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2024-12-15 30:18

2024/12/15:再臨の備え

2024/12/15 Ⅲアドベント礼拝

加藤満牧師

マタイの福音書 -46


サマリー

このエピソードでは、アドベントの第三週におけるイエス様の再臨について考え、どのようにその時を待ち望むべきかが語られています。また、聖書の約束とその希望に基づいたサイリンの理解にも焦点が当てられています。特に、忠実な下辺や賢い花嫁、タラントの例えを通じて、信者がどのように忍耐強く目を覚まして待つべきかが解説されています。イエス様から受けた愛を思い出し、その感謝を受け入れることで、愛の技を続ける重要性が理解されます。

祈りと感謝
それでは一言お祈りをさせていただきます。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
急に気候が寒くなってきて、私たちの心も体も、この寒さに本当に震えるような思いがしますが、
しかし私たちを主が支えてくださり、今日もあなたの招きによって、このところに集うことができたことをありがとうございます。
神様、あなたは私たちを限りなく愛し抜いてくださいました。
私たちのために、御子イエス様を十字架に捧げてくださいました。
私たちの罪を全てその身に引き受け、血を流してくださった、イエス様のその贖いによって、
私たちの罪が完全に許され、神のことされ、それだけではなく、
復活された命、永遠の命、永遠なる人と共に生き続ける命を、私たちに与えてくださり、
私たちがもはや一人で立つのではない、私はあなたと共にいる、私の恵みによって歩みなさいと、
あなたの恵みの世界へと、私たちを招き入れてくださったことをありがとうございます。
アドベントの第三週を迎えています。
本当に今日は、あなたの再臨のことを御一緒に覚えたいと願っています。
あなたはこの暗闇の世界に、あのクリスマスに来られたように、再び来てくださるという約束を与えてくださいました。
世界は様々な混沌に満ちています。戦争があり、病があり、自然災害があり、迫害があり、その中で多くの人たちが苦しんでいます。
どうか主がお一人一人のところに御手を述べ、慰めを与え、あなたの正義と公正が表されるようにと願いますし、
私たちは主を来てくださいと、そのような思いを持ってあなたを見上げます。
どうか今日も主が御言葉を開き、私たちにあなたの御心を教えてくださいますように、お願いいたします。
ここに来たくても来れないお一人一人がいらっしゃることを覚えています。
施設におられる方、ご自宅で礼拝を守らざるを得ない方、心が痛んでここに心が向かない方、
どうか主がお一人一人とともにいてくださり、そのところにおいてあなたの恵みを表し、平安を与えていてください。お願いいたします。
これからの時を見てに委ねます。主が御言葉を開いてくださいますように、イエス様のお名前によってお祈りいたします。
アーメン。
サイリンの約束
アドベンツの第3週を迎えました。
ロウソクには3本目のロウソクがつきまして。
今朝はですね、ご一緒にイエス様のサイリンということに関して少し心を傾けたいと思うんです。
キリスト教会といいますのは、2000年の歴史の間、このアドベンツの季節に、
イエス様があのクリスマスの時期にこの世界にお下りくださったショリンというものと、
そしてイエス様が十字架にかかられてよみがえり、天に昇られた後再び来られるサイリンということを、
共に待ち望む季節として送ってきました。
聖書を分厚い66巻ありますけれども、この聖書の一番最後に書かれている言葉はですね、
イエス様がしかり私はすぐに来るという言葉です。
しかり私はすぐに来る。
そしてそれに対してヨハネが、アーメン、シュエスヨ、来てくださいと、そのようなやりとりでこの聖書を終わっているんです。
私たちの教会もまた、このヨハネの告白と同じように、2000年代の教会はそうですけれども、
アーメン、シュエスヨ、来てくださいという信仰告白に立って教会は立っています。
ただですね、常識的な人や楽観的な人は言うかもしれません。
いやすぐにと言われたのにイエス様は2000年もサイリンしてないじゃないですかと。
そんなことまだ信じるんですか。サイリンなどないんじゃないですかという人たちがいるかもしれません。
もしくは熱心で悲観的な人たちは言うかもしれません。
いや昨今の戦争や自然災害や病というのはまさに終末の出来事なんだ。
