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みなさん、おはようございます。
今日は、中学会社礼拝、子ども祝日がもたれました。本当に感謝いたします。
それでは、礼拝のメッセージの前に周りの方々と挨拶させたり、
また、前の席が空いていますので、お一方と席が不便な方は前の方に来ていただけます。
それから、こちらの窓を開けて、換気をつけられますでしょうか。
では、挨拶いたしましょう。
よくいらっしゃいました。
窓を開けてください。
子どもたちもいてて、いっぱいになって、空気が。
ちょっと空気がいってね。
一言を意識をお祈りします。
神様、あなたのお恵みを心から感謝いたします。
数えてみよう、主の恵み、という三平の歌詞にありますように、
今年の一年間もこの世に来て、収穫の時期、
また、神様の恵みを思い巡らして、感謝すべきこの時にここまで来れたこと、
主が運んでくださって、導いてくださったことを感謝いたします。
主よ、この朝、子どもたちの魂を主の胃腺に委ねて、神様に祝福していただきました。
どうか、主よ、お子様一人一人、今も将来も、主がともにいてくださって、
あなたに愛され、あなたに守られて、その人生が豊穣大いに祝福され、持ちられますように、
神様どうぞお助けください。
何より、イエス・キリストを福祉へ救い主として信じる信仰が与えられて、
その魂が救われますように、神様どうぞお助けください。
今から御言葉をいただきます、主を始めての方々、
また、家族の方々、先祖の方々の心の中に、
主がひとつゆさかに御言葉を、メッセージを、主よ語りかけてくださいますように、お願いいたします。
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胃腺に委ねて、イエス様の皆によってお祈り致します。
アーメン
はい、今日は収穫感謝礼拝です。
多分、ここにいらっしゃる方の中で、盲業していらっしゃる方は、それが本職の方は多分いらっしゃらないかと思いますけれども、
直接はしていませんけれども、今年1年間、神様が施してくださった恵みを覚えて感謝するときとして、
共に歩んでいきたいと思います。
この収穫感謝礼拝、アメリカではよくテンスキビンゲイと言われますが、その起源についてちょっとお話ししたいと思います。
遡って今から1600年代のことです。
ヨーロッパのところで、信仰の自由を求めて、102名のいわゆるピューリタンという聖教徒といいますが、
当時のカトリックがプロテスタントに対するとてつもない迫害がありまして、
彼らはメインフラワーという大きな船に乗って、イギリスから離れて信仰のためにアメリカのプリマンスというところに上陸することになりました。
ところが、今から大昔ですから、そのイギリスからアメリカに来るまで、事故や病気で102名の中に半分ぐらいがその海上で亡くなって、
50人ぐらいが生き残ったんですね。ところが、もうすぐ秋になって冬になります。
そして、彼らは初めてのところでしたから、何をどういうふうに農業をしたらいいのか、食べ物をどういうふうに手にすることができるのだろうか、
全くゼロからスタートすることになりました。幸いに、その原住民のインディアンたちにいろいろ助けてもらって、教えてもらって、
過労して、農事ができたわけです。そして、彼らは神様に対するはっきりした信仰を持っていたわけですから、
旧約聖ととおりに、初めのその年の初めの収穫のその実を神様に捧げるととおりに、彼らは収穫を感謝しました。
ですから、この神様と感謝礼拝は、世界の教会で守っているとても制度的な礼拝です。ところが、この一人のビハイのストーリーがあります。
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彼らは最初の何年間は、もう想像を超えるほどとても厳しくて苦しい日々がしばらく続いていました。まともな宿業もありませんでした。
当然、病院もないわけです。薬もなかなかない。家も作らなくならない。道路も作らなくならない。
何もかもを全て作らなくならないことでした。とても切迫な厳しい状況でした。
最初に我々には食料は、インディアンたちに彼からもらったコーンの小麦粉みたいなものしかなかったんですね。それでおかゆで何か食べたらしいです。
その中で、その上陸した50人の中にまた半分ぐらいが亡くなってしまいました。
貯金は続いていました。もう希望が見えないです。信仰の自由のためにアメリカまで来たのに、三分の二は亡くなって、残った人もどうしたらいいのか、希望が見えないところでした。
その中で彼らは、ピューリーさんたちは信仰によって一つになった集団ですから、生き残っている何人かの指導者たちが、
