1. 名谷教会
  2. 2024/12/22:星の導く光
2024-12-23 33:54

2024/12/22:星の導く光

2024/12/22 クリスマス礼拝

加藤満牧師

マタイの福音書 2:1-12


00:01
一言お祈りをいたします。
愛する天の父なる神様、
このクリスマスの日に、私たち一人一人を主の御前へと、
あなたが招いてくださって、心からありがとうございます。
この季節に、暗闇の中に光として来られたあなたを、
祝い賛美をいたします。
祈られたように、この世界、そして私たちの内には、暗闇が多います。
しかし、あなたが光としてこの世界に来られ、
また私たちの光となってくださることのゆえに、
心から喜び、また賛美をいたします。
あなたは私たちを愛し抜いてくださいました。
私たちのために、イエス様が十字架にかかってくださり、
その流された父王により、私たちの罪を完全に許し、
それだけではなく、神のことし、永遠の命、
永遠なる主と切り離されない主と共に生きる、
新たな命を与えてくださいました。
心からありがとうございます。
そして、あなたと共に喜びながら、
この世界にあなたの御国を築くようにと、
使命を与えてくださいました。
神様どうか、このクリスマスの時にも、
あなたご自身の恵み深い姿を私たちに見せてくださり、
御言葉からあなたを知ることができますように、
このひとときを祝してください。
お願いいたします。
今日ここにお一人一人が集ってくださったことを感謝をしますし、
また同時に、ここに集いたくても集えないお一人一人がいることも、
痛みを持って覚えております。
体調を崩された方、怪我をされた方、
ご自宅で礼拝を守らざるを得ない方、
施設におられる方、
心が痛んでここに来れないお一人一人を知っています。
どうか主がお一人一人と伴ってください。
そこに御臨在くださって、
慰めを与え、あなたの光を輝かしてください。
お願いいたします。
あなたの前へと私たちは出ていきます。
私たちにあなたのことを教えてくださいますように。
これからの時を見てに委ねます。
どうか主が導いてください。
イエス様のお名前によってお祈りを致します。
アーメン。
改めまして、クリスマスのお礼拝にようこそおいでくださいました。
こういうことを言っていいのかあれですけど、
クリスマスおめでとうございます。
おめでとうございます。
クリスマスおめでとうございます。
アーメン。
ありがとうございます。
心から主の心を感謝いたします。
今朝のお話は、何がおめでたいのかということを
少しお話をしていきたいと思うのです。
クリスマスといいますのは、光の祭典とよく言われます。
03:00
その言葉の通り、街中にはイルミネーションが輝きますし、
教会も見ていただけたかどうかですが、
木に今イルミネーションがかかって、夜輝いております。
そして今朝は、この前にあるアドベントクランツというものにも
ろうそくの火に全て火が灯りました。
光というのがクリスマスの大切なテーマです。
それはなぜかというと、真っ暗な部屋の中に
ろうそくの灯しぶが一本灯るという絵があるとすれば、
それがクリスマスの全ての物語っているからです。
明日、私たちは5時からキャンドルサービスをいたしますが、
まさにそれがそのような光景を物語っているものになるでしょう。
真っ暗な部屋です。
しかしそこに一本のろうそくの火が、
それがいかに小さいろうそくの火であろうとも、
そこに一つ火が灯るならば、
実はその部屋はもはや真っ暗ではなくなるんですね。
真っ暗ではなくなる。
暗闇がどれほど深いものであろうとも、
光を覆うということは決してありません。
暗闇がどれほど深いものであろうとも、
そこに小さな灯が灯るのであれば、
暗闇がその光を覆うということは決してないんですね。
そのことを覚えるために、
大好きなときですけれども。
聖書は語ります。
光は闇の中に輝いている。
闇はこれに打ち勝たなかったという言葉が聖書にございます。
クリスマスはこの光として来られたイエス様をお祝いする日。
そしてこの光であろう方は、
私たち一人一人の暗闇にも光を灯してくださいます。
実際にこのイエスキリストという光に、
私の暗闇を照らされたということを感動した人々によって、
2000年間クリスマスという時は持ち運ばれてきました。
そして今私たちがそれを祝っているんです。
これは事実、そういうことなんですね。
私は年ごとに私たちの住む世界が、
その闇が深くなってきていることを覚えます。
言うまでもないでしょう。
ロシア、ウクライナ、イスラエル、パレスチナの戦争がありました。
この地域でも阪神淡路大震災の記憶はまだ新しいゼロのではないでしょうか。
東日本大震災、昨年の年明けにはノトの震災がありました。
そしてなおも続くウイルスの脅威があります。
次月にはアメリカの大統領が変わります。
