00:01
おはようございます。お祈りをお捧げいたします。
我々は、天の父様、あなた様の限りない豊かな愛と恵みを思いまして、心いっぱい賛成いたします。
主の導きと恵みにより、
そして名谷教会の教会役員の兄弟姉妹並びに、全ての信徒の兄弟姉妹たちの祈りと愛によって、
この1年間、この名谷教会で礼拝並びに水曜日の祈祷会の大切な御用をさせていただきましたことを、心の底から感謝をしております。
そして、敬愛いたします、純先生、半田先生との深い縁起のおかげをも、ここに導かれた一つの、忘れることができない要素だと思って感謝をしております。
足りないところだらけの下辺でありましたけれども、名谷教会の皆さんの祈りと愛によって、かなりともども支えられてまいりました。
そして、この純先生と半田先生は、これもまたその導きだと信じておりますが、三田福音教会に使わされることになりました。
先生のお体、健康がどうか守られ支えられて、尊い御用をなさることができますように、心からお願いをいたします。
この名谷教会には、新しく加藤光先生と藍先生が不倫されますが、イエス様を中心にまた教会の役員の皆さんや信徒の皆さんともどもに、新しい出発を豊かに祝福してくださり、
03:24
この名谷教会がさらに健全な教会として成長してまいることができるように、心からお願いをいたします。
今、小村千恵子姉妹に呼んでいただきました四年福音書の8章の御言葉の中から、イエス様の儚しない愛と許しのことをお語りしたいと思います。
どうぞ主の聖霊様が豊かに働いてくださって、わかりやすくお話をすることができますように、助けてくださることをお願いをいたします。
兄弟姉妹たちの心の地にある切なる願いと感謝に合わせて、イエス様の名前によってお祈りをいたします。
アーメン
今日の説教のテーマは、私もあなたの罪を罰せないという、8章の11節のイエス様の御言葉からいただきました。
私もあなたの罪を罰せない。
これは直接的には聖書に出てくる、戒印の罪を犯した女に対するイエス様のお言葉でありますが、
実は私たち一人一人に対するイエスキリスト様のメッセージであるということを皆さん心にしっかりと覚えていただきたいと思います。
別に私たちは戒印の罪を犯したわけではございませんが、
しかしある意味では、この女性よりも私たちは、少なくとも私は罪深い人間ではないかなと思います。
でもイエス様は、このような罪深い穢れた下辺も全面的に許してくださっているということは、
それこそ手を合わせてありがたいなと、本当におかげたい気持ちでいっぱいであります。
そして今日の説教の大きな第一のポイントは、光は暗闇を明るくする力がある。
06:05
光の力というのは、どういうような光であっても、特別もないエネルギーを有しているのが光です。
光がなければ私たちは生きることができません。
けれども一寸先が暗闇で何も見えないところでも、一筋の光がそこに差し込んでくると明るくなります。
たとえ小さな瞑想の灯火であっても、そこがほんのりと明るくなる。
これは光の力のもの凄さを表していると思います。
いまして太陽の光、今日は雨模様で、おイス様は出ていませんが、
太陽の光が入ってくると、どんな暗闇もおイス様より全く明るくなってくる。
暗闇はどこに行ったのかというような感じです。
四年の一章の五節の御言葉に、光は闇の中に輝いている。
闇はこれに打ち勝たなかった。
これはご存知のように、ここでいう光というのはイエス・キリスト様のことです。
闇とは何か、これは地上における私たちの様々な問題や悩みなども意味しますが、
一番大きな暗闇、それはサタンとサタンの王国。
その中に誠の光、イエス・キリストが輝いているということは、
イエス様が悪魔と暗闇である闇の世界を打ち砕いた。
悪魔と暗闇、闇の世界、地獄の世界はキリストに勝てなかった。
という意味の言葉ではないかと思います。
確かにイエス様は、誠の光としてこの世界に来てくださったわけですが、
私たちはどうしても色々な問題や悩みで暗くなりやすいのですが、
イエス様という方は不思議なように私たちの心や性格を明るくしてくださる、
勇気とか、あるいは元気とか力を与えてくださる、
エネルギーそのものではないかと思います。
この四本目の福音書の八章に出てきます、
09:03
寒陰の女、確かに罪深い穢れた女性ではありましたが、
イエス様によって罪が許された、そして闇から光の人生、
