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2019-03-24 32:13

2019/03/24:ヨハネの福音書講解説教(56)人を救うため、死に引き渡されたイエス

 2019/03/24 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ヨハネの福音書 -16

00:01
皆さん、おはようございます。
それでは、メッセージの前に隣の方と挨拶しましょうか。
ありがとうございます。一言お祈りします。
そこでピラトは、その時イエスを十字架につけるため、彼らに引き渡した。アーメン。
主よ、彼らのため、私たちのため、私のため、一人一人のため、救うために、死の十字架に引き渡されたイエス様。
そのイエス様のゆえに、私たちが生かされており、また神のことされ、今ここにいること、すべてがイエス様の死による恵みです。
主よ、その恵みを覚えて、この朝も心を救って、霊を救って、力を救って、あなたに礼拝し、またあなたの御言葉をいただけますように。
そしてその御言葉を握りしめて、聖霊の力によって御言葉通りに生きるものとしてくださいますように。
神父の力と、また血神の力を、また何も誰も恐れない、神父から来る、上から来る勇気を主よ、あなたが煽れさせてくださいますように、お願いいたします。
御言葉を聞いているうちに、天から恵みと平安と祝福が満ち煽れますように。
神様にお出会いできますように、すべての悩み、また憂いが主よ、吹っ飛ばされて、また心は清められますように、どうかあなたが祝福してください。
委ねて、イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
感謝します。
明年の国祝も、ほぼ週半にしています。
19章ですね、今日が。
それで、それも神様の恵みだなと考えておりますけれども、4月が巡来週もありますし、イースターもありまして、大体同じペースに本文がいくかなと、そういうふうに思っております。
03:14
今日の内容としては、ピラトのサイバーによって、そしてその当時のユダヤ人たち、サイフィーたちとかですね、彼らによって十字架につけろ、十字架につけろとね、
そういった彼らの群衆の不信心、あるいは無知。
またピラトは、自分の今のその位の聖徳というそのポストを守るため、イエス様を引き渡すという内容でありました。
今日のタイトルにありますように、人を救うため死に引き渡されたイエス様という題であります。
この通りです。イエス様は私たち一人一人を救うために死に引き渡されました。
これはですね、キリスト教の最も重要な真理なんです。
そしてこの死には私たちが生きていける最も素晴らしい希望のニュースを知らせてくれるものであります。
なぜなら、イエス様は全ての人に希望、平和、永遠の命を与えるために死に引き渡されたからです。
イエス様には人に対して差別がありません。
エゴを引きもありません。
この人は素晴らしいから、もっと多くの永遠の命を与えよ。
この人はもうあまりダメだね、小さな永遠の命を与えよ。
そんなものがありません。
神様が人を乱振っている、そういったこともイエス様はなさらないわけです。
等しく信じる信仰さえ持っていれば、誰にも平和も希望も祝福も永遠の命をお与えになる方がイエス様なんです。
ところが宮野さんいかがでしょうか。
このような価値観は、人を扱う価値観は、キリスト教の価値観と全く違いますよね。
06:09
このような価値観はどんなものでしょうか、みなさん。
ちょっと例を挙げてみましょうか。
一律には言えないかもしれませんけど、だいたいこの世の中では、お金持ちはだいたいいい待遇をもらいますね。
例えば、どこかの銀行に行ったりですね、たくさんの貯金をしている人は、番号札なんて取る必要がないんでしょう。
VIP室に、はいどうぞって案内してもらいます。
私、結構昔の話、釜山にいるときに釜山にある高級のホテルに何かミーティングがあって、そのとき私の車は軽自動車だったんですね。
それを乗って堂々と星5つくらいのホテルに行ったんですよ。