この世界が何が起こるのか、どの方向に進むのか、
06:05
私たちは互いに分からないなあと思いながら生きているのではないでしょうか。
しかしもっと切実なのは、いや、そんな世界のことよりも私の身近な、
私の身の回りの、私自身の痛み、私たちの明日ということではないでしょうか。
その一つ一つに私たちは簡単に答えが出ないことに囲まれて生きています。
けれども今朝は端的な事実にそれでもやはり思いを馳せたいのです。
暗闇がどれほど深かろうと光を覆うことはできない。
であるならば、私たちは光を持っているかどうか、
それが大事になるような気がするんです。
今朝はご一緒に聖書が語る光について少し確認をご一緒にさせていただきたいと思うんです。
今朝は二つのポイントでお話をいたしますが、まず目を止めてまいりますのは、
光を探し求める人々が聖書に現れるということです。光を探し求める人々です。
今朝の歌詞を読んでいただきますと、お気づきかもしれませんが、
クリスマスのストーリーに出てきます博士たちの話ですね。
2章の1節2節を少しお読みしますと、こういうことが書かれていました。
イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムで王まりになった時、
みよ東の方から博士たちがエルサレムにやってきてこう言った。
ユダヤ人の王として王まりになった方はどこにおられますか。
私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。
この博士たちというのは、よく先世術師、星占いの人たちだと言われることがあります。
実は聖書はギリシャ語で書いてますが、この博士という言葉はギリシャ語でマゴスと言いまして、
これは英語のマジックという単語の語源になった言葉です。
このマゴスという言葉は、聖書の他の箇所では魔術師という言葉で用いられています。
博士と魔術師ってだいぶ遠いような気がしますが、しかし当時の世界においては、
星空に神様の御心が示されていると信じている国がたくさんありました。
エジプトもそうですし、バビロンもそうです。
現代でも星占いは人気ですが、きっとこの博士たちも母国では星空をじっと眺めていた人たちなんですよ。
星空をじっと探りながら、神はこの世界をどのように導こうとしているのか、
09:02
私たち人間をどうしたいのかということ、その道筋の光をこの博士たちは星空に探していた人々ですね。
けれども、星空に彼らの求める光はあったのでしょうか。
あくまで聖書はですが、聖書はこのように語ります。
ちょっとだけ旧約聖書の新明記というところを開きます。
ゆっくり読みますので、聞いていただけてもいいと思います。
新明記の4章の19節というところに、この星空について聖書が語っている言葉があります。
新明記の4章の19節、ゆっくり読むので聞いていただけたらと思います。
また、天に目をあげて、太陽、月、星など天の晩商を見るとき、
惑わされてそれらを拝み、それらに使えることのないようにしなさい。
それらのものは、あなたの神、主が、天下のあらゆる民に分け与えられたものなのである、という言葉が聖書にあります。
何が言いたいかというと、星空は神秘的です。探り極めることができません。
だから、昔の人々はそれが神様のように見えた。
けれども、星空は神様ではなくて、むしろこの世界には、探り極めることのできない星空を想像し、
用いることのできる唯一の神がおられる。聖書はそう語るんですね。
そして、この神は星空をも用いることができるから、この星星術師たちに対して星を使わすんです。
あなたたちが探しているのは星空ではなくて、私がこれからこの星を通して導く、そのところにあなたたちが探している光があるんだよ。
そう示すために、星空を通して、神様は博士らを導くのです。
そして、導かれた先で彼らが来たのが、このユダヤの地という場所でした。
ユダヤに着いた博士たちは、最初にどこに行くかというと、彼らを王宮に向かうんですね。
ユダヤの王が生まれると星が示したからですけれども、そこで彼らが出会ったのは、ヘロデという王様でした。
このヘロデという王様もまた、光を探し求めてうめいている、そのような人物です。
ヘロデ王というのはクリスマスの劇の中で、よく悪役として出てくるんですけれども、
ただ、違う側面を話すならば、彼は自分の人生を照らす光を求めて、もがいた人物でもあります。
12:01
少しだけヘロデ王の話もします。
ヘロデという王様は、この人の評価はいろいろ分かれるんですが、ヘロデ王というのはある意味で名君なんですね。
それはなぜかと言いますと、当時のユダヤ地方というのはローマの属州です。
ローマの庇護が絶対必要なんですが、ヘロデ王というのは政治家でして、ローマ皇帝にものすごく気に入られるように振る舞えた人間なんです。
そのおかげで、彼はユダヤ地方にいくつもの街を建て、インフラを整備をし、
