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みなさん、おはようございます。
今日も第一礼拝によこそいらっしゃいました、創世記の御言葉が続いていますけれども、
神様に期待して、また一緒にですね、神の御言葉をアーメンと昭和する信仰をもって、
共にお受けしたいと思います。
今日、創世記の3回目になります。
今日のメッセージのタイトルは、私たちは神のかたちとして造られた、
私たちは神のかたちとして造られた、というタイトルです。
神様は、第一日には光を造られました。
第二日は大空を造られました。
第三日は地と海を造られました。
今、復習しているような感じですよ。
第四日は太陽、月、星を造られました。
第五日は何を造られましたか、みなさん。
海の魚、空の鳥を造られました。
そして、第六日に地の獣、動物を造られて、
そして最後に何を造られたのでしょうか。
人を造られました。
このような順番で神様は、すべてのものをお作りになりました。
ですから、この世界を天地万物を造られて、
そして一番最後に人を造られたということですね。
この創造の順番にも、神様の素晴らしい計画と愛が、
ここに深くこもって刻まれているということなんです。
神の素晴らしい神秘の不思議の世界が、ここにあるということなんですね。
神様は、すべて、私たち人のために、すべてのものを作ってくださった。
舞台を、世界を造られて、そしてそこに最後に、
すべてを整えてから最後に、
神様の、今日は話しますけどね、
神の形として造られた、神の身姿に造られた、
人をそこに造っておいてくださったということなんです。
神様はですね、例えばちょっとあれですけど、
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まるで映画の総監督のようですね。
すべて、助演やエクストラ、あるいは舞台、照明、音響、
すべてをステンバイして、すべてを準備して、
そして主演がね、登場するように、
神様は、主演である人のために、
光も、大空も、地も、海も、魚も、草も、木も、実も、
すべてを作ってくださった。
つまり、人が生きることができる美しい世界という舞台を作って、
すべてを完全に作ってくださって、
そして神の形の主演である人がそこに住んで、
永遠に神様を賛美して、神を礼拝するように、
幸せに生きるように作ってくださったということなんです。
今日、人の造るそのことをですね、一緒に見ていきたいと思いますけれども、
神様は人を造るときに、
特別に今まで第1日から第6日の獣、動物を造るときとは、
全く違った神の方法で造られたということなんです。
例えば皆さん、光を造られるときには神様がどんなふうにして造られたんでしょうか。
言葉でね、光あれ、これで光が造られたんです。
あるいは、第6日の動物、獣などを造るときの見言葉を、ちょっと皆さん見てみましょうか。
聖書をお持ちの方、ご覧くださいますか。
24節、曹石の1章の24節をご覧ください。
私は読みますね。よくご覧ください。
神は仰せられた、地は生き物を種類ごとに、家畜や羽生物、地の獣を種類ごとに生じをするとそのようになった。
さあ、ですから皆さん、神様は獣、例えば家畜、豚とか犬とか牛とかを、
神様はこの地、この地を通して生じようとして、地を通して種類ごとに作られたんです。
進化したのではなく、神様がその種類ごとに、地が獣、動物を生じるように生じさせて作られたんですね。
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さあ、今日はここがメインポイントじゃないので、ところが神様は人をどんなふうにして作られたんでしょうか。
今日の26節大事ですから、ここをね、それぞれの皆さんの聖書でもいいですので、26節を一緒に読みたいと思います。
いいですか、ここから合わせて一緒にね、これを合わせて読みたいと思います。
26節、せーの、神は王政られた。さあ、人を我々の形として、我々の身姿に作ろう。
こうして彼らが海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。
さあ、ここにですね、まず一緒に考えて見ていきたいところがあります。
神様はこのように言われました。さあ、人を我々の形として、我々の身姿に作ろうと神様が言われました。
ここにちょっと疑問があるかもしれません。ご存知の方もいらっしゃるかと思いますけれども、
神様はお一人なのに、私の形として、私の身姿にではなく、どうなってますか。
我々の形、我々の身姿、まるで神様がたくさんいるかのように複数の言葉で書かれているんでしょう。
それ、どうなんだろうと思われる方はいらっしゃないでしょうか。
これはなぜ、私、単数じゃなくて、我々、複数なんでしょうか。
それも二回、我々の形、我々の身姿に、まるで強調しているように書かれています。
その理由なんでしょうか。それは、これは大事なですね、重要な言葉ですけど、
神様は、私たちが信じる神様は、神様、イエス様、聖霊様、三味一体の神様を信じるわけですね。
だから、一人でありながら、三人でいらっしゃる、その神様を、イエス様、聖霊様、神様、
この三味一体の神様を意味するところで、私じゃなくて、我々となっているんです。
ですから、どういう意味でしょうか。
イエス様とか、聖霊様は、神様によって、後から、神様がね、
いや、ちょっと私一人で寂しいし、ちょっと力が不足なので、イエスを作ろう、後から、
もっとパワーが必要なんで、聖霊を作ろうとして、神様が後から作ったわけではないんですね。
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もう、永遠から、神様とイエス様と聖霊様は、一緒におられるということ。
一緒にこの世界が作られた。一緒に我々人を作られたということなんです。
だから、私たちは、今から今日、その話をしますけれども、
三味一体の神様、イエス様、聖霊様の形に姿に作られたということなんです。
皆さん、よく考えてみてください。
例えば皆さん、皆さんが、今もあるよ、もっと若い時に、皆さんがかっこよかった時にですね、今もいいですけど、
男性の皆さんには、いやあなたは誰々、俳優さんに似てますね、みたいな。
女性の皆さんにですね、きれいな美人の女優さんに似てますね、と言ったら、何か気持ちよくないですか?
