1. 名谷教会 podcast
  2. 2015/04/12:聖日礼拝(旧音源)
2015-04-12 41:25

2015/04/12:聖日礼拝(旧音源)

2015/04/12 聖日礼拝(旧音源)




00:01
皆さん、おはようございます。
今日もメッセージをあげる前に、隣の方と挨拶をしましょうか。
おはようございます。
それでは一言お祈りさせていただきます。
心の強い者は幸いです。その人たちは神を見るから。
この朝も、主の愛と、主の慈しみを、我ら一人一人に、主を示して下さい。
そして、神様ご自身が語られるこの御言葉に、耳を開いて、心の耳を開いて、
そして、私たちの目が開かれて、清められて、あなたを見ることができました。
あなたの御言葉を聞くことができますように。
そして、日に日に変えられ、日に日に変えられ、生徒できますように。
お願いいたします。
主よ、どうぞ、あなたご自身がお語り下さい。
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
はい、えーと、今日は、又井野君教第5章の8節の中心をしてですね、
心の清いものは幸いです。
その人たちは、神を見るから、という言葉から、
共に恵みをお受けしたいと思います。
皆さんは今朝ですね、教会に来られながら、何を見て来られましたか。
あるいは何を見ながら、教会に来られましたか。
晴れた空を見られましたか。
あるいは散っている桜の花を見られましたか。
人はですね、何かを見ながら生きていくと思います。
それが目に見える物質的なものであるかもしれませんし、
あるいは目には見えない精神的なものでもあるかもしれません。
人はですね、何かに関心を持っていますと、
それにですね、目が行くんですね。
心も行く。目も行く。
そしてよくよくそれが見えてくるんです。
例えば洋服とかですね、ファッションに関心のある人は、
03:02
人々のファッションをよく見たり、
あるいは今も恋をしている人は、目を閉じていても目を開けていても、
恋人の顔がですね、24時間365日浮かんでくるかもしれません。
あるいは何かの楽器にですね、はまっている人は、
その人の目にはその楽器しか見えないかもしれません。
では皆さんは最近、何に対して関心を持って見ているんでしょうか。
皆さんのこの肉体の目、心の目に入っている、それは何でしょうか。
このようにですね、人は一生何を見ながら生きていくか。
それによってその人の人生が評価されると言っても過言ではないと思います。
ところが私たちイエスティストを信じる人々は、世の人々と異なるものがあります。
それは神様を見ることができる、神様を見る目を持っているという事実です。
この目はですね、この肉体の目を指すのではないんですよね。精神的な目でもないです。
霊の目であって、心の目なんです。
聖霊様が私たちの心の目、霊の目を開いてくださって、
そしてこの肉体には見えないイエスキリストを見ることができる。
今日の御言葉にもあるように、神を見ることができる。
それが目が開かれているから、世の中の人々には見えない神様が見えてくる、見ることができるという事。
それが聖霊様がなされた救いの御技なんですね。
だからイエス様がですね、ヨハネの福音書三章三節でこのように言われました。
そこをですね、一緒にお見上げしたいと思います。
ヨハネの福音書三章三節。
聖書お持ちの方は開いていただけますか。
ヨハネの福音書第三章三節です。
06:00
新約聖書176ページです。
それではですね、御一緒にお読みいたいと思います。
ヨハネの福音書三章三節。
イエスは答えて言われた。
誠に誠にあなたに告げます。
人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。
この御言葉と、今日のタイの国と御一緒の八節を繋がっている御言葉ですから、よく覚えていただきたいんですが。
イエスはこう言われました。
あなたに誠に、これはとても強調して語っているわけなんですよね。あなたに告げます。
人は、その人が誰だって思うですよ。
新しく生まれなければ、つまり生命によって生まれ変われなければ、神の国を見ることができない。
言い換えますと、新しく生まれた人だけが、神の国を、神を見ることができる、ということなんですよね。
この見るという、この時の目は、この肉眼の目ではないんですよね。
霊の目であって、心の目なんです。
霊の目が開かれて、そして神の国を見ることができるんです。
神様を見ることができるんです。
皆さんは、神の国を見ていますか?
神を見ていますか?
イエスキリストを見ていますか?
精霊様を見ているんでしょうか?