そして彼が最大の功績は何かというと、エルサレム神殿を大改造築したのはヘロデ王です。
神宮を小さくてぼろっちかったのを立派なものにしたのはヘロデ王でした。
ただ、何で彼がここまで必死になるか、何でここまで彼は仕事をしたのか、一つ理由がありました。
それは、彼はユダヤ人の王でありながら、血筋がユダヤ人ではなかったんです。
イドマヤ人という人たちでした。
ユダヤ人からすると違法人なんです。だから、ヘロデはずっと言われた言葉がありました。
あいつはユダヤ人の王としてふさわしくないです。
ふさわしい王ではない。
彼の一生はその言葉との戦いと言っても過言ではありませんでした。
ヘロデが彼の人生を照らしてくれる光として求めたのは、誰からも文句を言われない王様になることでした。
けれども、晩年、ヘロデという男は気が狂います。身近な有能な僕は次々と処刑します。
それだけではなくて、後取りになるであろう自分の子供たちも彼は殺してしまいます。
少し聖書に戻りますと、そういう人物であることを見ながら思いながら見ると、この歌詞はよくわかるのです。
博士たちはこのヘロデのところに来て言いました。
ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますかと、彼らはヘロデに聞いたんです。
聖書は語ります。ヘロデはその言葉を聞いて、動揺した。
そして最初の立法学者たちに問い正した。
俺以外にユダヤの王が生まれるだと、どこだということですね。
そしてこの最初の立法学者たちに、ベツレヘムという場所にその王が生まれますよと特定させて、博士らを密かに呼んで、2章の8節にありますが、
そして言って、王様の方について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい、私も言って拝むからと言って、彼らをベツレヘムに送り出したと。
15:05
ただ拝むのでしょうか。そうではありません。
今日読みませんでしたが、2章の13節以降に書いてあるのは、ヘロデはその赤子を特定できなかったがために、ベツレヘム一帯の2歳以下の赤子を全員殺したということが出てまいります。
実に残酷な男、それがヘロデでも言えるでしょう。
ただ、私はこの歳になって改めてヘロデ王という人物をこうやって注目するときに、私はヘロデという人物が何か人間の悲しさを描いているなというように見えるのです。
私たちもないでしょうか。
お前は足りない、お前は不十分だ、お前はその役にふさわしくない、そういう声に四六時中苛まれて、それを払拭するために何かを成し遂げて私は光り輝こうともがく私たちっているんじゃないでしょうか。
そしてあたかも何かを成し遂げた私はこれだけのことを成したのだから、私は生きる価値があるんだということを自分に言い聞かせるような、そういう私たちってあるんじゃないでしょうか。
そうやって得たものを、築き上げたものを私たちは見ることができるでしょう。しかしその築き上げたものを見て、振り返って見てみると、なおもそこに空洞がある。
安心できない私たちがいる。私は十分だ、私はやり遂げた、私は大丈夫だといつまでも思うことができなくて、そして成果を示せと終わらないプレッシャーに追われ続ける中で、私たちの心が徐々に壊れていくということが人間あるなと私はとても思うんです。
一生懸命に私は生きてきただけなのに、なんでこうなってしまったんだろうということが、私たちのうめきとして互いにあるんじゃないかな、そう思うんですね。
このヘロデの姿を見るときに、彼は光を見つけることができたんだろうか、いやそうではなさそうですね。彼は地位も名声も得ることができましたが、しかしそれが彼を照らす光にはならなかった。
博士もヘロデも、そしてもしかしたらそれは私たちもそうですが、光を探しているんです。私を安心させてくれる、私をそれでいいと思わせてくれる光を私たちは求めているんですが、しかしそれがどこにあるのかがわからない。
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だからさまよってしまうということが私たちはあるんじゃないでしょうか。ただこのクリスマスのストーリーで素晴らしいのは、博士たちをそれでも光に導く星が輝いているということです。
私たちも一緒に星を置いたいと思いますが、この星は一体彼らをどこへと導いたのでしょうか。2つ目のポイントです。彼らは光を見つけるのです。聖書を少し読ませていただきますと、2章の9節から10節というところを少しお読みします。2章の9節から10節。
博士たちは王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ、かくて昇るのを見たあの星が彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来てその上に留まった。その星を見て彼らはこの上なく喜んだ。