死は今日か明日にでも来るかもしれないということを恐れる人たちがいるかもしれません。
ただですね、このような楽観的な見方も悲観的な見方も2000年間の教会の中で現れては消えているんですよ。
私たちはサイリンということを覚えるときにまず少し落ち着いてですね、その上で考えたい、抑えておきたいことが2点ほどあります。
1つはまず聖書は神様の約束の言葉です。
ですから私たちは私はすぐに来ると言われたイエス様の約束をなおも私たちは信じていいのです。
私は信じていきたいと思います。
そしてまた聖書というのはもう1つそれはサイリンを怖いこととして描いていないということです。
サイリンは希望なんです。
口すっぱく言いますがサイリンは希望として語られています。
それは先ほど賛美しましたが、主よ得来たりて世界を治めたまえというように主が再び来られるというのは
ある種この混沌とした不義に満ちた世界をイエス様が誠の王として恵みの支配をそのうちに実現してくださるという希望です。
ですからサイリンに対していたずらに恐怖を抱くことであったりだとか、現実逃避の理由にはしてはならないのです。
むしろ聖書が進めるのは神様が約束された希望、それを抱きながら待ち望みなさいと進められるわけですよね。
備えの重要性
今朝はご一緒にこの開いていただきましたマタイの25章の31節から少し主を待ち望む姿勢というのはどういうものかということを一緒に知っていきたいと思います。
2つのポイントでお話をします。まず1つは時が来るから備えなさいということです。
時が来るから備えなさい。実は今日読んでいただきましたこのマタイの福音書の25章31節からというのは、
実はちょっと振り返って申し訳ないんですが、24章の4節から続いている長い長いイエス様の説教の最終部分なんです。
そしてイエス様はこの前に23章の後半、つまり2章ぐらい遡って申し上げます。
23章の後半から立法学者やパリサイ派を厳しく休断している。そのところから実は文脈として始まっているので、ちょっと簡単に内容を確認させていただきますが、
23章の13節あたりから、災いだ災いだという言葉によって、パリサイ派や立法学者、いわば当時の宗教指導者と呼ばれる人たちが激しくイエス様によって批判されます。
彼らはなぜ批判されるかというと、神様の言葉、立法を守っているように見えながら、25節にある彼らの心は暴力に満ちていて、そして23節には正義と憐れみと誠実を、彼らはおろそかにしているということをイエス様は激しく批判するんです。
そういう彼らによって、多くの預言者、神様の使いは殺されてきたし、そして厳しいですけれども、14節にはあなたたちによって貧しい人たちが天の御国に入れないんだということを、本当に厳しい批判をイエス様はここで展開をされるのです。
確かにそうなんです。当時の宗教指導者というのは、ある種、陰で貧しい人たちからいろいろなものを搾取していたという批判が至るところでイエス様はします。
そして、そのような宗教指導者たちが頼りにしていたのは何かというと、実は24章の1節に出てきますミヤです。ミヤというのは、いわゆるエルサレム神殿でした。
当時、エルサレム神殿というのは、世界中のユダヤ人たちが年に数回、祭りでやってきて礼拝をする。そういう意味で、ある種、ユダヤ人たちにとって宗教的な権威のシンボルでしたし、ちょっと嫌な言い方をすると、お金がたくさん入ってくるシステムだったんです。
彼らはその権威と富を傘に着て、立法学者やパリサイ派は、貧しい人たちからいろんなものを奪っていたというのが、当時の状況でした。ただ、イエス様がそういうのを見ながら、こう言われるんです。
ちょっと24章の2節を読みますと、するとイエスは弟子たちに言われた2節。「あなた方はこれらのもの全てを見ているのですか?まことにあなた方に言います。ここでどの石も崩されずに他の石の上に残ることは決してありません。」と言われます。
これは何かと言いますと、エルサレム神殿も、そしてその神殿の権威を傘に着て偉そうにしている宗教指導者たちも、倒れる時が来ると言うんです。そして弟子たちはそれを聞いて驚いて聞きました。3節、弟子たちが密かに身元に来ていました。
お話しください。いつそのようなことが起きるのですか?あなたが来られ、世が終わる時の印はどのようなものなのですか?そしてこの問いに答えてイエス様が語り始めるのが、24章から25章の説教なんですね。
なので、まずこの24章からの説教、終わりの時の説教と言われますが、これはまず何のことかを言っているかというと、エルサレム神殿の崩壊のことを予言しているのは確かなんです。イエス様が十字架に架かられたあと40年後に、実際にエルサレム神殿は崩壊します。