あまり反応ない。
気持ちいいでしょう。
私はそんなに美人なの?みたいにね、思うかもしれません。
たった誰か、美人、美女の俳優さん、あるいは立派の誰々さんに似てますよ、と言ったら、まあ光栄でございます、みたいに言うでしょう。
ところが、今日の聖書は、私たちに、あなたは三味一体の唯一の神、そのイエス様、聖霊様の形ですよ。
その二姿ですよ、神に似て作られた存在ですよ、ということだから、これは本当に光栄なことではないでしょうか。
ここでもっと掘り下げてですね、形、二姿と訳されている言葉を一緒に勉強していきたいと思うんですよ。
まずですね、この我々の形として作られた、とあるいはですね、形。
これは日本語の聖書は、向かい主の聖書も、今もひらがなで形とあります。
新しい聖書のね、2017の脚柱のある聖書の形に星印があって、その下の脚柱を見ると、こう書かれているんですよ。
形という言葉をね、あるいは像、形、字節も同様と書かれているんです。
ですから皆さん、この形という言葉の言語の意味は、いわゆる彫刻する、刻むという意味があるんです。
つまり、銅像はありますよね、像はあるんじゃないですか。
さあ、それがちょっと例えでわかりやすいかもしれませんね。
ちょうどこの夏に札幌に行きまして、そこでですね、羊カオカという丘の上に、こうしている像があるんですよ。
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知ってますか、皆さん。クラクラカスね。
なんでしたっけ、ボーイズ・ビー・アンビシャス、少年よ、大使よ、いたっけ、みたいなね。
さあ、その銅像を見たら、これが、前の名前は知りませんけど、クラクラカセの銅像なんだ。
この人は、札幌農学をね、今の北海道大学の前身を立てた選挙士でありながら、
クリスチャンでありながら立てた、素晴らしい人物なんだとわかるでしょう。
で、その銅像の顔を見たら、クラクラカセはこんな顔をしているんだなとわかるじゃないですか、その銅像を見たら。
もちろん、その銅像がクラクラカセではないんですよ。
そのクラクラカセを表しているわけなんですよね。
それとちょっと似ているんですよ、この形というのは。
だから、私たちは、紙の形として作られた。
つまり、神様を表すものとして作られたということなんですよ。
あの銅像を見たら、クラクラカセだ、坂本龍馬だ、みたいにね、何とか人物だみたいに、わかるように、
神様は、私たちが、最初のアダムとエヴァ、そして私たちが、何らかの形として、我々の生き様を通して、
信仰生活を通して、人格を通して、行い、言葉、様々な歩みを通して、誰を表しますか。
神様を表す、そのために作られた、その意味が、人を我々の形として作られたという意味なんです。
ですから、私たちは、そもそも、私たちは、神様を表すもの、イエス様を表すもの、
精霊様を表すものとして、私たちを見たら、あ、神様が思い出せる。
イエス様を知ることができる。
あ、神様はこんな愛の神なんだとか。
あ、イエス様はこんな謙遜な方なんだとか。
あ、精霊様は愛と忍和と忍耐の方なんだとかを、人々が私たちを通して、
兄弟姉妹が私たち、お互いを見て、それを分かるように作られた。
栄光を表すように、光を放つように作られたという意味なんです。
ではこれを皆さん、この朝ここで立ち止まって、自分自身に適応してみたいと思います。
いかがでしょうか、皆さん。神様をよく光輝く表しているんでしょうか。
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この世の人々が、私たちの知り合いが、あるいは一番身近な家族が、
私を見て、私を通して、神を知ることができるでしょうか。
神の栄光を少しでも味わうことができるんでしょうか。
そういうものでありたいんですね。
確かに私たちは、弱いところも失敗の多くものであります。
しかし神様は、私たちの中に、もう神のDNAみたいな、
神の本性がその中に注ぎ込まれて作られたものなんです。
願わくは、私たちが教会の中だけではなく、家庭においても町においても、
あらゆる関係の中で、神の愛を、その正義を、
聖霊様の謙遜を、あるいは平和を、あるいは聖霊様の仁愛を、忍耐を、
慈性を、豊かに表す神の人でありたいと願っております。
それを目指して歩んでいこうではないでしょうか。
また、その次の、我々の身姿に作ろうとあります。
これを同じ形と、似たような言葉だけど、言語的に少し違って、
でも結果的には同じ言葉であります。
身姿はとても良い役だと思うんです。
もうその通りに似ているということなんです。似ている。
子供は親に似ているでしょう。
今日も広子さんが来られましたけれども、子供二人見たら、
私は特にはるかさん見たら、お母さんにそっくりだなと思うんです。
皆さんも多分そう感じるでしょう。
あるいは皆さんのお孫さん見たら、
お孫さん見ながら、なんて俺を似ているんだろう、そんな思いしません?
