00:01
おはようございます。
今日も礼拝にお越しいたしました。
では、周りの方と挨拶と交わしましょうか。
おはようございます。
それでは、お祈りいたします。
お祈りいたします。
主が振り向いてペテロを見つめられたペテロは、
今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度私を知らないと言うと言われた主の言葉を思い出した。
彼は外に出て激しく泣いた。
神様、この朝も一人一人名を呼んで、主の御前に集めてくださって感謝いたします。
あなたは生きておられます。
永遠から永遠まで生きておられ、
御自分の民を守り祝福し、
また、あなた様を知らない者たちに救いの御手を差し伸ばして、
この手を取って救われなさいと、いつもお名を呼んでおられることを信じいたします。
どうか、私たち一人一人を主がこの場において、あなたの御言葉によって生かされ、
また恵まれ、希望が与えられ、救いが与えられますように、
また信仰の決心が立ちますように祝福してください。
聖霊様御自身が本当に私たち一人での心の板に、
今日の御言葉を、命の御言葉を、主を刻みつけてくださって、
その御言葉を握り詰めて実践して従っていく私たちとなりますように、
そして私たち一人一人が、イエス様の香りとして、
香ばしい、素の主イエスキリストの香りを放すものとならしてください。
主よ、感謝いたします。イエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン。
感謝します。
4年のクイーン賞のメッセージが続いています。
もう18票に来ていますね。本当に感謝します。
03:00
54回目になっています。
今日ですね、ルカのクイーン賞と、それからヨガネのクイーン賞を何度も開きますので、
しおりを入れるか、よくね、すぐに開いて読めるように、そういう風にしていただけたらと思っております。
クイーン賞ですね、いいことは、マタイ、マルコ、それから、その次は何ですか?
皆さん、声小さいですね。ルカ、その次はヨガネ、そうですね。
普段は大きくても、神の前には厳粛にしておられるんでしょうか。
どっちでもいいんですけれども、マタイのクイーン賞、マルコのクイーン賞、ルカのクイーン賞、ヨガネのクイーン賞、4つね、
クイーン賞があってですね、それぞれ、その著者も違いますし、そしてイエス様に出会ったきっかけも違いますし、
例えば、マルコさんはですね、イエス様の十二の弟子ではないんです。
だから、実際にイエス様と三年一緒に働いて、伝祖して、イエス様の御言葉を直接に聞いたものではないんです。
彼は、いわゆるペテロの、まあ、教え子みたいなね、関係なんですね。
だから、マルコさんは、ペテロさんから聞いたことを、神によって、でも不思議に、4つのクイーン賞の中で、一番先にですね、なぜかマルコさんがね、マルコのクイーン賞をあげました。
だから、イエス様のこと、あるいは、教のようなですね、ペテロが三度、イエス様は知らない、知らない、知らないとね、してきたあのストーリーを、
4つのクイーン賞を合わせて読むと、それが完全体になるわけなんですよね。
それで、やむを得ず今日は、ヨハネのクイーン賞には、そのペテロが拝んだこと、そしてその後泣いたこととか、イエス様は彼を見たということも、記録は、ヨハネには一番後に書いたわけですから、
もう既に、マルコのクイーン賞、ルカのクイーン賞、もうそれがすべてもうほとんど揃えてね、書かれているから、ヨハネは多分ですね、きっとそれをあえてですね、省いたかなと思います。
今日は、イエス様が尋問されるあの夜、この弟子ペテロに起きた出来事についてお話をしていきたいと思います。
さあ、まずヨハネのクイーン賞ね、まず見てみましょうね。
時はいつでしょうか、イエス様があの月戦真似のそので、祭司たち、ローマの兵士たち、あるいはいろいろ役人たちに対応されて、そして裁判を前にしてですね、大祭司の家に、いわゆる連行されて行かれたあの夜のことでした。
06:26
イエス様は対応されました。ペテロは弟子ですから、逃げるわけにはいかない。
でもイエス様のすぐそばに立ってですね、私がこの人の弟子ですよ、私も一度連行してくださいとは言えない。
遠く離れて、でも自分も先生なんだから、遠く離れてついて行きました。
そしてなんとかして大祭司の家の中庭に入れて笑いました。その時のことです。
今日のヨハネの十八章の十七節をご覧ください。一緒に見えますね、十七節、ヨハネ十八の十七、ご一緒に。
