1. 名谷教会
  2. 2012/10/14:聖日礼拝(旧音源)
2012-10-14 41:38

2012/10/14:聖日礼拝(旧音源)

2012/10/14 聖日礼拝(旧音源)


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約束ください。聖書朗読を池田睦美姉妹にしていただきます。
聖書の箇所は、「丸子の福音書十一章の十五節から十八節まで」です。
丸子による福音書第十一章十五節より、それから彼らはエルタレムに着いた。イエスは宮に入り、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、
両替人の代や鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことを誰にもお許しにならなかった。
そして彼らに教えて言われた。私の家は全ての民の祈りの家と呼ばれると書いてあるではありませんか。それなのにあなた方はそれを強盗の巣にしたのです。
最首長・立法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、文集が皆イエスの教えに協談していたからである。
続きまして、聖歌体によって賛美していただきます。新聖歌四百三十四番です。
語り継げば主なるイエスを
その御徒へと
その勇気を
私にも
生かすものは
ありがきものを
悟り得ない
語り継げばや
容赦る日まで
語り継げばや
イエスの愛を
03:04
語り継げばや
語ることに
心満ちたり
悲しさはず
ほどつく愛し
知らぬほどに
誰を追いかけて
私せばや
語り継げばや
容赦る日まで
語り継げばや
イエスの愛を
語り継げばや
命または
胸渇きたる
語り継げばや
イエスの愛を
語ることに
心満ちたり
胸渇きたる
語り継げばや
容赦る日まで
語り継げばや
イエスの愛を
語り継げばや
容赦る日まで
語り継げばや
イエスの愛を
06:03
語り継げばや
祈り備えてまいりましたこの礼拝の時
すべてから解き放たれてただあなたのみを愛するこの時を
どうか祝福してくださるようにそしてまたここに建てられたこの教会が
イエスを伝えまたイエスの愛を
人々に伝えるその使命を負っていますから
働きが十分なされるように神様がどうぞ
私たちに力を与えまた知恵を与えそして
精霊の導きをもってこの使命を果たしていくことができますように
助けてください収穫の秋でありますから神様どうぞ
私たちの職の糧を得るとともに
イエス様がおっしゃられたように魂をすなどる
領主となってそして多くの魂が主のもとに導き
入れられるように幼子からまた年老いた者まで
どの世代にありましても等しくその魂が神のものとして
もう一度あるべきところに帰ることができるようにどうか
その働きを祝福してくださるようお願いいたします
今日もまた御言葉が開かれています日本中の教会が今
礼拝の中にありますまた世界中の教会もあなたを
拝して礼拝が捧げられていますどうぞ一つ一つの
礼拝が主にあって御心にかなうものとして捧げられて
まいりますようにまた今まで教会に行ったことのない方も
どうぞ神様を求めて礼拝に来ることができるようにまた離れて
いる人たちももう一度神様を思い起こしてそしてただ
主のみを拝するために宮に登ってくることができるようにどうか
精霊様が促してくださいますように弱さを覚えて今日来れなかった方々
あるいは何かの事情で今日ここに集えなかった人たちも
どうぞその場にあって主を覚え主との交わりがなされますように
神様もどうぞ一人一人を支えまた励まし慰め必要なものを
与えてくださって今日の一日それから続く一週間をも
支えてくださいますようにそのためにも御言葉が必要でありますから
まず私たちに御言葉を与えてくださいそして御言葉によって
私たちが整えられまた私たちを使わせてくださいますよう
今からの一時全てを御手に委ねますイエス様の尊いお名前に
よってお祈りいたしますアーメン皆さんが日々
09:00
祈りに励んでおられることを覚えて皆を崇めますそれぞれ
個人的にリボーションを持って首都の交わりをされておられることを
信じますまた教会では祈祷会がありまして
場所と時を同じしてそこに集まる人たち
それによって鳥梨の祈りまた明かしを支えながら
御言葉を開きながらまたそこで祈りが
なされているということを覚えて皆を崇めます
朝の早くから来てくださって
そして祈りが捧げられています
祈りは教会の生命線でありますしこの福音宣教の働きの
また力でありますから私たちが
祈りを大切にするというそのことをこれからも覚えて
それぞれに神を求めてまた神様の力を
いただくために祈りに励んでいきたいと願っております
今日読んでいただきました箇所は先週
話しましたようにイエス様がエルサレムに
いよいよ入られたということですねそれもロバの子に乗って