似ているんですよ。似ている。
つまり、神様は私たちを、世の穢れのものでもなく、
力もない、死んだものでもなく、
唯一の神、全知全能の神様、愛のイエス様、
力のニューアの精霊様に似るものとして作ってくださったということなんです。
それが最初のアダムとエヴァを、人々をそういうふうに作ってくださったという、
本当に素晴らしいことなんです。
だから私たちは、偶然作られたものではないんです。
神様は人を土で作られましたけれども、
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立派なものを全部作って、土がちょっと余って、
もったいないな、誰でも作ろうみたいな、適当に作って、
私たちが作られたわけではないんです。
一人一人、神の永遠なる計画の中で、
神の全てを注ぎ込んで、
神の心が、愛がそこにこもって、
我々は神の形として、神の仁姿として作られたということです。
そう考えると皆さん、私たちはどんなに尊い存在、
栄光のある存在として作られたんでしょうか。
神様は人を作る時に、神様ご自身の全てをかけて、
私たちの内に、神の姿を全てを絞り出して注ぎ込んで、
愛を込めて作ってくださったんです。
それが皆さん、お一人お一人である、
家族であり、兄弟姉妹たちであるということを、
忘れないで覚えて信じていただきたいんです。
そしてその神様が、私たちを愛するから、交わりをしたいから、
そして神は私たちを愛して、
私たちは神様を礼愛するために作られたんです。
永遠に死を賛美して、礼愛するために作られたんです。
ですから皆さん、全ての人は、
この唯一の神の中にいる時に、
本当の幸せ、本当の人生の意味を知ることができるということではないでしょうか。
もう一つ考えていきたいことがありますけれども、
二十六節の御言葉をよく見ると、
このように、人を我々の形として、
我々の身姿に作ろうとありますね。
作って何をするのか。
その次に神様のもう一つの大事な目的が書かれているんです。
こうして柄ですよ。よくご覧ください。
こうして彼らが、人がですね、私たちがですよ。
彼らが海の魚、空の鳥、家畜、地の全てのもの、地の上を這う全てのものを、
何するんですか。支配するようにしようとあります。
ですから神様はですね、私たちをこの世界、この地上に、
神様の代理人として、
神の代理として、神の王権を、神の主権を人に与えてくださって、
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もう神の代わりに支配者として王権を持つ素晴らしい存在として作られたという意味なんです。
ですから皆さん、人は何にも支配されないものとして作られました。
私たちを支配できるものは、神様他にはありません。
どんなものも目に見えるものであろうが、見えないものであろうが、
私たちはもともとは何者にも支配されない、
拘束されない、縛られないものとして作られたんです。
闇も、悲しみも、病気も、過去の罪も、
もともと私たちは何者にも支配されないもの、
縛り付けられないものとして、自由のものとして、王権を持ったものとして作られたんです。
つまり神薬の御言葉を借りますと、圧倒的な勝利者として作ってくださった。
王権を神様が預けてくださったんです。
素晴らしい権利が与えられたんですね。
ところで最初の人、アダムとエヴァは神を捨ててしまった。
こんなに素晴らしく作られたのに、神に背を向けてしまった。
そして罪を犯してしまった。
そしてアダムとエヴァ、人に、そしてこの世界に、
すべての被造物に罪が入ってしまった。
堕落してしまった。
そして神の形も、身姿も、王権もすべて穢れてしまいました。
歪んでしまいました。
朽ちてしまいました。
もちろん皆さん、これはちょっと微妙な部分でもありますが、
すべて完全に神の形も身姿も完全になくなって、
私たちが悪魔になったわけではないんです。
宝庫を失って汚れてしまった。
朽ちてしまったわけなんです。
神に向かって生きるものとして作られたのに、
神の家で生きるように作られたのに、
その向きが変わってしまった。
変質してしまった。
汚れてしまったということなんです。
その罪の上に、この世界に、我々個人に、
あらゆる人間の世界に何が入ってきてしまったんでしょうか。
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そこに縛る、縛られる、奪う、奪われる、
