00:01
皆さん、おはようございます。
今日も礼拝にようこそいらっしゃいました。寒かったり、ちょっと暑かったり、風邪をひかれたりされている方がいらっしゃいますけれども、
今日もお礼が守られますことを、僕はただ感謝いたします。
では、メッセージを入る前に、いつものように周りの方々に挙げまいちゃって、また挨拶したいと思います。
闇の中を歩んでいた民は、大きな光を見た。
死の不定の地に住んでいた者たちの上に、光が照った。
主よ、今、ここに集っているこの群れの上に、主の光を、この上に、主を照らして下さい。
一人ひとりの礼の中に、心の中に、暗闇の部分の底の上にも、まことの光なるイエス・キリストの光が眩しくほど照らされて、
明るみに出されて、主よ、そこから来るまことの自由とまほの回復を、この朝、我らに主を注いで下さいますように、お願いをいたします。
御言葉を坊主よ、お語り下さいますように、イエス様の皆によってお祈り致します。
アーメン。
今年のアドベントには、ゆげんとじょうじょのシリーズのメッセージをさせていただいております。
今日はその4回目として、光の主イエス・キリスト、光の主イエス・キリストについて、共に御言葉の恵みをお受けしたいと思います。
この前、クリスマスコンサートに来てくれたソフラノのソリスト、ペクシマイがイタリアで留学しているんですけれども、イタリアで冬を1回過ごしたそうです。
そして、イタリアの冬はどうなのかと聞いてみたら、なぜか半島の国は寒いみたいですね。
とても寒くて、そして雨も多くて、そしてなかなかこういった日焼けがなかなかないそうですね。
それでですね、観光に行ってみたら、すごい家で住んでるなと思うんですけれども、50年、100年したブロックで作っているから断熱材とか入ってないし、天井はとても高いし、石で作られていてとても寒いそうですね。
03:19
それで冬になったら面白い風景がたまに見えるんです。
だから雨が降って、だから日差しがなくてですね、今日みたいにとても日当たりが良かったら、人がみんな家から出てですね、この日当たりの良い壁に耳かけてですね、
ああいいなあ、30分も1時間も火をさせてもらって、そして座りの人とですね、寒いですね、友達になったりですね、そういうところがよくあるんですね。
光というものは、このように私たちの体や精神に本当に必要なものだなかなと、そういうふうに思います。
さて、私たちはこのクリスマスの主人公、イエス・キリストを思い出すときに、一番先に浮かぶイメージは、やはり光だと思うんですね。
これまでの福音書の第一章の二言葉である、先ほどイケダ巨大が尾に乗って腐った、あの二言葉ではないかなと思います。
ところが、イエス・キリストが光として、多くのある光の中の光じゃなくて、まことの光として、唯一の光として来られること、
大丸になること、それがすでに旧約聖書に予言されているということであります。
それが今日のこのイザヤ教九章の二言葉であります。
もう一度ですね、一節と二節をもう一度一緒に読みたいと思います。一節と二節です。
しかし苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはジェブルンの地とナスタジの地は恥ずかしめを受けたが、
星には海沿いの道、ユルダン川の彼方、イオン人のガリラヤは光栄を受けた。
闇の中を歩んでいた民は大きな光を見た。地の陰の地に住んでいた者たちの上に光がてった。
この二節は本当に、この通りにイエス・キリストがこの地においでになったわけなんですね。
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まことの光としておいでになったイエス・キリスト。
二節の御言葉のように、闇の中を歩んでいた人たち、その闇の中で苦しんでいた人たち、悲しんでいる人々、
その人々にまことの光を照らすためにおいでになった方が、私たちの日をイエス・キリストであるということだ。
その人々が大きな光を見るようになるでしょう。
地の陰の地に住んでいた者たち。体は生きているんですけれども、地の陰の地に住んでいるかのような者たちの上に、
まことの光を照らすためにおいでになった方が、私たちの日をイエス・キリストであるということです。
このイエス・キリストこそ、今日のこのイザヤ人の宮廷のこのように、はるか700年前ほど現された。
そしてそのとおりに、この企業に光としてお生まれになったということであります。
そしてイエス様のその誕生は、もう光で始まっているんですね。
新約聖書とですね、ちょっと開きたいと思います。
まずは、ルカノフクイン書2章。ルカノフクイン書第2章の9節を読みたいと思います。
109ページですね。新約聖書の109ページ。ルカ2-9。私が読みます。8節から読みますね。