みなさん、今こそ神様が神様に助けてもらわなければならないんでしょう。私たちはみんな断食して、神様に助けて祈りましょうと、そういうふうに勧められて、
彼らは断食しながら、死を助けてくださいと祈って送っていました。
ところが、そう断食をしているある少年の方が、こういうふうに提案をしました。これは大事ですね。
みなさん、私たちは今まで断食したり、食い屋さんに打たれて、神様の活性を求めました。
ところが、みなさん、今からは考え方を変えたらどうでしょう。
たとえ、死んであって、家族は病気で亡くなって、もう全ての状況がとても厳しい、
そのような状況ですけれども、こんな中でも私たちに感謝できる、感謝すべきことがたくさんあるのではないでしょうか。
それでも、感謝すべきことを数えてみませんか、とその少年の人が提案をしました。
食料はあまりないんだけれども、コーンも小麦粉がある。一日一回でも食事ができる。
イギリスでは自由に礼拝できなかったんですけれども、ここではいつでもどこでも自由に礼拝ができる。
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イギリスでは政治的にもう弾圧があって厳しかったんですけれども、こっちにはどんな家族も自由じゃないでしょうか。
それから、私たちの目の前には広大なこの大地が広がっているじゃないでしょうか。可能性は無限がないでしょうか。
みなさん、感謝すべきことを探してみて、考えてみたら、たくさんあるのではないでしょうか。
断食よりむしろ感謝と喜びの礼拝を必要ではありませんか、と提案をして、
そうだ、そうなんだ、何もかもない状態ではない。
感謝すべきことは探してみたら、考えてみたら、たくさんあったんじゃないか、と。
それでみんな合意して、感動を受けて、断食代わりに感謝する一週間を過ごしたそう。これが、愉快と感謝、礼拝の始まりなんですね。
ではみなさん、それは急にたんだという話であって、今日の私たちはどうしたらいいでしょうか。窓を閉めていただけますか。
では私たちはどのように感謝したらいいんでしょうか。
その一種、感謝したいこと、あるいは感謝すべきことを探して、考え出して、感謝してください。
皆さん、人の心というものが自然にいたら、感謝する方向に行くよりは、感謝しない方向、つぶやく方向に行きやすいと思いました。
ですから私たちは、あえてでも、感謝すべきことを探して探して、そして見つけて、考え出して、感謝する良い週間を持っていただきたいと思います。
旧約と新約、この制度には、「感謝しなさい。」という、「感謝せよ。」という言葉が約100回書かれています。
それほど神の御言葉は、私たちに感謝することを進めているんですね。
皆さんいかがでしょうか。
昨日の夜、あるいは今朝、感謝しましたんでしょうか。
まず、神様に対してです。
神様に対して、感謝すべきことを探して、見つけて、考え出して、感謝していてください。
救われない者が、神の恵みによって救われたことを感謝します。
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命を与えられて、命を守ってくださったことを感謝します。
健康を与えてくださって、仕事ができることを感謝します。
安定していて、豊かな国で生きていることを感謝します。
国家的な大きな危険もなく、その中で暮らしていることを感謝します。
信仰の自由があり、教会があり、信者があって、
この日本に150年の間、キリストの信仰がここまで来れたことを感謝します。
皆さん、探してみて、数えてみるならば、
感謝すべきことは、感謝したいことがたくさんあるのではないでしょうか。
このように、感謝していただきたいです。
ですから、聖者は私たちに、いつも喜んでいます。
すべてのことに感謝しなさいと言われています。
願わくは、毎日毎日、きゅんかんきゅんかん、感謝することがたくさんあって、
そして、心から、この口から、思いから、全存在として感謝する人になっていただきたいと願っています。
感謝は、祝福の中に最も大きな祝福だと思います。
次は、神様にだけではなく、まずは身近な家族にも感謝すべきことを探して探して、
見つけて、考え出して、思い出して、感謝していただきたいです。
皆さん、人はですね、人の心と行動は、言葉は、何をどう考えるか、考えているかによって左右されると言われています。
同じ状況の中にあっても、感謝すべきことを見つけて、探して、思い出して、感謝する人と、
同じ状況にあっても、実は感謝すべきことがいくつかもたくさんあるのにも変わらず、
感謝しないで呟く人は、その通りになるということです。
皆さん、神様にも感謝して、同時に家族の方々にも感謝して下さい。
ご両親にも感謝して下さい。夫にも妻にも感謝して下さい。子供にも感謝して下さい。
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いや、先生、あんまり感謝状態はありませんよ、と言わないでほしいです。