すると門番の八タメがペテロに、あなたもあの人の弟子ではないでしょうねと言った。ペテロはそんなものではないと言った。
ペテロは考えもしなかったことでしょう。自分の顔を知っている人が、しかもその門番の女の人が自分のことを知っていて、
あなたもあの人、イエス様ですね、あなたもあの人イエス様の弟子ではないでしょうねと言ったんですよ。びっくりしたんじゃないでしょうかね。
でもペテロはなんと悲しくも、そんなものではないと否定しました。その後またね、寒かったんでしょうね。
で、火を起こして温まっていました。そしたらもう一回、その門番の八タメがルカ、マルコの勲章を見たらですね、ペテロの顔をじっと見つめながら、
あなたもあの人の弟子ではないでしょうねともう一回言われたんです。そしたらペテロは、そんなものではないんですよとまた否定しました。
何年も先生先生言って、新職を一緒にして、そんなペテロだったんですよ。しばらく経ちました。そしたらまた人々から、あなたもあの人の弟子ではないでしょうねとね、
09:13
他の福音書にはちょっとずつその表現は違いますけれども、あるところでは、あなたもあの時、あの園に、あの人と一緒にいましたねとね、そういうふうに言われました。
そしたらペテロはまた否定して、そんなものではないと言い張りました。これをですね、今日開いてないんですけれども、
マルコの福音書には14章68節から同じ記事が出ていますけれども、そこでは多分これはですね、マルコの方がもっとリアルにペテロ自身が言ったことをマルコさんが書いたわけですから、一番リアルに書かれているんです。
ペテロが自分にですね、あなたもあの人の弟子ではないでしょうねと言われたために対して、とても激しく、何を言っているのかわからない、見当もつかないと言ったんです。
そして3回目否定する時には、呪いをかけて誓い始めたとも書かれている。ペテロはあの人自分は知らない、関係ないと言ったばかりではなく、イエス様を呪うような言葉を口にしながら、何の関係もありません、弟子ではないんですよと否定してしまいました。
ペテロはどういうものなんでしょうか。イエス様と3年も一緒に寝食を共にした弟子です。
それからついさっきまで、あの杉越の最後の晩餐と言われるあのところでですね、先生先生と言って、イエス様に自分の汚い足を洗っていただいて、杉越の食事を一緒にした弟子なんです。
そこでイエス様は十字架の話もしました。そしてヨハネの福音書ですね、前回前々回学んだように、あの弟子たちのために祈られたイエス様のそばにペテロもヨハネもヤコブもそこにそこにいたわけなんです。
それだけではなくペテロはあの杉越の食事のところでですね、こういうふうに誓ったんです。
イエス様、たとえみんながつまづいていても、私はあなたにつまづきなんてしません。たとえご一緒に死ななくてならないそんなことがあっても、あなたのことを知らないはずと決して申しません。
12:10
なんとですね、胸を張ってですね、みんなの前でそう言ったペテロなんです。それなのにたった数時間も経たないうちに、イエス様は死なない、何の関係もないんですよと、みんなの前で否定して言い張ったものなんですね。
どう思いますか、みなさん。
人間というものがいざとなったら心ではそう思っていても、口では別なことを言ってしまうことがあるんだなと思います。
しかもペテロはまるで狂ったかのように、イエスなんか知らない、神に誓っているあんな人間なんかと関係ない、呪われても仕方がない人なんだ、そうみたいに呪いをかけて、激しく誓ったと聖書は記されている。
ところがペテロが3回指定した直後のことです、ことが起こりました。
今日のルカノ22章の61節、一緒に読みましょう。
ルカノ22章、ルカノ福音書第22章61節。
ご一緒に読みますね。
主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは今日鶏が鳴くまでにあなたは三度私を知らないと言うと言われた主のお言葉を思い出した。
アーメン。
一番最初の一つの文章です。
主が振り向いてペテロを見つめられた。
いつですか、40節。
彼がまだ言い終えないうちに鶏が鳴いた。
その時にイエス様が振り向いてペテロを見つめられたんですね。
主は振り向いてペテロを見つめられました。
この主は振り向いてペテロを見つめられたという言葉はですね、ルカニオル福音とだけに記されているんです。
15:00
みなさん想像してみてください。
主もイエス様も知りません知りません。
絶対に知りません。何言っているのか見当もつかないと言ったペテロ。
3回知りませんと指定する言葉が終わらないうちに鶏が鳴いて、
