モンスの驚き
それでは一言大祈りをさせていただきます。大祈りをいたします。
愛する天の父なる神さま、今日も私たちを主が招いてくださり、
あなたの御前へと、私たちが今いることができることを感謝いたします。
主を本当に祈っていただきましたけれども、
すぐ一週間には、池田六海姉妹を私たちは天へと送りました。
その死は本当に悲しい、寂しいことかもしれませんが、
しかし、姉妹を通して、私たちは改めて、
天国があるのだということを改めて思わされた思いがいたします。
明かししてくださいました。
あなた御自身が生きて、本当に姉妹を導かれたこと、
そしてまた、その生きておられる主が、私たちも変わることなく
導いてくださるお方であることを改めて覚えて感謝をいたします。
主、あなたはそこまで私たちを愛してくださっています。
御子イエスキリストに現されたあの十字架において、
私たちの罪が完全に許され、それだけではなく、
永遠の命、復活の命を私たちに与え、私たちを神の子としてくださり、
天に続くまで決して切り離されることのないあなたの愛、
あなたの命に私たちを結んでくださっていることを覚えて、
心からありがとうございます。
神様どうか、この地上において様々な戦いが私たちにはありますけれども、
しかしこの一時、また主を仰いで力を得ることができるよう、
私たちの心を整え、あなたが導いてください。
お願いいたします。
なおも施設の中におられる方、また、
御自宅で礼拝を捧げておられる方々もいらっしゃいます。
主がその所々に御臨在ください。
共にいてくださり、命を支えてくださいますように。
お願いいたします。
また、今、私たちの群れでも体調を崩している方、
出かけておられる方、また、今朝は、
斉藤渡先生は、明けのキリスト教会の記念礼拝の御用をなさっています。
今どうか、それぞれの所に共にいてください。
また、先生の御用を主が用いてくださいますように。
お願いいたします。
これからの一時を見てにおゆだねをいたします。
御言葉を主が開き、私たちに悟らしめてくださいますように。
お願いいたします。
これからの一時をおゆだねして、
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
修法にも記載をさせていただきましたが、
お祈りいただいていました池田六美姉妹が、
月曜日に昇天をなさいました。
月曜日の晩の9時38分です。
6日の水曜日には、国別式がもたれまして、
池田先生が、国別式の詩式を、
本当に心のこもった詩式をしてくださいました。
後で皆さんにもまた少しお写真をお見せすることができればなと願っております。
実は私自身は式次第を準備をさせていただいたんですけれども、
その準備をしながら改めて、
宮谷教会25周年の記念詩に書かれていました、
池田六美姉妹の証を読むことになりました。
ご存知のとおり、六美さんは長らくパーキンソン病を患っておられて、
長らく闘病生活を続けられました。
証の中には、病気が進行していくこと、
薬の副作用で徐々に声に出して、
お祈りをすることが難しくなってきたことが語られていました。
また苦しみの中で、神様に深くつながりたい、
そして深くつながるためには、
徹底的な悔い改めが必要だと姉妹は考えられて、
けれども、自分自身の徹底さも怪しいなと、
証の中でおっしゃっています。
ある意味、ご自身の限界とでも言いましょうか、
そういうことを感じておられたのだと思います。
しかし、姉妹は証をこのように最後閉じられるんですね。
ちょっと原文を引用しますけれども、
こういうふうに書いておられます。
しかし不思議です。
見えない力が少しずつ少しずつ、
神様への信頼を強くしてくれます。
病気はだんだんと大変になっていくというのに、
神様を慕う気持ちもだんだん強くなります。
そればかりでなく観難さえも喜んでいます。
それは観難が忍耐を生み出し、
忍耐が練られた品性を生み出し、
練られた品性が希望を生み出すと、
知っているからです。
ローマ書5章の3節から4節。
病気に感謝しているわ。
これが最近の私の口癖ですと、