心を開いて、目を開いて、探してみれば、たくさんあると思います。
いろいろあるかもしれませんが、共に一緒に、喜びも悲しみも一緒にね、
乗り越えていっている家族たちのことに感謝していただきたいです。
生んでくれて育ててくれた親がいることを感謝します。
定年まで、あるいは定年が過ぎても働いていて、給料をもらってくれている夫がいることを感謝します。
家事や育児、様々なことを、自ら喜んでしてくれる妻に感謝します。
親父が犯罪犯になっていなく、普通に暮らしている家族のことを感謝します。
辛い時、祈ってくれるし、慰めてくれる家族がいることを感謝します。
他にもですね、みなさん、数えてみて下さいよ。たくさんあるんじゃないでしょうか。
インディアンの言葉だに、こういう言葉があります。面白いですよ。みなさん聞いてみて下さい。
感謝する過程には、希望の取りがさえずるが、呟く過程には、絶望の取りがさえずる。
というインディアンの言葉。その通りだと思いますか、みなさん。
感謝する過程には、希望の取りがさえずるんです。ところが、呟く過程には、絶望の取りがさえずる。
聖書の宣言には、こういう言葉があります。
力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。命の泉は、これから沸く。四書二十三節です。
もう一回説明します。
智慧のある者の舌は、質地をよく持ち、愚かな者の口は、愚かさを吐き出し。
愚かな者の唇は争いをもたらし、口は王だを招くともなります。
神様に対して感謝して下さい。また、補足の方々にも感謝していただきたいと願っております。
新約継承には、こういうお話があります。
重い秘封状にかかった十人の病人がいました。
家様に出会ったら、本当にやってもらえるという噂を聞いて、家様のところにあなたがやってきました。
家様に、この重い秘封病を治してください、治してほしいとすっとお願いしました。
そしたら、家様が、では行って、社医師たちに、あなたたちの体を見せなさいと言われました。
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その十人が、社医師のところに行く途中に、自分たちの、この神奈川の秘封病が治ったことが分かりました。
ところが、その後の話は大事ですよ。
十人、みんな、治った、びっくりして感謝するはずなのに、
そしたら、十人はそのまま社医師のところに行って、十人の一人だけが、家様のところに帰ってきて、
家様、治りました、ありがとうございます、感謝しますと感謝を表しました。
その時に、家様がこのように、その一人の人に、こう言いました。
治ったのは十人ではないか。他の十人はどこにいるのか。
そして、その感謝したその一人に、あなたの神功があなたを癒やしたと言われました。
同じく、重い秘封病が治っても、感謝する人がいますし、感謝しない人がいるわけではありません。
ですから、感謝は神功です。神功は感謝です。感謝と神功は一つです。別行ではありません。
ですから、感謝が溢れれば、神功も深まるのです。逆に、感謝が枯れていれば、神功も枯れていくのです。
さあ、神様に感謝してください。家族の方にも感謝してください。
ところが皆さん、今目指して、感謝すべきことを探して、見つけて、思い出して感謝しましょうと思いじゃなかったけれども、
ところが聖書の御言葉は、これよりもっと高い感謝の態度を私たちに教えています。
旧約聖書に、ハパークク書という聖書がありまして、そこにこういう御言葉があります。
私がお読みしたいと思います。聖書のお持ちの方は控えてみてください。
ハパークク書3書、17、18節、1537ページですが、私がお読みします。
その時、一軸の木は花を咲かせず、葡萄の木は実を実らせず、オリーブの木も実りがなく、畑は植物を出さない。
羊は囲いから絶え、牛は従者にいなくなる。しかし私は巣にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼうとありました。
どういう意味でしょうか。簡単にですね。一軸の実もない、葡萄もない、オリーブの木も実もない、羊もない、牛もない、何にもない。
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しかし私は巣によって喜び勇み、私の救いの神によって喜びますという。
皆さんは何でしょうか。何にもなくても感謝できるでしょうか。本当に何にもなくても感謝できるでしょうか。
この原作が、この御言葉が教えているこの感謝は本当に感謝のクライマックスかと思うんですね。
自然があっても、国がなくても、実がなくても、植物がなくても、羊が牛がなくても、何にも持っていなくても、私はただ神様のゆえに感謝します、喜びますという。