エルサレムに入られたそしてエルサレムの人たちがその
イエス様を迎え入れたそういうところを
先週見たわけでありますこの小さなロバの子
普段は誰の目にもとまらなかったそういう小さな存在
そのものにもイエス様は目をとめてくださって主が
お入りをならばということでこのロバの子が
用いられたエルサレムに入るというイエス様の最後の
その時を迎える大事な時にもこの小さく弱く
乏しいものさえも主は用いてくださるんだということを覚えた
次第でありますそしてそれから
いよいよ彼らはイエス様と弟子たちは
エルサレムに着いたという十五節を見ました
エルサレムに入られたそのところで
イエス様がまず目にされたものそれはいわば神殿
かつての神殿ですね宮とも呼ばれますがそこに
目がとまったわけですがそこには当時
ちょうどこの時杉越の祭りということもありましたが
たくさんの人がそこに集まっていました
そして見ますとお店がたくさん出ていて売り買いする人たちで
12:02
ごった返しているそういう様子が目に浮かびます
あちらからもこちらからもたくさんの人が来ている
外国からもエルサレムに来ているという人たち
宮本に来ている人たちがいたということが想像されるわけです
そして捧げ物を買うために
それを求める人たち鳩を求める人たちそしてそれを売る人たち
あるいは外国の人たちのためにお金を領外する
領外人を忙しくしているそしてその商売のために
いろんな器具とか商売道具を運ぶ人たちが
神殿の中を行き来しているそういう様子が目に浮かんでくるわけです
イエスは宮に入り宮の中で売り買いしている人々を見た
あるいは領外人や鳩を売る人たちの姿を見たわけです
また宮を通り抜けて器具を運ぶそういう人たちの姿を
イエス様は見たわけであります
この様子をご覧になったイエス様はどう思われたのか
そして何をなさったのか
それからイエスは宮に入り宮の中で売り買いしている人々を
追い出し始め領外人の代や鳩を売る者たちの腰掛けを倒し
また宮を通り抜け器具を運ぶことを誰にもお許しにならなかった
そして彼らに教えて言われた
私の家は全ての民の祈りの家と呼ばれると書いてあるではないか
書いてあるではありませんか
それなのにあなた方はそれを強盗の巣にしたのですと
イエス様はおっしゃったわけです
イエス様は売り買いしている人たちを追い出し
領外人の代鳩を売る者たちの腰掛けを倒し
器具を運ぶ人たちの通るのをお許しにならなかった
いわゆるイエス様は大変怒ったわけです
憤られたということそしてそれを行動に移されたということですね
私たちは福音書を読んでいくにあたって
イエス様という方をイメージするわけですが
多くの場面はイエス様のいわば誠意の部分
静かに祈っておられる姿あるいは群衆に教えておられる方
しかしこの場面はいわばイエス様の怒の部分です
そしてこのイエス様が怒りあるいは憤られた
15:07
以前にも一度イエス様が憤られたことがありました
それは街道でイエス様が神の国を問いておられるときに
子供がイエス様のところに来ようとした
子供たちが行っちゃいけないとたしなめたところ
イエス様は弟子に憤られた
それを止めてはいけないということを大変憤られたわけですね
子供たちを来るままにさせなさいというそういうことをおっしゃったわけですね
イエス様も怒るときは怒るんだなというそういう思いですね
私たちも怒りとかあるいは意気通りというのを誰しも持っています
持っていないほうがおかしいのであって持つわけですね
しかしその怒りというのには二種類あるということが考えられます
一つの怒り意気通りそれは何かに対してあるいは人に対して
いわゆる腹立たしいというそういう感情ですね
怒り怒り高ぶりというそういう思いが現れるという
そういうものがありますいわゆる平静であるとか冷静であるということの反対の感情ですね
それが怒りということですがもう一つの怒りというのは
偽善とか不真実不誠実そういうものに対して怒るあるいは意気通りを覚える
要するにこれをそのままにしておいたら大変だ
それを何とかやめさせなければいけない正さなければいけないというそういう怒り意気通り
これはただ感情ということもさることながらちゃんと理性は働いているわけですね
これはだめだこれはいけないんだこれは何とかしなければいけないということのための
一つの現れとしての意気通りというものがある私たちはどちらかですが
あるいは両方あるかもしれないきちっと理性を働かせてこれはだめだ
しかしその表現として本当にそれはいけないことなんだということを
意気通りということを表すことによってそれが人々に伝わるならば
それをしないといけないしそれが自然に出るのかもしれません
ただ感情だけで怒る意気通りでもそれは人に通じないかもしれない
18:00
イエス様はおそらく両方を持たれたんだと思うんですね
それはなぜでしょうかそれはこの神殿いわゆる宮というものが
