00:01
改めて皆さん、おはようございます。
今日も共に主に守られて信仰をもっていただいてきますことを、本当に感謝いたします。
一つ、短く報告をさせていただきますと、いつも皆さんが富永選挙士のために祈ってくださり、
また尊い献金を捧げてくださって支えられていますことを、本当に感謝いたします。
向こうの医療や様々な事情は、日本と比べてはるかに難しい状況であると思いますけれども、
その中で守られてまして、またそこでの毎年のようにビザの問題が難しくなっていたりしましたけれども、
今年はなぜか神様の恵みでしょうけれども、特に問題なく無事に出たということでですね、
本当に皆さんの背後のお祈りを本当に感謝いたします。
今、ご存知のように日本を含めて世界にコロナの感染者が急増している中でですね、
そういった国はもっと厳しい、難しい、悪い状況だと思いますので、皆さん応えて引き続きお祈りをよろしくお願いいたします。
さあ、漱石のメッセージに戻りました。今日4回目です。
2章の1節から3節の御言葉から、神が祝福された第7日という題でですね、一緒に恵みをお受けしたいと思います。
私たちはプリシャーワー教会は、この日曜日を主日、あるいは主の日、あるいは聖日と言いますね。
さあ、では皆さんに3つですね、お尋ねしたいと思います。考えてみてください。
1番、なぜ日曜日が主の日、主日なんでしょうか。
2、今日も出ますけれども、漱石の2章あるいは3章に書かれている第7日、いわゆる安息日と主日は同じですか、違いますか。
3番目、主の日、主日はどんな日なんでしょうか。
この3つのことをですね、今日皆さんに考えていただきながら、今日の御言葉から、その大事なメッセージをですね、共にお受けしたいと思います。
今日のまず、聖書・歌書をもう一度ですね、見ていきましょうか。聖書あるいは前の画面をご覧ください。
さあ、1節からですね、よくこの意味を考えながら、私が読ませていただきます。
1節、こうして天と地とその晩生が完成した。
03:08
2節、神は第7日になさっていた業を完成し、
神は第7日になさっていたすべての業をやめられた。
神は第7日を祝福し、この日を聖なるものとされた。
その日に神がなさっていたすべての創造の業をやめられたからである。
こうなっています。
ここにですね、この、それぞれ国の聖書の言葉、それぞれの言葉になっていますから、
どうしてもどこの国の聖書もですね、翻訳聖書だから、その制限があるわけなんだけれども、
今日の2節と3節のところに、神様がすべての業をやめられた。
創造の業をやめられたという言葉がありますね。
やめられた。
これは休まれた、あるいは安息されたという意味なんですね。
つまり神様は第1日から第6日まで創造の働きをなさって、
そして6日にすべてを完成して、もう完全な創造の神の働きが終わって、
そして第7日に休まれた、安息された、やめられたという意味なんですね。
いいですか。
さあ、ここでですね、神様がやめられた、休まれた、安息されたという意味は、
神様が私たちのようにですね、月曜日から土曜日まで一生懸命仕事をして、労働をしてですね、
第7日、日曜日の朝は、ああ疲れた、休みたい、
それで神様が疲れを覚えて、休まれたというわけではないんですね。
そういう意味ではありません。
今少しお話ししましたように、もう1節、2節、3節にその意味がもう完全に書かれているようにですね、
万象のその創造を完成して、すべてを完了をして、そしてそれを終えた、それが終わった、
そういう意味として、そして主は安息をなさったという意味なんです。
この完成という意味、それがまず大事ですし、それから3節に第7日を祝福し、この日を聖なるものとされた、
06:09
そして主が休まれた、この3つの意味がですね、大事なんです。
さあ、この御言葉から始まってですね、時代がちょっと流れていきますと、
孟瀬の時代に神様は、いわゆる今の私たちが読んでいる実解を私たちにお与え下さいました。
そしてその時、第7日、安息日を守ることに対して、主はこのように教えて下さいました。
筒絵チップ時、二十章の8節から11節ですね、前の字幕をご覧下さいますか、お読みいたします。