滅びから永遠の命へと変えられていた女性であります。
聖書の中によく、滅びるという言葉が出てきますよね。
何気になく、信じないものを滅びるとお話ししますが、
さて、その滅びるというのは具体的にどういうことなのかとなると、
私たちは案外分からない、
イエス様は罪を悔やめないと、イエス様は信じないと滅びるよと言われても、
ほとんどみんな分からないですね。滅びるとは一体どういうことか。
滅びから永遠の命へと変えられていったこの女性でありますが、
さて、この滅びるということを、
こういうふうに考えたらというよりも、こういうふうに解釈をしたらどうかなと思いますが、
すなわち、滅びるというのは、訳の分からない、暗闇の世界に没入する。
その世界というのは、希望も愛も平安も全くない世界である。
これが滅びるという具体的な意味ではないかな、滅びる。
ですから皆さん、滅びるということはこれ重大なことですよ。
もうそこへ行ったら、行ったらそこへ行ったらもう二度と再び帰ってこれない。
そこは神のいらっしゃらない世界である。
神さーっと叫んでも、呼んでも叫んでも、神様のところには叫びが届かない世界が滅びている。
そうなると誰もそんな世界に行きたいと思わないでしょう。
そうではない。滅びから永遠の命。
さてこの永遠の命というのは一体どういうことなのか。
12:04
これも実際、あなた信じたら永遠の命がありますよとお話しますが、
話しする者もそれを聞く者も、じゃあ永遠の命って何ですかと問われたら、
なるほどと分かるように説明することができる人というのは、
案外皆さん少ないんじゃないですか。
実はそうお話している私自身も、そういう説教をしてまいりました。
もう何十回と、あなた信じないと滅びるよ。信じたら永遠の命があるよと。
実際そういう話をして、アメンと、
即座にイエス様を信じることができた人って果たして何人いるのかなと言われると、
全く自信がないんです。
永遠の命、それは希望と平安と愛に満ちた、愛に満ちた輝く光の世界。
そこはもう神と共にいつまでも生きる世界、これが永遠の命。
だから言葉では滅びと永遠の命、たった二言葉です。
それでもその滅びということと永遠の命ということはもうこれは天と地よりももっと大きな差があるんです。
つまり滅びと永遠の命はこれはもう相入れない、全く別物の世界であるんです。
ですからどうぞ、信じて信仰を持っているクリスチャンの方もそうでない方もぜひ聞いていただきたい。
それはやっぱり信じるとどっちかだ。滅びるのか命に預かるのか、その中間はない。
まことの光であるイエス様は永遠の滅び、暗黒の世界に行かなきゃならない私どもを、そうではないんだ。
15:04
まことの希望と愛と平安に満ちた輝く明るい世界に行くように私たちを救うために来てくださったのがイエスキリスト様であります。
二つ目のポイントは、光は冷たいところを暖かくする。
どんなに冷たい寒いところでも太陽の光が差し込んでくるとそこが本当に暖かくなる。
あの冷たい氷の塊でも太陽の光が差し込んでくると時間とともに溶けてしまいますね。
まことの光であるイエス様はどんなに私どもが冷たい心や頑固なひんまがった心を暖かい素直な心にしてくださるのがイエスキリストであります。
私も相当頑固と言いましょうか、時と場合によっては死んでくれることがずいぶん若ままといいますか、そういうところがいっぱいあったのですが、
イエス様はこんなどうしようもないものを、まときには悲願だりね、こんちくしょうと思ったりそういうひんまがったものも主は憐れんでくださった。
この灰の女性もおそらく冷たい氷のような心を持ってひんまがった心を持ってひねくれた生活をしていたのではないかなと思います。
しかしイエス様によって素直な暖かい心に変えられた。
七節でイエス様があなた方の中で罪のないものがまずこの人に石を投げなさいと。
映画なんかそういう場面がよく出てきますね、イエス様の生涯を綴った映画、灰の女が人々に囲まれて石をぶつけられる瞬間の場面です。
彼女はおそらく石を投げられる、それは旧約時代の立法の中にあったわけね、会員の罪を犯したら石で打ち殺されなければならない、考えてみたら残酷な行為ですけども。
18:17
みんなが投げつけようとした時にイエス様がこう言われたのが今の御言葉ですね。
あなた方の中で罪のないものがまずこの人に石を投げなさい。
