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改めて皆さん、おはようございます。
11月の最後の星日になりまして、祈ってできましたように、今年も12月1月残っているここまで、
神の恵みによってあやまにさせていただいて、また友に愛を捧げる恵み、信仰によってお互いに支え合っている恵みを、本当に感謝して、
また、友のも信仰生活を一緒にしている周りの兄弟姉妹たちにも感謝する私たちでありたいと、そういうふうに願っております。
では、メッセージの前に、よかったら、周りの方と挨拶させていただきましょうか。
おはようございます。
ありがとうございます。
一言、祈りします。
神はシリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって、私たちを祝福してくださいました。
主よ、そうです。神様はすでに私たちをあがなって祝ってくださるときに、すでに天のもろもろのすべての霊的祝福をもって、私たちをすでに祝福してくださいました。
主よ、その祝福によって今の私たちがおります。
また、その祝福によって支えられて守られて、今ここで私たちが礼拝をしています。
主よ、この朝、その主の恵みを、祝福を覚え、感謝し、そしてこの私たちの内側からいつも感謝があふれ、喜びがあふれる生活となりますように、
そういった栗さんの信仰生活となりますように、障害となりますように、どうか恵みと悟りを豊かにおあてくださいますように、確実な信仰の上に立って生きることができますように、我々一人一人を強めて、主を強めてください。
感謝します。語るものも聞くものも、すべて心を深くしてもにって、謙遜で謙遜で主の御声を心に受け止めることができますように、主を導いてください。
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聖霊様、どうぞ一人一人、魂の中に深く深くお語りください。
吉様の皆によってお祈りします。
ありがとうございます。
今日はシリーズメッセージに戻っています。神に祝福される人生の法則21のうちに17回目になります。神の祝福の法則。
今日は大きく3つの話をさせていただきたいと思いますが、まず救われたこと、あだなわれたことはどういうものなのか。神の祝福はどういうものなのか。そしてそれが私たちとどういう形としてつながっているんだろうか。
そして最後に、それに私たちはどう応答すべきなのか。大きくこの3つの話を御言葉から一緒に教えられて、またそれを自分のものにさせていただきたいと願います。
まず第一のタイトルとしては、神様は私たちを既に祝福されたということなんです。
今日の3節をもう一度一緒に読みたいと思います。3節、ここから一緒に読みましょう。
私たちの主、イエス・キリストの父なる神が、おめでたたえられますように、神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって、私たちを祝福して下さいました。アーメン。
さあ、今日の御言葉は、私たちに宣言をしています。
神様が皆さんお一人お一人をこの世から見つけ、救って下さった時に、私たちがイエス様を信じた時に、私たちはキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって、私たちを祝福して下さったということなんです。
これはもうね、すでに完了していて、それがずっと今までもこれからも続きますよという意味なんです。
これ、今までは祝福してくれなかったんだけど、これから祝福してくれるかもよじゃないんですね。すでに祝福を私たちはもう受けてもらっているということなんです。
実はね、ここに私たちが信仰生活をし続けていることのできる根本的な力がここにあるんです。
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神様はすでに私たちをイエスキリストにあって、霊的祝福、すべての霊的祝福ですね、それをもって祝福して下さったことを皆さん信じて下さい。
信じるならばアーメンしますよ。アメン?アメン?アメン?