安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。
6日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。
10節、7日目はあなたの神、主の安息である。
あなたはいかなる仕事もしてはならない。
あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる既留者も。
11節、一緒に読みましょうか、みなさん、ご一緒に。
それは、主が6日間で天と地と海、またそれらの中のすべてのものを作り、7日目に休んだからである。
それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。
ここに、安息日を祝福し、これを聖なるものとした。
今日の見言葉と全く同じです。7日目に休まれたとあります。
これを私たちは、神の実戒として、安息日を聖日として、主の日として、
主の日ですね。私の日じゃない。主の日として、主を礼拝する日として、守っています。
主が休まれて、主がこの日を祝福して、この日を聖なるものとされたからです。
はい、大丈夫です。ありがとうございます。
さあ、そのようにですね、あの孟瀬の時代から、安息日を主の日として、祝福された日、聖なる日、
神が休まれた日として、守っていきました。
そして、これが新約時代に入って、そしてイエス様の時代に入ってですね、
09:07
実は旧約の多くの、もうほとんどのものは、来るイエス様と、そのイエス様がなさる働き、
イエス様が増助してくださることの陰であって、余氷であるということですね。
まあ日本語で日永というものなんです。この安息日も実は、来るイエスキリストによって与えられる、
誠の安息、やがて私たちが入っていく未国での安息、祝福、祝福の余氷なんです。
ひな形なんです。だから、それがイエス様によって完成されるわけなんです。
イエス様はですね、マルコの福音書2章28節にこう言われました。
ですから、人の子は安息日にも主です、とあります。
だから、安息日の主は誰なのか、イエス様であるということです。
そしてですね、ここでですね、安息日は、まあユダヤ教によりますと土曜日になりますか、大体言ってですね、
まあ土曜日と言いましょう。土曜日ですけれども、これが日曜日になるんですよ。
安息日が日曜日になって、その日曜日を、今のね、日曜日を主日と言う、そのことがイエスキリストによって成就されるということです。
さあ、そこでですね、マタイの福音書28章1節をご覧ください。
ここで、イエス様の復活の後の話ですね。さて、安息日が終わって、その次ですよ、週の始めの日の明け方。
この週の始めの日がいつですか。日曜日、今日、この朝なんです。
この朝の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。
そこでイエス様がよみがえられたわけなんですね。
そのようにして、この主がイエスキリストがよみがえられた主の日、主日を安息日として守るようになったわけです。
そして、イエス様を信じていた初代教会の信徒たちは、この週の始めの日を記念して、その日に集まって聖算をしたり、礼拝をして守っていました。
それが、使徒の働きの御言葉にあります。
ご覧くださいますか。さあ、前をご覧くださいね、皆さん。
週の始めの日に、ここにありますよね。週の始めの日に、私たちはパンを先。
12:00
パンを先ためには聖算を意味するんですね。聖算式を意味するわけです。
だから、礼拝のために集まったという意味なんです。
ファウルは翌日に出発することにしていたので、人々と語り合う。夜中まで語り続けた。
ですから、このようにイエス様の復活、そしてその時から、日曜日を週の始めの日として、
主日として、信者たちが集まって、週を礼拝した、聖算をした。
だから、教会は日曜日を守るのではなく、主の日、つまり、この日は神様の日。
イエス・キリストン日なんです。私の日じゃない。あなたの日ではない。
世界の日ではない。神様の日なんです。
だから、安息日は創造と安息の日であり、この創造の働きと安息の日、