そしてペテロは、あ、イエス様があなたは賛同。私は知らないと否も。
そして鶏が鳴くよと言われたイエス様の言葉がね、頭の中に心の中にそれが思い浮かんでいる一瞬。
イエス様の目とペテロの目が。
そういうことなんですよね。イエス様が振り向いてペテロを見つめられた瞬間です。
イエス様のあの瞳、目はどんな眼差しだったと思いますでしょうか。
怒りに満ちた眼差しだったんでしょうか。あるいは最愛の弟子に裏切られたという眼差しなんでしょうか。
あるいは悲しみに悲しみに満ちた眼差し出身だったでしょうか。
きっとですね、哀れみと慈しみに満ちた眼差しだったのではないでしょうか。
そういう弱いペテロ、自己中心のペテロであっても、
主はわざと振り向いてペテロを見つめてくださったんですよ。
真っ暗闇の中で、そして多くの人混みの中で、後ろを振り向かれたイエス様の目と、
今、完全に息をしていってしまったあの裏切り者の弟子の目が合いました。
その主の慈しみに哀れみに富んだ眼差しを見たペテロは、先も言いましたように一つの言葉を思い出したでしょう。
今日鶏が鳴くまでに、あなたは三度私を知らないと言う、と言った主の言葉でした。
だから主はペテロがこう否定することをご存知だったということなんですよね。
既に知っておられたということなんですよ。
ルカの福音書の二十二章の今日のお世話とかより前の三十二節からちょっと開いていただけますでしょうか。
18:06
ルカの福音書二十二章三十二節から見ていきましょう。ここ大事ですから一緒に読みたいと思います。
三十二節だけ一緒に読みましょう。その後は私からお読みします。よろしいですか。
ルカの福音書第二十二章三十二節ご一緒に。
しかし私はあなたの信仰がなくならないようにあなたのために祈りました。
だからあなたは立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい。
その後三十三から三十四は私がお読み出します。ご覧ください。
三十三節。シモンはイエスに言った。主よ、ご一緒になら老であろうと死であろうと覚悟はできております。
三十四節。しかしイエスは言われた。
ペテロ、あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでにあなたは三度私を知らないと言います。
ペテロはきょう鶏が鳴くまでにあなたは三度私を知らないと言うよ、という主の言葉をイエス様の目と会った時に思い出したんじゃないでしょうか。
でもですね、その話をする前に三十二節にイエス様はペテロにあるいは他の弟子たちにこう言ってくだしたんですよ。
私はあなたの信仰がなくならないようにあなたのために祈りました。信仰がなくならないようにあなたのために私は鳥鳴きの祈りをしたよ。
あるいはこれからもするよ、という御言葉なんです。
もとやペテロがイエス様を三度も否定して完全に信仰を捨て去ったように思えても、それでもしはあなたのために信仰がなくならないように祈ったと言われたんです。
御自分を裏切り、否定してしまうようなことがあっても、イエス様はそのような弱いペテロのために、またペテロのような私たちのために信仰がなくならないように祈っていてくださるということなんです。
これが後ろを振り向いた主の眼差しの意味するところではないでしょうか。
21:05
主の晩餐のときに、主の食事のときにイエス様はペテロに、「もし私が現わなければ、あなたは私と何の関係もありません。」とイオワネ十三書に言われました。
だから皆さん、イエス様と私たちを、あるいは私たちを結んでいる絆と言いましょうか。
それはイエス様が洗ってくださって、イエス様に罪を、穢れを洗っていただいて、イエス様との関係が結びつく。
主イエス様が今も私たちの聞かれた足、すなわち罪の穢れを洗っていてくださるということです。
もしそうでなければ、あなたと私は何の関係もない赤の他人だよということなんですね。
これがイエスです。
イエス様は私の罪を今も洗い流して拭いとっていてくださる。そして永遠に過去に現在に未来にわたってそのようにしてくださるお方であることです。
そして主はイエス様はですね、そのような弱いペテロ、弱い私たちのために信仰がなくならないように取りなしの祈りを捧げてくださっておられるということです。
今もなおあなたを愛している。私は決してあなたを見捨てず、いつも共にいてそびなしているんだよ、とペペロにとっては見つめておられる人の眼差しからこういうお声を聞いていたんじゃないでしょうか。