さて、この土地に羊飼いたちが、もずくで夜晩をしながら、羊の群れを見守っていた。
すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
見使いは彼らに言った。恐れることはありません。今、私はこの民全体のための素晴らしい喜びを知らせに来たのです。
今日、ダビデの町で、あなた方のために福井主が御生まれになりました。この方こそ主キリストです。とあります。
09:12
このように、もずくしていた羊飼いたちが、一番最初に出会ったのは、彼らに現れたのは、主の栄光の光でした。
そして、イエス様が御生まれになって、その光によって導かれた羊飼いたちは、赤巻のイエス様に浮かんだわけです。
もう一か所、今度はマタイの国書に行きましょうか。マタイの国書、第1表、9節と10節、19節と20節です。
20節だけを読みたいと思います。読みますね。まずは1表の20節。
彼がこのことを思い巡らしていた時、主の飼いが夢に現れて言った。
ダビデの子ヨセフ、恐れないで、あなたの妻マリアを迎えなさい。その際に宿っているものは、精霊によるのです。
ここにも主の飼いがヨセフに現れました。
ここから2表の9節をご覧ください。
9節、彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついにおさまごのおられるところまで進んでいき、その上にとどまった。
そして、その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだとしました。
このように、東方から来た博士たちは、この星、つまり光が光に導かれて、遠い遠い東からやってきて、
ペルシアでしょ、あるいは今のサウジアラビア、イラン、イラクのあたりかもしれない。
そこから長い旅を、あのとても眩しく光っている星に導かれてきた。
ところが、その星がイエス様のベストレーモの馬小屋にとどまった。
そこに、誠の光なるイエス・キリストがお生まれになったということであります。
場所なら、イエス・キリストは誠の光だからです。
12:01
そして、さっきのですね、もう一度したいと思いますが、ルカノー君賞の2票のイエス様がお生まれになった後、
シメオンという人が、このおさまごを腕に抱いて、このように褒めされました。
2票のですね、28節からですね、110ページ。
2票の28節、私が読みますね。
するとシメオンは、おさまごを腕に抱き、神を褒めたたえていった。
29節、主よ、今こそあなたは、あなたの下辺を見言葉通り、やすらかに晒させて下さいます。
私の目が、あなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、
その32節、一緒に見ましょうか。
異邦人を照らす啓示の光、見たみイスラエルの光栄です。
このようにですね、そのおさまごを抱いて、主を褒めされたこのシメオンという人は、
異邦人を照らす啓示の光、このおさまごは啓示の光である。
そして見たみイスラエルを照らすまことの光栄である、ということを褒めたたえています。
皆さん、イエス・キリストは、異邦人を、いや、この世界を照らすまことの光であります。
そしてその光のあるイエス・キリストが、では私たちには、
私たち皆さん一人一人には、どういう風にその光が照らされて何が起こるのか、
どんなことが起こるのか、それが大事なのではないでしょうか。
それは、全ての人を照らす光でありますから、イエス・キリストは、
私たちの闇のところ、あるいは隅、あるいは私たちの人格、あるいは自分の生活の隅々まで、
あるいは自分の過去、現在、未来を、私たちの信仰を照らす光としてイエス・サマがおいでになった、ということであります。
さも、光としてのイエス・キリストを今年、このアドレントに、その光の主に応援していっていただきたい。
だから、ヨハネーノ・クリーチョウ1章9です。私が読みします。
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そのように語っています。
全ての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
全ての人を照らすまことの光です。
イエス・キリストは、ここにいらっしゃる皆さん、いや、まだ信じていない自信者、これから信じてくれるでしょう。
その人々を照らすまことの光として来られた。
だから、全ての人々は、このまことの光なるイエス・キリストにお出会いしなければならないことです。
そして、照らしていただかなければならないのです。
では皆さん、まことの光なるイエス・キリストに、その照らしていただくと、どんなことが、どんな嬉しいことが起こるのでしょうか。