私は自分自身の様子を見て、自分自身がやっていること、言ってしまったこと、人間関係、夫婦関係、親子関係、社会でのこと、自分の精神状態、心の状態、罪の様子、様々な自分の都合、自分の様子を見るならば、
いや私はもう本当に祝福されていないかもしれない、いやもう呪われているんじゃない、神の祝福は全くないんじゃない、そういう風に歌いたくなるんですよね。
自分自身を見れば、あるいは周りの様子を見れば、正義はないみたいな世界になっているし、本当に不正が満喫しているし、悔しいことが多くありますし、悲しいことがたくさんありますよね。
世界を見ても、自分自身の周りを見ても、自分自身を見ても、しかし、そういった目に見える現象によって、この神様が既になされた祝福が変わることは、変えられることはないということを、我々は信じて、その上に立って、信仰生活をしていかなければならない。
それが不動の変わることのない神様の確実な宣言の約束の御言葉だからです。
そういう霊的祝福がどういうものなのか、シト・ファウルはエペソー教会の神徒たちに、四節からそれを詳しく説明していますが、簡単に言ってこういう話なんですよね。
神様は世の始めから、私たち一人一人を救うことを定めておられた。
そして、神の時になって、一人一人を神のことして呼び寄せてくださって、罪を許してくださって、救ってくださった。
そして、この恵みが私たちの上に溢れるほど注いでくださった。
今も注がれている、今も受けているということなんです。
これが全ての霊的祝福なんです。
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そして、これは私たちがイエス様に出会った時に、信じた時に、救われた時に、確実に私たちの術に与えられていますよということなんです。
神様の約束によって、御言葉によってなんです。
だから皆さん、私たちの信仰は、自分の状況の上に立てる家ではないんです。
あるいは、自分の感情という心の上に立てる家でもないんです。
自分がうまくいく時の様子、勢いの上に立てることも信仰ではない。
あるいは、逆にものすごくどん底まで落ちてしまった、あの上に立てる家でもないんです。
信仰というものは、神の御言葉の上に立て上げる。
神の御言葉は永遠ですか、皆さん。そうでしょう。
神の御言葉は永遠に変わることのないんですよ。
そしたら、変わることのない御言葉の上に、私たちの信仰を立て上げて生きる時に、揺さぶられることがない。
邪魔されることがない。なくされることがないという確実な信仰を持って歩んでいきたい。
そして、その神様は私たちに見番目として、あまりにも私たちが疑い、落ち込む、失敗する、後悔する、汚れる、
そういったものであることを既に神様は、イエス様はご存じだから、
そんな私たちにもう一度助かめるように、私はこの世の終わりまであなたと共にいるよと確実にもう一度語ってくださいました。
まずその部分の御言葉を見てみたいと思いますが、
ヨハネの福音書10章に行きましょう。ヨハネの福音書第10章28節と29節を一緒に読みたいと思います。
新約聖書の私の聖書では199ページです。ヨハネの福音書10章28節29節。聖書をお持ちの方は一緒に読みたいと思います。
私は彼らに永遠の命を与えます。彼らは決して滅びることがなく、また誰も私の手から彼らを奪い去るようなことはありません。
12:15
私に彼らをあった時は全てに勝って以来です。奪い去ることはできません。アーメン。
どうですか皆さん。神様がイエス・キリストによって全て霊的祝福を与えてくださいました。
そして神様と私たちはもうきちっとこの関係が結ばれた。神のことされた。神の御手にある。この関係はどうですかこの28節29節を見たら。
決して滅びることはありません。そしてまたどうですか。
誰も私の手からイエス様の手から彼らを私たちを奪い去るようなことはありません。
29節はですね、またこうありますね。
誰も私の父の身手から彼らを奪い去ることはできませんと。
またもう一箇所見ていきましょうか。ご存じの方だと思いますが。
マタイの福祉書28章20節開きましょう。マタイの福祉書28章20節。新約聖書の63ページです。マタイの福祉書28章20節。
また私があなた方に命じておいたすべてのことを守るように彼らを教えなさい。
