00:00
皆さん、おはようございます。
今日もいい天気で礼拝に出席できまして、本当に感謝いたします。
では、周りの方と挨拶しましょうか。
おはようございます。
顔をしましょう。
はい、感謝します。それでは一言お祈りいたします。
これは主の見つけである。私は生きている。
私は必ず、あなた方に、私の耳につけたその通りをしよう。
神様、今から神様の御声に耳を傾け、お聞きいたします。
主よ、どうぞお語りください。
主の耳をお聞きいたします。
心を開いて下さって、あなたを見、あなたの御声に耳を傾けて、
霊の目が開かれ、そして主の心を知り、
それに従う信仰の道を、素晴らしく全うできるように、
どうか、我ら一人一人を憐れんで下さい。
導いて下さい。
主の御霊で満たして下さいますように。
主よ、お願いいたします。
御手にたれて、神様の御名によってお祈りいたします。
アーメン。
はい、感謝します。
シリーズのメッセージが続いております。
神に祝福される人生の法則21。
今日は14回目です。
5、6、7、8、9、10、11、あと7回残っていますね。
今日は天の言葉の法則、天の言葉の法則という題にして、
信仰と言葉、どういう関係にあるのか。
それをね、見言葉から、民俗あるいは人間の見言葉を開きながら取り付かせていきたいと思います。
よく一般的に言われるのは、キリスト教は言葉の宗教だと言われたりします。
曹石の第一章一節を見ると、神様は言葉でこの天地をお作りになりました。
03:02
それがあれ、すると光があった。
そうですね。
また、新約聖書の四羽根の文章を見ると、
イエス様を言葉と言っていますね。
初めに言葉があった。
言葉は神と共にあった。
この言葉多いことを外して、
キリスト教、神様、イエス様のことについて、
言うことはできないと言えるくらいだと思うんですね。
今日はイエス様を主とキリストとして信じて、
新しく生まれた人として、
神の言葉、天の言葉が、
私たちにどういうふうに祝福をもたらすか。
あるいは逆に、
罪の言葉、世の言葉が人々にどういうふうにして呪いをもたらすのか。
聖書のところから見ていきたいと思います。
まず大きい一番として、
私たちがまず考えていただきたいことがあります。
それは、私は誰なのかということですね。
私は誰なのか、
自分自身が誰なのかということを、
まずアイデンティティを知ることです。
例えば日本の場合ですね、
私はよく知りませんけれども、
例えば皇室の話、
一般の女性が結婚を通して皇后様になると、
その時からあらゆる言葉が変わると思うんですね。
おそらくその身分が変わるわけですから、
その皇后様という皇室、
それにふさわしい言動や身格やら、
マナーやらいろんなことが教えられて、
それに皇后様というその名にふさわしい生き方をするんじゃないですか。
そうでしょう。
例えばですね、そんなことはないと思いますけれども、
皇后様がすごいことを見て、
すげえ、やばい、まじで、そんなことは言わないと思います。
身分が変わりましたから、
その変わった身分にふさわしい生き方、言動、
それをするんじゃないですか。
そうでしょう。
私たちは誰ですか。
皆さんは誰ですか。
私たちは自分自身が罪人であることを認めさせていただいて、
イエス様の十字架の前で罪を食い改めて、
そしてイエス様を自分の救い主として受け入れて救われたものです。
06:03
つまり新しく生まれた人なんです。
ヨハネノ福音書の第三章に行くと、
使徒が新しく生まれなければ、
神の国を見ることができないという言葉がありますよね。
ここに新しく生まれるという言葉が出てくるんですね。
それでよく新しいの、新と生まれる、新生という言葉をよく使いますけれども、
この新しく生まれるという言葉は、
新しくと他に、上からという意味があるんです。
多分逆襲に書かれていると思うんですけどね。
だから新しく生まれるという意味はどういう意味ですか。
上から生まれるという意味もあるんです。
つまり天から生まれる、あるいは神によって生まれるという意味なんです。
いいですか、皆さん。
イエス様を救い主として信じて救われたということは、
その時から、
たとえとして一般の女性が皇后様になるよ、
それ以上に地上のものが神によって生まれる、
天から生まれる、身分が変わる、
全く新しいものに変わるということなんです。
それが救いという意味です。
だから皆さん、上から生まれる、神によって生まれる、新しく生まれる、
信仰を持ったというものが、
その時からこの地上に生きてはいますけれども、
