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2021-12-19 44:57

2021/12/19:クリスマスのお話(3)イエスって信じていいですか?

2021/12/19 クリスマス聖日礼拝

尹善鎬牧師

ルカの福音書 2:8-14


00:03
みなさん、おはようございます。
今日はクリスマス礼拝ですので、おはようございますもいいですけれども、周囲の方にメリークリスマスとお祝いしましょうか、みなさん。
メリークリスマス、メリークリスマス、メリークリスマス、メリークリスマス。
去年と今年のクリスマスは残念ながら、以前のようにですね、クリスマス礼拝を街道区があるいは、
警備の学校を借りてですね、礼拝とまた出会いを行って、美味しいランチも一緒にね、
共にできましたけれども、 去年と今年は
コロナがまだ続いておりまして、できなくなっていることも悲しいんですけれども、
来年にはですね、ぜひですね、普通の普段の生活にですね、戻って、日常生活も守り、
あるいはクリスマス礼拝もですね、守られたらいいなと、そういうふうに願っております。
また今年もこのように、皆さんとともに、このクリスマス礼拝を一緒に捧げられることを、本当に嬉しく思います。
久しぶりの方々もお見えになって、また初めての方も、いつもの方もですね、こういうふうに
街道一般になって、クリスマス礼拝が守られていることを本当に感謝しております。
クリスマス礼拝は色々ありまして、ちょっと落ち着きにくいところもありますが、何よりこの
礼拝メッセージを、きちんと伸ばさなくですね、落ち着いて、ぜひ聞いていただきたいと、そういうふうに願っておりますので、
ロビーにいらっしゃる方々、あるいは2階にいらっしゃる方々もですね、
ぜひですね、耳を傾けて、主のメッセージを聞いていただきたいと、そういうふうに願っております。
今年のこの12月は、クリスマスのお話というテーマで、今日で3回のメッセージをしております。
1回目は、イエスって誰ですか。イエス様は人間であり、神であることをお話をしました。
そしてその続きとして、2回目、イエスって神ですか。本当の唯一の神様であることをお伝えしました。
今日は3回終わりですけれども、そのイエス様、イエス・キリストを信じていいのか、というテーマであります。
03:00
ここに神徒さんも含めてですね、こうして教会の礼拝においでになったということをだけ見ても、
とてもある方々には大きな勇気であり、また関心がおありだろうから、ここにお見えになっていらっしゃると、そういうふうに思って、本当に感謝しております。
私は投票中ではありますけれども、それでもこのクリスマス礼拝に、この福井の良き訪れを述べ伝えたくて、今日もこの講壇に立っております。
また、牧師として皆さんお一人お一人が、イエス・キリストを信じていただきたいと、そういうふうに切に切に願って祈る心でございます。
ところでですね、今日はまず、信じるか信じないかその前に、信じるとね、信仰というものがどういうものなのかから、まずですね、切り口として、入り口として話をしていきたいと思います。
今日は、3回全部そうですけれども、前のスクリーンを皆さんご覧いただきながら、話を進めていきたいと思います。
ほとんどの国で似ていると思いますが、日本の中でもいろいろな宗教がありますよね。宗教に対するいろんな思いをお持ちかなと思います。
ある方は、とても無関心であります。どうでもいい。あるいは、何らかの理由があって拒否します。宗教、いろんな。あるいはキリスト教を無関心であったり、拒否したりするかもしれません。
その拒否する理由には、例えばその方の個人的に、あるいはテレビのニュースとかの直接的、あるいは間接的な何かのニュース、悪いニュースを聞いて、宗教は怖いというイメージを持った。
あるいは、本当に実際に何かの悪い経験をしたから、宗教はもう結構です。拒否する方もおられると思います。
あるいは、宗教、ことにキリスト教に少しある程度関心を持っておられる方も、ここにいらっしゃるかもしれません。少し知りたい。
拒否はしない。あるいは迷っている。あるいは、持ってもいいかもしれない。いいと思うんですよ。
06:08
そこで、そういった方々に信じるというこの行為がどういうものなのか。
今日はですね、聖書の言葉から、それをキリスト教が、聖書が言う信仰、信じるという行為はどういうものなのか。
イエス様の言葉から、それを少し解いて、解説するようにお話をしていきたいと思います。
まず、信じるということは、聖書の言葉で言いますと、イエス・キリストにつながることです。つながることです。
皆さん、今冬なんだけれども、スーパーに行ったら、いろんな果物が売られてますよね。リンゴとかみかんとかね。
うちの家族がみかんが大好きなんですね。一箱買ったら、もうすぐ食べてなくなるんですけれども。
ところがですね、この木を皆さん、よく見てみてください。