博士たちを導いた星は、きらびやかな王宮をスルーしてですね、ぐんぐんと彼らを田舎町へと導きました。そしてある家の上で泊まりました。当時の民家というのは、2階が人間が生活するスペースで、1階が家畜小屋だったと言われます。
そこに入ったら家畜小屋があるわけですね。そしてその星はまことの王、まさに暗闇を照らすまことの光としてお生まれになったイエス様のもとへと博士たちを導いたのです。
10節のこの言葉というのは、星を見て彼らはこの上なく喜んだと書いてますが、これは直訳すると、大きな喜びをひどく喜んだという言葉です。大きな喜びをひどく彼らは喜んだという言葉です。最大級の喜びが彼らにあふれたのでしょう。
ただその喜びはどういうものであったか、ちょっと想像してみましょう。分かりにくいんです。と言いますのも、星が導いたその馬小屋という場所は、おそらく真っ暗です。真っ暗ですね。
光り輝く星のもと、まことの王、まことの光としてお生まれになった方は、真っ暗な部屋で、しかも動物小屋ですから汚くて多分悪臭が漂う、そのような場所にいて、この子が生まれた王だと思って見た先に彼が寝かせられていたのは、動物の餌箱、カイバオケでした。
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本来博士たちが想定していたようなものとは、全てが真逆でした。真っ暗の王が生まれる、ああそうか、だから王級に生まれるんでしょう。いや、違いました。
光輝く、まことの光が来られた、だから何かポワーンと光っているのか、いや、その子供は光輝いてなどいませんでした。むしろ人が生まれる最下層の場所に、まことの光が横たわっていたんですね。博士たちはそれを見てどう思ったでしょうか。期待外れや何ヶ月も旅してきたのに何やこれと思ったでしょうか。
いえ、そうではないでしょう。11節を見ていただきますと、彼らは母マリアと共にいる幼子を見、ひれ伏して礼拝をしたと記されます。礼拝するというのはこれは人間に対してほとんど使われません。これは神に対して使われる言葉です。
彼らは期待外れだったのか、いや違います。この全く光っていない真っ暗なところに、まことの王、光が来られたというのは、彼らにとっては期待以上の驚きでした。それはなぜかというと、まことの王、まことの光、いや神であるお方が汚れた場所に全く無力となって生まれになった。
しかしそれが、このまことの光がどういう光であるかということを何よりも物語っている。なぜそんなことが起きるのか、それはこのまことの王、まことの光というお方が、汚れている、真っ暗な、臭い、そういう一人一人のそのものを抱えている、一人一人と出会うためにここに生まれになった。
戦戦術師というのは聖書の中では汚れた仕事です。本当は神を礼拝できる人たちではありません。しかし、彼らがこの馬小屋に招かれたのは、まさにまことの光王であるお方が、この暗い馬小屋に生まれてくださったから、彼らは出会うことができ、礼拝することができた。
聖書は語ります。イエス様はまことの王です。まことの光です。そして神です。本来ならば王宮で生まれ、光輝き、そして全能の力を持っておられるのがイエス様というお方です。
24:07
しかし、このお方は、新約聖書のキリピ書というところに書いてありますが、こういう言葉があります。このイエス・キリストは、神としての在り方を捨てられないとは考えずに、ご自分を虚しくして下辺の姿をとり、人間と同じようになられた。
なぜなのか、このイエス様や神様というお方は、全能の神として、上から力強い何か光を照らすよりも、愛にあふれる友として、暗闇にうめく、それは私の暗闇にうめく、私たち一人一人のその暗闇の隣人となり、
慰め、励まし、私はあなたを愛しているんだから、私と一緒に人生を生きていこうと、そう招くことを通して人々に光を灯すことを願われる神様なんです。福音書を見ていたら、そのことがよくわかります。
王としてお生まれになったイエス様は応急に済みません。イエス様は主縁のところに行って、病に苦しむ人、悪霊に疲れた人、そういう人々があなたは穢れているから近寄らないでという人たちにガンガン関わって触れていきます。そしてイエス様が弟子にした十二弟子はだいたいゴロツキです。
ゴロツキっていいですかというか、両親、主税人、熱心党員、キレ性です。でもイエス様はそういう暗闇を抱える人たちにガンガン近づいていかれた。なぜか、その暗闇がわかり、その暗闇を私は照らしたいと願われるお方だからです。
そしてイエスキリストというお方と共に歩み始めた一人一人、このイエスキリストが私の光なんだと受け止めた一人一人と共にイエス様は歩み始めて、そしてその一人一人のうちに光が灯り始めるんです。そしてこの光は二千年以上いろんな人たちの心に灯り続け、そしてそれがあるから今私たちはクリスマスを祝っているんです。