それは、まずは私たちの闇、暗闇、あるいは闇の過去、あるいは隠された罪、あるいは弱いところ、
そういうところを、まことの光なるイエス・キリストに照らしていただいて、
そして、「ああ、これは、ここには闇があった。これは間違っていたのだ。」
ということを、私たちは悟るようになるのです。
そうですよね、皆さん。真っ暗の部屋に入ったことはありましたか。
真っ暗かっただけですね。どこに何があるのか、どこに水がこぼされているのか、
どこにおしっぴんが、この迷子国でおしっぴんがあってですね、踏んでしまっていた方ですけど、
何があるのか、どこに危険なものがあるのか、どこに壁があるのか、見えないのです。
自分の心の中にも同じかもしれない。生活の中にもそうかもしれない。
照らしていただかないと、どこに危険物があるのか、どこが曲がっているのか、落ちるか、それは悟ることができない。
だから、まことの光なるイエス・キリストに照らしていただかなければならないんですね。
光に照らされると、闇は自然に消え去りますよね、皆さん。
同じく、まことの光なるイエス・キリストにお会いすれば、
自分の闇や、自分の隠された住み、あるいは自分の暗い生活、自分の暗い過去が、
死の光に照らされて、そして私たちから、自分の人生から、生活から、例の中から、家庭から、職場から、闇が消え去るようになる。
そして、まことの自由が与えられるのです。
18:03
ところが、このプロセスは、私たちが救われる時、一度起きて終わりなのか、そうではありません。
死ぬ時まで、イエス様に再びお会いするその時まで、ずっとずっとイエス様の光に照らされていかなければならないのです。
そうする時に、私たちの生活の中で、人生の中で、闇が消え去って、自分を捉えている罪のあの鎖が解かれてしまうのです。
だから皆さん、イエスキリストに出会って、そして救われた人、いつもイエス様の光に照らされている人は、その人の人生には、生活には、暗闇がないのです。
明るいのです。希望的です。未来的です。闇を好みません。
個人的です。私は黒の色が第一で、自分のお金はして、黒の服とか買ったことはないのです。個人的な好みかもしれませんが。
イエスキリストに出会った人は、その光に照らされているわけですから、善を好んで争いを憎むわけです。
光を好んで闇を憎むわけなんです。それは聖書の話ですよ。ちょっと開きましょうか。
新約のエペソビートへの手紙、5章。8節から14節。379ページです。新約379ページ。この見事大事だと思いますね。
379ページ。エペソビートへの手紙、第5章。8節から14節まで。
私は読んでいきますのでご覧ください。8節。よろしいですか。8節お読みします。
あなた方は以前は、以前はですね、私も同じですよ。暗闇でした。が、今は、兄様に出会ってからは、主にあって何となりましたか。光となりました。
光の子供らしく歩みなさい。では、光の結ぶ実は何なのか。その次の9節ですよ。光の結ぶ実は、あらゆる善意、正義、真実なのです。
21:03
ですから、イエス・キリストの誠の光に出会った人は、救われた人は、善意、正義、真実を好み、その人生になるわけです。続いて10節。そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。
ですから、光に照らされて、光のイエス・キリストに出会った人は、善意、正義、真実を好み、そして、主に喜ばれることが何であるかを見分けて、それを実践する人が、光の子らしく歩む人であります。
9節。実を結ばない、暗闇の業に仲間入りしないです。暗闇の業に仲間入りしないでください。むしろ、それを明るみに出しなさい。またなら、彼らが密かに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。
けれども、明るみに引き出されるものは、皆、光によって明らかにされます。
そこが、もう明るみに出されるようにしていただくことなんです。それが信仰なんです。
ですから、今年のこのアドベンテには、アドベント、この最高節のこのシーズンに、皆さん、是非、真ことの光のあるイエス・キリストの光に照らしていただくその時を、是非、お持ちください。
ただ、その時もクリスマスじゃなくて、あるいは忙しくて忙しくて、いつの間にか正月になったじゃなくて、イエス・キリスト様の光が、自分の心の隅々まで、隠されている隅々まで照らしていただいて、
あるいは、自分の弱さを照らしていただいて、生活の隅々まで照らしていただいて、あるいは、自分の習慣的な罪があるならば、そこも照らしていただいて、そして、そこから暗闇が消え去る。
そして、本当に自分の人生に、生活に、人格に、イエス・キリスト様の光によって輝く人生になりたい。そのために、イエス・キリスト様がおいでになったのではないでしょうか。そのために、皆さん、積極的に祈って求めていただきたいです。