あのみかんの実が成るためには、みかんが枝につながっていれば、そしてその枝もね、みかんの木につながっていれば、実が成りますよね。そうでしょう。
でも、このみかんがですね、つながっていない。
そしたらですね、ああいうふうに実ることはできないということなんです。
イエス・キリストを信じるということは、イエス・キリストに、唯一の神様につながることです。
聖書には、このつながるという言葉を、とどまる、とどまるという言葉に変えてですね、言っています。
それを確認して見てみたいと思います。
聖書に、ヨハネの福音書がありますが、そこの15章の5節に、
枝と木、実、さっきのみかんの写真のような、ぴったりの実言葉があるんですね。
私はブドウの木、あなた方は枝です。
人が私にとどまり、私もその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。
私を離れては、あなた方は何もすることができないのです。とあります。
ブドウの枝がブドウの木にとどまっていれば、多くの実を結びます。
実はですね、枝はブドウの木につながってさえいればいいんです。
あのブドウの実、あるいはみかんの枝がですね、つながってさえいればいいんですよ。
09:05
そうしたら、木から水分も栄養も供給されるということなんです。
信じるという行為はですね、私たちがイエス様という方につながってさえいれば、
イエスキリストが私たちに人生のあらゆる答えや知恵や命になってくださるということなんです。
それについて聖書はこういうふうに言っています。
ヨハネの福音書14章の6節に、イエスは言われた、私は道であり真理であり命なのです。
私を通してでなければ誰も父の身元に行くことはできませんとあります。
ですから信じるという行為は、命、真理、道なるイエスキリストにつながること。
イエスキリストにとどまることなんです。
実は皆さん、私たちは気づいていないうちに、世界中がキリスト教の精神、その真理の恩恵に預かって、私たちは普通に暮らしているんですよ。
もともと聖書から来ているものの現代において、今は当然とされている人権の問題とか、特に子ども女性の人権の問題、
あるいは貧しい人を助けること、あるいは敵を愛するという考え方は、実はキリスト教が普及されて世界に広がったということなんです。
その他の一つ話をしますと、キリスト教が普及される前の、例えばヨーロッパでは、敵を愛することとか貧民を助けることは、当時は愚かな行為だとされていました。
みんなそうしていなかったからです。
そういう行為は社会の仕組み自体を崩壊させてしまうことだと、そういうふうにさえ考えられていました。
それは才能と力ある者だけが生き延び、勝者が全てを手に入れるという、いわゆる弱肉強食の仕組みの社会だったんです。
それが当然の社会でした。
だから貧しい者は苦しむ他に道はない。今でもずっとそうだったんじゃないかという考えが普通でした。
12:09
しかしどうですか。キリスト教のその真理が、その精神が普及されて広がっていって、世界が変わったんですね。
敵を愛するように変わりました。
貧民や孤児を助けるように世界が変わりました。
個人の尊厳を主張することになりました。
いわゆるヨーロッパを中心にして、世界に革命が起こされたわけなんです。
その出発がキリスト教の真理、精神ということですね。
そこから世界が、その恩恵に私たちは預かって今暮らしているわけなんです。
残念ながら、もう昔は子供とか女性とか奴隷とかには人権というものはなかったんです。
人を数える時に、男性だけ人として数えられる時代だったんです。
しかしキリスト教の精神、なぜですか。
人は子供であろうが大人であろうが、男性であろうが女性であろうが、金持ちであろうが貧しい人であろうが、病気の人であろうが強い人であろうが、
みんな神様の形として作られた尊い存在だというキリスト教の真理が世界に広がって、実は私たちはその恩恵に預かって暮らしているわけなんです。
だから、もしある牧師がキリスト教を拒否するんだったら、その精神まで普及されているまで全部それを取られてしまうと、今の我々はもう生きにくい、暮らしにくい世界になるだろうという話を読んだことがあります。
イエース・キリストは真理です。真理を教える方ではなく、イエース・キリストご自身が真理なんです。
その方がおいでになってくださったその日がクリスマスです。
2番目、信じるという信仰の行為は引き算ではなく足し算です。
宗教、キリスト教に対して恐れとか不安を感じられる方々がおられるかもしれません。
15:01
キリスト教を信じたら、あれもこれもできなくなるし、しなければならないこともいっぱいあるし、もうめんどくさいみたいにルールも多くて思われるかもしれません。
確かにそういうふうに感じられることも無理ではないかなと思います。
特に日本の現代歴史の中で、いわゆる信仰宗教団体の弊害は大きかったのです。
法務審議所とか、その他のいろんな信仰宗教の悪いニュースが一日中続いているわけですから、