私たちは思います。私たちの遠い世界も身近な世界も闇はあふれていますね。ただ最初に申し上げました。私たちのうちに光があるならば、その闇は真っ暗ではなくなるのです。
27:01
聖書が語る光とは何でしょうか。コシが導いた先にあった真っ事の光とは何でしょうか。それはイエスキリストというお方そのものなんです。イエスキリストというお方です。そのお方が私たちと共に歩んでくださるときに、暗闇が吹っかかろうと光が私たちを覆うことはない。そのことをこの歌詞は語っている。
もう終わりますが、二つのことをこの歌詞からご一緒に覚えたいと思うのです。一つこの歌詞から私たちが教えられることを示されることは、神様は私たち一人一人にコシを使わせておられるということです。
今日久しぶりに教会に来られた方、私はクリスチャンじゃないですよという方もここに大勢来てくださったと思います。ただぜひ覚えていただきたいのは、聖書に書かれている神様というのはキリスト教クリスチャンにだけ働く神様じゃないんです。聖書の神様というのはここにいる誰一人例外なく皆さんの神様なんです。
そしてその神様は私たちの人生に星を輝かせてくださるんですね。この神様は私たちを創造し、あなたの命を創り、あなた自身を愛し、あなたの人生に祝福を願われる神様です。クリスチャンというのはその事実を受け入れた一人一人でしかありません。
そしてこの神様はここにいる私たち一人一人の人生に星を使わせてくださる。星というのは一つ先制術師に見つけられるための器具でして、いろいろな形を通して神様は皆さんに気づく形で星を使わされるんです。そして皆さんを祝福へと導かれる。
ただ一つ今朝このクリスマスの時に覚えていただきたい、忘れないでいただきたいのは、神様が使わす星というのは私たちを大きな喜びに導きたいと願っておられるということです。博士たちは星を見てこの上もなく喜んだ大きな喜びを彼らは喜んだと聖書は語る。
皆さんが帰る先ででも何かの導きがある時に、でもその先にイエス様というお方がいることをぜひ覚えていただきたいと願います。そして第二にこの箇所から私たちが問われることは、そういう私たちはイエス様の前に何を捧げるかということです。
30:01
聖書の11節というところにイエス様がこの巫女に対して比例付して礼拝をして、そして宝の箱を開けて黄金入行を持つ役を贈り物として捧げたと聖書は記します。これが何を意味するのかは聖書は沈黙しています。だからいろいろな解釈があります。
黄金というのはあなたは私の王ですよという捧げ物ですね。赤子にあなたは私の王ですよという信仰告白を込めた捧げ物です。
入行というのは神様の臨在、その後も続く神様との交わりを表現すると言われますし、持つ役というのはイエス様の死と復活、あの十字架の死、私たちの罪のすべてを引き受けてイエスキリストは十字架で死なれたと言われますが、その十字架と死と復活を表現していると言われます。
ただそれは一つの解釈でして、もう一つの解釈が実はあります。それは何かと言いますと、この黄金入行持つ役というのは博士たちの商売道具なんです。
彼らが旅をするために、彼らが占いをしながら稼いできた彼らの商売道具、それはある種、星空に世界の、そして人類の、そして私の光が示されていると信じていた彼らの道具です。
しかしそれをこの御子の前に捧げたということは、彼らがもはや、私は星空に光を探しませんということです。そうではない、私のまことの光として輝いているのは、あなたですと告白するその行為なんですね。
私たちはそれぞれイエス様の前に何を捧げるでしょうか。私たちの光を探す道具はそれぞれあるんです。別にそれが悪いとも言いません。でも私たちはイエス様の前にいつか黄金入行持つ役を捧げる。
私の光は星空ではなくて、地位や名声にあるのでもなくて、あなたですという時がいつかあるんです。そのことをイエス様に招かれていることをぜひ覚えていただきたいと思います。
今朝の御言葉をご一緒に覚えたいのは、「その星を見て彼らはこの上もなく喜んだ。」という言葉です。この星を見て彼らはこの上もなく喜んだ。大きな喜びを喜んだ。なおも暗闇はあります。しかし今朝、くどいほどに言います。
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暗闇がどれほど深かろうと光を覆うことは決してありません。であるならば私たちは自分に光を持っているかが大事なんです。皆様の上に神様が星を輝かせてくださることを願います。皆さんの人生が光へと導かれることを願います。
ただぜひ少し覚えていただきたいのは、その光、私たちに大きな喜びを与えることのできる光はイエスキリストというお方だということです。そのことをぜひご一緒に覚えて光に導かれていきたいと思います。一言お祈りをしてメッセージを終わります。
33:54

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