ローマ帝国によってやけの原にエルサレムはなります。そのような歴史的事実を予言しているのですが、ただ3節に、世が終わる時の印はとも書かれる。そのように、このイエス様の言葉はエルサレムの崩壊には限られない、私たちが生きているこの世の終わりに関しても語っているということを私たちは同時に見るんです。
聖書の予言の特徴としてお話ししますが、聖書の予言は繰り返すんです。繰り返します。先週見たマタイの遺書もそうでしたが、インマネエルとしてイエス様が生まれになったと言われるけれども、イザヤの時代にもインマネエルは生まれているんです。
そしてそれが5、600年後でしょうかね。イエス様においてもまたインマネエルの予言は実現する。それと同じように予言というのは歴史の中で何度も何度も繰り返します。ただその予言の繰り返しの中で最終的な大きな終わりへと続いている。というのが、ある種聖書の歴史感覚であると思います。
再臨と信者の忍耐
さて、ちょっと前置きが長くなって申し訳ないんですが、24章に入っていきますと。さらっと見ていきますと、24章というのはまさに終わりに向けて様々なことがあるということをイエス様が語り始められるわけです。
戦争や地震や飢饉など様々な予兆がこの世界に起こりますよ。混乱が訪れますよ。しかし24章の8節には、しかしこれらはすべて生みの苦しみの始まりなのですと言われるのは、いろんなことが起こってもそれは始まりでしかないから、まだ慌てる時じゃないよと言っているんです。まだ慌てる時ではない。
そしてそのような中でキリスト社も迫害をされます。この24章全体でイエス様がキリスト社、私たちに勧めることは2つだけなんです。
1つは24章の13節、最後まで耐え忍びなさいということ。様々なことがあるけど、最後まで耐え忍びなさいということと、そしてもう1つはちょっと飛びますが、24章の42節、ですから目を覚ましていなさいということ。目を覚ましていなさい。
イエス様は再び来られる。30節あたりに書いてますが、イエス様は再び来られる。それまであなたたちは、忍耐をし目を覚ましていなさいと言われるんですね。じゃあ一体忍耐をして目を覚ましているということは、イエス様は具体的にどういうことなんですか。
実はそのことを説明しているのが、24章の45節から続く4つの例え話です。この例え話もさらっと見ていきますけれども、例えば24章の45節から書かれ、45から51節で書いているのは、まず主人が帰ってくるまで忠実で賢い下辺として生きなさいということですよね。
そして25章の1節から13節、賢い花嫁として常に準備をしておきなさいということですよね。そしていろいろパッパ包んで申し訳ないんですが、この25章の14節から書いてあるタラントの例えというのは、王様から預かったタラント、賜物を存分に預かって用いなさいということですよね。
この3つの例え話というのは、明確な立法学者やパリ裁判に対する批判の言葉です。主人の帰りが遅くなると考える愚かな下辺というのは、いやいやこのエルサレム神殿は素晴らしいし、私たちの立場も権威も揺るがないやいと言っている、そういう人たちに対して、いや、終わりが来るんだよということです。
油を持たない愚かな娘もそうです。いや、主人はまだまだ帰ってこないと言いながら準備をしない。いや、あなたたちのその時はいつかは終わるんだよということ。そのことを考えない人たちのことですね。
そしてタラントを用いない下辺というのは、神様から立法や素晴らしい言葉を預かっているのに、正義とあらみを実行しないパリ裁判立法学者たちに対して、まさに地面に宝を隠している彼らに対して、それはおかしいよということを言っているわけです。
ただ、これらの箇所だけ見ても、予言は繰り返すという話をしましたが、これは現代にも当てはめて考えられることでしょう。今も自分の利益だけを求めて他者から奪うことを厭わない、そのような現実を私たちはいろいろなところで見ます。
そしてその人や国に与えられた賜物やタラントを分け合わずに、むしろ自分だけが豊かになっていろんな人から奪うという人たちがいるでしょう。そういう一人一人は、今は栄えているんだけれども、終わりは来ないとみんな思っている。
いや、むしろ私たちだけが生き残ればいいと思っているかもしれない。でもイエス様は明確に言うんです。それは愚かである。愚かでしかない。
時がある。そしてそれをわきまえ、忠実で賢く、いわばそれは神の知恵に生きるということですが、忠実に賢く、そして準備をしながら、その時まで神様が私たちに期待を込めて与えられた莫大なタラント、賜物を存分に用いて生きていきなさい。
