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2020-11-15 30:47

2020/11/15:キリストにあって感謝する教会

2020/11/15 聖日礼拝

尹善鎬牧師

テサロニケ人への手紙第一 -18

00:01
みなさん、おはようございます。
今日も、このようにして、いい天気の中で、
今年の修学感謝、誠実礼拝を共にお捧げできますことを、心から感謝いたします。
また、今日の礼拝において、主の豊かな恵みがありますように、心からお祈り申し上げます。
今日は、この修学感謝礼拝、その始まり、そこに含まれている信仰、そのことを学びながら、それを共に、
それから、今日の説教のタイトル通りに、キリストにあって感謝する教会、また、生徒、私たち一人一人でありたいと願っております。
今日の御言葉は、みなさん、よくご存知の方だと思います。暗記されている方もおられるかもしれません。
また、みんなは、この通りになりたいと願っていると思います。
いつも喜んでいるものでありたい。絶えず祈る信者でありたい。
すべてのことにおいて、本当に感謝する信者でありたいと、みんな願っていると思うんですね。
ところが、我々の生活の現実を見ましたら、どうでしょうか。
私たちの現実は、すべてのことにおいて、いつも感謝できますか、できないんですか、難しいですか。
正直に、私たち、すべてのことにおいて、感謝するのかなかなかできない時もあると思うんです。
もちろん、本当に感謝にあふれる時もありますし、いつも喜んでいる時もあると思います。
しかし、喜べない時もあります。悲しんでいる時もありますし、感謝よりつぶやきが一般になる時もあるかなと思います。
時には本当にしんどくてつらくて、神様に対する疑いやつぶやきみたいなものが心から湧き出るような時もあるかもしれません。
すべてのことが思った通りにうまくいったらいいんだけれども、どうでしょう皆さん、すべてのことが思った通りにいくんでしょうか。
そうでない時もあるかなと思います。
ところが、今日、最初の感謝祭を守った聖教徒、ピューリタンと言いますね。
03:04
彼らのこの生きたお話を聞きながら、そこからですね、本当の感謝はどういうものなのか。
私たちもどういうふうに感謝する、なぜ感謝できるのか、あるいは感謝しなければならないのかを、そこから学びたいと思います。
今日はですね、最初の感謝祭を守ったピューリタンたちの話をしたいと思いますけれども、
実は複雑な話になりますので、政治的なことは全部除いて、彼らの純粋な信仰的な面にフォーカスを当ててお話をしたいと思います。
これは話をしたいということは、この日本にですね、アジアにですね、このプロテスタント教会が入ってきたのは大体150年前なんですね。
でもほとんどの選挙史は、ほとんどがアメリカかカナダですね。
カナダよりアメリカのほとんどの選挙史が、アメリカから日本とか韓国とか中国とかに入ってきて、この国にこのような教会、プロテスタント教会が建てられたわけなんです。
もちろんこの日本エスキリスト教団はイギリスのバクストン先生のそこから始まった団体でありますが、ほとんどの教会はそういうアメリカの影響を受けているわけなんです。
そこに恩があるわけなんですよね。
でも150年前とすると19世紀、1800年代ですよね。
そうすると、そのアメリカの選挙史を派遣してくれた教会、クリチャンダチの遡っていくと、いつから始まるのかといったら、この今日話をするピューリタンダチ聖教徒にたどり着くわけなんですね。
そして彼らが最初の感謝祭を守りましたけれども、さっきもちょうど常木九代が祈りの中に触れてくださいましたけれども、これはプロテスタント教会の伝統でありますが、旧約聖書の中に七宗の祭り、他の言葉では五純節の祭り、八穂の祭り、
その年の最初の収穫があって、それを神様に全てを捧げて守った祭りが、この収穫感謝祭の元になるわけ。
それで今のプロテスタント教会はそれを教会歴として守っているわけなんです。
一つ出してください。
日本語では、漢字では聖教徒と言います。ピューリタと言われます。
06:06
彼らは1620年、9月と言われますが、当時のイギリスの宗教の状況はとても複雑ですけれども、
その話をすると、世界史の歴史の時間になりますから、もう縮めて、その時は、いわゆる聖皇会と言われる母体となる英国国教会がイギリスの宗教がメインでした。
ところがそこはカトリックから離れたわけなんだけれども、もう教皇がないだけのカトリックみたいになっていて、
そして彼らは当時のプロテスタントの神徒たちがティンでいる聖書とか、そういう聖書を持っている者たちを家計にしたり処刑したり、多くの信仰の迫害がありました。
そしてプロテスタント、メソディストとか、長老派とか、そういう彼らから見れば、あの教会はもうカトリックとそっくりである。教皇がないだけで全く同じである。