あいつはこの地上についていますが、
この地上の人々の世の生き方ではなく、
かつての生き方、言動ではなく、
天の生き方、神による生き方によって生きる人が、
身分が変わる。
だから、一番の人はバッテン。
バッテンの一番大きい人。
天から生まれた人なんです。
私たちは身分が変わりました。
自分が誰なのかを知ることから、
素晴らしい信仰がそこから始まるということなんです。
天から生まれた、神によって生まれた人、
その存在、自分の存在を正しく知るところから、
新しい信仰が始まるということです。
だから、コリントギセの手紙5の17節の御言葉にありますように、
誰でも、一緒に読みましょうか。せーの。
誰でもキリストのうちにあるなら、
その人は新しく作られたものです。
09:00
古いものは過ぎ去って、
身をすべてが新しくなりました。
これが私たちなんです。
身分が古いものは過ぎ去って、
身をすべてが新しくなりました。
その次のコロサイトの手紙、
3の9節にまたこういう言葉があります。
私は読みます。
互いに偽りを言ってはいけません。
その次ですよ。
あなた方は、古い人を、
イエス様を信じる前の、
自分自身、言動、生き方、すべて、その行い、
古い人を、その行いと一緒にどうしましたか。
脱ぎ捨てて、
そして、10節読みますね。一緒に読みましょう。
新しい人を来たのです。
新しい人は作り抜きの形に見せられて、
ますます新しくされ、
真の主色に至るのです。
ここにね、新しい人を来た、これなんです。
さあ、いいです。
天から生まれた人、
神によって生まれた人は、
天の生き方、神の生き方で生きることなんです。
というのは、天の言葉を知る、天の思いを持つ、
それが私だけなんです。
それはクリスチャンなんです。
古い人を、その行いと一緒に脱ぎ捨てるんです。
そして、新しい人を生きるんです。
ですから、大きい2番として、
私たちは、神によって生まれた、
天から生まれた人なんだから、
当然ね、この地上の言葉ではなく、
天の言葉をする、天の言葉を言うものなんです。
鳥は鳥の言葉をします。犬は犬の言葉をします。
世の人々は世の言葉をします。
神の人は、神の言葉。
天の人は、天の言葉を言うのです。
それでしょうか、新しい人を生きたからです。
ガイシペテロ4の11節に、こういう言葉があります。
一緒に見ましょうか。
これは交互訳ですけどね。
せーの。
語る者は、神の御言葉を語る者にふさわしく語る。
何かを言う、語る。
神の御言葉を語る者にふさわしく語る、ということです。
では、天の言葉はどういうものがあるのでしょうか。
天の言葉はどんなものでしょうか。
まず一番目、感謝の言葉です。
12:00
皆さん、皆さんのこの口は感謝する口ですか。
つぶやきの口ですか。
その口の言葉に感謝がありますか、つぶやきがありますか。
天によって生まれた私たちは、
この口も思いも言葉も生き方もすべて、
神から生まれたものだから、身分が変わりましたから、
新しい人を生きたんだから、変わるはずですし、
変わらなければならない。
神様は私たちの生き方すべてを受け取ってくださる私。
だから私たちの思いも言葉も、
神様に受け入れられるにふさわしいものとならなければならない。
今日読んでいただきました、民俗の話。
そこに言葉が、その持つ思いがどれだけ大事なのか。
その言葉が、自分や自分の将来、
あるいは思想に祝福をもたらすか呪いをもたらすか、
それを決定しているのが、その言葉にかかっているということではないでしょうか。
この民俗の話を少しまとめてお話したいと思います。
孟子が生きるいずれの人々は、エギプトから出発します。
神の恵みによって。
そして約2年かかってシナイさんを通ってカデシバルネア、
今のイスラエルの南部の方にあるところにみんな集まっていました。
カデシバルネア。
そこから実際にヨルダン川を東の方に渡っていくのには、
大体2週間で歩いていける近い距離なんです。
そこで孟子は神様の命令によって12部族から1人ずつ代表を選んで、
12人を計画失敗にカナーに送るんです。
彼らが約40日間、死刑はどんなものなのか、町はどんなものなのか、
農産物はどういうものがあるのか、どこにいろんなものを調べて帰ってきます。
帰ってきました。12人。
その中に今日出てくるカレブとヨッキワが入っているわけですね。
15:01
12人が全員イスラエルが集まっているうちに、
イスラエルが集まっているところで視察して見てきた内容を報告するんです。
ところがその報告の内容が12人のうち10対2で全く分かれてしまいました。