お証を書いておられます。
娘さんは不思議ですと、
お証をされました。
ある種病状が厳しくなっていくけれども、
不思議と、私のうちに何か神様を仰げないのに
神様を仰ぐ力が注がれるということを
お証をされた。
私なりにこの不思議さを整理すると
こういうことができるのかなと思っているんです。
それは娘さんが神様を仰げないとき、
神様が娘さんを見つめてくださっていた。
娘さんが神様を握る力を持てないとき、
神様が娘さんを握っていてくださっていた。
その事実です。
これが本当に不思議と姉妹は証をなさいました。
そしてその娘さんはその不思議な事実を
ある種自分の力がそがれていく中で
立てなくなっていく中で、
ある種弱さをかみしめていく中で
気づかれたのではないかということが
証されています。
でもきっとそういうことだったのでしょう。
そのようなある種不思議に包まれて
私はこれまで生きてきたんだということを
おそらく姉妹は知られたのではないかなと思うんですね。
これは本当に大事な信仰の証だなと
私も読みながら励まされました。
記念詩や証集というのは
とても大事だなと思わされています。
証がなぜ大事かというと
それはこんなすごいことがあったんだということ
なんかそのすごさだとか
それを自慢するということではないはずなんです。
そうではなくて
ああ、あの人をこのように生かされた神は
私をもこのように生かすことができるのだという
励ましを与えてくれるからです。
そのことを私たちはある種信仰者の歩みから励まされ
また勇気づけられていく
そこに証の意義があると思います。
そういう点では
詩は悲しいものですが
しかし私自身は本当に
姉妹の葬儀とこの証を通して
励まされました。
さて今朝は新明記の4章を
ご一緒に開いております。
孟子はある意味詩の前に
自分自身の死の前に
神様との恵みの歴史を振り返っている
そういう箇所であるとお話をいたしました。
今朝読んでいただいたこの新明記の4章というのは
ある種その孟子が過去を振り返るときに
最も鮮烈にその記憶に残ったものである
そう言って良いのではないでしょうか。
彼がこの4章で語っているのは
まさにあの竹内さんでの契約のことが書いてある。
エジプトから導き出された民が
あの竹内さんに至り
そこで神様と契約をする。
そしてそこで契約を結ばれる神様ご自身の姿を
孟子は知る。
主の恵み深さ
今朝はこの4章の1節から8節を読んでいただきましたが
実はこの孟子の言葉のテーマというのは
40節あたりまで続いていきます。
この40節あたりまで読んでいただいたら
どこかお気づきになられるかもしれませんけれども
彼は何度も何々だろうかという言葉を言うんです。
何々だろうか
それはある種簡単の表現ですね。
こんなことがあるだろうか
驚きの表現です。
しかしそうなんです。
彼はこの40年前、40年間の歩みを振り返りつつ
その期間私たちを、私を導いてくださった神様を振り返るときに
驚いているんです。
驚くんです。
ああ、こんな神なのか。
竹内さんで契約を結び
40年間あれの導いてきてくださった
あの神様を思い出すときに
驚かざるをえない。
それがこの4章で響いている彼の
ある種気持ちの高振りです。
そう言えるのかもしれません。
この驚きを今朝はご一緒に
見たいと願っているわけです。
そしてこのある種驚きというのは
先ほどむつみさんの証にも
どこかでつながるものかなと思っております。
さて2つのことを見ていきますが
モンスは一体神様の何に驚いたのか
端的に申し上げます。
一つ目それは
主の恵み深さに彼は驚いているんです。
主の恵み深さに驚いている。
彼が驚いたのは先んじて言うと
その主の恵み深さです。
お読みいただいた箇所の一節に
注目をさせていただきたいんです。
一節にこういうことが言われます。
今イスラエルよ
私が教えるおきてとさだめを聞き
それらをおこないなさい。
それはあなた方が生き
あなた方の付属の神
主があなた方に与えようとしておられる地に入り
それを所有するためであると言われます。
前回お話をいたしましたが