私はこの場面を何度も想像してきました。
例えば私は旧約時代、旧約聖書で言えば、まいってみれば蔡氏ですよ、私は蔡氏。会員の女を発見した。連れてこいと。
私は石を持って立法によると石を投げつける資格はあるんです。立法上はですよ。
しかしこれは片手打ちなんですね。立法の片手打ち。
福本さん、あなたは罪が全くありませんかと言われたらどう答えますか。
今まで立法上は石を投げることができると思っていたけど、あなたは罪を犯したことがないですかと問われたら答えようがない。
みんなそうですね。みなさんも答えようがないんですね。
だから次から次へとみんな石を投げつける。掘り出してそしてみんな家に帰っていった。
ただこの中で石でもなんでもいいですが、この女を裁くことができるのはイエス様だけなんです。
イエス様はこの会員の女を裁こうとすればできたはずですよ。
この女を裁いても別にイエス様は罪も何も当然のことですからね。
神の御子、救い主ですから間違いでもなんでもない。
でも私はあなたを裁きませんと言う十一節。生きなさい。生きなさい。
私はこのイエス様の生きなさい、これからは決して罪を犯してはなりませんと言うこの言葉ですね。
21:23
あなたを私は立法盾にして断罪しませんよと。これは神の恵みですよと。神の許しだと。
だから今後はあなたは神様を信じて神と共に神を敬いながら信仰していきなさいよという意味なんですよ。
これからは絶対に罪を残すなと。命令通りですがそうではない。
本当に温かいイエス様の心を出してみましたか。これが神の愛でなくて何でしょうか。
三つ目のポイントは、光というのは細菌、培菌を殺してしまう。
私たち人間は様々な細菌、培菌によって肉体とか精神とかあらゆることが蝕まれていってしまう。
今のコロナもそうだと思いますけれども、でもそれを何とか防ごうと。
そういう細菌とかウイルスを何とか撲滅しようと、科学者や医学の関係の方とか多くの方が一生懸命研究したり開発したり、
私などの知らないところでものすごい苦労していると思います。
けれどもそういう人たちは忘れていないと私は思うんですけれども、細菌とか病原菌ですね。
確かに薬とか医学とか科学が癒やしたり治したりしているんですけれども、
その根源というのはやっぱり私は太陽のエネルギーというものを決して忘れてはならないと思います。
お祈りしているときに、昔よりは人間の寿命というのは平均的に伸びているわけです。
24:15
それはその人の生命力の強さというのもあると思うんですけれども、やっぱり科学の力や医学の力というのは非常に貢献していると私は思います。
でもと私は思ったんです。
でも薬や注射や科学、医学で治癒する、癒やすことができる、治すことができたとしても、
神様が全く働いていなかったら、私はどんなに人間が頑張っても、人間というものを完全に癒やすことはできない。
その背後にはエネルギーと言いましょうか、免疫と言いましょうか、そういう根源たる神様が存在しているということを人間は、人類は忘れてはならないと思います。
ずっと前の話なんですが、ある新聞の何かの談話の中に、著名な歯医者さんの話が出ていたんです。
私はずいぶん若い時ですが、何なしにその新聞を読んでいたら、その歯医者さんが、歯科医の先生。
話にならない話という台の談話だったんです。
そのテーマだけ見たら何の話かな、話にならない話、話にならない話。
読んでいたら、その歯医者さんが自分の家のベランダに出て、15分間、その日はものすごい良い天気だったそうですが、
15分間、太陽の光に向けて口を大きく開けて、じーっとこうしていたそうです。
27:05
今マスクしていますから、実際にこれをとってやりませんが、
大きな口を開けて15分間、太陽の光に向かって、この先生は何を実験していたのか。
太陽の光、エネルギーには蝕まりならない力があるということを、自らの体験をして世に発表しようとしたそうです。
その結果どうなったのかなと私は知りませんが、バカな私はそれをやってみたんです。
ちょっと私という人間は、ちょっと変なところが、変なことに夢中になる癖があるんですね。
まあ言ってみればそれは私の悪い癖ですけどね。
これはやってみる価値があると思ったんです。
というのは、お恥ずかしい話ですが、子供の頃から甘いものがたまらなく好きだった。
今でもやめられない甘いもの。