その宗教に関するニュースは大体ニュースに、美しい麗しいニュースはニュースに出ないのです。
キリスト教団体がこういう素敵なこと、素晴らしいことをしましたよ、そんなニュースはニュースに出ないのです。
そういうニュースがニュースに流れて、ニュースを見ているうちに、我々は宗教悪い、宗教怖いイメージが焼き付けられるわけです。
イエス・キリストは本当に私たちの人生から何かを奪い取るために、取ってしまうために来た方なんでしょうか。
聖書はこういうふうに言っています。
ヨハネノ福音書10章10節を見ますと、前の画面をご覧ください。
盗人が来るのは、盗んだり殺したり滅ぼしたりするために他になりません。
私が来たのは、羊たちが命を得るために、それも豊かに得るためです。
イエス様が来たのは、引くとか取るためではなく、私たちがその命なるイエス様を豊かに得るために来られたと言っています。
ここで、他の宗教や思想とキリスト教を比べて、どう違うのかを、今から話を少し進めていきたいと思います。
他の宗教は、決定的なのは、神あるいはそのような存在を見つけるために、つながるために、あるいは自分を改善するために、あるいはもっと意識を高めるためには、何かをしなければならないと教えられます。
18:04
仏教だとしたら、三千回の灰をしなければならない。貧図教やラマ教は、苦行をしなければならない。
最大限の努力をして、その規律を守って、心を空っぽにして、沈めて、悟りを得なければならない。
座禅をしなければならない。あるいは、世界や自分を改善するには、持ち得る限りの理性や力を使って、そのように生きなければならないんですよと教えられます。
これが他の宗教の言うところです。あなたが努力しなさいということなんです。その次第ですよと、それが他の宗教の教えです。
一方で、キリスト教は真逆です。正反対です。全く違います。実は。
今日は、このことをぜひ知っていただきたいです。
他の宗教や哲学では、神につながるためには、何かをしなければならない。つながる前に何かをしなければならないと教えられます。
しかし、キリスト教はそうではない。
イエス・キリストが来て、あなたにはできないことを、あなたのためにしてくれたのだ、と言うのです。
私たちは、人が何かをしなければならない。何をしなさい、あるいはしてはいけない。神につながるために、自分を改善するために、そうしなければならないと言うのではなく、
イエス・キリストが来られて、その方があなたのためにしてくれたのですよ。そのよき訪れを、それが福音、福音という言葉です。
人生の疑問それぞれに、様々な答えを、多くの宗教が示します。
こういうふうにした方がいいですよ、これがいいですよ、と言いますが、キリスト教は、イエスこそが答えそのものですよ、と言うのです。
イエス様がすべての問題の、悩みの、苦しみの、答えそのものだ。
権力や成功を手にしている人たちは、強くなって頑張れば勝てる、と言う、すでに彼ら自身が持っている信念に訴えかける思想や宗教に惹かれます。
だから意外と、権力、成功、あるいは知識層の方々が、そういった信念や宗教に惹かれやすいのは、実はそこにあるんですね。
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頑張れば勝てる、あなたが頑張ればこういうふうになれるという宗教と、それが似ているんですよ。
だから皆さんご存知のように、日本でも他の国でもそうですが、信仰宗教団体に、結構知識層の人々がそこに惹かれてしまうことが多くあるでしょう。
そこにあるんですよ。あなたが頑張れば、彼らも随分頑張って何かをゲットできたものだから、同じパターンに慣れているから惹かれてしまうことなんです。
キリスト教は違います。そういう意味では、強者のためだけにあるのではありません。
誰でも、特に重要な局面でこそ、自分の弱さを認めることができる弱者のためでもあるのです。
言い換えれば、ある種の力を持っている人のためでもあります。
その力は、自分の欠点は表面的なものだけではない。心の奥深くに広がる混沌は、自分ではもう修復不能だ、修復できないと認めることができる力です。
実はこの力が最も大きな力でございます。
だからこそ、そこから救ってくれる誰か、つまり神との関係を正すために十字架上で死なれたイエス・キリストが必要なんだと認めることのできる力です。
だから皆さん、話をしました。
キリスト教は、神を見つけるために何々をしなさいと言わず、あなたを見つけるために神様がこの地上にイエス・キリストとして生まれ十字架についたと言います。
人が神を見つけるために頑張る、努力する、何をしなければならない、それが他の宗教の教えです。
しかし全く違って、キリスト教はある意味で頑張る、努力する必要はない。
もう私を、皆さん一人一人を見つけるために神なるイエス様がおいでになったということなんです。
それがクリスマス、よき訪れのグッドニュースなんです。
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それこそが、キリスト教が世界に示した、実に革命的な唯一の真理なんです。
