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皆さん、おはようございます。
今年のアドベント対抗説が、今日から始まりました。
1年が早い気がしますけれども、でも変わることなく、この世に死ぬ前に、
兄弟姉妹たちが共に集まって、礼拝を守れるこの恵みを、本当にここから衆に感謝いたします。
では、メッセージの前に、隣の方とあいさつを交わしましょうか。
どうしましょうか、皆さん。よろしくお願いいたします。
おはようございます。感謝します。一言お祈りします。
光は闇の中に輝いている。野人はこれに打ち勝たなかった。
アーメン。神様、光のあるイエス・キリスト、私たちにお使わせになり、
闇の中にいた私たちに、そのイエス・キリストの光を照らしてくださって、
闇の中から救ってくださって、光の子にしてくださった、
そのかけりなき不思議な主の恵みに、救いの恵みに、主よ心から感謝いたします。
その恵みを覚えて、感謝して、主よ、今、主が私たちに語ってくださる主の御声に心を低くして、
謙遜に主の御言葉を期待求め、受け止めることができますように、
聖霊様一人一人にお気づきを、恵みを、祝福を、天の窓ひかいて、
天の諸々の祝福をお与えくださいますように、お願いいたします。
主よ感謝します。イエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン、アーメン、感謝します。
今日からアドベント対抗説が始まりますので、
アドベント説教を22日のクリスマス礼拝まで、
ですから今日が1日ですので、8月15日、22日、4回にかけてさせていただきたいと思います。
今日はその第一回目として、
闇の世に来られた光のイエス・キリスト、闇の世に来られた光のイエス・キリスト、
という題にして御言葉を共にお受けしたいと。
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もう町はですね、すでにクリスマスが近づいていることを、
この世の中は教会より先にキャロルが流れていたり、
クリスマスツリーとかで光って飾っていますね。
クリスマスが近づいているのだなと感じるところであります。
神戸は毎年ルミナリエで開き、イベントをしたりするんですけれども、
クリスマスにこのクリスマスツリー、この光、明かりがどういうふうに始まったのか、
その文章が残っているわけではありませんが、いろいろ説によりますと、
クリスマスはいわゆる地球界とヨーロッパで始まったわけですけれども、
だいたい毎年の12月25日が一年中一番夜が長い、あるいは暗い時期だそうなんですね。
それでクリスマスを表す、祝うために電球でしょうけれども、それを飾るようになったそうです。
それもよく聖書を見ますと、今日読んでいただきましたヨハネノクイションの御言葉からヒントを得たのかもしれない。
ところがその光というものは単純な飾りということを超えて、
その光にはとても重要なクリスマスの意味がそこに内在していると思うんです。
皆さんが真っ暗で何も見えない部屋に入ったとしましょう。
周りが何も見えない。何がどこにあるか何も見えない。
でもそこで何かをしなくならない時に、まず何をするんでしょうかと。
電球を作るでしょうね。光が欲しくなるわけ。
星っていうか引くようなんですよね。そうしないと真っ暗だから何もすることができないんですね。
暗いから何も見えない。暗くて何も見えない。何もすることができない。
これは当たり前の話ですけど、実はこの暗くて何も見えない。
この言葉がクリスマス、イエス様が光として来られたという御言葉の中にある第二なポイントなんです。
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聖書はこの世は闇だと宣言をしています。
世は闇であって、光なるイエス・キリストが来てくださって照らしてくださらなければ、
この世は決して道を見つけることもできないし、自分自身のことも見ることも知ることもできない。
では今日のヨハネイの福音書1章の9節と10節一緒に読みましょうか。
ヨハネイの福音書1章9節と10節一緒に読みたいと思います。よろしいですか。
すべての人を照らすそのまととの光が世に来ようとしていた。
この方はもとから世におられ、世はこの方によって作られたのに、世はこの方を知らなかった。
ここにね、すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
あるいは今日の1章の5節に、光は闇の中に輝いている。