それがイエス・キリストの復活によって、主日として成就されて完成されたと理解していいと思うんです。
だから、今日のプロテスタント教会は、私たちは最初のこの第7日のこの法則と原理を、
それはイエス・キリストの復活によって、安息日が終わって、週の始めの日を主日として、この日を神を礼拝しているわけなんです。
さあ、こうすると、さっきの1番と2番の質問には大体お答えになったかなと思います。
3番のことが実は大事だと思うんですけれども、第7日、安息日、あるいは主日はどんな日なんでしょうか。
今日の御言葉をもう一度皆さんご覧ください。それぞれ聖書か、あるいは前の字幕をご覧くださいますか。
いいですか、皆さん。3節、一緒に読みたいと思います。大事ですから。一緒に読みますね、ご一緒に。
神は第7日を祝福し、この日を聖なるものとされた。
その日に神がなさっていたすべての創造の技をやめられたがらである。
主の日、安息日はどんな日でしょうか。まず第一。
この日は祝福の日であり、また安息の日です。
15:04
主日は安息の日、祝福の日です。覚えていただきたい。
まあ、わかりやすく言うならば、もっと簡単に言うならば、休みです。
今年はですね、本当にこの家庭においても、教会、あるいは社会においても、このコロナということでですね、緊張が続きますし、いろんな疲れ、あるいはストレス、先が見えない、様々なその中でですね、みんな本当に心が疲れていると思うんですよ。
そんな中でですね、このような社会的現象を見るときに、あるいは私たち一人一人の状況を見るときに、本当にこのような時代にみんなが欲しいのは、安息休みではないかなと思うんですね。
ところが皆さん、私たちはどこで、あるいは誰から、あるいは何から、本当の安息休み、あるいは永遠の安息休みを得ることができるんでしょうか。
例えば皆さん、海外旅行に行かれたことあるでしょう。ヨーロッパとか、アメリカとか、いろんなところに皆さん行かれたことがあると思うんですけれども、それが悪いわけではありません。罪でもありませんし、もう神様が作られた世界を、神様の子供がそれを楽しむことは良いと思うんですよね。良いと思うんです。
私は本当の遊びと休みで世界旅行に行ったことは、新婚旅行のハワイ以外はないかなと思いますね。ほとんどが短期選挙で、日本に来る前に日本に14回、それから上海に1回も短期選挙で行った。
また、聖地巡礼で幸いにエジプト、イスラエル、ギリシャ、ローマに行ったんですけれども、もう責任者で、委託者で、20何人の皆さんのような方々をお連れしていくわけですから、もう最初から最後の日まで緊張を緩むことができず、もう緊張の1週間ですから、帰ってきて疲れて倒れてしまうみたいなことですから、
18:00
本当に遊びに休みに海外旅行に行ったことはありませんけれども、ところが皆さん、そこで楽しみもありますし、確かに神様が作られた世界を見ながら、素晴らしいなとたくさん教えられることもあると思うんです。
でもそれが永遠に続くものではないのかなと思います。
よく考えると、あるいは神様の前によく考えると、この世のものによって私たちは、まことの永遠の安息を得ることは難しい、あるいはできないんじゃないかなと思うんですね。
その本当の安息と本当の休み、祝福は主の日にありますよ。
神様は第7日に休まれました。
この休まれた休み、これは本当の安息であり、本当の休みであり。
ただですね、体を休めるから休みというよりですね、神様が6日間の創造の働きを終えて休まれた、そこに意味があります。
すべてが完成したわけなんですよ。完了した、完成した、出来上がった、そこに休みの本当の意味があるわけです。
そして何より大事なのは皆さん、その主の日は、安息は私たちがまずこの地上で、この主の日、もちろん日曜日、主の日だけではありませんね。
もう1週間ずっと、1日365日、ずっと一生この地上で、私たちは神によって、イエス・キリストによって、その方を礼拝することによって、またその方に助けられて、満たされることによって、この地上で安息を、休みを、祝福を味わうこと、それが神の見頃なんです。
そしてそれがやがてはですね、いつ本当の安息が来るんでしょうか。