24:03
なぜなら、皆さん、ヨハネのクジにもありますように、闇は光が嫌いです。避けます。私も同じなんですよ。自然の人間は、闇の方が好きです。隠すのが好きです。
だから、あえてでも、私は信仰的に、積極的に、自分の生活、自分の心、あるいは自分の親子関係、夫婦関係、その罪など、闇を暴るに至さなければならない。イエス・キリストの光に照らしていただかなければならないのであります。
だから、皆さん、今年は、この12月、もう2週も残っていないですね。今日は18日ですから、このような時を、ぜひ、持っていただきたいんですね。そのように祈っていただきたい。
イエス・キリスト様、私の生活の隅々まで、あなたの光で照らしてください。イエス・キリスト様、私の生活には、このような、こうした闇があります。私もこのような闇が嫌いです。
主よ、この闇に、あなたのまことの光を照らしてくださって、この闇を消え去らせてくださいと、祈るではありませんか。
あるいは、イエス・キリスト様、私の心の中に、こんな闇があります。私しか知りません。夫も妻も知りません。主よ、あなたの光を私の心に照らしてくださって、この闇を、主よ、消え去らせてください、取り除いてくださいと、祈るではありませんか。
あるいは、イエス・キリスト様、私の悲しみ、苦しみ、あるいは孤独、そこに主よ、あなたの光を照らしてください。
この悲しみ、苦しみを、これを取り除いて、散らし、消え去らせてくださって、光るようにしてくださいと、祈るではありませんか。そのようなクリスマスを、そのようなアドベントを過ごしていただきたいと、切に願っております。
また、あるいは、皆さんか、どなたかのために、鳥無しの祈りをしていらっしゃるでしょうか。そしたら、その方々のためにも、このように祈っていただきたいです。
イエス・キリスト様、誰々さんに、あなたの光を、彼女に、彼に、その家庭に、あるいはその人の夫婦関係、あるいは親子関係、あるいは社会関係に、闇の中にずっとずっと留まっている、その人の人生の上に、あなたの光を照らしてくださって、
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ずっと闇の中にいる人生じゃなくて、明るい闇に出て、そして、光の子らしく歩めるようにしてくださいと、その人を、あなたの光を照らしてくださいと、祈るではありませんか。
周りに、いろいろな方々ですね、教会に関わっている方々、お名前は言いませんが、夫婦の問題、あるいは親子の問題で、本当にね、悲しみの中にいる方々が、大勢いらっしゃる。
その方々に、本当にこのまことの光が照らされて、そして、闇の中にある人生ではなく、光の中に出てほしいんですね。
あるいは家族の中で、あるいは周りの友人の中でですね、もう学校も社会生活も何もかもをやめてですね、引きこもりのようにですね、それぞれの原因はあるでしょう。
さまざまなショックがあったかもしれません。そもそも心がちょっと弱いかもしれません。嫌な目にされたかもしれません。ところが、だからといって、そういう人生になってほしくないんですよね。
そのためには、もうまことの光なるイエス・キリストに、光に照らされる方法しかないと信じます。
まずは自分のために、このクリスマスをこのように祈って過ごしていこうではありませんか。
イエス様、私の生活の隅々まで、心の隅々、すべてのスペースにこの闇が消え去る、それができるようにして下さいと祈って照らしてやりますと、必ずその闇が消え去って去るようになると。
また、福神だけではなく、教会の上に、教会の中にも同じではないでしょうか。
イエス様の光に照らしていただいて、もしも妙大に教会の中に根深い弱さがあるならば、あるいは根深い何かの罪があるならば、そこもこのまことの光にイエス・キリストに照らしていただいて、そこの闇が消え去る。
そして、本当に眩しい教会、光る教会にイエス様の光によって光る教会にならなければならない。
イエス様の光が照らされたところがそれを吸い込んでしまって、闇になる教会になってはいけない。
光の前で闇を隠すことはできません。逃げることもできません。光の前に自分の闇を持って行かなければならないんです。
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逃げても逃げても逃げても、いや、もうこの地上で死んでもその闇は、問題は解決できないです。方法はひとつしかない。光の主に自分の闇を、暗闇を持って行くことであります。
このコップに水が今、あれ、少ししかない。4分の1ぐらいありますよ。4分の1ぐらい。これの重さはどれぐらいになると思いますか、皆さん。
当ててみてください。重さは?30グラム?100グラム?200グラム?