みよ私は世の終わりまでいつもあなた方と共にいます。アーメン。
みなさんこの御言葉を信じますか。
私たちと世の終わりまで主がいつも共にいてくださることをみなさん信じますか。アーメン。
このように聖書を開くたびに神様は20、30、40、50で私のこの救いの手から、私のこの祝福の手から誰もあなたを奪い去ることはできないよと強く確信を持ちなさいと
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20、30の約束の御言葉を飾ってくださるのです。
でもみなさんこの御言葉をよくよく深く考えてみればこの恵みは涙なしには読めない御言葉だと思う。
というのは私たち自分自身の普段の生活、生き方をよく帰りにて見たいと思いますけれども
私たちは時にはどれだけ自己中心であって神様を愛するより神様を考えるよりは自己中心的な私たちがある。
神様を愛していると口ではしていますけれども本当に神様を愛しているんだろうか。本当に言えるんだろうか。
御言葉のように心を尽くして精神を尽くして力を尽くしてあなたの神を愛しなさいと言われていますが、はいそうですと自信を持って言えるものなのか。
よくよく汚れて、よくよく貪欲であって、よくよく怠けであって、よくよく不信仰なものであって。
こんな私たち、聖なる神様の目から見るならば皆さん実はどう見ても受け入れられないものが私にあなた私。
神様が私たちを受け入れてくださらなければならない理由は私たちには一つもない。私たちが罪を許されなければならない理由は私たちには一つもないんですよ。
神様が私たちのために死んでくださるに値するふさわしい功績や税は私たちにも一つもないんです。
でも神様はずっとずっと絶えず私があなたを愛している。私があなたを愛している。私が世の終わりまであなたと共にいる。私の手からあなたを奪い去るものはありませんと主が宣言してくださるんです。
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何という大きな恵みなんでしょうか。そうしていただくにふさわしいものが何にもない。本当に何も持てないんです。
善も愛も弱いところも神様はこんな私たちを最後まで握りしめてくださるんですね。
この恵みを適当に読み過ぎないでいただきたい。深く黙想してかみしめて反省して感謝する私たちでありたいんですよ。
この恵みを深く知っている人は本当にもう謙遜という言葉を言われるまでにすでに謙遜にできているんです。
なぜでしょうか。神の前に立つことのできる何の値も自分にはないことをわかっているから。偉く振る舞える何の善も自分にはないものだから。
ただ本当に神の許しがあって自分の今があること。神様はここまで引っ張って握りしめて続けてくださっているから今の自分が神の前にいるということをわかっているから謙遜で偉くなっていられる。
皆さん私たちはどうでしょうか。私たちはしっきりに神の手を振り切ろうとするんですよ。でも神様はまたまた手を取ってくださる。でも私たちはまたそれを振り切ろうとするんですね。
でも神様は常にそう言ったらあなたは死ぬよ。だから私は私たちの魂を皆さんもしもそうしたらもう好きにやれと神様が私たちの魂を人生をつかんでくださらなかったならばたとえ体が生きていてもその魂は死んだものと同様でしょう。
21:00
皆さん覚えていてください。私たちが今ここにいられること、神を出会いできていること、死を信じていることはただすべて神様の恵みによるものなんです。
だからシト・パウルはライジ・コリンの十五書女子説に神の恵みによって私は今の私になりましたと告白しているんです。今の自分は自分が偉いからあるいは旦那さんが金持ちだから親が金持ちだから私はたくさん頑張ったから今の私がありますよ。それはもう大間違い。大きな罪。
神の恵みによって私になって神の恵みに含まれているわけです。この恵みを深く知って体験して感じて味わっているクリスチャンはもう神を誇ります。イエスを誇ります。
なぜなら今の自分になっていることはすべて神様の恵みだからそれをわかっているから自分を誇ること、誰を人を誇ることはもういらない。もうイエス、イエス、イエス・キリスト。皆さんどうでしょうか。普段皆さん何を誇っていますか。イエス・キリストを誇っているでしょうか。自分自身を家族をこの世をあるいはこの国をいろんなものを誇っているんでしょうか。