たまたま私のすぐ後ろにベンツの車が、ピカピカのベンツの車が同時に着いたんですね。
そしたらガイドマンと言いましょうか、ホテルボーイがですね、私が先に着いたのに誰も来てくれない。
で、ベンツの方に行って、はいどうぞ、開けてくれ。
悔しい思いはしませんがね、期待もしていたわけではありませんが。
そうなんです、世の価値観って。
会社ではどうでしょうか。
いろいろ実績のいい社員は、能力のある社員がどんどんどんどん昇進します。
そうでない社員はですね、昇進するのはなかなか難しい。
いや、むしろ開戸リストの上にあるかもしれない。
成績のいい学生さんはいい学校に行って、いい学校に行った学生さんはいい会社に就職できる確率が高いと。
優秀な人たちは優秀な人種みたいに待遇されますが、そうでない人たちはそんなに良い待遇をもらえないのがこの世の一般的な。
これは、決してね、神様がお作りになった想像の原理でも秩序でもないんです。
神様はこの世界をそういう風に作っていらっしゃらないんです。
しかしどうでしょうか。私たちが信じるイエス様は、どんな人にも等しく救いの希望、永遠の命をお与えになるんです。
弱い人にも、強い人にも、貧しい人にも、豊かな人にも、学歴がげ普通の人にも、いい人にも、病気の人にも、健康な人にも。
09:12
人生が本当に強く上手くいく人にも、そうでない人にも。
イエス様はみんなに同じく等しく、それからみんなのために死に引き渡されたその恵みを当たり前と思ってはいないでしょうか。
当たり前ではないんですよね。イエス様はみんな同じく愛しておられる。
どんなものにもイエス様を愛すれば、信じれば、祝福を、恵みを与えてくださる。
皆さん、普段皆さんは自分自身の様子や能力や様々なこと、自分の身の回りに起こるいろんなことを見てみるときに、
どうでしょうか、皆さん大体満足して感謝しているときも、もちろん多くあるでしょうけれども、
そうでないとき、つまりがっかりするときとか、落ち込むときとかもあるんじゃないでしょうか。
もちろんなかったら一番いいんですけどね。
時には失敗して、時には願っていないんだけれども、犯してあげない罪を犯してしまったり。
あるいは本当に見言通りに生きたいんだけれども、歩みたいんだけれども、この肉の罪の力が強すぎて負けてしまう。
情けない自分にですね、がっかりするときもあったり。
行き詰まりを感じてですね、本当にとんぼりして落ち込んでいくときもあったり。
考えていない病気や事故や死を経験して悲しんでいるときがあったりするんじゃないでしょうか。
信仰生活としてですね、何もかも全てがですね、もう順風満々みたいにですね、
もう本当にどこにも何にも不自由がない、問題がない、そういうときはないかもしれない。
12:02
それでですね、ときにはどうしてもイエス様の前に立つ気にならないときがあったり。
失敗を多くして自信をなくして落ち込んでいたり。
あるいは本当に一生懸命に頑張りましたけれども、なぜか物事がうまくいかなくて悲しんでいたりするときがあるんじゃないでしょうか。
あるいは分かってはいけないことに分かってしまって、アダムのようにですね、神の御化を避けたりするときがあるでしょう。
そんなときどうでしょうか。私たちは人の前にも神様の前にも立つ勇気がなかなか出ないんですよね。
顔を出す勇気がなかなか出ないんです。それで悲しんでいたりします。
頭では分かっているんだけれども、心が動かないときがある。
そのようなときを覚えてほしいんです。
イエス様はみんなのため、私のため、あなたのために、自ら死に引き渡される道を選ばれて、その道を歩まれたんですね。
生きる希望を与えるためです。
生きていける力を与えるためなんですね。
今日の見事が、イエス様は十字架を全然予想できなかったわけではないんです。
神様ですから、この平等、そして裁判の結果がどうなるのか、イエス様は知っておられたわけなんです。
あるときですね、二足の魚と、またパンと、それですね、五千人以上の人々を食べさせた。
あのときの群衆が、今はもう本当に敵みたいになってですね、十字架につけろ、十字架につけろ、王ではない。
そういうふうな群衆になっていることも、イエス様は知っておられたんじゃないでしょうか。