実は皆さん、その重さは大事じゃないですよ。
これは今、私が持ち始めて30秒ぐらいで持てますね。でも水が少ししかなくても、もしこれ私が1時間、このままですよ。1時間。10時間。
1日10と24時間持って行ったらどうなりますか。もう肩が痛くて、頭も痛くて、全身が痛くなるでしょう。
では、この痛み、重さから自由になるためにどうしたらいいんですか。飲んだらいいですか。いや、そうじゃないですよ。置けばいいんです。同じなんです。
自分の人生の中に、心の中にある闇、罪、そういったものを、そこから逃げようと、逃げようと、隠そうと、隠そうとしても、ずっと持っているようなことと全く同じであります。
これを機械になるイエス・キリストの前に置けばいいんです。そしたら闇が消えちゃう。
そのためにイエス・キリストがお家になったわけ。家庭の中に、あるいは教会の中に、もしも一滴ぐらいの罪であったとしても、それをずっと持ち続けていると、しばらくは痛くないでしょう。
平気平気、もう大丈夫よ、大丈夫、大丈夫。ところが、持っていればいるほど、1年、2年、10年、50年経っていればいるほど、痛みを感じさせられるのは自分なんです。
自分の魂の中に、自分の家庭の中に、あるいは教会の中に、この社会の中に大きな痛みと弁を行けば行くほど、その痛みと苦しみは大きく大きく、雪だるまのように大きくなるでしょう。
ところが、人間は愚かで、それを置こうとしない。だから痛みが続くわけなんです。
33:00
しかし、ここの光のあるイエス・キリストが、その前に自分の罪や自分の闇を置いておいて照らしていただきますと、闇が消え去る。
ここの家庭の、教会の、この社会の、世界の罪が消え去るでしょう。なんで消え去らないでしょうか。
持とうとするからです。持とうとするから。どうか皆さん、これ以上、痛みや闇、罪を持とうとしないでください。
まことの光なる、そのためにおいでになった、お生まれになったイエス・キリストに近づいて行こうでありませんか。
その時に照らしていただくと、恥ずかしいかもしれない。しかし、そうやって癒されるのです。病気も同じでしょう。
身体をお医者さんに見せるのが楽しみな、そういう人はいないですよ。恥ずかしい。でも、見せないと治らないんです。同じじゃないですか。
また、個人や家庭、教会を超えて、国や世界のためにも、祈っていただきたいです。
まことの光なるイエス・キリストが、闇の中に苦しんでいる国、この日本、あるいは世界の人々に照らしていただいて、
その多くの人々が、まことの自由に、まことのイエス・キリストに出会って、光る人生になるように、
私たちは世界の人々のために、鳥無しの祈りをしなければならないです。
昔も今も変わらない世界の地図が一つあります。それは、弱肉強食です。わかりますね。
強い国が弱い国を侵略します。そして、植民地にします。統治をします。
強い国は、それは当たり前だと言っています。お前が弱いからと言っています。
強い国が戦争を起こして、弱い国を攻撃します。何もかも奪ってしまいます。昔も今も同じです。
金持ちの国が、ある種の国を経済的に拡張します。ある種の国は、その国民は大々貧乏なんです。
日本の皆さん、私たちはよくコーヒーを飲みますね。私もたまに飲むのですけれども。
こういう豆の農園で仕事をしているエキオピアとか、子供だけ1日の賃金が80円くらいです。80円ですよ。
誰かはお金を儲かっているだけなんですね。高く私たちは飲んでいるだけですから。
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この弱肉強食の秩序は、神様が願われる価値観ではないでしょう。皆さんはお分かりになると思います。
神様が願われるこの世界は、神の公義に満ちた世界。あなたの隣人を自分のように愛しなさい。
右の方を打たれたら、左の方を向けさせなさい。
公義に満ちて、平等に満ちて、すべての国、すべての国民が尊重されて、大切にされて、そして何より神の始祖物として愛されることではないでしょうか。
その世界の隅々にも、イエス様の光が照らされるように取り成して祈らなければならない。
メッセージを終わりたいと思います。
まことの光なるイエス・ヒストがおいでになりました。
それは自分の上、家政、教会、社会、世界の上に闇を消え去らせるために来られたわけです。
私はその光をいい目、告げきらせる、明かせする一人一人の光にならなければならない。
皆さんの光は何ワットですか。40ワットですか。60ワットですか。100ワットですか。
どんどん明るくなって、またどんどん消えて、消えて、雨、暗いなと取り替えられそうなんですよ。私たちは光です。
光の子らしく歩みなさい。この御言葉を覚えて、このクリスマスを、いや、人生を光の子らしく早く人生にならせていただきましょう。お祈りします。