皆さん誇っているそのものは何でしょうか。イエス・キリストであっていただきたい。口を開くたびにイエス・キリスト、私はイエス様によって神の恵みによって今の私がある。神の恵みによってあなたが生かされている。そういうふうにね、キリストを誇るヒト・パウルのような私たちである。
ヒト・パウルはどうですか。先生を見ますとね、ヒト・パウルは自分自身を考えてみたら、もうイエスの弟子のあの人になれる何の値もない自分であることを彼はわかっていたんです。もう神の目から見れば、教会から見れば敵でした。もう悪質のものでした。
死んだたちを包装する、逮捕する、捨て歯のような人々をね、石打ちで殺すことに賛成した、そういうもう悪魔のような人でした以前はね、かつては。
でもその悪魔のようなものが、神の絶対主権によってイエス・キリストに出会って、すべての罪を悔い改め、その罪が許されて、死の基礎になって、今はむしろ命を懸けて福音を伝える基礎になったんですね。
24:13
だからヒト・パウロがコリー・トビスへの手紙とかですね、彼の書簡文を読みますと、ヒト・パウロ何度も言うんです。
本当に神様が今の自分を今まで握りしめてくださっておられるから、今の自分があるんだと。
それで自分はもうね、罪人の頭だと言ったでしょう。
そんな自分を主は使徒にくださった。
そうになれど何のふさわしいものは自分にも何もないのに、主は自分を使徒にくださって、この福音を告げ知らせるものとさせてくださった。
頭で理解しようとしても、どうせ理解することができない。
何という大きな恵みなんだろう、ハレルヤ主の恵みを賛美している。
皆さん私ども同じなんですよ。
主を心から賛美する、本当に愛して礼拝する生き方、それはやろう、しよう、頑張ろう、それでできるものではないんです。
一瞬はできるかもしれませんが、真似はできるかもしれません。
本当の意味で永遠に続くことはできない。
どうしたらいいのでしょうか。
神の恵みを本当に知る他にはない。
皆さん私どもパウロと同じじゃないでしょうか。
もう一度繰り返しになりますが、私たちの間に神様が救ってくださらなければならない理由を持っている人、
そういう資格を持っている人、値を持っている人は一人もいません。
でも、なぜ救われたのか。
なぜ私を選んでくださったのか。
なぜ神様と呼んでいるのだろうか。
なぜこの世に礼拝しているのだろうか。
なぜイエス様が救い主として信じられるようになったのか。
いくら頭では考えてもわからない。
でもそれが我々にできていて自分になっていることは全て神様の恵みじゃないでしょうかね。
もう説明しようがない。
だから貧困はある意味で神秘的なものであって恵みであります。
理解して納得して知識でそれが解決できるものではないんですよね。
大きく3番に移りたいと思いますが。
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さあ、ではこんなに素晴らしい恵みがある。
私たちに与えられている主が常に私たちの人生を歩みを守ってくださる。
守ってくださるというその恵みに、その愛に私たちはどう応募したらいいのでしょうか。
神から離れることがないように清く歩まなければならない。
聖書はこの二つを同時に語っているんです。
二つは何と言うと。
まず今まで申し上げた話です。
神様はもう絶対的で強力な確実な救いの約束に基づいて
私たちを救ってくださって守ってくださって世の終わりまでともにいてくださる。
この確実な真理の見事がある。
ところが私たちがそれに応答して生きるかどうかは
私たちによってその救いが続くことあるいはもう途切れてしまうこと
奪いされることもあり得ますよということが
実は聖書に同時に両方が語られているんです。
現代の神学でいろんな論争があるんだけれども
一つのそれが間違っているとまでは言えないんだけれども
強調しすぎてその反動としてよろしくない姿が現れて生まれたという話がある。
というのはもう信仰によって救われますよ。
あなたはもう一度信仰を持って千里を蹴ったから
あなたの人生がどうやっても必ず天国に行きますよといった過去的な信仰の見事がある。
それが半分はあってますか?半分はあってない。
そういうことがあってどんな結果がもたれますか?