光は闇の中に輝いているとあります。
闇だから、暗いところだから、光が必要であるということです。
もう一箇所、集約聖書について説明したいと思います。
イザヤ書大中小1節と2節です。
今日はこのイザヤ書中小のこの部分とヨハネの福音書を開いたりしますので、そこにしおりをつけていただいて。
私の聖書では、旧約聖書1139ページです。
旧約聖書1139ページ、イザヤ書大中小。
では、1節を私が読みますので、2節をご一緒にみんなで読みたいと思います。
1節、しかし苦しみのあったところに闇がなくなる。
先にはジェブルンの地とナフタリの地は恥かしみを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川の彼方、異邦人のガリダヤは栄光を受けた。
ご一緒に、闇の中を歩んでいた民は大きな光を見た。死の影の地に住んでいた者たちの上に光がてった。
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この旧書の1節からはイエス様の誕生を予言した御言葉なんですね。
さあ、皆さん、先読まれた弱音の福音書1章の9節、10節。
それから今のイザヤ書9章の1節、2節。
ここに共通的に2つが対比的に出てくるんですね。
闇、それから叱りということです。
この世は闇である。イエスは光である。
そしてその闇のまま放置するのではなく、光なるキリストが来られて、その闇を照らしてくださる、輝かせてくださるということです。
さあ、皆さん、闇、暗いということは聖書ではほとんどの場合、闇は悪、あるいは無知を意味します。
だから、この世が闇である、闇の中を歩んでいる、死の影の地に住んでいるという意味は、その中に悪があり、罪があり、そして神を知らない、
いや、自分自身のことも気づいていない無知がそこにあるということなのです。
イザヤの時代もそうでしたし、特にイエス様がお生まれになった時代は最もそうでした。
その世は不義で、暴力、不正、悪性、偽り、悲しみ、苦しみなどなど、それはもう蔓延していました。いっぱいでした。
ところが、2000年前のイエス様がお生まれになったあのイスラエルの地だけではなく、
今日私たちが住んでいるこの世界も同じものではないでしょう。
不義があり、不正があり、錯視があり、悲しみ、苦しみがあるということ。
闇ということは、闇だから何も見えないということなのです。
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そして何も見えないんだから、自らではその悪を、苦しみを治す、解決できる方法を持っていない、知ることができないという意味でもあります。
真っ暗の中では皆さん、目を開けていても盲人のようです。何も見えません。無知の状態です。
自ら自分で自分自身を助けることも、救うこともできない状態。これが闇です。これがこの世です。
つまり、だから、光のイエス・キリストが必要であるということです。
このイテヤ書9章の1節2節が始まっていますが、その前の8章には、なぜこの闇の世に光なるイエス・キリストが必要なのか、
闇のこの世の状態はどういう状態なのかが、
8章の19節からその時代層を挙げて、闇というものは、無知というものは、光のない世界、イエス・キリストを持っていない世界はどういう状態なのかが、
8章の19節からとてもリアルに関棚に書かれているんです。私が読みしますので、ご覧くださいますか。
イテヤ書の8章の19節から、私が読みしますね。ご覧ください。
人々があなた方に礼拝やさえずり、ささやく口寄せに尋ねようと言う時、民は自分の神に尋ねなければならない。
生きている者のために、市民のうかがいを立てなければならないのか、教えと明かしに尋ねなければならない。
もし、この言葉に従って語らなければ、その人には言うわけがない。
彼らは迫害され飢えて、国を歩き回り飢えて、怒りに身を委ねる。上を仰いでは自分の王と神を呪う。
22節一緒に読みたいと思います。
地を見ると見よ、苦難と闇、苦悩の暗闇、暗黒、追放された者。
皆さんどうでしょうか。
イザワの時代だけではありません。イエス様の時代だけではありません。
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今日も同じでしょう。
どういう意味でしょうか。
人々は無知の状態なのに、霊媒やさえずりみたいに、この人間を頼りにしようとする。
人間に知恵を求めようとする。そこで光を得ようとする。
つまり、どういう意味でしょうか。