神の国を見るということは、イエスキリストを見るということです。
イエスキリストを見るということは、神様を見るということです。
神様を見るということは、精霊様を見るということなんですよね。
私たちは、この霊の目を持っているから、この日曜日に、この礼拝の場に集まって、賛美を捧げ、祈りを捧げて、神の御言葉に耳を傾けているのではないでしょうか。
皆さんは、今日のこの礼拝において、何を見て、何を見つめて、礼拝をしていらっしゃるのでしょうか。
人を見て、礼拝している方はいらっしゃらないと思います。
例えばですね、牧師がものすごいイケメンであったら、牧師を見に行こうとするかもしれません。
09:00
残念ながら、明沢教会はそんなことはないんですよね。
何を見て、礼拝しているんですか。
この肉体の目には見えない、しかし生きておられる、存在しておられる神様を見ることができるから、いや、見ているから、ここに集まって礼拝をしているのではないでしょう。
だから、私たちには神を見る目があるでしょう。
だから、今日の発説にですね、心の強いものは幸いです。
その人たちは神を見るからとあるんですね。
神を見るんです。神様を見る。
礼の目で見る、心の目で見るということ。
どんな人が幸いな人なんでしょうか。
今日の御言葉を覚えていただきたいですね。
心が強くて、神を見ている人が本当の意味で幸いな人だ。
イエス様が絶対に、このガリダヤの岸辺の他に集まっている群衆を見て語られたメッセージですけれども、
この朝、私たちにイエス様が同じく語りかけておられるんですね。
心の強いものは、その人たちは神を見るから。
もう一回ですね、聖書を開きたいと思います。
同じ、マタイの福音書13章16節です。
マタイの福音書13章16節、25ページです。
それではですね、マタイの福音書13章16節を御一緒にお読みしたいと思います。
ここにですね、確かに語られているんですね。
あなた方の目は見ているから、何を見ているんでしょうか。
神様を見ている。イエス・キリスト・聖霊様を見ている。
その御業を見ている。そしてその御言葉を聞いているから、幸いですよ。
12:06
あなた方は幸いですよ、とイエス様が言われました。
今日のですね、8節、それからさっきのヨハネの福音書3章3節、
今、マタイの福音書13章16節に共通的に書かれて出てくる御言葉が、
見るという言葉ですよね。日本語の見る。
この見るという言葉をもう少しですね、掘り下げてお話したいと思います。
神様を見る。この見るというのはなくて、
単なるこの肉眼の目で何かをテレビを見るように、本を読むように見るという浅い意味ではないんですね。
もっと深い意味があると思うんです。
それは強いお方であられ、礼であられる神様と深く深く人格的に、全人格的に知っておいて、そして経験をする。
深い交わりを持っている中で神様を知る。
それがこの見るという言葉。
だから皆さん、私はみんな目を持っているから、聖書を読むことができます。
耳を持っているから、説教とかですね、メッセージを聞くことができます。
しかし、それは入り口なんですけれども、もっと深く入り込んでですね、神様と深く交わりを持つこと。
これが見ることであって、これが知るということなんです。
だから神を見るというときのこの見るという言葉と、神を知るというときのこの知ると見るは同じ意味なんです。
皆さん、何度か何回か聞かれたかもしれませんけれども、この聖書で知るという言葉は知識的に認知する、この知るという意味ではなく、
もともとの意味はですね、夫婦が一緒に暮らして、そして男の一つは男性と女性がお互いを知る。
そして一緒に寝る、そして夫婦関係を持ってお互いを深く知るという意味のときのこの知るが神を知る、神を見るという意味なんです。
神様は聖なるお方です。神様は聖であられます。
私たちはこの体を持って近づくこともできませんし、この肉体の目を持って見ることも把握することもできない超越的な存在であられます。
15:12
この超越的な存在を私たちが人格的に経験する、交わる、知る、見るということは、それは精霊による恵みによらなければ見ることも知ることもです。
この神様を見るという言葉と、神様を知るという言葉をわかる聖人たちがありますか?そこをひたきたいと思います。
エペストビートにの手紙一章です。新約聖書、エペストビートにの手紙一章。17節から19節。
この箇所はパオロ先生がエペスト教会の信徒たちに書き送った手紙なんですね。そして彼らは既にイエス様を信じているクリスタンです。信者です。
彼らに何を望んでいるんでしょうか。何を願って祈っているのか。このパオロ先生のエペスト教会の信徒たちへの祈祷文なんですね。お祈りなんです。
そこはちょっと長いですけれども、大事な箇所ですから、17節から19節まで一緒にお読みしたいと思います。よろしいですか。