例え話からの教え
それが忍耐をしつつ目を覚まして待ち望むということなんですね。やっと今日のところまでやってきましたけれども、そして今朝の話はそこに続くんです。25章の31節から46節。
この歌書というのは31節から書いてますけれども、再び来られたイエス様の統治について書いてありますね。31節から。
人の子はその栄光を帯びて全ての御使い達を伴って来る時、その栄光の座につきます。そして全ての国の人々を見舞いに集められます。人の子は羊飼いが羊をヤギからより分けるように彼らをより分け、羊を自分の右に、ヤギを左に置きます。
再び来られたイエス様は、人々を羊とヤギを分けるように分ける。実は当時のこのパレスチナ地方、レバント地方というのは、羊とヤギを一緒に放牧するのが一般的だったそうです。ただヤギというのは寒さに弱いので、ヤギだけ先に小屋に入れるみたいなのがあったそうですが、小さい羊とヤギというのはほとんど見分けがつかないそうですね。
色も似ているし、大きさも似ていて、見分けられるのは尻尾のほんの何か違いだそうです。尻尾の一部分が違くて、それを羊とヤギと見分けることになっている。
とても似ているけれども一つだけ決定的に違うということです。とても似ているけれども一つだけ決定的に違う。
じゃあ、その似ているけれども異なる部分、まさにその判断基準になる。羊とヤギを分ける。それは一体どこをイエス様は見られるのか。
25章の40節に書いてある言葉です。ただ一つだけです、それは。
私の兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人をどのように扱ったかということだけなんですね。
そしてこの最も小さな一人をどのように扱うことを期待されているかというと、具体的には35節から36節を読んでいただいた箇所です。
あなた方は私が空腹であった時に食べ物を与え、乾いていた時に飲ませ、旅人であった時に宿をお貸し、私が裸の時に服を着せ、病気をした時に見舞い、老にいた時に訪ねてくれたからです。
平たく言い直すなら、腹ペコの人と食事をする。
喉が渇いたとやってきた人に水をあげる。
今日寝るとこないんですっていう人に、どうぞどうぞと宿を貸す。
なかなかちょっと気分乗らなくて行かれへんのですわ、あなたのところに会いに行こうと会いに行く。
これを見て皆さん、うわぁ、えらいことやなと、これは私には全く無理だと思われるでしょうか。
私たちはこの歌詞を読む時に、羊とヤギをより分けるという言葉に驚愕というか恐れを抱きます。
そして長年信仰を守ってくる方の中には、私はどうしても自分が羊だと思えない。ヤギの方である。
そういう風に思う人がいらっしゃると思うのです。
ではどうでしょう。イエス様が求められていることは、えらいこっちゃこんなことを私たちには想定できないわということでしょうか。
でもおそらく、私は思うんですが、これらのことを皆さんすでによくなさっているんじゃないでしょうか。
余談かもしれませんが、私はこの歌詞を読みながら、私は全部された経験があるなということを思い出します。
心も体も空腹の時にご飯に連れて行ってもらったことがあります。
大変な時に家に泊めてもらったことがあります。
裸ではありませんでしたけれども、靴下に穴が開いているのを見られて、翌週靴下をプレゼントしてもらったことがあります。
寝込んだ時に家まで訪ねに来てもらったことがあります。
その一つ一つはとても温かいことでして、私も受けたから誰かにしたいなと思っているのですけれども、どうでしょう、皆さんもそうなんじゃないかなと思うのです。
皆さんもおそらく、それはきっと大行に、これは愛の技ですよと旗を振ることもなく、実に自然とそうすることが当然であるかのように、皆さんもすでに誰かに食事を食べさせ、乾きを潤し、宿を貸し、福を与え、人を見舞った経験はあるんじゃないでしょうか。
それはもしかしたら私たちにとっては、愛というにもはばかられるほど小さな小さなことに見えるかもしれませんが、しかしそういうことをしてこられているのではないでしょうか。
少なくとも私はそういう人たちの集まりだなと思って見ています。
でも私たちの目にそれは、どれほど愛というのははばかられるほど小さいことに見えても、イエス様にとってそれは、いやそれは何よりも私にとっては大きなことだったんだよと言われるわけですよね。
なぜなら、イエス様はそこでお腹を減らしている人とともに、お腹を減らしていたからです。
渇いている人と一緒にイエス様も喉が渇いたとその傍らにおられたからですよね。