彼らの伝統が、彼らの教会が決まった規定が、聖書と等しい権威を持っている、あるいは聖書よりもっと上の権威を持っているというふうに、
そういうふうに教えていること、あるいはもっともプロテスタントたちがそこに反対した理由の一つは、
その教会が決めた規定さえ守ればどんな人も救われるというとんでもない彼らの教えにプロテスタントたちは反対して、
もちろんそこには政治的な、いろんな圧力で複雑な問題がありますが、それを省いて、それであの1620年、彼らは信仰の自由を求めてイギリスから、最初はオランダに逃げたんだけれど、
そこからメイフラオゴという、このような船に乗って102名がアメリカから、新大陸のイギリスからアメリカに渡ってきたわけなんです。
そこで最初にボーストンというあるプリマスという港に着きました。
この102名の中には、もちろん当時アメリカに行って一攫千金を狙った商人たちも一部いたそうなんです。
ところがほとんどが信仰の自由のために白海を逃げて、まことの本当の信仰、本当の神を信じる信仰を守りたい人々が多くいた。
09:00
ところが彼らはあの船に乗って、ちょうど冬にボーストンに着いたそうなんです。
ところがものすごく寒くて、上陸することが難しくて、船の中で3ヶ月100人の人がそこで滞在したわけです。
ところが1620年代から彼らはほぼ逃げた、逃亡者のような状態でしたから、まともな食べ物がなかった、衣服も足らなかった、水も足らなかった。
それでいろいろ資料に調べると、船の中でもう食べ物が足らないから断食をしたり、1日パン一つ切りで食べたり、チーズ一つ切りで食べて、かろうじて3ヶ月を耐えていたそうなんです。
彼らは渡ってくる航海中に死んだ人、あの船で3ヶ月いる間、もう寒くてそこで死んだ人、植え地に死んだ人、それで最初は102名でしたけれども、半分ぐらいが途中で、そして上陸してから亡くなったそうなんです。
ところが信仰の自由を求めて、あるいは一部の商人たちはもう大金持ちになるんだなと思ってきたんだけれども、その土地は初めてのところだから風土病があったり、どこがどこなのかわからない。
もう最初からすべてを開墾をしなければならない。何のデータも資料も何にもない。もう全くゼロからすべてを始めなければならないんです。
土地を耐やさなければならないでしょう。その道具を作らなければならない。食べ物は足らない。狩りをするんだけれども、それもうまくできるわけではない。きっとたくさんの失敗をしたと思うんですよ。
ところが本当に幸いなことは、それも神様の恵みだと思うんですけれども、その当時彼らが着いたところ、上陸して、そこのインディアンの原住民からトウモコロシの栽培法を教えてもらって、そしてその年初めて彼らが収穫したものがたったのトウモロコシだったそうなんです。
そしてその粉で何か食べ物を作った。何か狩りができたら七面鳥みたいなもの、あるいはうさぎみたいなものを本当に惨めで見すぼらし、そういった最初の感謝祭を守ったそうなんです。
だからよく、あえて出さなかったんだけど、絵とか写真で見えるような豪華な橋みたいな、そういう感謝祭ではなかっただろうと。
12:04
もう衣服も彼らの様子も本当に惨めで、こんな言葉あれですけれども、コジキみたいな本当に見すぼらしい彼らの様子でかろうじて守って、最初の感謝祭、きっとそこには涙の感謝祭だっただろうと思うんです。
豊かな収穫の感謝ではなかったということなんです。皆さん考えてみてください。愛する家族を失った人がそこにいるんじゃないでしょうか。
あるいは今病気の人もそこにいるかもしれません。奥さんを亡くした人、あるいは親を亡くした人がいるかもしれません。子供を亡くした人がいるかもしれません。
結婚していく中で怪我をした人もいるかもしれません。一説によると指とか足とか切断された人もいただろうと、そういう資料もあったりします。
だから本当に想像できない状況の中で、彼らは初めての感謝の礼拝を守った。
ところが彼らが先も言いましたように渡っていった理由、そこで彼らが本当になぜあのような最悪の状況の中で感謝することができたんだろうか。
それは彼らがあのアメリカに渡っていった、そこが一番の喜びになったわけなんですね。
あのイギリスにいたときに、あの当時の聖母会はもう先も言いましたように非聖書的な宗教だったわけなんです。
だから信仰の良心的にそれを認めることはできない、従うことはできない。
もう信仰を守るか死ぬかという中で彼らは神の夢を見ながらアメリカに渡っていったわけです。
だから彼らは出発するときから自分の命を、すべての未来を神様に本当に委ねた状況だと思うんですね。
生きるにしても主のものであり、死ぬにしても主のものであるという信仰だったと思うんです。
そこで彼らは本当に神を信じる純粋な聖書的な教会を一緒に建てようという、その一つの心を持って彼らはそこで来たわけなんです。