少しこの状況を確認いたしますと
これはモンスがヨルダン川を渡って
東から西へと渡っていく
その直前に語られた言葉です。
ヨルダン川の東岸というのは
モアブヘイヤと呼ばれる
モアブの土地なんですね。
そのところでイスラエルの民に語るわけです。
主があなた方に与えようとしている地
それはカナンの地の中心地ですね。
ヨルダン川を挟んで
西側に入っていくとそこには
アモン人であったり
ヨシワキを見ていくと
一番最初に彼らが出会うエリコという城壁の町です。
そのような場所に彼らは足を踏み込んでいく。
アモン人そしてエリコという町は
ある種戦争の強い戦の民です。
そして一方でイスラエルの民というのは
定住地を持たない流浪の集団でした。
そのような民がある種この過酷な地に
足を踏み入れるとき
あなた方が意気
そしてその地を所有するためには
一体何が必要であるのか
なんとそれは神様が言われることは
今イスラエルよ
私が教えるおきてと定めを聞き
それを行いなさいということだった。
私が教えるおきてと定めを聞き
それを守り行いなさいということです。
少しだけ立ち止まって考えてみるならば
とても不思議な内容ではないでしょうか。
多くの争い
多くの誘惑が
この道を歩いていくときにある。
そのときにあなた方が
その地を所有するために
何が必要なのか
おそらく私たちが考えるのは
例えば武器を磨きなさい
とか言われたらよくわかりますよね。
武器を準備しなさいと
いやその地を所有するために
あなたたちはしっかりと戦略を練って
そのことを備えなさい
そう言われるなら
実によくわかる話です。
しかしそうではない。
神様の指示は
いやあなた方は
私の掟と定めを守っていきなさい
なぜ?と思います。
けれども
ここに大切なポイントがあるのだと思うんですね。
カナンの地を所有する
それは
ここに神様が言われていますけれども
カナンの地というのは
主があなた方に
与えようとしておられる地なんです。
主があなた方に
与えようとしておられる地
主が与えるのであって
言い方を変えるならば
あなた方の能力や実力、軍力
それが軸で
それを所有する場所ではないという
誤解がないように申し上げますが
何もしなくていいということではないはずなんです。
このわかりやすい例があるなと思うのは
このヨシワキのエリコの城壁が崩された
あの物語を少し思い出していただきたいのですが
エリコの城壁というところはもう
歓楽のしようがないわけですね。
しかし神様が指示をされたのは
皆さんもご存知かと思いますが
エリコの町の周りを
神の箱を担いで回りなさいということでしたよね。
回ってそして時の声を上げなさい
すると城壁が崩れたというお話でしたよね。
あれは一体何をしているのか
あれは礼拝をしているんですよ。
そして彼らがいざ声を上げたときに
城壁が崩れた、あれは何を言っているのか
神の軍勢が城壁を崩したんだよ。
神がエリコの城壁を崩された。
そして民はその城壁が崩されたエリコを
神様の後を追って歓楽をさせたというのが
実はあの箇所の言葉ですね。
これこそが実は神の民が
このカナンの地を進んでいく上で
大切な一つのモデルになったわけです。
モーセがイスラエルの民に伝えたかったこと
それはアラノの40年というのは
神様ご自身が立って戦って来られたのだ
ということです。
イスラエルの戦いと養いと導き
先んじて主が戦って来られた。
そして主がマナを降らせ
私たちを養い続けてくださった。
そしてそれだけではない
主ご自身がこの民の陣営の真ん中に
住み続けてくださった。
主が私たちを導き続けてくださっていた。
イスラエルの民が知らなければならないこと
それは何だったかというと
私たちの戦いも養いも導きも
実は私たちは神に依存しているのだということです。
神に依存している。
だからイスラエルの民が目を向けるべきところは
敵の強大さではない。
もしくは自分の無力さでもない。
40年私たちを導き続けてくださった
あの神に目を向けなさい。
そして神に目を向けるのであれば
あなた方はこの神の掟に
神の教えに
ただこのところで従い