昔も今も、この特にジンポン主義のその中にある反キリスト教的な思想、価値、泉はですね。
私たちは闇の中にいるんだけれども、自分の力で頑張れば、これを克服できるんだと。
今日もそういう思想が、実はとても満喫していますね。
霊媒主義の時代から、このジンポン主義のいっぱいのこの時代には、お金さえあれば大丈夫。
私は元気だから大丈夫。あるいは、この国はいい国だから大丈夫。
他の人は潰れても、俺は大丈夫。あるいは、平和が大事だ。
頑張ればできる。神なんていらない。
あなたは頑張ればできる。何でもできる。といったジンポン主義には、神のない価値観でありまして。
そこには、この闇、実は闇の中に、暗闇の中にある。
聖者の言葉を借りますと、絶望の状態であって、罪と他の家に死んでいる状態なのに、何か頑張ればできると。
それも一つの信念であって、信仰でありますね。
頑張ればできる。人間にはできないことはない。
一見聞けば、なんかアップされる、勇気づけられる言葉、いい言葉のように聞こえますが、
非常に危険な反キリスト教的な思想がそこに、その中にあるわけなんです。
それは私たちは見逃さなくちゃ。
そこにはキリストの光がなくても大丈夫、答えをいくらでもつかめる、
自ら救える、自ら自分で自分を助けることができる、ということなんですね。
それがこの世の価値観であります。
しかし聖人はそう語っていないんですよ。
死を見ると見よ、苦難と闇、苦悩の暗闇、暗黒、追放された者。
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闇の中を歩んでいた民、死の果ての地に住んでいた者たち。
弱音の国ではどうでしょうか。光は闇の中に輝いている。
全ての人を照らすその誠の光が世に来ようとしている。
皆さん、聖書の真理は何を語っているでしょうか。
この世は闇だから、自分では自分を救うことができない。
自分では自分を助けることができない。
何も見えない、何も知ることができない状態だから。
それがこの世であるということなんですね。
他の聖書の言葉では、罪と戸場の上に死んでいたという。
私、日本に11年目住んでおりまして、時々津波が来たり地震が起きたりして、大変災害の多い国であって悲しいところでありますが、
その時によく新聞やテレビでよく聞こえる言葉があります。
頑張れ日本、皆さんもよく聞かれたことあるでしょう。
勇気を与える良い言葉かもしれませんが、
実はその他にも、よく聖書のレンズを持って、神の目から見れば、そこにはとても原本主義的な思想が深く内在していると思われるんですね。
いくら台風が来ても、やられても、津波が来ても、地震が来て廃墟になっても、
力を合わせてやれば、この日本は何でもできるんだ、頑張ればできるんだ、日本人はできる、日本はできるということ。
確かに力を合わせて募金をして、ボランティアをすれば何とかできるでしょう。
けれども、そこには神はいらないという思想が実はあるんです。
神なくても大丈夫という思想がそこにあるんですよ。
クリスマスはそれを知らなければならない。
さっきも言ったように、聖書は頑張ればできるよと教えていないんですよ。
地を見るとみよ苦難と闇、苦悩の暗闇、暗黒、罪をされたものだけだという言語にあります。
ですから、救いの始まり、クリスマスの本当の意味を知るために、福音の始まりは、
この楽天的な資格、楽端論から始まるのではなく、
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実は徹底した悲観論、完全な絶望から始まらなければならない。
私たちは、この世は暗黒である、闇である、罪の状態であって、悪の状態であるから、
自らは何も見ることもすることも助けることもできない。
地図を見て、周りを見て、この世を見ても、そこには答えがない、道がない、希望がない、命がない。
だから私たちには、私には、この世には、光の真理の命のイエス・キリストが絶対的に必要である。
これが皆さん、信仰の始まりであります。
これが福音の始まりであって、これがイエス・キリストに出会うクリスマスの本当の意味なんです。
本当の救いは、自分と私たちとこの世の実体を正しく知るところから出発しなければならない。
どんな実体でしょうか。
今申し上げましたように、闇と罪、悪に満ちたこの世というものなんです。
そしてそこには、自らはどんな答えも、希望も、命も、結果も得ることはできない。
絶望を経験してからこそ、本当の救いが始まるんです。
絶望だから、闇だから、だから光のイエス・キリストが絶対的に必要なんです。