彼らはあのイギリスにいるときに、何がどうなってもこの信仰を妥協することはできない。
15:08
救いというものは、ただ神の恵みのゆえに信仰によって救われるものですから、他の者によって何かのルールを守るから、それで救われるということはありえない、認めることはできないと思ったわけなんですね。
だから彼らは食べ物がない、飢え死にしそう、貧しい、みすぼらしい、寒い、何が何なのかわからない、本当に難しい状況の中でありましたけれども、
でも彼らはそこで誰にも邪魔されない、本当の信仰を持って神を賛美し、神を礼拝できること、その事実だけで彼らは感謝ができたわけなんです。
状況は素晴らしくなかったわけです。
金持ちになっているわけではありません。
全ての病気が治っているわけではありません。
むしろ最も貧しい、最も病気である、最も食べ物がない、本当に最悪の状況でしたけれども、そこで彼らは、ただイエス・キリストにあって全てが感謝であると思って感謝祭を守れたということなんです。
皆さん、そのことを少し感じながら、覚えながら、今日の御言葉を16から18を一緒に読みましょうか。
ここを合わせて、前画面をご覧にながら一緒に読みたいと思います。
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことにおいて感謝しなさい。これがイエス・キリストにあって神があなた方に望んでおられることです。アーメン。
皆さん、18節にですね、「全てのことにおいて感謝しなさい。」とあります。
そして、「これがイエス・キリストにあって神があなた方に望んでおられることです。」とあります。
どういう意味でしょうか。
これを18節を中心に話しますと、つまりイエス・キリストに結びつけられているときに、私たちはどんな境遇にあっても感謝できるということではないでしょうか。
逆に言いますと、イエス・キリストに結びつけられていなければ、全てのことにおいて感謝できないという意味ですね。
18:01
最初の感謝祭を守ったあのピューリタたちの感謝の本質は、私たち見習うべきだと思うんですね。
全ての状況が良くなっているわけではない、最悪の状況である極度の疲れ、病気、また未来が見えない、先が見えない、そんな境遇にあるんですけれども、
しかし彼らはこの唯一の主、イエス・キリストに結びつけられているから、イエス・キリストにあるから、その方のうちにいるから、それで感謝できるという、その信仰なんですね、皆さん。
皆さんいかがでしょうか。私たちはどうでしょうか。
お金がなくても、未来が見えなくても、仕事の上でいろいろ難しいことがあっても、あるいは就職の問題があっても、祈っている事柄がすぐに答えられていなくても、何がなんでも神様に感謝できているんでしょうか。
そういうものでありたいんですね。この聖教徒たちのような信仰を持ちたいんです。
私にはイエス・キリストがあるから、私はイエス・キリストに結びついているんだから、キリストの中にいるんだから、神のことをされているんだから、ハレルヤシオ、私はこれだけで十分満ち足りますと、感謝しますと、そういう風に感謝しながら歩んでいこうではないでしょうか。
私たちは、私自身もそうですけれども、どんな時に感謝するかなと思うとすれば、もちろんその感謝が悪いわけではありませんが、何かの祈りの課題が答えられた時、うまくいった時、いいことが起きた時、普通に考えて嬉しいことが起きた時、その時に感謝しますね。それはいいことですよね。大事なこと。
しかし、何も起きていない時、病んでいる時、貧しい時、失業の時、望んでいることがうまくいかない時、つらいことが起きてもう逃げたい、そんな時でも感謝しているんだろうか、ということがこのピューリタンの信仰から教えられますね。
21:02
皆さん、歌うんでしょうか。本当に私たちは、すべてのことにおいて感謝する聖党、教会でありたいです。いつも喜んでいるものでありたいと願うんですよ。そういう家族でありたい、そういう夫婦、そういう家庭でありたいと、皆さん、願うんじゃないでしょうか。
最後に一つの、ある説教で聞いた先生の、牧師先生のお明かしを少ししたいと思います。長いですけれども、これちょっと縮めて話をしますね。
アメリカで牧会をしている先生のお明かしです。今から20年前の話ですが、20年前でも、何百人くらい集まっている教会の牧師先生でした。
だから特に足りないこともないし、ある程度の希望のある教会の牧会もしているし、特に教会に大きな問題もないですし、家族的にもうまくいっているところだから、その先生は本当に自分は神様によく感謝するものだなと思っていたところ、
身体の調子がどんどん悪くなって、痩せてしまって、それで検査をしたところ、胃がんのステージ4か5くらいになったことがわかったそうなんです。