弱者をいたわり、権力や聖徒ではなく、愛と奉仕に行き、敵でさえも犠牲的な愛をもって愛する、といった革命的とも思える考え全てが、この福音から来たと言っても過言ではありません。
つまり、私たちの罪の深さゆえ、神御自身がイエス・キリストとなり、私たちにはできない自分を救うという行為を代わりにしてくれたということなんです。
もう一度申しますが、キリスト教の真理、福音は、神につながるためにあなたが何かをしなければならないのではなく、
イエス・キリストが来て、あなたにはできないことをあなたのためにしてくれた、と言うからです。
だから、ガラティア・ビトイの手紙という聖書がありますが、そこにこういう見言葉があります。
キリストは自由を得させるために私たちを解放してくださいました、という見言葉があります。
このためにイエス・キリストがおよそ2000年前にこの地に来られたのです。
この日を記念するのがクリスマスです。
実は皆さん、クリスマスはご存知かと思いますが、キリストスマス、キリストを礼拝するという言葉なんです。
だから皆さんがクリスマス、クリスマス、50歳の方が10歳から話をしたら、毎年イエス様を礼拝する言葉を皆さんは知らずうちにそれを話してこられたということなんです。
だからある意味、それだけ見ても、言葉だけ見ても、キリスト教は皆さんと遠くないというふうに話せるかと思います。
3番目、信じることを迷う方がおられるかもしれません。
その多くの理由は、いろいろ理由があるかと思いますが、
私の短いこの日本での経験の中で、キリスト教を信じる前に、あるいは洗礼を受ける前に、今までの生活、何かをキリスト教にふさわしくない、
それらを全部ちゃんと完全に整理しなければならないという考えを持っているからだと思うんです。
27:07
福山にいる時の話ですが、奥さんは韓国人で、旦那さんが日本の方でホテルの仕事をしていた方ですが、
長い間休道をしているのですが、洗礼の話をしたら、
日本にある自分の親のお墓の問題を解決できたら、その時になったら、きれいに整理、片付けられたら洗礼を受けますよと言って、結果的には洗礼を受けられなかった。
それで私はこっちに来たわけです。
そこには、その考えが悪いというより、そういうふうに思うのも、信じるという志としては悪くないと思うんです。
あるいは、お酒を飲まれる方やタバコを吸われる方は、それをやめたから信じようとか、親の仏壇のことを整理してから信じますとか、
あるいは、もっと清らかな人になれたら信じますとか、
あるいは、聖書のことをあまり知らないように信じろということは、それはちょっとまずいでしょう、申し訳ない。
だからもう完全に理解できたら信じますとか、そういうような考えを持っている方が意外と多いかなと思います。
無理でもないかと思います。
ある意味で、とても良心的な考えだと思います。
責任を持ちたいという気持ちでしょう。いいと思うんです。
ところが、その考え方は実は、福音がイエス・キリストが意図するところとだいぶずれているんです、実は。
例えば、ここに書いてあるように、信じる前に全ての罪を告白しなければならないとか、完全に清い人にならなければならないとか、
聖書を完全に知らなければならないとか、あるいは、聖書の学びをしなければならないとか、あるいは、良くない習慣などもやめなければならないとか、
信じる前に全部きれいに片付けたからないとダメだという考えを持っている。
でも、その志は良いと思うんです。
でも、どれも福音とイエス様の教えと、実はずれているんです。
まず皆さん、考えてみてくださいね。
罪を反省する、教会ではそれを悔い改めると言います。悔いて改めます。過去のことをしないんですね。
30:01
ところが皆さん、人がいくら努力して、いくら昔の小さい3歳5歳の時までそれを思い起こして、
自分がした悪いことを全部完璧に覚えることができますか。できないんです。不可能なんです。
人間の記憶には限界があります。だから、努力して思い起こせる悪いことは限界があります。
もちろん、だから完全に告白することはいらないんですよという話ではないんですけれども、それだけ見ても不可能なんですよ。
完全に自分の罪を悔い改めできないんです。キリスト教を信じるか信じないか関係なくてね。
でも、その悔い改めの話、罪の話をするために、もっとも重要な話がこれからあります。
注目してください。ベルが鳴っていますので、皆さん注目してください。
キリストの福音は、私たちが信じる前に、自分の罪を全部完全に悔い改めなさいと言われたのではなく、
実はどんな人であっても大丈夫。誰でも大丈夫。私のもとに来なさい。
罪のままで、汚れのままで、矛盾さのままで、あるいは恐れのままで、あるいは反感嫌悪感を持っていいんですよ、そのままでいいですよ、
そのままで私のもとに来なさいと招いてくださるんです。
そして、私の愛を受け取りなさい。そして、私の愛にとどまりなさい。
私と愛し合おうとおっしゃるんです。