まず10人はこう言いました。
そこは言ってみんなもう殺されるよ。そこには巨人がいるし、
われわれは見てもう稲穂に過ぎない。言っては全部もう全滅するんだと、
そういうふうに悪いことを言いふらして。
そしたらその反応を聞いていたカンシュウはどういうふうに反応したんでしょうか。
いや、あの住民の皆さん違いますよ。
カンシュウさん約束してるからこれは神のところでどんな巨人があっても行けましょうと、
カンシュウは応答したんでしょうか。
全階級は10人の話を聞いて恐れて、彼らはこういうふうに言ってしまいました。
それが今日の民主主義、ちょっと開きましょうか。
民主主義の14章、今日の14章全部読まなかったんですけどね。
民主主義の14章の1節、2節ご覧ください。私は読みますね。
さあ、子どもたちも開いてね。子孫も祖母もね。
もう週1、週2くらいは読めますからね。
民主主義の第14章253ページ。
ご覧ください。1節私は読みますね。
全階級は大声を上げて、これは10人のですね、その悪い言葉を聞いて、その後の話ですよ。
叫び、民はその世を泣き明かした。2節。
イスラエル人は皆、モーセとアロンに呟き、全階級は彼らに言った。
私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに、できればこのアラノで死んだ方がいい。
エジプトで死んだ方がよかった。いや、できればこのアラノで死んだ方がマシだと言って、神様にモーセにアロンに呟きました。恨みました。
この光景を見ていた信仰の人、ヨシワとガレーフは何と言ったんですか。
8節ご覧ください。
もし私たちが死の見所にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちにくださるだろう。あの地には土と水とが流れている。
9節、聖書を持っていなかった人に見ますね。9節。
18:01
ただ主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となるからだ。彼らの守りは彼らから取り去られている。
しかし主が私たちと共におられるのだ。彼らを恐れてはならない。
この世に10人は皆吐いたらもう死ぬよ。殺される巨人がいるし、町々はもう頑丈だし、もうできません、できません。
そしたらその海地はもうエジプトでもう出ないで、そこでもう死んだ方がよかったのに。できればこのアラノでもう死んだ方がマシだ。
皆恐れていました。ところが10人、ある意味で全イセラエルを200万人としたら、200万人対2人なんですね。
ヨシダとカレーブは言いました。違いますよ。皆さん違いますよ。私たちが主の心にかなえば、あの地と水に流れるそこに主が導き入れてくださるんですよ。
それは神の約束なんだから信仰を持っていきましょう。彼らは我らの餌食に尽きないんですよ。恐れてはいけませんよと言いましたね。
ところがどうですか。その話を聞いて、10人の話を聞いて、恐れて、でもヨシダとカレーブは違いますよ。信仰を持っていきましょうと2人が言ったときに、海地はどうしたんでしょうか。
ああ、やはりヨシダさんの話があっているかもね。信仰によって落としましょうと落としたらよかったんですね。
あの数多くの100万人以上でしょうね。民主主義によると20歳以上の人が60万人以上だから100万人以上になると思うんですね。
100万人以上の人々が2人の話を聞いているんじゃなくて、もうここで既に達結の原理がここにあるんですね。
実践を見るとですね、前回集は彼らはヨシダとカレーブですよ。信仰の話をしている人、神の見どころの話を伝えている人を同時に落としたんですか。
石で打ち殺そうと言い出したんです。皆さんよく聞いてくださいね。今の時代は民主主義という制度によってみんな多数結を好みますね。この時代もそうでした。
2人よりは10人の話が信頼性、信憑性があるように見えますね。それで10人の多数の意見にみんな行っちゃったわけなんです。
21:03
皆さん、多数の意見が必ず神の見どころになるんですか。絶対に必ず100%こうなるわけではないんです。
もちろん青どけもありますけれども、いくら多数だとしても100万人、1000万人がこれがいいと言っていても、それが全く違う。神の見どころでない、制度的でない結論も決断も。
時にはこのように本当にそうする。たったもうて入れると3人、あるを入れると4人ですよね。うしわとかれいぶ。たった2人の意見、この衣を履いて叫ぶ2人だけが正常的だったんです。