一緒に3回。どうか私たちの主イエスキリストの神、すなわち英語の父が知るための知恵と啓示の御霊をあなた方に与えて下さいますように。
また、あなた方の心の目がはっきり見えるようになって、神の命によって与えられる望みがどのようなものか、生徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
また、神の全能の力の働きによって、私たち信じる者は働く神の優れた力がどのように偉大なものであるかを、あなた方が知ることができますように。アメン。
ここに、パウロ先生がエペソー教会の、彼らは神徒たちですよ。本当に愛している、自分が育てたこのエペソー教会の神徒たちのために、朝も昼も夜もこのロイヤルの中で涙をもって祈っている切なる祈りの内容なんですね。
18:12
パウロがそこをよく見てみますと、パウロ先生がこのように載っていますね。柔軟な説を見ますと、神を知るための知恵と啓示の御霊をあなた方に与えて下さいました、とあります。
その次の十八節ですよ。また、あなた方の何がですか。心の目がですよ。心の目がはっきり見えるようになって、心の目がはっきり見えるようになってというのは、同じピントであっても、心の目がはっきり見えるようになって、
神の召しによる与えられる望みがどんなものなのか、知恵との受け継ぐものがどんなに栄光に富んだものか、神の善の力の働きによって新しい信じる者に働く神の作れた力がどんなに偉大なものかを見れる人もいますし、見れない人もいるということではないでしょうか。
そして、パオロ先生は十八節では、心の目がはっきり見えるようになって、こういうもの、こういうもの、こういうものを十九節の最後に見ることができますようにとではなく、知ることができますようにとありますね。
だから、見るという言葉と知るという言葉は同じなんです。皆さん、この祈りが私たちの祈りになっていただきたい。
主よ、私たちの心の目がはっきり見えるように、そして神様がどんなお方なのか、正しく深く知ることができるようにしてください。
聖霊様の素晴らしい働きがどんなに偉大なものか、それを知ることができるようにしてください。
この心の目がはっきり見えるように祈ろうではありませんか。皆さん、朝も昼めども、皆さん祈っていらっしゃるんですよね。
お家で、あるいは教会で祈っていらっしゃるんです。その時にぜひ、主よ、私の心の目をはっきり見えるようにしてください。
そして、あなたの力がどんなに素晴らしいものなのか、あなたの恵みがどんなに素晴らしいものなのか、あなたの威悪の力がどんなに素晴らしいものなのか、あなたの愛がどんなに深いものなのか、それを知ることができるように、見ることができるようにと祈ろうではありませんか。
ですから皆さん、私たちが神を見るということは、神を知ることです。しかしその見る、知るというのは、単なる知識的に知るのではなく、心の目がはっきり開かれて見えるようになって、主を知ること、交わりを知ること、それが見ることであって、知ることです。
21:41
ここで、19節の最後の知ることができますようにという言葉がありますが、それはギリシャ語でエピグノセイといいますが、それはこういう興味深い意味があるんですよね。
この時にパウロ先生が使った言葉は、自分の心としましょう。自分の心が、この神を知ることによって、もういっぱいになって満たされている状態、それが知ることができますようにの意味なんです。
空いているところがない、隙がない。そして心の間が、神によって、イエス・キリストによって、精霊によって、もういっぱいになっている状態、そこまで主を渡さずを、知るようにしてくださいと、パウロ先生はエフェクト教会の人のために祈っているんです。
これを読みますと、皆さん、私の目がはっきり見えるようになればなるほど、神をもっと深く、もっと正しく、もっと広く知ることができるようになるんですね。
しかし、知らなければ知らないほど、目は霞んで見えて、神様が小さく小さく見えるし、なかなかぼんやりして見える。はっきりと、ぷっきりと見えないこともあるということなんです。
ですから皆さん、私たちは常にですね、礼拝を通して、祈りと御言葉を通して、私たちのこの心の目がはっきり見えるように祈って、励んでいこうではありませんか。この祈りが、実は私たちに必要なのではないでしょうか。
24:01
エペソ教会ですよ。彼らは、ミシンジャでもなく、キューロ社のでもなく、既にキリストを信じている人々に、彼らに向かってですね、心の目がはっきり見えるようになって、神の素晴らしさがどんなに偉大なものなのか、それを知ることができます。
その知識が、本当に知る知識で、自分の心の中がですね、満ち溢れるほどまでできるようにと祈っている、この基礎サウルのこの願い、この祈りがですね、私たちの祈りになりたい。
ところも、今日のお見事番にまた戻りますと、ここで私たちが忘れてはいけないことが一つあります。