福音は、私たちがイエス様を愛するようになったら、イエス様の心にかなったことをする人に変わりますよ。
イエス様は変えてくださるんですよと言うんですよ。
信じる前に、全部片付けてから来なさい、ではない。それは福音ではない、キリスト教の教えではありません。
そのままでいい。汚れのままでいい。わからないままでいい。恐れのままでいい。
聖書の教えが100だったら、0.5しか知らなくてもいい。
私の愛にとどまりなさい。私にとどまりなさい。
まるで恋人ができたら、彼氏が好きなことを私も好きになるということがありますよね。
33:01
してあげたい。一緒にしたいという気持ちがあるでしょう。少し似ていると思うんですね。
福音は、信じる前に、罪を全部捨ててから私を信じなさいと言っていません。実は。
あなたが私を愛するようになったら、あなたも清い道を歩むようになりますよ。私が導くからねとおっしゃるんですよ。
だからイエス様が来られたのは、私たちに本当の自由を得させるために来られたんです。
また信じる前に、聖書のことや神様のことを完全に知らなければならないという考えがあるかもしれません。
でも、人がいくら努力しても、天才であっても、神の領域を全て知り尽くすことは難しいでしょう。
教会という言葉の名前の話をしたいと思いますが、この漢字の文化圏の国では教会という、こういうふうに教会というでしょう。
教える会になっています。日本も韓国もそうですけど、教会と訳されています。
だからだいたい、クリシャンもそうですけど、クリシャンじゃない方々の教会に対するイメージの中の一つは、
大体、聖書を学ぶところ、福祉の説教を聞くところ、まるで学校とか塾みたいな、そういう習い事をするような場所みたいなイメージがあるかと思うんですね。
福祉は先生、神徒さんは生徒みたいにね、イメージがとても強いんです。
でもね、もともと教会という言葉の本来の意味は、教える会じゃないんですよ、実は。
本来の意味はですね、呼び出された者の集いという意味です。呼び出された者、召し出された者の集い。
つまり、神様を唯一の神と信じ、イエス様を救い主と信じる者たちの集い。
エクレシアと言うんだけれども、それが実は教会という名前なんです。
今さら変えることは難しいと思うんですけどね。
でもちょっと残念だなと私は個人的に思います。
だから皆さん、この言葉だけ見ても、信じる前に聖書の知識を完全に学ばなければならないとか、
知らなければならないとか、全部理解してから信じなければならないことではありません。
36:00
その知識がメンバーシップの条件ではありません。
メンバーシップが求められる場所ではありません。
実は教会はもう誰に対しても開かれている場所でなければならないです。
電話して予約する必要はありません。
イエス様は私たちに完全な知識を持てたら、その時に来なさいとおっしゃいます。
イエス様は私たちにありのまま、私のもとに来なさいとおっしゃいます。
聖書はこういうふうに言っています。
ヨハネの福音書7章37から38節に
誰でも渇いているなら、私のもとに来て飲みなさい。
私を信じる者は、聖書が言っている通り、その人の心の奥底から行ける水の川が流れるようになります。
どうですか。
渇きを解決してから来なさいとか、水を持って来なさいと言いませんね。
渇いているなら、その渇きのままでいいですよ。
その渇きのままで、渇いているまま、私のもとに来て飲みなさいとおっしゃるのです。
なんと嬉しいのでしょうか。
メンバーシップは、条件は実はいらないのです。
信じる前に何かをしなければならないと求めるのは、イエス・キリストの福音とは遠い遠い話です。
もし、こういった皆さんそれなりの先知識を持っている方がここにおられるならば、
今日、それをぜひ正しいことを知っていただけたらと願っております。
イエス・キリストの福音は、
信じたら、神の愛に預かったら、神様を愛するようになって、それから清い人生を送るようになりますよ。
神様のことをもっと知るようになりますよ、と言うんです。
もう一ヶ所、ヨハネの福音書15章の9節。
父が私を愛したように、私もあなた方を愛しました。
私の愛にとどまりなさい。
他の宗教は、私の愛を得るために、あれをしなさい、これをしなさい、この条件を満たさなさい、と言うでしょう。
しかし、イエス・キリストはそうではありません。
ただ、私の愛にとどまりなさい、と言う。
39:01
今日、説教の後に一緒に歌う賛美歌がありますが、
そこにですね、こういう歌詞があります。
76番にですね、「諸人をこぞりて迎え待つれ久しく待つに。」とね、歌詞がありますけれども、
日本語の歌詞はこうなっていますが、もともと英語の歌詞にはですね、実はこういう歌詞があるんですよ。
だいたい、ご存知でないと思います。
すいちゃんの方もね、英語で歌うことは多分なかったと思うんだね。
英語管理者の方は見慣れたことがあるかもしれませんが、
実はね、だいたい2段目にこういう歌詞がありますよ。
Every heart prepare him.