礼拝をすればよいのだ。
あなた方は神の掟と定めをただ守りなさい。
そう聞きますと
聞き方によっては
私たちは何か重たいものを
課せられた気持ちになります。
そう言われると
神様に何か従わなければ
でもこれは従えていない
これは従えているみたいな
なんか細かいところで
私たちは悩んでしまうかもしれませんが
そして従えない
私は裁かれるのではないかと思うかもしれません。
けれどもこれらの言葉が強調をしているのはむしろ
あなたが主を知り
主についてくるならば
主があなたを守り
あなたを養え
あなたとともにいるという
神様の業の強調です。
他は全て私に任せろと言わんばかりに
神様が私たちのところに立っていてくださる
それは恵み深い姿なのではないでしょうか。
主を仰いでいる
そのところに主が立たれるときに
主が戦ってくださる
主の掟と定めを守る
主が他のところは全部任せろと言ってくださる
でもそれは恵み深い姿
どこまでもそういう姿なのではないでしょうか。
そしてそのような神様を持つ民が
カナンの地で何をしなさいと言われているでしょうか。
ちょっと進んで5節から8節を読みしますと
こういう言葉が書いてあります。
みなさい、私は私の神
主が私に命じられたとおりに
おきてとさだめをあなた方に教えた
あなた方が入っていき
所有しようとしているその地の真ん中で
そのとおりに行うためである
これを守りおこないなさい
そうすればそれは諸国の民に
あなた方の知恵と悟りを示すことになり
彼らはこれらすべてのおきてを聞いて
この偉大な国民は確かに
知恵と悟りのある民だというであろう
まことに私たちの神主は
私たちが呼び求めるとき
いつも近くにおられる
このような神を持つ偉大な国民が
どこにあるだろうか。
これを私があなた方の前に与えようとしている
この身教えのすべてのように
正しいおきてとさだめを持つ偉大な国民が
一体どこにあるだろうか。
その地であなた方は
このおきてとさだめを守りなさい
おきてとさだめ
十三節ではこれは党の言葉とも言われています
ご存知のとおり
実戒立法というものでしょう
しかしこの実戒立法というのは
長いんですよね
この前お配りした新明記メモにチラッと書きましたが
聖書の中では
出エジプト記の二十章から
民数記の十章にかけて
長い期間市内での主の
神様の立法需要があります
しかし新約聖書を見ると
イエス様が
じゃあこの長い立法を先日めて言えば
一体何ですかと聞かれたときに
イエス様が答えられたのは実にシンプルでした
神を愛し隣人を愛しなさい
自分自身を愛するように隣人を愛しなさい
それが立法の全てだとイエス様はおっしゃいました
神愛人愛
神を愛し隣人を愛することについて立法は書いています
そしてそれを通して
民は知恵と悟りを得ると言われています
知恵というのは
知識とはちょっと違うんですよね
知識というのは
きっと私たちが勉強していられるものですよね
学識であったりそういうものでしょう
しかし知恵というのは
それは神様が教えてくださること柄なんです
知恵というのは神様が教えてくださること柄です
そしてもう一つ悟りという言葉がありました
悟りというのは
それは人間は人間であり
神は神であるということを知っているということです
あるからこそ私たちは
死の見舞いにひざまずくべき存在なのだということを
知っているということを
死にひざまずき
神様から教えていただく知恵によって
神を愛し人を愛する群れ
実はこれがイスラエルの姿でした
そしてそれを見てカナンの人々が驚くというのです
主の近さと神様の愛
この偉大な国民は確かに知恵と悟りのある民だと
この六節王の言葉は
私たちでいうならば
いろいろなことを教えてくれている言葉ですよね
これは何かというと
教会とは何かということを教えてくれているんです
教会とは何か
教会とは
死にひざまずき
神様からいただく知恵によって
神を愛し隣人を愛する群れなんですよ
教会とはそういうものです
そしてもう一つこの言葉から私たちが教えられるのは
宣教って何かということも教えられます
宣教というのは
この民が死にひざまずいて