宿もない人の寒さをイエス様も共に感じていたし、裸の人の惨めさをイエス様は共に惨めだと思っておられた。
そして牢にいる人の孤独をイエス様はそこで共に覚えておられたとここで言われるのです。
イエス様は苦しむ人々、いやそこに私もいたと言われるのですよ。私もそこにいたんだよと。
小さな行為の重要性
そしてその人たちがありがたかったですというのと同じように、イエス様もそこで私も喜んでいたということを言うのです。
あなたの小さな小さな手の技が、いやそれはその人のことだけではなくて、私は何よりも何よりも嬉しかった。
そういうことを言われる、そんな小さな技を私は全て覚えているよとイエス様は言われるのです。
今朝この歌詞を読むときに、私たちがご一緒に覚えたいことは、私たちはすでに、いや意外と天に宝を積んでいるということです。
そうではないでしょうか。私はキリスト社というのは、自分に厳しい人が多いなと思います。
誰かのために何かをしたとしても、結果が伴わないのであれば、それまで私がしてきたことは全部失敗だったなと考えることが、私たちは往々にしてあるかもしれません。
確かに人を愛するということは、結果が大事かもしれませんね。その人が愛だと感じるかどうかというのは、決して無視できることではないでしょう。
けれども、私たちは愛することに失敗するんです。難しいですよね。
でも、それが結果が伴わなかったからといって、その人に注いできたあなたの愛の技一つ一つを、誰が間違っていると言えるのでしょうか。
言えないですよね。なぜなら、イエス様はあなたのしてくれた愛を私は覚えていると言っているからですよ。
私たちは厳しいですね、自分に対して。これぐらいは愛でも何でもないと私たちは思いながら、こんなことをやっても愛が足らないのですと。
自分自身のかす愛の技へのハードルを上げすぎる人が私たちはありますね。
でも、どうしてと思います。もう、皆さんがなさった小さな愛の技一つ一つに感謝している人がいるんじゃないでしょうか。
でも、私たちは人の感謝を受け取るのが下手ですね。
でも、イエス様はそのことに対して、その人たちとともにイエス様もいて、ありがとうと言っているんですよ。
今朝、この歌詞を読むときに私たちが招かれるのは、私たちは羊なんじゃないかなということです。私たちは羊である。
そして、そういう私たちもイエス様からあなたのした小さな技を私は覚えていて、あなたにありがとうと思っているという。
イエス様からのありがとうを受け止めることではないでしょうか。
いいえ、私は間違えたんですとか、いや、私は足りてなかったんですとか。
でも、何度も言います。失敗せずに人を愛することができる人なんかいません。失敗するんです。過ちは起きるんです。
でも、イエス様はその愛の一つ一つを覚えていて、不十分かもしれない私たちの愛の技を、いや、ありがとうと覚えておられるんです。
私たちは間違える。でも、一つの黒色が混ざったら全部真っ黒になるのか、そんなわけがないですね。
イエス様は私たちの小さな愛を確かに覚えておられる。
今朝の歌詞をご一緒に覚えたいのは40節の言葉です。
最も小さい者たちの一人にしたことは、私にしたのですとイエス様はここで語られました。
そうであるならば、私たちはきっとイエス様から喜ばれているんですよ。
私たちの小さな技は喜ばれているし、イエス様からありがとうと呼ばれている。
私たちのふさわしい応答というのはきっと、イエス様主よ、あなたの喜びこそが私の最高の喜びですと。
そう答えることができればいいのではないでしょうか。
そして私たちはまた小さな小さな愛の技を積み重ねていく。
それは小さい。愛というのもはばかられて、自覚もせずに自然と淡々と私たちは愛の技を続けていく。
でもその愛の技をイエス様は喜んでおられるという顔を思い浮かべながら、私たちは愛の技に励んでいく。
それが祭輪に備えるということです。
なんか怖いわーとか、なんか違う、なんか裸だーってね。いや違います。
私たちはイエス様が喜ばれる顔を思い浮かべながら淡々と愛の技を行っていく。
それをイエス様がありがとうと言っている言葉を心から至高栄ですと答えて生きていく。
既に備えている私たちです。既に備えています。
そして既に備えている私たちはなおも備えていきたい。
最後までイエス様の喜ばれる顔を思い浮かべながらこの技を一緒に振り組んでいけたら幸いではないかと思います。
一言お祈りをして祭祀を終わります。
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