あのね、ペペロの目とイエス様の振り向かれた、イエス様の目があったあの時、イエス様はもちろんですね、黙っておられたわけですけれども、ペペロはね、あのイエス様の目からイエス様のお声を心が伝わってきたんじゃないかなと思いますね。
と、こういう声じゃないでしょうか。あなたのその弱さのために、罪のために、これから私は十字架へと向かうのだ。あなたを許すために先に進むのだ。そしてあなたの足をどこまでも洗い続けると、あの晩餐の時に言ったではないか。
24:28
私があなたの足を洗わなければ、あなたと私は何の関わりもないんだから。さっきまでね、一緒におられたあの種の御言葉が次々とペペロの頭の中に、いわゆる相まとむようにですね、浮かび上がっていたんじゃないでしょうか。
振り向かれた種、そして哀れみという種、その眼差しでずっとペペロを見つめられました。その哀れみに満ちた眼差しはいろんなことを語ってはいましたが、ペペロはこの種の一瞬の眼差しに目と目が合いまして、
その時にペペロは自分自身のことを初めて外されたんじゃないでしょうか。見つめる種イエス様、知らないと言ってしまった罪深い愚かな自分。
だからペペロはですね、この種のあの眼差し、まあ行為と言いましょうか、あの眼差しに耐えきれなかった。それで思わず外に飛び出して行ってしまった。そしてそこで激しく泣いた。
ところが皆さん、これが復活前のイエス様とペペロの地上での最後の別れとなってしまったんですよ。ペペロはいろんな種の思いをあの一瞬の眼差しの中に見ておりました。
三年もここまで来たのに、あの女のあの途中に私のこのイエス様を知らないと指定するこんなものなんて、というあの悔やかでの心、この情けなさ。
27:20
たった自分のこの安全を、身の安全を、自分の命を守るとして、あの救い主なるイエス様を知らないと指定してしまった自分です。
イエス様の目と会った時に、ペペロはまるでですね、もう裸になったような責ならぬ自分自身を鏡を見るように見ることができたわけなんです。
だからそこにね、あのイエス様の行為に耐えていけなかった、耐えていけなかったわけないです。
自分の弱さ、自分自身の罪深さ、自分の不甲斐なさに悔い改めて涙が溢れてきたんじゃないでしょうか。
ところがそこで終わりではない。
そういう自分をどこまでも許して取り無くていてくださる父の愛の眼差しに、ある意味で嬉しい涙を流していたのかもしれない。
ペペロはこの夜、今夜ほど自分の罪、傲慢さ、子供っぽさを示された夜はありませんでした。
それと同時に、そういう自分をどこまでも許して、愛して、取り無くていてくださる父の慈しみに、憐れみに触れた夜もありませんでした。
ペペロは今までいろんな失敗をしてきました。イエス様から何回も悟されてきました。
時にはささやを知りづけと言われるほどね、教えられました。
でもこの夜、今夜の出来事を通して彼は初めてかのように初めて生まれ変わったと言っても過言ではありません。
だから今日のこの夜のペペロの涙は決して無駄な意味のない涙ではないのです。
初めて彼が生まれ変わるような本当の自分の罪深さに、自分の愚かさ、傲慢さ、弱さに向き合うようになった、向き合わされたあの夜の涙なんです。
30:16
だからこの夜の涙こそ、彼の人生をもう決定的に変えた出来事だったんです。
だから皆さん、この夜のペペロの涙のあの経験、あのイエス様の目と自分の目があったあの時の経験、
そしてもう激しく泣かざるを得なかった自分、自分の罪深さ、愚かさがもう分かってきたんですね。
まるで津波のように、潮風のように思わず吹いてきたんですよ。
そして彼は新しく生まれ変わった。
本当でしょうか。今からあまり大事ですよ皆さん。
自分の罪という心の暗闇を通されたからこそ、彼自身も死と共に十字架につけられて、死と共に死ぬことが出来たんです。
もう一度申しましょう。
自分の罪という心の暗闇を通されたからこそ、初めて十字架でイエス様と共に死ぬことが出来るんです。
だからこの時のペペロの涙はですね、単なる恥ずかしいな、単なる恥の涙ではないんです。
それ以上のものなんですよね。
皆さん大事なんです。神様を信じることにおいて、このプロセスが非常に大事なんです。本当に大事なんです。
自分の罪深さ、自分の暗闇、自分の愚かさや傲慢さに向き合うこと、逃げないで得死すること、それから悔い改めること。
そして、死の憐れみを軽減すること。これが一連的に起こることなんですよ。
自分の罪や暗闇に、愚かさに、傲慢さに向き合うことなしに、死の憐れみも悔い改めもないんです。