死の知恵によって
神様と民を愛するこの民が
この地で生きている民がこの地を愛していく
そのことによって
ここにいる民は何かが違うと思われる
実はそれが宣教ですよね
宣教
私たちはいろいろなことをまた考えたいなと思っていますが
でも土台は私たちが死を仰いで生きていることが宣教なんですまず
宣教やってないわ
私伝道できてないわ
違いますよ
死を仰いであなたがその地で生きていることがまず宣教なんです
そのことをぜひ覚えていただきたいと思います
そして宣教というのは立派な人になることではないですよね
立派でなくていいだとかどうでもいいってわけではありませんが
しかしそうではないはずです
破れや欠けがあってもいいんですよ
破れや欠けだらけでも構わない
でもそういう私を神様は変わらず愛してくださっている
養ってくださり育ててくださり
こういう私のために神は戦ってくださる
その神様の恵みを知っているということが実は証なんです
私は足りないけど主って素晴らしいんだよ
神様ってこんなに恵み深いんだよ
神様の恵みによって
それは不思議だけど
神への愛をもう私たちに与えてくださる
それを知っている方がよっぽど主を明かしすることができるのではないでしょうか
掟と定めを守りなさい
敵に向かう上で
一節もう一度読みますと
今イスラエルよ私が教える掟と定めを聞き
それらを行いなさい
それはあなた方が生き
あなた方のその神主があなた方に与えようとしておられる地に入り
それを所有するためである
掟と定めを守りなさい
この言葉に何か心重たくなっていただきたくないなと思うんですが
主を見なさいと言われているんです
これから向かう地にあっても
あなた方が目を向けるのは敵でもない
自分でもない
主を見なさい
主があなたを守られるのだから
あなたがすべきことは
主の恵みに信頼をし
主を仰ぎなさい
その恵みの招きなんですね
さてもう一つのことを一緒に見たいと思いますが
そのような恵み深い神様を見て
孟瀬がもう一つ言っていることがあります
それは主が近いということです
主は近いということです
七節にそういうことが書いてあります
誠に私たちの神主は私たちが呼び求めるとき
いつも近くにおられる
このような神を持つ偉大な国民がどこにあるだろうか
主は私たちが呼び求めるとき
いつも近くにおられるといいます
主は近い
これはどのような実感から出ている言葉でしょうか
一つはきっと
孟瀬と神様の親しさというものがきっとあると思うんです
人格的な親しさ
孟瀬は聖書の中で数少ない
神様と顔と顔とを合わせて語ることのできた人物ですね
そのような近さがあったのだと思います
ただもう一つ
神様は実際に近かったんですよ
それはなぜかというと
神様はイスラエルの民の陣営の中に住んでおられるからです
幕屋に神がおられるからです
本来神様は天におられるんです
天の神です
しかし天におられる神様は
この4章の11節12節あたりに
シナイさんのことが書いてありますが
炎の中でシナイさんの上に
火として下られた主の姿が表されています
実におごそかな光景ですね
そしてそれだけではなくて
シナイさんに下られた神様は
幕屋の作り方を孟瀬たちに与え
神様はその民のただ中に私は住まうために来た
ということを言われるわけですよね
神様はその中にまで近づいて来られた
そして昼は雲の柱
夜は火の柱として民を導かれる
1章の33節というところに書いていました
何が言いたいかと言いますと
神様はどこまでも近づいて来られるんですよ
神が近づいて来られるんです
ある種私たちは聖書を読んできて
その近さが危険であるということも知っています
そうですよね
聖なる神様に民が不要意に近づけば
その清さに打たれて死んでしまうということが
聖書に書いてある
一方神様ご自身も
民が神様のことを忘れて
偶像になびいてしまうときに
神様の心は揺る動くんですよ
揺る動いて神様自身も心を痛められる
近づけば近づくほど実は
互いに危険なんですね
神と人間は
リスクがある
けれども神様は近づかれると願われたんです
なぜでしょうか
それは4章の24節というところの言葉が