具体的に申し訳ませんが、大体皆さんわかるでしょう。甘くてとろっとしたものがたまらない。
そして氷砂糖とかそういう飴とかはもうですね、最後まで無くなるまで舐めたらいいんですけど、それができない。
もうガリガリガリっとこうやってしまうから、もうやっぱり虫歯ができる。
だからあ、これはいい話だと思って、実際やったんでしょう。私、太陽の光に向かって。
その後私は虫歯にならなかったかというと、残念ながらやっぱり甘いものとかそういうものはやめられないから虫歯になったことはあるんですけども、しかし私は教えられたんです。
虫歯になるとかならないとかもう大事ですけどね、太陽のエネルギーっていうのがものすごいエネルギーだということをね。
これは今の皆さん時代でもいろんな分野で太陽の光を使うという表現はおかしいんですが、やっぱりそれを活用してとても役に立っているものがいっぱいあると思うんです。
イエス様というこのまかとの光は私たちのどうにもならない、もう病原菌だらけの汚れたどうにもならない私たちの魂を
30:21
イエス様は十字架の木によって全部キャンセルしてしまうほど私たちは許してくださった、清めてくださった。
イエス様が私たちの罪を、穢れを許したり清めたりすることができないなら、人の姿をとってこの世界に来た価値も何も無意味な。
なぜわざわざこんな罪だらけの汚れた汚い、こんな間違いだらけの世界にイエス様が、清いイエス様が来られたか、それは私たちを許して救うためであったのよ。
だからイエス様が自ら十二節で言われたこの言葉、私は世の光だと、私に従う者、私を信じる者は決して闇の中を歩むことがないこと、滅べというものは無関係になるよと。
滅びの世界にはもう行かなくて大丈夫だと。
命の光、永遠の命のその世界に属するんだと、そこに行けるんだと。
ですからあの光の子供として光の子らしく正々堂々と潔く生きなさいという聖書の言葉があります。
この世の全てのもの、私もそうですが、どんな大事なものも、この世のものは皆さん、こんなこと私が話ししなくても皆さんよくお分かりだと思います。
この世のものは全部消え去るんです。もう私にとってはこれ宝だ、私にとってはもう命そのものだ、そういうものも全部もう死が来れば奪い去られる。
どんなに愛せる妻も夫も子供も孫もお金も肩書きも名誉も人間関係も全部奪われてしまう。それが皆さん死です。
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そういうことを思うと本当にあの寂しいなと思います正直に。
ただ、聖書は私たちにそういう中で残るものがあるんだ、何が残るのか。
全てのものが奪い去られる中でいつまでも残るものがあったら欲しい。
それは信仰と希望と愛だというポイント第一、十三の十三。
私、最近教えられた一つのことは信仰、希望、愛。皆さんよくご存知ですね。信仰、希望、愛。
その中でいつまでも残るものは愛である、こういう説教も何十回してきました。
でも、でも、私のことですよ。
じゃあここで言う信仰、希望、愛ってどういうことか。あんまり説明してこなかったんじゃないかなって私。
皆さんいかがですか。信仰、希望、愛。分かったようでどういうことですか信仰というのは。
希望ってどういうことですか。愛とはどういうことですかと問われると果たして分かりやすいように説明できるかどうかという。
私はこのように考えたとおり申し入れられたんですが、皆さんこれ愛というのは神は愛である。
本当のまことの神を表しているのがこれ愛。これいつまでも残るの神は。
そして希望は。この世で言う希望というのは神なき希望なの。
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それ全部消えてしまう。奪われてしまう。でもここで聖書で言っている希望というのは神イコール希望なの。
これはもうここで言う希望はいつまでもいつまでも残るんですね。なぜ。まことの神ですから。
そしてその神を信じて生きるという。その人は永遠の命があるということを表すのが信仰という。
その中で一番偉大なのが愛であると言っていますがまさにその通りです。
ですからここで言う信仰希望愛というのは皆さん単なる言葉ではないんです。
ここで言う信仰希望愛これは神の人格を表現する言葉であるということを皆さん忘れないでほしいんです。
お話を終わりたいと思いますが、日本もそうですが世界中は今非常に混迷しています。