あるいは、漁師だったセテロたち、主人になったマサイ、彼らを弟子にしたところが、みんな逃げてしまうことも、イエス様は知っておられたんですよね。
15:12
知らなかったわけではないんです、イエス様は神様なんだから。
ねえ、にもかわらず、イエス様はいつまでもその群衆に、また自分の弟子たちに、愛を、最後の最後まで愛を注いで下さいました。
そして皆さんがね、ご存知のように、あの十字架で死を、彼らは自分たちの罪を知り、皆さん、イエス様は私たちが完璧なものなんだから。
完璧なものだから、優秀な人だから、何の失敗もないから、もう人生一度も罪を犯したことがないから、これからも犯すことがないから、
いつも神様との心が一致してですね、100%一致しているから、十字架で死んで下さって、救おうとしておられるわけではない。
鉄点だらけで日々だらけで問題だらけで、神様の心を知っている時もありますけれども知らない時もあったり、
よく従う時もありますけれども従わない時もあったり、勇気を出すべき時なのにそうでない自分自身があったりするんですけれども、
イエス様は変わることなく、いつも一緒に。
皆さんはどうでしょうか。神の目にですね、神の目に皆さんはどんなものなんでしょうか。
完璧でしょうか。アブラムのように、ノアのように、完全な神の人なんでしょうか。
シェイフのように、どうでしょうか。そうではないかもしれない。
私自身もですね、どこを見ても、本当に失敗だらけで、能力不足で、本当に未熟でですね、身にもしたりも知らない、
18:05
まだまだ本当に未熟な僕自身だなとふくふくと思うんですよね。
今年度はですね、こんなものが大きな役ではないんですけれども、恐怖の役員までになったわけですからですね、
みんな選挙の投票を失敗したんじゃないかと思うくらいですね。
もし皆さんから、よんぼくしにセンスをつけるならば、たぶん、100点満点で、5点、8点、10点以下くらいになるかもしれないんですよね。
でも皆さん、皆さんも神様の前に、あるいは人の前に、自分は本当にダメだな、何もできないと思うことがあるんでしょうか。
それで、もし落ち込んでいるんでしょうか、あるいは悲しんでいるんでしょうか、勇気を失っているんでしょうか、どうしたらいいのかわからないんでしょうか。
皆さん、福音がなぜ福音なんでしょうか。それがなぜ、よきしなしであってグッドニュースなんでしょうか。
それは、その人がどんな人であろうが、関係なく、ただイエスを救い主だと信じる人には、誰にも永遠の命が与えられること。
信じる者は、神様があの天国に私たちを迎え入れてくださる。
そして、私たちを愛して、私たちに希望を与えるため、永遠の命を与えるため、罪のあの暗闇から命の光に導くため、
絶望から希望へ連れ出すために、イエス様が十字架の死に引き渡されたんですよね。
だから皆さん、もしも絶望のとき、物事がうまくいかないとき、失敗して落ち込んでいるとき、あるいは罪を犯してしまってつらい思いをしているとき、
目をあげてイエス・キリストを見上げましょうよ、皆さん。目をあげて主を見上げましょう。
どんなときにも私たちを見捨てることがなく、離れることもなく、お前は知らないと言われることもなく、
21:05
いつもそばにいて励ましてくださり、勇気づけてくださり、立ち直って死のために生きるようにね、力を注いでくださるイエス様。
哀れみと慈しみを満たしてくださるイエス様がそばにいるのではないでしょうか。
そして、その方は私たちを罪の暗闇から救うために十字架の死に引き渡されたんです。
そしてその死は終わりの死ではない。新しい命への関門トンネルのようなものなんですよね。
そこを通って私を見上げなさい。自分自身を見るんじゃない。目をあげて主を見上げなさいとね、語ってください。
皆さん、オランダ人の女性でコリテンブーム女子という方をご存知ですか。ちょっとね、ちょっとだけ話させたいと。
1892年から83年ですからね、もうそんなに大昔の人ではないんですけれども、オランダ人のとても立派なクリチャンです。
ご存知の方々もいらっしゃると思いますし、日本語の本もですね、何冊か出ていますけれどもね、その中で私の隠れ場、私の隠れ場という本が有名なことですけれども、