一つポイントかなと思いますが
4章の24節にこう書いてあります
あなたの神主は焼き尽くす火
妬みの神であると言われます
妬みの神である
妬み
妬むという言葉を聞くと
少しネガティブなイメージがありますよね
神は愛であると言われた方が
私たちはきっと分かりやすいのだと思いますが
神は妬む神である
どういうことなのだろうか
妬むという言葉
いくつか言い換えれば
こういうことかもしれません
妬む
それは相手を独占したいほどに愛する愛ですよね
相手を独占したい
私だけを見てほしい
それは私はあなただけを見ている
だからあなたも私だけを見てほしい
という愛ではないでしょうか
双方向であることを強く求める愛
これは聖書は不思議なのは
契約という形態でもそのことを表現しますが
けれども神様はその契約の中に
愛という表現をやっぱり混ぜ込むんですよ
単なる無味乾燥な契約じゃない
私の愛がそこにあるんだということです
でもそう思いますと
これは美容によっては結構重たいんですね
重たい愛
厚苦しい愛
そう言えるのかもしれません
しかし私たちが
神は妬む神であるということを
そのまま受け入れるならば
その通りなんですよ
神様の愛は厚苦しくて重たいんです
重いんですよ
そんなに
こんなに愛を向けられるんですかというような
実は愛である
そうではないでしょうか
愛するがゆえに神様は天を置いて
下ってこられました
神様はご自身もまた
怒りさばくという危険を犯してまで
民と共にいる民のただ中に住むことを
神様が選ばれました
いいえ新約聖書を続けて見ていくならば
イエス様ご自身は
神であることを捨てられないと思わず
光であるお方が
暗闇の世界にただ中に
下ってこられました
神であることを捨てて人として下り
実に十字架にまでも下られたと
ピリピショは語ります
聖書が明かしする神様の姿は
そういうものなんですよ
愛するがゆえにどこまでも下られる
言い方を変えるならば
愛するがゆえに神ご自身が
近くにおられる神さまの愛
どこまでも近づいてこられる
厚苦しいですね
私たちはよく
私が神様を握っていなければ
と思うんですよ
私が神様を握っていなければ
神様は遠くに行かれたという
実感を持ちます
でも聖書が語るのは逆です
私たちがいないんだとしても
神はそこまでしてと思われるほどに
私たちの近くにいたような方なんです
近くにおられるんですよ
それが神の愛
神の愛というといろいろな意味があります
でも神の愛というのは
まさにそういう愛なんですね
妬むほどの愛である
厚苦しいほどに
そして妬み深いほどに
私たちを愛される神様です
十字架を見れば
それはよくわかりますよね
なぜ罪人のために
神の清い御子が死なれるのでしょうか
改めて考えると
わけがわからないことを
私たちは信じています
でもそうなんです
罪人が滅びることを
耐えられない神が
神の清い清い御子が
その身代わりになって死なれた
神様の愛なんですよ
属性なんです
そこまでしなければ
たまらないと思われる神である
でも私たちは
そのような愛を受けているということを
忘れてはならないのだと思います
偶像崇拝と主への膝まずく姿勢
この4章の後半に
後半の内容を多く締めるのは
何かというと
偶像崇拝の問題なんです
神様は偶像崇拝を
あなたからこそとことん嫌い
痛まれます
神様が
私はあなただけを見ているというのに
それ以外に目が逸れると
神様自身が痛まれるからです
そして偶像崇拝の本質というのは
以前お話をいたしましたが
いろいろありますけれども
先日目といえばそれは
神というお方に膝まずくのではなく
神というお方を
私の手のひらで
保護したいという願いです
それが偶像崇拝の本質です
でも私たちは
そうでないということを
そうなりたくないと思うのであれば
私たちがある種
向けなければならない姿勢というのは
死の前に膝まずくということなのでしょう
今日の歌詞の4章
今日の歌詞はすみません
ちょっと後の4章の10節というところで
神様がこの
神様御自身の言葉を聞かせるときに
こう言われました
私は彼らに私の言葉を聞かせる