適当に信仰を持つわけない。
私は千里を蹴ったんだから天国に行くチケットを持っているんだから
もういつか行くか悔やめばいいでしょうみたいな。
適当なクリチャー生活の神の恵みを豊かにもらうことにもあまり関心を持たない。
もうチケットを持っているからみたいにね。
それで実際のクリチャーはこの世の中で神の明かし人として
清められた者としてもう歩んでいかなければならないのに
それができていないクリチャーを量産してしまったという表現まで使う信仰者たちがいるんですね。
だからそこで成果が必要でありますし
そこで自分のすべてが叩いて叩いて砕かれる。
30:03
教団の先生方よくおっしゃる託殺という言葉、成果、清めだ。
だからそこで聞くようなんです。自動はないんです。
聖書にこういう言葉がありますね。ちょっと書いてみましょうか。
ヘブロ人への手紙6章4節からちょっと見ていきましょう。
ヘブロ人への手紙6章4節から。聖書をお持ちの方は開いていただけますか。
ヘブロ人への手紙第6章4節から。私はしばらくお読みしますね。
429ページです。
一度光を受けて天からの賜物の味を知り聖霊に預かるものとなり
5節、神の素晴らしい御言葉と持ちにやがて来る世の力と味わった上で
6節、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。
彼らは自分で神の子をもう一度十字架にかけて知識を与える人たちだからです。
もう一箇所、ヤコブの手紙2章19から見ていきましょう。
ヤコブの手紙2章19節。447ページです。
ヤコブの手紙2章の19節。19と20節と26節を私は読みにしたいと思います。
19節、あなたは神はお一人だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どももそう信じて憎いしています。
20節、ああ、愚かな人よ。あなたは行いのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。
それから26節。一緒に読みますね。
魂を離れた身体が死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は死んでいるのです。
皆さん、ヤコブは、シトパウルは神の恵みによって私は救われました。神は共にずっと一緒にいてくださるんです。
33:03
シトパウルはたたならば、ヤコブはそれに対して、ところが、行いのない信仰は嘘ですよ。それは死んでいるものですよと語っているんですね。
両方を私たちはいつも考えて歩まなければならないんです。
イエス様もまたこう言われました。
またいの福音書7章に決まった。またいの福音書7章16節。またいの福音書7章16節。12ページです。
さあ、16節から読みますね。
あなた方は身によって、身は行ないですね。身によって彼らを見分けることができます。
ブドウはイバラからは取れないし、イチジクはアザミから取れるわけがないでしょう。
同様に、良い地は皆良い実を結ぶが、悪い地は悪い実を結びます。
良い地が悪い実をならせることはできない。
また、悪い地が良い実をならせることもできます。
良い実を結ばない地は皆切り倒されて、地に投げ込まれます。
どうでしょうか、みなさん。
聖人は私たちに二つを同時に語っていることを、この朝、覚えていただきたいんです。
確かに、私たちは信仰によって救われます。
神の恵みによって救われます。
それには間違いないんです。
行いによって救われることはありません。
しかし、どうですか。
救われたならば、
救われたものならば、それにふさわしい行い、実が結ばれるはずですよ。
でも、実がないならば、最初からあなたはもう良い地ではない。
救いがないんですよ。
ということに、
先ほど読んだ御言葉の最後の21節に、こう言われました。
私に向かって救いをしようというものが、みな天の御国に入るのではなく、
天におられる私の地の御心を行うものが入るのです。
口先だけでの信仰には、本当にその人が救われたのかはわからない。
本当に救われた人ならば、その救いに感謝して、その生き方に実が結ばれますよ。
ふさわしい良い実が結ばれますよ。
36:02
だから私は、この地上において、
罪と自分の貪欲と激しく戦いをしていかなければならないのです。
自分のこの正義を守るために、
精霊の力をいただいて、
命をかけて、祈って戦っていかなければならないのです。
聖書には、残念ながら、
イエス様を捨てて、この世に行ってしまった人々が、実は結構名前が出てきているのです。
イエス様の弟子ユダもそうでしょう。
ストパウルの弟子デマスという人も、この世を愛して、ストパウルを捨てて、行ってしまいました。
皆さん、覚えていてください。
私たちは、誰にもこんな可能性がありました。
神を捨てて、この世に行ってしまいそうな可能性が、全くない人は、誰一人もいない。
そんな強いものではない、私たちは。
あれなら、普段の自分自身の生活を見ればわかります。
どれだけ自己中心で、神より自分を愛して、神に捧げるより自分を楽しむことに、もっぱら励んでおります。
そういう自分自身を見れば、わかりますよね。
だから私たちは、常に神の前に出ていかなければならない。
メッセージをあげたいと思います。
覚えていてください。
神様は確実な御言葉を持って、私たちの人生を握り詰めていてくださるんです。
それは本当に確実なものでありますが、しかし、もしも私たちがその愛に応答するならば、それは本当に素晴らしい恵みが我々にあることでしょう。
どうか皆さん、神を愛してください。
地獄を歩んでください。
心を尽くして、精神を尽くして、力を尽くして、死を愛して、死を喜んで、その恵みに本当に感謝する。
そして、感謝にあふれる、喜びにあふれる日々の生活を歩んでいきたいと、そういう風に願います。
39:00
お祈りします。