彼女はオランダ人ですが、世界大戦のときにドイツのナチスがユダヤ人を虐殺するときに、オランダ人なのに自分はクリチャンだから多くのユダヤ人の命を救ったり守ったりしたんですよね。
それで彼女もホロコストという強制収容所にも集団された。そしてもう地獄の苦しみを味わったんですね。
でもその収容所で終戦になって釈放されましたけれども、その後彼女がそのホロコストの収容所で経験したこと、
そこからですね、とても素晴らしい名言みたいな言葉がありますけれども、ちょっとだけ紹介したいと思います。
まずこういう名言がありますよね。
天皇としての神様は、私たちがいつ何を必要としているかをご存知ですから、神様の先走りをしないようにしましょう。
24:01
その下は、神様にいろんなことをおいだにすることが必要だとわかるでしょう。自分で追うには人生はあまりに重すぎるのです。
次、世界を見れば失望するでしょう。自分の内面を見れば憂鬱になるでしょう。しかしキリストを見ればあなたの心は平和になります。
神が私たちを石ころだらけの道に使わされるときは、丈夫な靴を履かせてください。ここまででいいです。
彼女はですね、あのホロコスト収容所でナチスから制裁実験も、女性として性的虐待もされたそうです。
毎日のように、あの同じ収監者の多くの人々は亡くなっていくんです。恐怖のレンジだったそうです。
でも、そんな中でもですね、自殺をしない、希望を失い、またそれができたのでしょうか。
いつも目を開けて、死を見上げる日々を送ったから、それができたというのでしょうか。
皆さん、今日ここに希望を失っている方がおられるでしょうか。物事がうまくいかなくて悲しんでいる方がおられるでしょうか。
信じる通りに歩みたいんですけれども、それができなくて悲しんでいる方がおられるでしょうか。
イエス様は私たちにこのように声を受けてくださっています。
目を開けて私をごらん。私があなたのそばにいるじゃないか。
私があなたに希望を与えるため、永遠の命を与えるため、祝福を与えるために、死に引き渡されて十字架で死んで三日目によみがえったのではないか。
私がいるじゃないか。私はあなたを助ける。
強い手をもってあなたを守るのだ。
あなたは大丈夫。私はあなたを祝福する。
私の家族が福岡にいるときに、奉仕をさせていただいているときに、その教会に田中さんという、今は四代の家族が辛抱生活をしておられる家族の中で、
田中さんという方が体にちょっと反義を持って、今は六十多分過ぎていらっしゃるでしょう。
27:04
多くの曲を歌っている、いまきりと言われる、いまキリストの三尾兄弟が作曲した曲ですけれども、このような賛美があります。
「恐れてはならない」というね。
いざや四十一世の十節、後五百世世の御言葉、その通りの素晴らしいね。
古い、結構もう二十年以上の曲だと思いますけれども、福岡の教会でこの三尾を歌っていましたね。
自分が賛美リードをもとしてもらいましたから、みんなで一緒に歌ったり、自分も辛い思いをしたときに、押し込んでいるときにこの三尾を歌っていましたけれども、
今日この三尾を聴いてもらって、ちょっと学んで、みんなで一緒に歌ってみようではないでしょうか。
まずちょっと聴いてみましょう。
みなさんまず歌詞をご覧ください。最初から歌ってみますね。
恐れてはならない 私はあなたと共にいる
ごろいてはならない 私はあなたの神である
私はあなたを強くし あなたを助け
わが勝利の右の手をもって あなたを支える
最初からみんなで歌ってみましょうか。
恐れてはならない 私はあなたと共にいる
おどろいてはならない 私はあなたの神である
30:04
私はあなたを助け わが勝利の右の手をもって あなたを支える
もう一回最初から歌いましょう。
恐れてはならない 私はあなたと共にいる
おどろいてはならない 私はあなたの神である
私はあなたを強くし あなたを助け
わが勝利の右の手をもって あなたを支える
私はあなたを強くし あなたを助け
わが勝利の右の手をもって あなたを支える
私はあなたを強くし あなたを助け
32:13

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