それによって
彼らが地上で生きている日の間
私を恐れることを学び
また彼らがその子供たちに
教えることができるように
恐れなさいと
死を恐れるというのは
怖がりなさいということではない
恐れるとは
先ほども申し上げましたが
神は神であり
人は人であるということを認め
膝まずきなさいということです
しかしそれは冷酷な関係ではないでしょう
冷たい主従関係ではない
神は恵み深いお方であることを
私たちは見ました
神様が私たちの側に居続け
そして私たちの側に居続け
そしてそのことを願われる神様である
神様に深くつながるということは
徹底して悔い改める
それも違うとは言い切れませんが
でも私はもうちょっと
違う表現をしていいんじゃないかなと思います
主の前に膝まずくんですよ
自分の弱さ
限界が知らされ
ある種私の剣が砕かれ
私の剣が砕かれ
主への祈りの声さえ上げられない
しかしその時に知るのは
ああ私は人でしかないということ
しかし私を握ってくださっている神は神なのだ
ということを知るんです
その膝まずく場でこそ
私たちは主が
ここまで近くに実はおられたんだという事実を
私たちはその時に知らされる
今でも覚えていますが
私は新学校の入学試験があったんですね
午前中は座学があって
午後はあの試運の新学校で面接があったんですよ
遠隔地から来ている人が先に面接をされるので
私はタルミック出身なので一番最後だったんですね
当時一緒に受験したのが12人いたので
午後12人の面接が終わって
最後に私が面接で呼ばれました
改めて献身の証をしてくださいと言われて
私はいつかどこかで証できたらなと思います
私は出エジプト期の3章の12節の御言葉から
飯をいただいたんですね
私があなたと共にいる
これがあなたのための印である
この私があなたを使わすのだ
この言葉をいただいて
主のためにと言ったものですけれども
しかしその面接の時に
今でも覚えています
川原崎先生が
ちょっと面接で使っても目が真っ赤になって
血走った状態で
でもこう言われたんです
加藤さんこの箇所がどういう意味か分かりますかと
この言葉をいただいた時
孟瀬は燃え尽きない芝の前で
靴を脱げと言われるでしょうと
孟瀬はここで
主の聖なる臨在の前に
靴を脱ぎ続けているのですと
でも加藤さん忘れないでください
献身者の生涯は
主の聖なる臨在の前に
靴を脱ぎ続ける生涯ですよと
私ものすごくそれは
卒業してからもずっと
やっぱり大事なこととして残っています
しかしあえて今朝申し上げます
それは献身者だけの話ではないはずです
私たちは聖なる主の臨在の前に
靴を脱ぎ続けなさい
跪き続けなさいと招かれる
靴を脱ぐ
主に跪く
それはさあやろうということよりも
きっと神様の恵みに身を委ねていくことなのではないか
ああ私では無理なのだ
ああ私ではないのだ
主がここに立ってくださらなければ
だめなのだということを認めるということ
私があなたのために戦い
あなたを養い
あなたのただ近くに
どこまでも近くに立っているのだから
あなたは自分の握っているものを手放し
私を仰ぎなさい
あなたは人であって
私が神なのだから
いだねなさい
神様を仰げないと私たちが嘆くとき
でもその実実は
きっと私たちは一番神様を求めているんです
神様を握る力を持てないとき
神様があなたを握っておられるのです
弱さの中
さまざまな喪失の中
また限界を認めざるを得ないときにこそ
実は主は近いのです
そのような不思議に包まれて
私たちは生きているのだということを
また私たちも知っていくんですね
まことに私たちの神主は
私たちが呼び求めるとき
いつも近くにおられる
いつも近くにおられる
このような神を持つ偉大な国民が
どこにあるだろうか
私たちはそのような幸いな民なんだということを
やっぱり覚えたいと思います
あなたのどんな涙も見えるほどに
あなたのどんな小さな囁きも聞こえるほどに
神は近くに
どこまでも近くにおられる
私たちができるからじゃない
あなたを愛するがゆえに
主がそのことを望んでくださっているのです
私たちのそばにおられます
一言お祈りをいたしましょう