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そういうことを通り抜けて初めて、死と共に十字架に死ぬことができる。そして新しく生まれるようになる。
ところが私は、大体、そうから逃げたいんです。向き合いたくないんです。直死したくないんです。
なぜでしょうか。つらいから。
例えばですね、若い20代、10代、20代の男の子、女の子は鏡を見るのがそんなに嫌な気持ちはしないんです。
そんなにシワもありませんし、天もないですしね。大体綺麗なんだからね。
でも失礼ですけどね、歳をとるにつれてですね、鏡を見るのがちょっと嫌な気持ちにするかもしれない。
いつの間にか髪の毛がこんなに抜けたんだろうかな。シワが増えている。シワがたくさんある。
ここもここも臭くなっている。
自分自身の内面を、罪深さ、弱さ、愚かさ、傲慢さに、見た目によって向き合うことが必要なんです。
逃げたら解決できないんですよ、皆さん。
そこから本当の悔やためが、そこから本当の主の憐れみを経験することが起こるんです。
それが今日のテテロの涙の意味なんです。
テテロは古い肉の自分、弟子の中で一番になろうと必死に頑張ってきた自分に、死と共に死ぬことが初めて、
あの夜の涙、イエス様のあの眼差しを見てこそ、それができたんですね。
ところが、似たような経験がもう一人の弟子にもあったんです。
同じ弟子の一人であったイスカリオってユダはどうでしょうか。
イエス様は最後まであのユダに友よと呼んでくれたんですよ。
あの時代に友よというのは、もう最古のような本当に親しみのあるそういう呼び方なんですよ。
最後の最後まで愛し通されたイエス様なんですね。
しかし、イスカリオってユダはどうしたんでしょうか。
あの、このようなイエス様のあの眼差しをもう振り払って、闇の中に消えてしまいました。
36:02
つまり、向き合うことをしなかったわけです。逃げたわけなんですよ。
本来、罪人の弱い私たちが帰るべき場所を、あのユダは見失ってしまいました。
今も皆さん、この哀れみに慈しみに飛んでられる主の眼差しは私たちに向けられています。
いつも主は振り向いて私たちを見つめていてくださるんです。
ところがですね、私たちはペテラのように死んでもあなたに従いますと告白しながら、
主を否定してしまうような弱い私たちがありますか、ありませんか。
あるんです。
どこまでも従っていきますと言いながら、自己中心的な私たちがあるんです。
それでも、どこまでも添い私たちをあえてやまない主の眼差し、
哀れみに満ちた主の眼差しは、今も私たちの上に注がれています。
そして、この主の眼差しは私たちを捉えて話すことはありません。
ここにキリスト教信仰の希望があるんですよ。
この自分自身の暗闇を通り抜けて、向き合って、
自分がどれくらい罪深いものであるかを直視して、
分かって、悔いやらされて、そして主の哀れみが分かる。
主は見捨てない。
それが分かってくるんですね。
言わないのかもしれないけど、最後にまた学びますけれども、
復活のこのイエス様が壺に打って、地元に戻って、
寮っていったあのペテロに会ってくるのではないでしょうか。
メッセージを送りたいと思います。
私たちにはペテロのように失敗することが多くあるんです。
自分自身のことを見てもたくさんあります。
もしかしてこれから時代が本当に変わっていきますから、
主から逃げることが起こるかもしれない。
あるいはペテロのように知りませんとね、
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言ってしまうことが起こるかもしれない。
私たちはそういう罪深いものであり、
意思の弱くて脆いものであること、
傲慢なものであること、
自己中心的なものであること、
自分の罪や誤りを認めるところか、
否定してしまう自分自身であること、
常に常にこんな自分を主の前に立ち、
認め、悔やめる時、
私たちは初めて自分の罪に向き合うようになります。
そして古い自分が主と共に死ぬことができるようになる。
そしてそのように弱くて罪深い私たちの主は、
ペテロを見つめておられたあの憐れみと
慈しみに満ちた眼差しで
見つめてくださっているということを思えてやる。
そしてどんな時でも、
宝刀息子のように、
このペテロのように主の心に立ち帰ることです。
そして家様に抱きしめていただいて、
主をもう一度私に主のために生きるチャンスをくださいと、
そして豊かな主の憐れみを味わいたいと、
どこまでも私たちを愛してやまない主の眼差しを忘れず、
主を家様にどこまでも従っていきます。
応答してまいりなさい。