神を見る、それが本当に大事なんですけれども、神を見る、神を知るだけでは十分ではないということです。
それは、見るためには、知るためには、何が必要なんでしょうか。心が強くなければならないということです。これは必ず必要な条件です。
心の強いものが幸いな人です。そして、心の強いものだけが神を見ることができます。他の条件はありません。他の条件はありません。
心の強いものだけが神を見ることができますし、神と深く人格的に間際りを持つことができますし、見ることができる。
この強いという言葉はですね、その言葉通りにきれいにすることです。きれいにする。
例えばですね、私のこの目はですね、まぶたは一日何回まばたくか皆さん知りますか。一日約二万五千回まばたくそうなんです。
それでですね、この目をきれいにするわけですね。この涙と言いましょうか、液体を流して、そして目をきれいにする。
そして、人を見る、標識を見る、文字を見ることができるわけなんです。
このように、この清さ、清めというのは、あるいは清潔と言いましょうか、私たちの心の目が、
精霊の恵みによって、十字架の師匠のあの清めによって、洗い流されて、続けて洗い流されて、朝も昼も夜も、昨日も今日も明日も、洗い流されて、清くなること。
27:03
それが心の強いものなんです。
ところが皆さん、私たちは、みんなが経験的に知っている事実が一つあります。
それは、罪というものは、心を汚す、心の目を汚す、ということなんです。
例えば、心の中に誰かに対する憎しみを抱いている。
そうしたらですね、不思議にも心が霞んでいて、神を見る目が霞んでいて、見えなくなるんです。
ふっきりと見えてこないんです。聖者の見事がですね、はっきりと見えてこないんです。
あるいは、許してない心が心にある。
あるいは、見てはいけないことを見てしまって、霊の目が汚れてしまいますと、
不思議にもですね、肉眼はいいかもしれませんけど、霊の目は汚れてしまって、見言葉が見えない、神のいめぐみが見えないんです。
おそらく皆さんにはそういった経験があるかもしれません。
ノーベル文学教を受教したフランスのモリアックという人がですね、
少年になってクリスタになりましたけれども、若いときにですね、性的な罪をあまりにも多く犯してしまってですね、
少年になってクリスタになって、この今日の御承発説をですね、
彼がこのように説明しているか、自分の本にですね、書き込んだ。
心の汚れをささきよ神様から遠く遠ざからせる。
この世の中、最も聖なる神様の愛に近づくには、強い心は不確実なものだと言っています。
簡単に言いますと、心の強いものが神に近づくことができる。
神の愛を見ることができる。
逆に言いますと、心が汚れていればいるほど、神様からはどんどんどんどん遠くなっている。
もう一つ、この強いという意味は、心が分かれていない状態を意味します。
二重的でない、自然的でない、あるいはそんなによくない表現かもしれませんけれども、
30:08
二股をかけていないという意味です。
マサイユノン訓示書ですね、六章二十四節に、この自然的でない心がどれだけ大事なのか、
イエス様が教えてくださいました。マサイユノン訓示書、六章二十二節から二十四節、
ちょっと見ていきたいと思うんですね。
マサイユノンを読みます。新約聖書十ページです。二十二節から読みますね。
身体の明かりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいか。
もし目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。
それなら、もしあなたの内の光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。
二十二節、誰も二人の主人に誓えることはできません。
一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。
あなた方は神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。
ここに二十二節、二十三節は今日の五章八節の説明と言ってもかかわらないです。
この例の目が悪ければ、全身が暗くなるでしょう。
例の目が健全なら、全身が明るいでしょう。
だから、神を見るということなんですね。
二人の主に仕えることはできません。
二人の主に仕える、これが心が分かれていて二次元的であるんですね。
だから、清いというのは、ただ一人神様にのみ仕えるということなんです。
この世にも心が置いてある。
神にも心が置いてないわけではない。
この二つにですね、一方にも仕え、他方にも仕え、
仕えそうでない一筋、主にだけ仕えて、主だけを愛している心、それが清いという心なんです。
だから、単なる悪事をしていない、それは清いという意味ではないということなんですよね。
33:05