未国に行ったら、神の国に行ったら、そこにイエス・キリストによって、全く疲れもない、涙もない、悲しみもない、本当に素晴らしい、誠の永遠に続く安息と休みと祝福が、あの未国にあるわけなんです。
それを私たちはこの地上で、前もって、お試しではありませんが、この地上でそれを味わわさせていただく、楽しませていただく、その日が主の日であり、礼拝の日であり、神を礼拝することなんです。
21:17
ですから皆さん、ヨハネの黙示を読まれた方はお分かりになると思いますけれども、あのイエス様の再臨によって、全てのことが終わって、未国でのその後継が書かれているんですよ。
そこで信徒たちは、聖徒たちが何をしていますか、皆さん。神を礼拝しているんですよ。
水戒たちも礼拝する全てのものがですね、聖なる聖なる、我々が歌っている賛美のようにですね、神様を賛美するんです。永遠に死を賛美するんです。
だから皆さん、私たちが神を礼拝することによって、私たちはその礼拝の中で本当の安息、本当の休みを、本当の祝福をいただけるし、いただかなければならないということ。
このような主の日として、私たちは守り過ごしていきたいんです。
でもですね、私たちはどうしても人間ですから、主の日、礼拝の話をすると、日曜日は何々をしなければならない。
あるいはしてはいけない、みたいにですね、何かの決まりのようにですね、日曜日、主日を守るのではなく、心から神様を喜んで、神様を賛美して、神様を礼拝する喜びが自分の内にあふれて、その喜びと、あるいは情熱と言いましょうか。
それで道あふれてですね、もう礼拝せざるを得ない、礼拝せずにはいられない、本当に神を礼拝することより楽しみも喜びも何もない。
これが一番の幸せな恵みの時間なんだ、日なんだとね、そういうふうに礼拝するものでありたいんです。
それからもう一つ、今日の御言葉にも、さっきも出英字符の御言葉にもありましたように、神様は創造の働きをなさって休められました、やめられました。
これを私たちに適応してみるならば、出英字読記、さっきの二十章、九節、十節にあるように、
六日間働いて、あなたの全ての仕事をせよ。七日目はあなたの神、主の安息日である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。
24:04
つまり、六日間一生懸命働いて、主の日は仕事を休む、安息を得る。
神様がですね、そのように私たちの体を、精神を、霊を、そういうメカニズムというか、サイクルというか、そういうふうに作られたんですね。
働いて、休む、それで、回復という意味がそこにあるわけなんです。
だから皆さん、主の日に心も体も精神も休むのも、信仰的であり、創造の法則であります。
休んで、また改めて働くように主は作ってくださった。
もちろんですね、いろんな事情がありまして、日曜日に主の日に仕事をしなければならない、
この現代のですね、複雑な構造があるはあるんですけれどもね、その法則はそこにあるわけなんです。
だから神様を礼拝することが本当の祝福である。また休みそのものも祝福である。
礼拝と安息は回復だから祝福なんですね。
そして今日の御言葉にありますように、主はこの日を聖なるものとされたとあります。
この日を聖なるものとされた。休まれただけではありませんね。
祝福しただけではない。聖なるものとされた。
これを忘れがちなんだけれども、覚えてほしいんです。
神様は安息日を、主の日を休まれて、祝福されて、聖なるものとされた。
記憶した。
でもこれはですね、もう全部バラバラじゃなくて、繋がっている一つだと思うんですよ。
安息が祝福であり、それが聖である。
安息が聖なるというものである。
礼拝こそ聖であるということなんです。
だから皆さん、ここでこの清めあるいは聖の大事な概念を知ることができると思うんですね。
私たちは聖なるを考えるときに、ぱっと思い出すのは、
罪を犯さないこと、穢れないことを思いがちなんですね。
それがあっています。間違いではないんです。
ところが今日の御言葉からよく読むとですね、
まずここまではですね、
アダモトエヴァの罪を犯して堕落が始まっていますか、始まっていないんですか。
27:04
まだ始まっていない時なんですよね。
だから世界に、この宇宙万物にまだ罪が、恥が入っていない時なんですよ。