本来あるべき姿からはもうほど遠いそういう姿になり下がっている
そういうことを見られたわけですね
エルサレムがにぎわっているそれはいいわけですけれども
そのエルサレム神殿が人々の本当に喧騒に満ちあふれて
それが欲望とそして利益を満たすための場になり下がっている
そういうことを思われたときにイエス様は怒りまた意気通られた
もちろんきちっと理性が働いてこんなことでいいんだろうか
これは決して本来あるべき姿ではないんだ
だから彼らにしっかりそのことを伝えなければいけない
だから彼らにしっかりそのことを伝えなければいけない
そういう思いがあってイエス様は意気通られたわけです
神様もイエス様も怒られるんだ意気通られるんだ
イエス様だって我慢がならないそういう時があるんだということをここで見るわけですね
それはなぜでしょうか
私たちの信ずる神様聖書の記されている神様というお方は
愛もあれば情け哀れみももちろんあるお方です
それと同時に怒りもあるそういうお方であるということがわかるんですね
それは誠の神というのは命のない偶像ではないからです
私たちの信ずる誠の神は血もあれば涙もあるし
あるいは人間と同じようなそういう感情もある
そして怒りもすれば意気通りもするんだ
それは必要があってそうせざるを得ないそういうことを表しなさるお方なんだ
私たちの神は生きておられる神なのだ
そういうことをここからもわかるわけであります
それに対して当時のエルサレムにいた人たちは
みんな神殿あるいは宮というのはこれでいいんだ
みんながこれで宮に来てあるいは網出に来て楽しんだい
帰ればそれでいいじゃないか
そして捧げ物を求める人がいるんだから
それを売る人が必要だし買う人がいていいんだ
そしてそれによってお金儲けをして経済が潤えばそれでいいじゃないですか
それのためにこの神殿とか宮を利用する
21:01
用いさせていただいて何がいけないんですか
というような誰も言わないまでもそれがまかり通っていたということですね
しかしイエス様はそうじゃないんだ
それは本来あるべき宮としての姿ではない
そのことを彼らに何としてでも言っておかなければという思いが湧いてきたわけですね
エルサレムの神殿本来あるべき姿を取り戻すように
そのことをイエス様はここで意気通りを持って言われたわけです
イエス様は他のことは寛大なお方ですから目をつぶってくれるそういうこともある
それはそれでいいんじゃないかというそういうこともイエス様は言ってくださる
いろんな面で許してくださるまた寛容を持って受け入れてくださるそういうお方です
しかしこのように神に関することそして神を冒涜するようなこと
神に対してあるべき姿をとっていないそういうことに関しては一切の妥協を許さないというそういう面がここから見えるわけです
そしてそのことをイエス様は見言葉を持って人々にこれを示されたわけですね
特に祭司長立法学者あるいはパリ祭人というそういう人たちは何を言っても聞く耳がない
ただ唯一彼らに有効なのはやはり聖書のお言葉
彼らにとっては今でいう旧約聖書ですが
サタンの誘惑をイエス様は見言葉によって知りづけなさったように
この神殿のあるべき姿を示すためにもイエス様は見言葉を持ってまずそれを彼らに説いたわけですね
そしてもう一度その見言葉を思い起こせ
お前たちこそ一番見言葉を大事にしその見言葉に立って生きると豪語しているものではないか
だったらその五十六章の七節のこの言葉をもう一度思い起こせ
私は彼らを私の聖なる山に連れて行き私の祈りの家で彼らを楽しませる
彼らの前生の生贄やその他の生贄は私の祭壇の上で受け入れられる
私の家は全ての民の祈りの家と呼ばれるからだ
そう書いてあるではないかあなた方も知っているはずだ
それをもう一度思い起こせ
それなのにあなた方は今やこの聖なる場神殿宮を強盗の巣にしているではないか
24:10
商売をするために利用しているとは何ということだということを
私様はここではっきりと彼らに示したわけであります
本来のあるべき姿この神殿宮のあるべき姿
それは商売をするところではない
神に礼拝を捧げるところそして祈りを捧げるところであるべきだ
私の家は神のいわゆる家神がおられるところそこは祈りの家と呼ばれる
祈りの家でなければならないんだということをあなた方はここでおっしゃったわけです
私たちもそのことをしっかりと覚えておきたいと思うんですね
神に礼拝を捧げそして祈りを捧げるところ
それが神殿あるいは宮と言われるところであったんですが
現代で言えばそれは信約の時代に生きる私たちにとっては
それは教会と言ってもいいかもしれません
神殿とか宮というのは建物をイメージしますから
それはこの教会堂ということになるんでしょうか
その教会あるいは教会堂教会の敷地そういうものはここにありますように
私の家は祈りの家と呼ばれるまた祈りの家礼拝のところと呼ばれる