これこそ私たちが持つべき感謝の心、感謝の態度ではないでしょうか。
実際に皆さん、私たちが貧しくてつらいかもしれません。本当に家庭環境が難しくてつらいかもしれません。
あるいは何かの人間関係のゆえにつらいかもしれません。ところが神の御言葉は、そうであっても神様によって喜びなさいということであります。
では、なぜ感謝すべきなんでしょうか。
その1、神様の満たしを期待できるから感謝するのです。
皆さん、信仰は期待です。神様を期待するのです。
今は持っていなくても、神様が満たしてくださること、神様が与えてくださることを期待するから、希望があるから感謝できるのです。
その2、神様の回復が期待できるから感謝するのです。
すべての状況が最悪だとしても、その最悪を最高に最良のものに回復してくださる神様を期待できるから感謝するのです。
その3、これが一番大事かもしれません。状況が変わるんじゃなくて、持っていないものが持つようになることじゃなくて、
私の心を還ってくださるから感謝するのです。
状況が変わって喜ぶ人は、状況が悪くなったら感謝できなくなるかもしれません。
何かが与えられて、良いことができて、商品ができて、金持ちになって、それで感謝する人は、それがなくなったら感謝も一緒に消えてしまうかもしれません。
ところが、あってもなくても感謝できるのは何が変わったかでしょうか。自分の心が、礼が変わるからなんです。
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だから、大きさを守って感謝のクライマックスは、自分の心が変わることです。
例えば皆さん、人間関係、それが友人関係であろうが夫婦関係であろうが、それが悪いからと言って、喧嘩して逃げたらとして、回復できるんでしょうか。
そうではないです。何かが環境が、状況が良くなったら感謝、しばらくは感謝できるかもしれませんが、あとはその状況が変わったらどうなるんでしょう。
感謝できなくなってしまうかもしれません。だから、感謝のクライマックスは、自分の心が感謝と喜びに満たされる心に変わることであります。
イエス様によって感謝できる人が、喜びに満たされている人が、気に入らないことがあっても、つらいことがあっても、悪いことがあっても、
思った通りにいかなくても、持っていなくても、感謝できるのです。何ででしょうか。心の中に感謝と喜びに満たされているからです。
つまり、自分の心と自分の霊が変わったからです。心と霊が感謝の心、感謝の霊に変わったから、誰といても、どこにいても、どんな状況の中にあっても、感謝できるんです。
ではどうしたら、感謝の心、感謝の霊に変わるのでしょうか。1ヶ所、ちょっと大事なセリフですから、ここだけ開いていきたいと思います。
新約聖書のエッセンスオリジナルの手紙、5書18節から20節のところを、聖書をお持ちの方はお披露目ください。新約聖書の379ページです。
ここの18節から20節を私が読みたいと思います。この流れをよくご覧ください。
また、酒に酔ってはいけません。そこには法度があるからです。
見たまに満たされなさい。その次ですよ。見たまに満たされた人の復唱は何でしょうか。19節。
死と賛美と霊の歌と思って互いに語り、死に向かって心から歌い、また賛美しなさい。
いつでもすべてのことについて、私は質問している。
イエス・キリストの名によって死なる神に感謝しなさい。
つまり、どういう意味でしょうか。
精霊に満たされている人は、その人の復唱は、心から歌い、賛美する、感謝する人に変わりますよ、というメッセージです。
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皆さん、このように感謝できる人に変わるでしょうか。
いつも感謝に満ちあう人になれるのでしょうか。
喫煙はなかなかなく続きません。
ところが、見たまに満たされて、見たまは神の霊ですね。
神の霊に満たされて、その方は感謝の霊ですから、その感謝の霊に満たされていれば、自分の霊も心も感謝の人に変わるのです。
そうなんです。皆さん、感謝する家族と一緒に暮らしたいでしょうか。
いつもつぶやく家族と暮らしたいでしょうか。
つぶやく夫、つぶやく子供、つぶやく妻と一緒に暮らした人は多分いないかもしれません。
でも、自分自身のことを考えてみるならば、どうやって感謝する人に変わるのだろう。
それは、ただの決心ではなく続かない。
神の霊に満たされて、感謝の霊に満たされるときに、私たちはいつでも、どんなときでも、どこにあっても、感謝できる人に変わるのです。
エッセイで終わりたいと思います。
願わくは、この修学感謝礼を捧げる私たち皆が、この一年間の神様の恵み、家族の恵み、
この気持ちに感謝する朝日でありたいと切に願っております。お祈りいたします。