリストは私たちにとって神からの知恵、
すなわち義と誠と贖いになられました。
誇る者は主を誇れと書いてあるとおりになるためです。
神様は小さなところに目をとめ、
そこから祝福を始められます。
私たちの信仰深さや何かが要因ではなく、
主が見出してくださったから、
主が憐れみを注いでくださったから、
誇る者は主を誇れとあるように、
主がそのようなお方であるからです。
神様は私たちの不安やぐちゃぐちゃな現実の中にあってなお、
見業を起こそうと祝福を始めようとされています。
まことに主はすべてを知る神、その見業は計り知れませんと。
私たちには痛む傷ついている現実の中に、
この希望が与えられていることを覚えたいと思います。
人知れず傷つき、涙する私たちを主は知っておられる、
目をとめておられる、不安定な私たちの現実の中で主は
見業を起こし祝福を始めてくださいます。
私たちは安心して、自分の本当の姿を主に知っていただき、
目の前の現実に入っていきたいのです。
私たちの涙と祈りを知り、そこから見業を、
祝福を始めてくださる神様が、
今日も明日も私たちとともに歩んでくださいます。
一言お祈りをさせていただきます。