五十八節に戻りますと、心の清いものだけが神を見ることができるから、
皆さんはどうでしょうか。
目を開けていて、目を閉じていても、神様を見ながら、神様を仰ぎ見ながら歩んでいきたいんでしょうか。
そうすれば、心が強くなければなりません。
心が分かれていてはいけません。
この朝、精霊様がですね、神様が私に向かってこのように問われていました。
あなたは私を見たいという強いパッション、情熱を持っているんだろうか。
あなたは私の心にもっと近づきたいと願っているんだろうか。
私をもっと知りたいというこの願望があなたの心にあるんだろうかと、神様が問われているのではないでしょうか。
皆さんの中に、そのようなですね、願望、パッション、情熱があると思うんですね。
そのためには、私たちの心の中に、霊の中に、人生の中に、汚れを取り除かなければならないです。
取り除くときに、初めて神を見ることができるんですね。
そして、私たちの心を分けてしまう。
そういうものを、そこから解けなければならないんです。
そうするときに、神を見ることができる。
その人だけが幸いな人と呼ばれる。
だから皆さんの心の中にですね、神を知りたい、もっと知りたい、目がはっきり見えるようにあって、
もっと死を見たい、死を知りたい、そういったですね、この清い情熱を抱いているならば、もっともっと死に近づくでしょう。
しかし、そういったパッションがあまりですね、なければですね、その隙に汚れや、世的なものが入ってくるでしょう。
そして、汚れてしまう。
そうすると、神からどんどんどんどん遠くなってしまって、神を見ることができなくなってしまう。
見ているんですけれども、かすんでいてくっきりと見えない。
36:04
だから皆さん、私たちがもっと死を知りたい、もっと死を愛したい、もっと死を見たいという情熱を持って、死に近づいてまいりましょう。
聖書を読んだり、礼拝をしたり、祈ったりして、そして常にですね、目を覚えていても、死を見ること。
それを望みたいんですね。
八節をもう一度読みますと、心の清いものは幸いです。
その人たちは、神を見るからです。
だから、心が清くて神を見ている人が幸いな、この幸福、幸いの基準というものをこの朝、変えたいんです。
皆さんのこの基準として、幸福、幸せな人はどんなものだと思いますか。
今はですね、三節からずっと見てきましたけれども、幸い、幸福というものが、実は心が清くて、神を見る人が、神を知る人が、最も幸いな人です。
これを知って、そしてこれを掴んで歩む人が、クリスチャンではないでしょうか。
心が分かれていないんですね。
皆さん一度考えてみてください。
目を閉じていても、目を開けていても、いつも神様だけが見えてくる人。
心の中に、いつも神様で、イエス・キリストで、精霊様で、似たしている人。
このような人こそですね、最も幸いな人なのではないでしょうか。
このようなクリスチャンはですね、本当にこの宇宙万物を救いになった神様が、心にあふれているんです。あふれている。
いつも関心が、神様にある、イエス・キリストにある、福音にあるんです。
昼も夜も、いつも日が見えてくる、十字架が見えてくる。
全知全在の神様が、いつもですね、自分の目の前におられるという人とに、立ったのではないでしょうか。
これが、最も大きな大きな幸せなのではないでしょうか。
39:05
私、みんなですね、このような歩みをしたい。このような歩みを歩んでいきたい。
だから、テーブルみたいな手紙には、こういう言葉がありましたね。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから何を?目を離さないでいなさい。
イエス・キリストから目を離さないでいる人、その人が幸いな人なんです。
そうすると、いくら人生が揺れ動かしていても、苦難の中にあっても、試練の中にあっても、最悪の状況だとしても、絶望しない。
失望に落ちない。なぜでしょうか。自分の目の前に神様を見ているからです。
神の国を見ているから、失望しない。
だから皆さん、問題は、神を見ているか見ていないか。
今後の最も大事な肝心なところは、神を見ているか見ていないか。
神の国を見ているか見ていないか、ということではないでしょうか。
あるいは、見てはいるんだけれども、霞んで見えてくるのか、はっきりとくっきりと見ているのか。
イエス様は言われました。心の清いものが幸いです。
なぜでしょうか。その人々は神を見るからです。
どうか皆さん、私の心の中の願いとして、主よ、あなたをもっと知りたいです。
あなたの心がもっと知りたいです。
私の目をはっきり見えるように、主よ、開いてください。
心の目を開いてくださいまして、あなたを知ることができますようにと、祈って歩んでいこうではありませんか。
お祈りします。
41:25

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