そうでなければいけないそのことを私たちは再確認するということですね
ある人がこのような質問をしました
では教会堂でバザーをするのはいいのでしょうか
これは問題ないとされています
なぜなら目的が商売ではないからです
利益を上げてそのお金を儲けとしていただくという
そういう目的でしているのではないからバザーは問題ないとされているんです
いわゆる皆さんがこれは自分はもういらないだろうと処分しようと
そしてゴミに出そうと
でもまだ十分使えるそれを処分しないでもったいないという心で
27:00
何とかこれをできないだろうかということで
それじゃバザーというものでそれを安く提供して
それをまた必要としておられる人もいるならば
それを買ってはいただくんですけれどもそれは利益ではない
そこで捧げられた金銭それを神に捧げる
あるいは事前事業あるいは災害の寄付基金として
それを捧げるというそういう目的でバザーがなされている限り
それは問題ないわけです商売ではありません
イエス様もそれならいいだろうというふうにおっしゃってくださっているわけですね
私の家は祈りの家と呼ばれる
私たちもやはりこの教会のあるべき姿をもう一度思い浮かべて
そこから決して離れてしまうことのないように
そこに礼拝が捧げられまた祈りが捧げられているという
そのことをしっかり覚えてそこから離れない
神をないがしろにするようなそういうことをそこで行うことのないように
ということを私たちはもう一度覚えるわけですね
そういうことを前提にしてそれじゃ教会の敷地あるいはこの教会堂
教会の持っているものをただ礼拝そしてお祈りのだけに使うのがいいんでしょうか
それはバザーというようなものに用いることもこれはいいでしょうし
あるいは子どもたちを集めてそしてここでゲームをする
賛美を捧げるそういうこともいいわけですね
それは目的が何なのかそしてこういうことをすれば神様はきっと喜んでくださるし
私たちはそのためのまた教会であり教会の建物であり教会の持っているもの
それを利用させていただくそれをしているわけですね
ある教会ではその教会あるいは教会堂というのを用いて文化教室をしている教会があります
それは一般の人たちも教会ってどんなところだろうか
そういうことを思っておられる方に教会に来てください
そこではこういうことをしていますよと言いながら目的は何とかその人たちにも教会を通して神様を知っていただきたい
そこで祈りを捧げたりあるいは御言葉を少し伝えたりしながら
何とかその地域にその福音が伝わりますようにというそういう思いを持って
30:03
一つの手段として教会堂を用いて文化教室をする
ある教会では日本語教室というのは今や日本にも外国からたくさんの人が来ておられます
そういう人たちに日本語を勉強するんですがYMCAのようなたくさんのお金を払って行ける外国の人も
そこで学ぶ外国の人もいますがそういうお金がなくてしかも日本語が必要だということで
その教会ではそういう人たちのために教会堂に日本語教室をつくって誰でも来てください
そこでは専門的ではないですけれども日本語を教えて差し上げましょうというようなことでやっている教会があります
私もそういうところでしばらく日本語を教えたことがありますがいわばボランティアですね
でもそれは日本語を教えるそういう一つの目的はありますけれどもそれはやはり教会というそこに神様がおられて
その日本語だけではない何か困っているならばそこでいろいろな情報が得られたり助けが得られたり
あるいは心の支えとして祈り合ったりそんなことをしているわけですね
そういう中から神様っておられるんだ本当に神様って生きておられるんだということをそこで知るというようなこと
神様の愛にそこで触れていただくということのために教会の持っているものなら何でも使っていきましょう
また神様がそれを願っておられるんだろうそういうふうに思うんですね
ですから教会は持っているものをその働きのために用いていくそれは神様の御心ではないだろうか
もちろん礼拝を捧げ祈りを捧げ祈りの家としてのそういう働きそれはもちろんのことですけれども
私たちが福音宣教の働きという尊い使命も預かっています
イエスの愛を何としてでも伝えなければいけないそのために持てるものならどんなものでも用いさせていただきましょうというこれが教会の働きであるわけです
では教会の持っているものいわば財産教会の財産とは何でしょうか
それはまず土地がありますもし教会が持っていればですよ教会が財産として土地を持っています
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そしてこういう建物を持っています教会堂という建物が財産ですあるいはピアノやオルガンもそうですね
あるいはこの預金のある教会もありますしこういうテーブルとか椅子のような備品こういうものもみな教会の財産なんですね