戦い、争い、権力、支配、非支配、
そういったものが起きてしまった。
創造の最初のその美しさも、
善も、正も、朽ちて、汚れてしまったんですね。
もし皆さんが、とても時間もお金も、
本当に気を絞り出して、何かのものを作って家に置いて、
ところがそれを誰かが間違って壊してしまった。
あるいは捨ててしまった。
したら、ものすごく寂しいですし、怒ってしまう。
なんでそれを捨てたの?みたいにね。
神様は悲しまれたんです。
心を痛められました。
神様は散らかったんですよ。
神様は泣いておられた。心を痛められた。
ご自身の形として、ご自身の仁姿に作ったこの大切な人が、
その素晴らしさを、その善を、形を、神の品性を、仁姿を失ってしまった。
それが聞かれてしまった。壊れてしまった。
何という悲しいことだろうとね、神様心を痛めておられたんです。
そして愛の神様は、その私たちにもともとあった神の形、
神の仁姿を回復しようと、神様は働き出されました。
敗北者ではなく勝利者として支配されるものじゃなくて、
支配する王として勝利しながら生きるようにする働きを神様はし始められました。
それはイエス・キリストを通してです。
イエス・キリストを通して、イエス様を通して、私たちに再創造と言いましょうか、
新しい創造を神様がしてくださるんです。
目標を失ってしまった人々が、この世に向いていた人々が、神に向いて歩むように。
歪んで汚れて欠けだらけになっていた神の形を、仁姿を、その品性を回復できるように、
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品性を回復してくださったんですね。
それが救いであり、新しい神の創造であるということなんです。
一箇所ですね、聖書を開けたいと思います。
エペソービトリの手紙、新約聖書ですね。
新約聖書、エペソービトリの手紙、4章、23節と24節を見てみましょう。
エペソービトリの手紙、4章、23節と24節です。
さあ、そこをですね、一緒に読みたいと思います。
それぞれ皆さんの聖書でお読みしましょう。
エペソービトリ、4章、23節と24節です。
また、あなた方が、礼と心において、新しくされ続け、真理に基づく義と誠意をもって、
神にかたどりつくられた新しい人を切ることでした。
これはですね、家様による救いの、それが何を私たちにもたらされたのか、その話なんです。
24節の後半を見るとですね、神にかたどりつくられた新しい人を切るという表現をしている。
新しくされ続けとありますね、23節に。
そうなんです。
穢れた我々、失ってしまった神の品質、神の愛、その誠意を、神の性質を、
それをですね、家様を通して、それを戻してくださるんです。
回復してくださるんです。
二度と拘束されないように、二度と縛りつけられないように、
二度と争いに、戦いに、闇の中に歩むことがないように、新しい人を切るようにしてくださる。
なぜでしょうか。我々を愛するから。愛するから。
その品性を神の形に姿を失った私たちの様子を見て、神様は心を悲しんでおられる。
そしてそれを何度か新しくしようとしてくださって、イエス・キリストを使わせてくださったんです。
それをと主は私たちを切に切に求めておられる。
一緒に歩もう。一緒に交わろう。私はあなたを愛するから。私はあなたを祝福するから。
一緒に生きようと主はこの朝も私たちを招いておられるんです。
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そういうメッセージを伝えたいと思います。
ですから皆さん、私たちがこの型の中に留まる時に、そこに真の安息やせがいがある。
人生の真の道を発見できるということなんです。
キリスト教は何かを教える宗教というより道なんですね。
だから真の道は神の中に、イエス・キリストの中にだけあるということなんです。
この道を見つけて信じて歩んでいる方々は揺れることなく、まっすぐにこの道を歩んでいきましょう。
あるいはまだこの道を見つけていない方々がいらっしゃるならば、どうかこの道を見つけていただきたい。
自分のものにしていただきたい。
そしてこの道の中で真の安息を、真理を、命をいただいて、その型の中で素晴らしい神の道を歩んでいきたいと。
そういうふうに願っております。お祈りしましょう。