それで月曜日に入院を前にして、その月曜日、明日、今日の礼拝、その先生は調子が悪いから、友人の牧師先生が説教の奉仕をしてくれるから、普段よりゆっくり準備して教会に行こうとしたそうなんです。
その時に家には子供はすでに教会に行っていて、奥さんの先生と二人に行って、準備をして教会に行こうとしたときに、その瞬間、その先生のわからない、もう魂の深い奥底から抑えきれない涙と、
泣きが爆発するように湧き出たそうなんです。
それでもうひざまずいて、ひれ伏して、ほぼ1時間ほど涙しながら鼻水が出て、もう号泣して泣いていたそうなんです。
ところがその泣いているうちに、その先生の心の中には、本当に考えられなかった神の御声のような神様が、精霊様をくださる心があったと、その先生は確信していました。
24:17
それは、自分はその瞬間までは癌になったんだけれども、僕は知ったから感謝しないといけない、感謝すべきだと、そういうふうに思っていたそうです。
でも心の中では、10時間以上重大な手術をしなければならない、その後はどうなるかわからない、そういった不安もあったりして、感謝がなかった。
でも感謝しなければならない。
僕は知ったから、教会の皆さんも多く見られるわけですから、普段感謝しましょう、今の私みたいに感謝しなければならないんですよ、話をしていた自分だから感謝しないといけない、そういうふうに思って、自分で自分を教えたわけです。
ところがその瞬間、神様から抑えきれない涙と感謝が沸き起こった。
そこでその先生が分かった、悟ったことは、ああ、結局のところイエス・キリストしか他はないんだ。
すべての人生は実はかわいそうでみじめなものなんだ。
イエス様の愛がなければ本当に私たちは何者でもないんだ。
そこでいろんな不安がありますけれども、言葉では言い表すことの難しい、何かの感謝が湧き出て、イエス様愛します、イエス様感謝します、私にはあなたの愛と十字架の救いしかありません。
明日入院してまもなく手術をしますけれども、もし自分が死んでも私は感謝しますと、本当の意味でそう感謝して、今まで自分の感謝は実は感謝ではなかった。
あるから、与えられているから、足りないことがないから、そんな中で感謝していましたけれども、
こんな病気の一言で自分は本当は感謝できないものだったんだ、それがわかって。
そして主よ、神様、あなたお一人だけで私は感謝できますと、その感謝が上から与えられた、注がれたような、そういう心だったそうなんですね。
そういう意味で一時間号泣して泣いて泣いて、その様子を見ていた奥さんも先生も一緒に抱きしめて、泣いて感謝して感謝して、そして教会に向かって行って、そして入院して。
27:18
大きな手術でしたけれども、幸いに主が生かしてくださって、今もアメリカで仏会をしているという先生の証でした。
本当の感謝が何であるか、魂の深いところから悟ったと言っていました。
皆さん、本当の感謝、本当の喜びは何でしょうか。
たとえ祈りが応えられていなくても、自分の病気が癒されていなくても、貧しい状況が続いていても、何か思った通りにうまくいかなくても、あるいはうまくいっても、
豊かな状況の中にいても、その何かの自分の状況のために感謝できる、できないという信仰ではなく、その状況はどうであっても、私はすでにイエス・キリストの中にいるんだ。
私は神の子供であり、神の民であり、その神様は私の本当に良きお父さんだ。
何者とも変えることのできないイエス・キリストに結びついていること、その誠の神様を信じてこの世に礼拝できていること、それだけでも十分感謝すべきではないでしょうか。
そこから本当の感謝が来るんじゃないでしょうか。
メッセージをお願いいたします。
私たちが覚えるべき感謝は、喜びはこういうものではないでしょうか。
ある本に、このはじめの感謝祭についてこう書いてありました。
彼らには笑いより涙と悲しみが多かったことでしょう。
彼らの感謝は、笑いが多いから感謝したのではなく、涙と悲しみと辛さに一般になっている現実ですが、
神を礼拝するイエス・キリストの中にいることだけで、彼らはすべてのことを持っているもののように真実に喜んで感謝していました。
何も持っていなくてもと書かれていました。
クリスチャンとは、その感謝とはどういうものでしょうか。
たとえ苦しみの中にいても、あるいは苦しみの中にいても、そのことで感謝するのではなく、イエス・キリストがおられるから。
30:10
私はその方の中にいるから、その方に結びついているから、それで笑うことができ、感謝することができ、喜ぶことができる、そういうものでありたい。
私たちがそのように生きていくと、私たちの周りの人々が私たちにイエス・キリストについて尋ねてくるのではないでしょう。
その時に喜んでイエス・キリストを述べ伝える、感謝を述べ伝える、我々でありたいと願っております。お祈りしましょう。
30:47

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