他にないでしょうか
人材という言葉を皆さんが聞くときにどういう感じをイメージなさいますか
人材おそらくこうだと思うんですね
人材要するに人が材料というと失礼ですけれどもいわば人が道具あるいは器具でもいいんですがそういうふうにして持ち入られるという意味で会社なんかは人材という言葉がよく使われます
人手が足りないと人材確保しなければならないそして不況になるとリストラ人材削減まさにこの人が一種の材料のようにして物とまでは言わないまでも増やしたり減らしたりそういうふうにしてこの世の中は動いているということですね
しかし教会でもし人材という言葉が言われるとすればそれはこの字を当てたいと思うんですね
教会で人材といえば人が財産なのです
人こそが教会にとって最も大事なそして最も価値ある財産であるということ
私たちの教会も財産目録というものを提示して出さなければいけないんですが土地とか建物とかそういうものももちろん含めますがやはりその教会にメンバーとしておられる教会員の皆さんそれがまさに教会の財産である
人こそが財産であるそしてこの教会のメンバーの人たちの家族あるいは教会に来てくださる人たち子供からどの世代の人たちも教会に来てくださる人たち
人こそが財産なのだこのことを私たちはもう一度覚えたいと思うんですね
もちろん私たちが与えられているこの敷地や建物やあらゆるものを用いてそしてそれを福音選挙の働きのために使わさせていただく
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それと同時に神様が最も願っておられるのは教会の最も大事な価値ある財産そしてその一人一人に与えられている賜物そういうものを生かしてそしてそれを神様は用いたいと
そう願っておられるそのことを私たちは改めて思うわけですね私の家は祈りの家と呼ばれるそしてその家でその教会で礼拝が捧げられそして祈りが捧げられている
それは何よりも私たちが整えられそして力を与えられそしてその使命である福音選挙の働きに向かっていくそういう力となるのだ
パウロは自分の手紙の中でこのように書いています私は福音のためならどんなことでもするもちろんどんなことといっても神様の御心あるいは聖書から外れたことはしませんけれども
私が持っているものあるいは与えられている賜物あるいは私のできることならこれが福音のためならどんなことでもさせていただきますそれが彼の伝道のスピリットであったわけですね
とするならば教会もまた教会は福音選挙の働きのためなら教会の持っているものを何でも用いてさせていただきますそして何よりも教会の最も大事な最も価値ある素晴らしい財産であるその一人一人を用いて
そして神様はその福音選挙の働きを進めていかれるんだということそのことを覚えていきたいと思いますそのためにもやはり祈りが必要であるそしてそのためにも整えられるためにも礼拝を持って一週間が始められる
礼拝を持ってそこで力をいただき新しい礼の注ぎをいただいてまたそれぞれに使わせていただくそこはこの世と言われる大変戦いの多いところでありますそこで精一杯のことをさせていただきそしてまた週の始めの日こうして集まって
ともにまた祈り合い賛美し合いそして支え合ってまた力をいただいてそして週の半ばには祈祷会もあります毎朝祈りが捧げられています一人で祈ることも幸いでありますけれどもまた二三人わが名によって祈るとき私もそこにいます
39:10
この膝を交えて祈り合うそういうときがあるということも本当に幸いなことであります私の家は祈りの家と呼ばれるこの教会のあるべき姿を私たちはいつもイメージしながらそこに私たちも加えていただいて
そしてまず礼拝を捧げ祈りを捧げそして福音宣教の働きに向かっていきたいとそう願っていますお祈りをいたしましょう私の家は全ての民の祈りの家と呼ばれると書いてある
天の神様イエス様が怒りまた憤られたそれは神殿そして宮が本来あるべき姿から離れてそして強盗の巣だ商売のために利用しているではないかと本当に怒られたその思いが伝わってきます
私たちのもう一度教会のあるべき姿をここから思い起こして祈りを持ってこの福音宣教の働きが進められていくことができるようにまた集っては礼拝を捧げてあなたを賛美しあがめていくその一人に加えていただいたことを感謝するものとさせてください
そしてそこでいただいた新しい力をもってまた福音があまねく伝えられてまいりますようにそこに神様の技が多く起こされてまいりますようにそれを見る人たちが神様の愛に触れまた神様の力を自分もいただきたいというそういう思いでまた一人二人三人と集ってこられます
そのことを私たちも期待しまた信じて祈り続けるものとさせてください御言葉を感謝してイエス様の尊いお名前によってお祈りをいたします
アーメン
41:38

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