もしも同じですよ。この時にこの回数が、この10人、そして他の回数がいくらそれが、もう行っちゃったら、もう行ったらダメですよと言っていても、違いますよ。
よしわの話があってますよ。かれいぶの話があってますよ。それに行きましょうと言う人が、このイシラエ全回数の中で1人でも2人でも行ったら、イシラエの歴史は変わったと思うんですよ。
運行的に聖書的な話でも、むしろ殺されるところです。今の時代にも似ている部分が多いかと思うんですね。
何かを決めるときに多数決で決まるときがあります。それが本当に聖書の御言葉通りであることもあると思うんです。
確かに十分にので決めて、でもそうでない場合もあり得るということを我々は知らなければなりません。
さあ、このように全回数は、よしわ、かれいぶを除いて、誰も進行に行きましょうと言う人がいなかったこの回数、この群れ、それに対して神様が今日朗読していただいた御言葉が語られたわけです。
神様語を言われました。十四章の二十七節、私は読み出します。
いつまでこの悪い回数は私に呟いているのか。
皆さん、回数は、もうせとあろんだけに呟いたわけではないです。
誰に対してですか。神様に対して。
私たちが神の人にもし呟く、恨む、憎しむなら、それは主なる神様に呟くことでありますね。
24:01
私はイスレイ人が私に呟いている呟きをもう聞いている。
皆さん、私たちのこの節の言葉を主が聞いている。
そして、二十八節一緒に読みたいと思います。
あなたは彼らに言え。これは主の見告げである。私は生きている。
私は必ずあなた方に私の耳に告げたその通りをしよう。
私の耳に告げたその通り、どうですか。
私はエキスポートで死んだ方が良かったのに、このあらので死んだ方がマシだとその話通りにしよう。
なぜなら、彼がそう言ったからなんです。
神様は厳しんじゃなくて、自分たちの願い通りに、言葉通りにされただけ。
二十九節。
ただ、エフネの子カレーブとノンの子ヨシテワのほかは、あなた方を済ませると、私が誓った地に神様が誓ったんだからね。
アブラムから、この時代からさかのぼって大体五百年前から神様が誓って約束したこの地なんだけどね。
誰も決して入ることはできない。
皆さん、彼らはエジプトから神様が導き出した、つまりこのエジプトから成別されたものなんです。
聖徒とされた、成別された、神の民とされたならば、神の言葉を言い、神の天の生き方をすべきでした。
でも彼らはどうですか。
天の言葉ではない、世の言葉、国の言葉、つぶやき、恨み、それを突き出してしまった。
皆さん、これはね、ただの言葉の問題よりもっと根本的な問題がある。
それは、神様がお選びになって、滅してくださって、神の民としてくださった。
そしたらば、神の民にふさわしく生きるべきじゃないでしょうか。
神の民、聖徒らしい言葉、行い、人格、人生を持っていくべきなのに、そうではなかったということが根本的な問題。
もちろん、かつかに水が足らない、食べ物が飽きる、荒野は本当にね、何にもないんですよね。
砂漠ではないだけれども、もうね、パサパサしているね、そういう、あの、もう、えっと、
27:03
木があって、木もほとんどない、もう岩だらけであってですね、確かに響く状況ではありますが、
でも、神の人として選ばれたからば、神の人らしく物を言い、考えをし、生きるべきだった。
もしも、この回収が、住人の話を聞いていても、回収の多くの人々が、カレーボとヨキキワのように信仰の話をしたらよかったのに、私は思うんですね。
つぶやくじゃなくって、むしろですね、回収の中で他の人々が、あの住人を叱って、
あなたたちは、そんな悪いこと、不信仰のことをしてはいけませんよと、叱る人が一人でもいたならば、それを止める人が一人でもいたならば、なんとよかったんですね。
残念なことですね。彼らは、ただの多数の意見、不信仰の意見を揉み込んでしまった。
これはね、人の話を聞いたくらいのものじゃなくて、神に対するつぶやき、恨みという罪を揉み込んでしまったことなんです。
神様は生きていて、聞いておられます。
皆さん、私たちもこの時代も同じです。
神様がこの時代は、若くてよく聞いておられましたから、今はポジトって聞こえないんじゃないんですよね。
今は遠くなっているわけでもないんです。
私たちの日頃の言葉を、思いを、すべて知っておられ、聞いておられました。
どうでしょうか、皆さん、この頃の、この一ヶ月、皆さんの思いは、言葉は、神の前の祭壇にお捧げできる気を言うものでしたか?
そうでしたらよかったんですね。
でも、そこではもう、絶対に出せない、隠したい、そういう思い、言葉でしたか?