だから、この1,2,3節から私たちが学べることは、
聖というものは安息である。
逆にね、安息、休みそのものが聖であるということです。
安息が、休みが、罪であるわけではありません。
休み、安息というものは、神様が人間にくださった祝福であり、聖なるものであることを覚えてください。
それが聖書的であり、信仰的なことであります。
ところが、ここで私たちは、その後の堕落した罪を犯した私たち、
現在は持っている私たち、自分自身の弱さをよく知っています。
堕落した本性を持っていて、罪に弱いんです。
だから、この安息、休み、神様がくださったこの自由が、
神様がくださった祝福であり、聖なるものでありますけれども、
私たちは、この罪の本性によって、この休み、自由を持って、
自由を持って、死を礼拝することもできますけれども、
法中に堕ちることもできるということです。
さあ、今から、領曲団の話をしたいと思います。
実際にあったことですけれども、ルターとかカルバンとかの宗教改革時代の話です。
だから、1600年代、あるいはその時代に、
あの時のプロテスタント、クリチャンたちは、
宗の非、誠実を徹底的に、本当に徹底的に守りました。
もちろん、その通りにしましょうというわけではありませんが、
その精神は、法則は、この神の御言葉通りに守ろうとする、
そのスピリットは、今の時代も学ぶべきだと思うんですよ。
例えば、あの時は、誠実礼拝、守実礼拝を守らない人は、長老に選べることはできなかった。
もっと頻繁に、誠実礼拝を休んでしまう人は、生産式にも参加することができなかった。
30:02
それでも、その人は悔い改めない、誠実礼拝を守らないのであったら、
もう、宗教する、除名死までしました。
そこまで、誠実礼拝、誠実守の非を徹底的に守った時代があったわけなんです。
もちろん、これが立法的になって問題にもなり得ると思うんですよ。
その法則、反則日を守ろうと、その御言葉を守ろうとすることは、覚える必要があると思うんです。
また、もう一つの極端的な法従主義があります。
それは、神様は愛であり、憐れみの方であり、我々に自由をくださったから、
たまには遊びに行って、旅行に行って、いろいろ事情があるから、本当に休まなくてもいいんじゃないかと。
あんな都合あって、こんな都合あるから、今の時代は、あんな旧約の時代よりも立法の時代じゃないんだから、
今は愛の時代で、何をしても許される時代だから、できればやればいいんじゃないか。
そういう風に法従に陥りやすい。それも極端的なんです。
気が向いたら礼拝する、気が向かなかったら礼拝はしない。
それでも神は憐れみの神だから、そういう風にして礼拝をない場所にしてしまいやすい。
そういう法従に陥りやすいのが私たちなんですよ、実は。
そういう弱さがみんな我々にあるんです。この両極端を私たちは乗り越えなければならないんです。
だから私たちは6日間一生懸命働いて、主の日は肉体の労働から休むこと、
そしてその休みが祝福であり、聖であるということを覚えて、
しかし私たちは弱くて堕落しやすいものだから、主の日は私の日じゃなくて、主の神様の日、神様の所有なんだから、
その日に体も魂も神様に向かって、神を礼拝して、その方を賛美して、あるいは伝導して、あるいは救済することに励みましょう、
ということなんです。
メッセージをあげたいと思います。
こういうわけですから皆さん、神様が休まれて、祝福されて、聖なるものとしたこの日、安息日、主の日を、
神様にあって祝福された日ですから、祝福を受ける私たちでありたい、幸いのうちにとどまる私たちでありたい、
また同時に体も魂も休める日でありたい、また神の生に預かる日でありたい、
33:10
何より神様に向かって、もう専念してその方を礼拝する日でありたいと思います。
そして何より、この地上で私たちがやがて行く、あの未国での今まで経験できなかった祝福と回復と安息と聖を、
まずここで、この日に主を礼拝しつつ、それを味わっていきたい。
この日は、主が定められた日であり、主の日であり、安息の日であり、祝福の日であり、また聖なる日です。
この説明を覚えてですね、神を礼拝して、祝福されて、神の生に預かるものでありましょう。
お祈りいたします。