私は完全な闇であって、悪であって、罪だから、光なる、真理なる、道なるイエス・キリストを捕まえられない。
この道しかいない。
これが信仰の始まり、始まりである。
そしてクリスマスの本当の意味がここから始まるんです。
今日のイザヤ書の九章の二節。
私がもう一度お読みしますね。
イザヤ書九章二節。
闇の中を歩んでいた民は、大きな光を見た。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に、光が照った。
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死の陰の地に住んでいた者たちが、私であって、皆さんであるんじゃないでしょうか。
だから必要なんですよ。光が必要なんですよ。
そしてヨハネの一書九節にも、全ての人を照らすその誠の光が世に来ようとしていた。
このヨハネの一書九節、イザヤ九の二節をよく皆さん見ると、
光がどこから来るんですか。
この世の中から、あるいは自分の内から、私たちの中で光を作り出せますか。
そうではないでしょう。光は外から来るんですよ。
この世の中では、私たちの内側には、人間の中では、いくら頑張っても努力しても、
知恵があっても、優秀な国だとしても、光をイエス・キリストが来ていただかなければならないんです。
皆さん覚えていてください。
この世の人々は、闇である、罪である、悪である。
自分自身のことに気づいていない、知らない、無知であるということなんです。
私たちは、たまにいろいろ話をしているときに、
当たり当たりさんは本当にいい人ですよ、いい仕事を持っていて、とても真面目でいい子ですよと、
そういう話を家族のこととか周りの人の話をすることをよく聞くときがありますけれども、
確かに優しい人であって、いい人であるかもしれませんが、
私たちは聖書の目をもって、神の目をもって、自分自身、周りの人々、この世を見なければならない。
どのように見たらいいんでしょうか?
絶望の状態、罪と徒花のゆえに死んでいる状態、闇、無知。
だから彼らに誠の光なるイエス・キリストが絶対的に必要である。
聖書というレンズでこの世を見れば、ただ二つの種類の人がいるだけなんです。
光を持っている人、光を持っていない人、イエス・キリストを持っている人、イエス・キリストが必要な人。いいでしょうか?
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それが聖書の教えであり、
この世には真意もないんです、道もないんです、善もないんです。
ただ、暗闇と罪と仏があるだけなんです。
だから、いくら可愛い子であっても、いくら素晴らしいノーベルトをもらった受賞者であっても、
世界最大の発明をした人であっても、キリストを持っている、持っていない人。
光を持っている人、光を持っていない人。
だから、キリストが必要な人、光が必要な人、ただ二つの種類の人がいるだけ。
私たちは、そういう目で人を見ないと伝道はできないし、しないんです。
ただ、いい人が周りにいるだけだから。
しかし、聖書の目で見れば、闇の中にいるだけなんです。
罪の罪ととかむように、死んでいるだけなんです。
いくらいい人であっても、すみませんが、孤独であっても、キリストが必要な人。
だから、光のイエス・キリストがこの世に必要である。
そして、来てくださって、私たちは、自分自身が闇であること、罪であること、
このままでは絶望しかないことを気づいて分かったんだから、
光のイエス・キリストを信じたのではないでしょうか。
そうでしょう。
もしも、それがなしにイエス様を信じたならば、これを改めなくならないでしょう。
周りの人が洗礼を受けるから、良さそうだね、私も洗礼を受けてみようかな、とね。
それで、洗礼を受けて、疎開生活を何十年もしていたならば、それを改めなければならない。
絶望なしに、罪なしに、その気づきなしには、救いは実は始まらない。
クリスマスは、私たちの自分の存在が、闇である、罪である、悪である。
自分自身が自分自身を頑張っても、救うことができない。
助けることができない。
だから、光と命など、イエス・キリストが必要である。
この方以外には、本当に希望がないと分かったから。
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それで、イエス・キリストを受けた訳なんですよね。
その日が、クリスマスなんですよ。
クリスマスによく、プレゼントをあげたりもらったりするんですよね。
私は、クリスマスに嬉しいプレゼントをもらったのが、あまりにも昔なので、記憶にございませんが。