そしたら、悔い改めなければ、思いを、言葉。
神言の御言葉に、こういう御言葉があります。
4章24節、一緒に見ましょうか、せーの。
偽りを言う口を、あなたから取り除き、まがったことを言う唇を、あなたから切り離せ。
次に、15章28節、一緒に読みましょうね。
30:01
正しい者の心は、どう応えるかを思い巡らす。悪者の口は、悪を吐き。
さあ、私たちの唇が、この口が、神様に対する感謝で溢れたいんですよね。
神様、くよ感謝いたします。私が生かされていることを本当に感謝いたします。
生きていて、食べることができ、歩くことができ、話すことができ、働くことができ、死のために礼拝ができ、奉仕できることを感謝いたします。
死んでいたこの罪人を愛してくださって、救ってくださって、私のために、天の諸々祝福を備えてくださることを感謝します。
神の異なる特権を与えてくださって、永遠の命を与えてくださること、死を感謝いたします。
この教会のファミリーにしてくださって、共に信仰生活ができることを感謝いたします。
肉体の弱さはありますけれども、それを許してくださって、傲慢にならず謙遜に死を仰げみることができるようにしてくださって感謝いたします。
と、感謝すればいい。
皆さん、他のですね、礼拝の祈りでも、個人の祈りでも、感謝を捧げようではないでしょう。
もう毎日、神様に対する聖徒という名にふさわしい感謝の言葉が、我々の思いに、唇に溢れてほしいんです。
文句を探せば、つぶやけを探せば、いくらでもある。しかし、それは愚かな道である。
何が不満ですか?何がつぶやけですか?何が気に入らないんでしょうか?
感謝は枯れているかもしれない。神様に、まずは神様に対して。
次は家族に、兄弟姉妹たちに、感謝の言葉を知ってください。
夫がいるから、家庭が守られ、妻がいるから、家庭が支えられ、子供がいるから、そこに幸せがある。
誰一人、自分一人偉いから、間に合っている人は一人もいない。
いくらバイトしたくても、働きたくても、この国が倒産してしまえば、
他のアフリカとか、そういう内戦のある国みたいな国になれば、働きたくてもできないんです。
いくら自分が元気出しても、感謝する人ではないでしょう。
天の言葉は、感謝します。ありがとうございます。
しかし、この世の言葉は、嫌です。うんざりです。もういいわ。かもしれません。
第一ペサロニケ語の十八節に、こういう言葉があります。一緒に読みましょう。
33:03
せーの、すべてのことについて感謝しなさい。
これが、キリスト、イエスにあって、神があなた方に望んでおられることです。
今日からは、みなさん、神様に、家族に、兄弟姉妹たちに、感謝の言葉だけを言ってください。
なぜなら、我々の身分は、神の人に、天の人に変わったからなんです。
天の人は、天の言葉を言います。
二番目、天の言葉は、主を褒めさたえる言葉です。
聖書は、私たちに、主を褒めよ、賛美しよと、我々に叫んでいるんです。
四編の十五十編の六節に、こういう言葉があります。
息のあるすべての者に、主を褒めさたえよ。
どうですか、みなさん。
私たちは、自分自身のことを誇っていました。
この世の仕事を誇っていました。
お金を誇っていました。
いい仕事をとっていました。
いい車、いい家を誇りながら生きていました。
しかし、天によって、神によって生まれた私たち、
神の人に身分が変わった私たちは、
古いものは過ぎ去ってみよう、すべてが新しくなった私たちは、
自分自身や世の者を誇るんじゃなくて、誰を誇るんですか。
神様を誇る。
神様を褒めさせる。
神様を褒めるということなんです。
それがクリスチャンなんです。
それが信仰なんです。
最後のことになるかと思いますけれども、
四辺の三十四篇の一節、前の画面にありますのでご覧ください。
一緒に見ますね、四辺三十四篇一節、ご一緒に。
私はあらゆる時に、主を褒めささえる。
私の口には、いつも末の賛美がある。
いいですか、みなさん。
私はあらゆる時に、主を褒めささえる。
私の口はいつも、口には何がありますか。
末の賛美があります。
これが私たちの生き方でありたいです。
神を賛美することは難しいことではないんですね。
四辺の言葉を自分の言葉で読めばいいんです。
メッセージをあげたいと思います。
今日から、さらに私の思いに、この唇に、人生に賛美と感謝だけであふれますように。
36:13
神を賛美してください。
神に感謝してください。
家族に、兄弟姉妹に感謝してください。
なぜでしょうか。
私たちの身分が、この世から、天に変えられたからです。
私たちは、神の人だからです。
神の人だからです。
神の人は、神の言葉を言います。
天の人は、天の言葉を言います。
これが、神に祝福される人生の法則です。
お祈りしましょう。