戦争だけではなくてね。戦争もそうですがありとあらゆる分野で分野が行き詰まっているんです。
経済も教育だって混乱しています。国際関係ももちろん。お互いの国と国がどうしていいかわからない。
一つ一つピックアップしたらもうきりがありません。時間がありませんから申し上げませんが本当に混迷する社会、世界、時代。
ですから政治も申し上げましたように政治も経済も教育も科学も医学もみんな必要なんですね。必要なんです。
そしてこれ言ったら叱られるかもしれませんが、時と場合によっては軍隊も必要かもしれません。
でも今申し上げたようなものはもう限界があるんです。ここまでは役に立つけれどもこれ以上はもう無力だというものばっかりだと私は思います。
39:00
どうしようもない。手がつけられようがない。しかし皆さん一番安全で確かなのは主イエスキリストです。
ヘブル書の7章25節と26節をまたお家で読んでおいてほしいのですが25節ヘブル書。
従ってイエスはいつまでも生きていて彼らのために取り出しをしておられるのでご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。
ヘブル7の25続いて26節。このような方経験で悪も穢れもなく罪人から離されて天よりも高く挙げられた大祭司こそ私たちにとってまさに必要な方である。
いつかもお話したと思いますが私イエス様大祭司としてイエス様が神の御座でいつもあなたのために私だけじゃないですけどね私は個人的にあなたのために祈ってるよっていうことを思い出すたびにね
ホッとするんですね。ああイエス様が今日もこんなものを覚えて祈ってくださってるよ。家庭のために職場やあるいは今言ったような分野のためにね世界のため人事のためにイエス様は今もなお一生懸命祈っていてくださる。
だからヘブンの記者は一番必要なのはイエスキリストだと言わざるを得なかった。イエス様がそんなに一生懸命祈っていてくださるならせめて私もやっぱり祈らなくちゃという気持ちが起きないはずはない。
有名な、もうあの召されましたけれども三浦彩子さんというクリスチャンスタッカーがいらっしゃいましたが、彼女の書いた一つのこれはフィクションというよりもノンフィクションと言った方がいいと私は思いますが天の柱という作品があります。
皆さんの中にも読まれた方がいらっしゃるかもしれません。天の柱。その中の終わりの方に出てくる実話が私の胸を打ってやまない。今もなお。
42:09
第二次世界大戦の終わった後、日本列島が四分割しようという提案がソ連の今のロシアですね。旧ソビエトの当時の首相であったスターリンから提案された。北海道東北はソ連が占領する。四国九州は中国が占領する。
他は全部アメリカが占領するという提案がなされたんですが、その時に真っ向から反対したのが当時の小海石総統であったと言われている。
本当ならば当時日本にひどい目に遭わされたんですよね。僕たちは歴史しか知りませんけれども、それはもう耐えられないようなひどいことをしたそうですね。
ところが小海石はおふれを出して、戦争が終わった後、何人も日本の人たちに手を下すなと。手を下した者は極刑に処するという、昔で言えば盾札をずっと立てたそうです。
本当ならばできないですよね。本当ならばもう日本に敵うちする絶好のチャンスになる。でも彼はそうしなかった。この時こそ日本を救うには長い。
その小海石総統が当時のね、あえてそうしなかったのは、日本という国には日本や中国や世界のために日夜一生懸命涙を流している尊いクリスチャンがいる。それが香川豊子先生だったそうですね。
この世界の香川豊子先生が実は若い頃、新学生の頃に肺結核を患って、もう死ぬ間際だったそうです。
45:00
その今にも死にそうな体で転がり込んでいったところが石川県の金沢、皆さんもご存知のようにあの辺は仏教王国です。
その金沢で開拓伝道していた一人の牧師がいた。長尾牧という牧師だったそうですが、その長尾牧師の教会に転がり込んできたのが、死にそうだった香川豊子当時の新学生だった。
教会といっても何かそのどこか道路の奥の方にある小さな小塾屋みたいな家だったそうですが、そこでこの長尾牧という牧師は日曜日ごとに一生懸命聖書の礼拝を説教していた。熱伝を振るった。
今日の明太子教会の礼拝は大体30人くらいいらっしゃいますからね。語る方もやっぱり正直言って人数が多い方がやっぱりね、張り切りますよ。