クリスマスの本当のプレゼントは、イエス・キリストなんですね。
ところが皆さん、このイエス・キリストというプレゼントを、
イエス・キリストの救いというプレゼントを、
ある人は受けやすいんです。
でもまず、ある人は受けにくいんです。
どんな人が、このイエス・キリストというプレゼントを、
イエス・キリストという救いのプレゼントを受けやすいと思いますか。
それは、今の自分のままでは、絶望しかない。
私は闇であって、罪であって、
私には光が必要である、命が必要であると、
もう徹底的に悟った、分かった人が、
光のあるイエス・キリストというプレゼントを受けやすいんです。
つかみやすいんです。
この闇から、もうね、逃げたいんだから。
抜けたいんだから。
だから、光のあるイエス・キリスト、そのプレゼントを受けやすいんですよね。
自分自身が闇であること、絶望であることに気づいて認めた人が受けやすいんです。
しかし逆に、これに気づいていない人、分かっていない人、
自らやればできると思っている人、
自分はまだもういい人間であると思っている人、
頑張ればできると思っている人、
生活にまだまだ余裕がある人、
世の中で自分なりに成功したと思っている人、
あるいは成功した親のもとで育った子供たち、
そういった人々には、実は闇の中にいるにもかかわらず、
自分自身のことに気づいていない霊の猛人だから、
その救い光なるイエス・キリストというプレゼントを受けにくいんです。
いや、受けようと思わないです。
まだ自分は大丈夫だと思うんだから。
それは聖書の言葉で言えば、霊的に盲目の状態だから。
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だからイエス・キリストを必要と思わないんです。
そういった意味こそ、望ましくないことかもしれませんが、
病気になって、事故に遭って、失敗して、貧しくなって、
あるいは罪のゆえに恥を経験して、
自分では何もできないんだという、
もう人生のどん底に落ちた状態になって、
初めて私には何もできないんだ、
絶望を感じて、そしてイエス・キリストを掴むようになる。
その方が幸いなんですよ、皆さん。
人は罪人だから、自らはそれを知ることも悟ることもできない。
この前ある統計データを見たんですけどね、
今、アフリカと、あるいは中東のイスラム圏、
中国含めて、世界で日本から見れば本当に貧しい国で、
あまり横にも行きたくないような、
そういう国に、今、ものすごい福音が広まって、
クリスタン人口が増えているんです。
アフリカだけ見ても、全部数えていないから分かりませんが、
何億人以上のクリスタンがいる。
京都のイスラム圏では、不思議な神の働きによって人々が救われる。
教会もないのに、不思議に夢の中でイエス様を見る。
あるいは今、人口衛生の放送が流れているから、
その中で救われる人が多くて。
中国には1億人以上のクリスタンがいると言われている。
南米はですね、もう何十万人の集まる教会がたくさんある。
ところが、アメリカも日本もイギリスも、
昔英語を輝いたセンチン語という国は、
キリスト教がどんどんどんどん落ちている。
まだ余裕がある。何でもできる。
しかし、そうでない国では、むしろ貧しいから、
むしろこの不正、この不義、こういう状態から、
キリストを光に出会った人が、
これが本当の道なんだと言って救われる人が、
ものすごく増えているんです。
もう一度繰り返して申しますと、
この世にはたった2つの部類の人がいるだけです。
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光なるイエス・キリストを持っている人、
光なるイエス・キリストが必要な人。
メッセージを終わりたいと思います。
闇、悪、罪、死、絶望。
これがイエス・キリストに出会う前の、
実は私たちの姿、実態でした。
しかし、光、命、道、真になるイエス・キリストが、
人間としてお生まれになり、
低くされて、威厳しくなられて、
私たちに光を照らしてくださった、
命を与えてくださいました。
そのイエス・キリストを掴んでいるから、
信じているから、我々は、
もはや闇ではない、罪ではない、
悪ではない、無知でもない、
光と命の中にあいみをさせていただいております。
この世に、皆さんこの世に、
光なる、命なるイエス・キリストが照らされて、
一人でも多くの人々が救われますように。
殿堂に励み、祈りに励み、
また、光を入れたいった私たち、
照らされた私たちも、
この光を放つものとならしていただきましょう。
お祈りします。