どういう意味なのかと言ったらね、
役が間違ったら後で教えてくださいね。
すべての心は彼、彼はイエス様ですね。
平和を準備しようという歌詞が2段目にあるんですよ、実は。
それがね、英語は長いから、そのまま訳したら日本語の学習はできないから、難しから、
迎えるという言葉だけでなっていますが、実は平和を準備しましょうという歌詞があるんですよ。
知らなかったでしょう、皆さん。
分かりましたか。
私だけ知らなかったんです。
皆さん、クリスマスの聖書のストーリーを見ると、イエス様が大回りになるんですね。
でもあの時エルサレムにですね、人が、ベツレムに人がいっぱいでですね、
宿屋に部屋がなかったんですね。
だから馬小屋に、もうね、あそこにイエス様を寝かせたわけなんです。
まあでもその話ですね、いやもうお客さんがもう多すぎて部屋が足りなかったんです。
そういう話じゃないんですよ、実は。
そこに深い意味合いがあるんですよ。
ヨハネの福音書1章11節はまさにそれを示しています。
この方はご自分のところに来られたのに、ここにはこの方を受け入れなかったとあります。
イエス様が来られたんだけれども、世界にも一人一人の心の中に、
イエス様を迎え入れる、イエス様が来て寝てくださる部屋を用意していなかった。
あまりにも多くのものを持っているから、イエス様を寝かせる、迎え入れる部屋がなかったということなんです。
だからイエスキリストを信じるということは、この歌詞から話をしますと、
イエスキリストは光、命です。
イエス様、ご自身が光ですし、命ですし、真理ですし、道なんです。
42:06
そしてそのイエス様が、ご自身を私たちに与えるためにおいでになった日がクリスマスです。
ところが、いくら光が来ても命が来ても、受け入れる、迎え入れる部屋がなかったら、
本当の主人公のイエス様は馬場にも行ってしまうわけなんです。
行かされてしまう。
だから信じるということは、このイエスキリストを迎え入れる部屋を用意することと言えます。
どうか皆さん、このイエスキリストを迎え入れる部屋を用意しようではありませんか。
イエスキリストを信じるということは、この方を受け入れる心の部屋を用意して、
あなたの心の部屋にこの方を迎え入れることです。
そしてこの方につながることです。
皆さんがこの方を信じるために、まずたくさんの条件をクリアしなければならないとか、条件を満たさなければならないことではありません。
ただ、この方が皆さんのために既になされた愛の知らせを受け取ればいいです。
メッセージを終わりたいと思いますが、
信じるということは、このクリスマスの主であるイエスキリストが全く聖なる方であられるから、この方にとどまることです。
またこの方が光であられるから、光にとどまることです。
命につながることです。
イエスキリスト教は、私たちがもっと良い人になるため、もっと清い人になるために、良いアドバイスや教えを伝えるところではありません。
イエスキリストがあなた方のために愛の業をなさいましたよ。
この方の中にとどまってくださいという良き訪れであります。
クリスマスの意味はまさにここにあります。
どうか皆さん方のために来られた神なるイエスキリスト、この方を受け入れる心の部屋を用意しようではありませんか。
イエスキリストはあなたのために来られました。
これがクリスマスです。お祈りします。
クリスマスの主であられるイエスキリスト、その父なる神様、
44:57

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