牧師と言っても人間やからね。一人や二人やったらもう何やとおかしいですけどね。それは二人や三人よりも30人40人の方が語るメッセンジャーは力入りますよ。私はそうですよ。他の牧師は知りませんけど。
長尾牧という先生は来る日も来る日曜日ごとに人は来ない。1年経っても2年経っても人は来ない。
いつも礼拝堂に座っているのは若い奥さんと小さな子供さんだけだった。
その奥さんと左に抱っこされた小さな子供を向かって長尾先生は一生懸命熱心に説教したんです。
私はとてもそんな状態がついたら腹が立って怒り狂っていた。何やこれって。伝道しても説教しても人は来ない。それを3年間やった。
48:08
とした時に黒川で飛んできたのが香川豊子青年だった。私は妖精はしませんよ。はっきり言って冷たいですけど。
だって自分もお家族も食えや食わずに生活しているところで黒川で飛んできたんですからね。
ところが長尾先生と奥さんがこの哀れな青年を抱きかかえて大丈夫だよ。
そして自分たちは麦飯をちょっと食べるだけではなく香川新学生には白米を食べさせてあげた。
私は恥ずかしいですけど、とてもではないか。私だったらもう用しなかったと思う。
そしてその香川で連動した、5年間連動した成果は香川豊子一人だった。
ところが香川豊子先生が長尾牧師夫妻から学んだ一つのことは、愛とは尻拭いすることであるということを学んだそうです。
私も簡単に愛である愛であると解き明かしますが、愛とは尻拭いすることであると。
これは香川豊子先生が民主代わりになった有名な言葉だと言われていますね。
それは長尾牧師夫婦から学んでいた束物だった。
もし、もしということを言ったら申し訳ないですが、もしもあの長尾牧師夫婦さんが尻尾を撒いて逃げ出したり、
香川豊子先生を愛をもって世話しなかったならば、世界の香川豊子は生まれていなかったかもしれない。
51:12
その香川豊子が世界の香川豊子として祈りに徹する人でなかったら、おそらく聖海石の心は動かなかったんじゃないかなと三浦彩子先生は述べております。
私もそうだなと思います。
ですから皆さん、お祈り、皆さんはそんなそんな方ではないと思いますけど、祈りなんてしてどうなるの?
お祈りよりも金が先決用。
でもこういうお話を知りますとね、やっぱり祈りというのはおろそかにしたらいかんな。
朝の5分でも10分でも、神に向かってというよりも神様のお見舞いにひざまずいて祈る。
それが教会であっても家であっても、いや電車の中であっても祈る。
声を出さなくてもいいですが、どこに行っても祈る。
大祭司イエス様がお祈りしてくださっているからには、私一人というよりも皆さん全日本の教会クリスチャンが、もう育ちになって皆さん祈ったら日本にリバイバル起こるんじゃないですか?
と思いますよ。
この間もお話したんですが、韓国にもうだいぶ前に行った時に、
韓国からある牧師を招聘して、日本エスキート教団の教師収容会、今頃牧師研修会と言いますが、
淡路で開かれた先輩の斉藤和徳先生もいらっしゃいますのでご存知ですが、草地県という牧師が来られて、こういうメッセージでした。
韓国の牧師は三つの液体を流します。
54:05
一つは汗を流して祈ります。
二つ目は涙を流して祈ります。
これは日本の牧師も当てはまると思いますね、大抵は。
ところが三つ目、血を流して祈ります。
これを聞いた時にもう私はものすごいショックだった。
血を流すというのはどういうことか。
それは本当に神様の前にひざまずいて、神様、と実際に祈っていたら鼻血が出るという。
いや、それほど僕は祈っているかなと思った。
私一人だけではなかったと思いますが、おそらく日本エスキート教団の牧師はみんな食い荒れたみたいじゃないかな。
いや、牧師だけではない。
牧師も神徒も本当に、それこそ今だけではないんですけどね、今こそ育ちになって本当に神様に縋りついて、
祈るべきかけたら、何が何でも、這いつくばってでも祈ろう。
光のことなるという聖書の言葉はまさにこのことを言っているじゃないですか。
イエス様と共にみんな育ちになって、たばりだって祈る。
何かが起きてくると私は信じます。
そしてこの明大教会もそういう教会であってほしいなと自らに言い聞かせながら、
皆さんに言ってみれば、イエス様ではないですがね、
積別のメッセージとさせていただきたいと思います。お祈りをいたします。