1. 名谷教会
  2. 2019/11/10:神に祝福された人..
2019-11-10 52:18

2019/11/10:神に祝福された人生の法則21(16)神様の恵みの法則

2019/11/10 聖日礼拝

尹善鎬牧師

コリント人への手紙第二 6:1-2

00:00
改めて皆さん、おはようございます。
皆さんに祈っていただいて、
土産での第12回、日本の勃開者、神道リーダーのセミナーが、
週に30日から11月3日、日曜日の夕方まで行われました。
今回も詳しい写真とか室にあったと、掲示板にですね、書いてありますので、ご覧いただきまして、
教団からも、多くの教会から先生方とか神道さんが参加されて、
単立多教団を含めて10ぐらいの教団、教科から42名、子どもも含めてですね、参加なさって、
本当に良い学びと、いろんな刺激や、またいろんな日本中の先生方とのつながり、
交わりが与えられて、本当に恵まれた1週間でした。
その中でですね、今回はまた、嬉しかったことは、写真にも載せましたけれども、
大阪局の花展協会の矢部野先生のお娘さん、もと子と言うんですけれどもね、
今、新学生、4年生でインターン生ですけれども、赤城丸でインターン1年してますが、
加藤先生が勧めてくださって、彼女も参加って、また小杉駿先生の息子さんの小杉翔君もですね、
岡山の湖南教会でインターンしてますが、彼も出席してですね、これから牧師になる、
お二人も本当にいろんな経験もあってですね、とても恵まれました。
その後はインターンの総理に行って、11年間一度もリクエストできなかった、
私、夫婦の結婚式にも出席もくださった母の教会の先生の教会ですけれども、
残念ながらその先生は、ちょっと癌も患っていらっしゃって、
公認の新しい先生がいらっしゃるんですけど、水曜、木曜にリクエストインターンができました。
また、その時間がある限り、母の施設にも皆さんに祈っていただいて、行きましたけれども、
よくはないんですね。
息は手は開けているんだけど、私は彼女が聞きませんし、しゃべれないですし、しゃべれないですし、
半分寝たきりの施設にいますけれども、皆さんに祈っていただいてですね、
一生が祈って神様の前に仕えていた母ですから、
恵みのうちに天国に行けたら、その方が母にもいいんじゃないかなと思ってですね、
03:01
できるだけそばにいてですね、3秒たたり聖水を呼んであげたりして帰ってきました。
その間、斉藤先生をはじめ、また皆さんが祈ってくださって、本当にありがとうございました。
では、メッセージの前に隣の方と挨拶しましょうか。
はい、それでは一言お祈りいたします。
私は恵みのときにあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。
確かに今は恵みのとき、今は救いの日です。
本当にそうです。
世が険しくなりつつあって、またあらゆる罪と悪がはびこっているこの時代であるからこそ、
神の救いが、神の恵みが、主の力によって行われてましとめられていることを信じ、主を感謝いたします。
私たち一人一人目を覚ましていて、神の恵みに満たされ、聖霊に満たされて、
主よ、一人でも多くのこの国の人々が救われ、神の民となり、また御国が来ますように、祈りありますように、このうちに神の国が来ますようにと、
保守、祈り、憐慮する我々となりますように、このお群れも、どうかあなたが憐れんで下さいまして、
用いて下さいまして、主の御国のため、道徳を用いられるよう、一人一人を豊かに祝し、満たして下さいますように、お願いいたします。
今の時も、神様御自身が、我々一人一人の魂の中に、霊の中に、主御自身が語り、また教え、キスとして下さいますように、お願いいたします。
あなたにお愛する恵みの時として下さいますように、イエス様の皆によってお祈り致します。アーメン。
はい、シリーズ説教の神に祝福される人生の法則21の中で、16回目に書きました。
06:10
今日は、神様の恵みの法則、神様の恵みの法則をタイトルにして、恵みを共にお受けしたいと思います。
私たち人間は、霊を持つ存在ですから、私たちには、神の恵みが必ず必要です。
信者にとって、神の恵みは、命のようなものです。
ですから、神の恵みが満ちあふれているクリスタル、その人は、水があふれる泉のようであって、そしてその生涯も、本当にあふれる恵みのうちに歩むようになるでしょう。
しかし、神の恵みが枯れていて、まるで砂漠とか、荒野のようでありましたら、その人生そのものも、まるで砂漠のように、荒野のような人生を送ることになります。
クリスチャーライフの中で、最も大事なことがあるならば、それは、神の恵みを豊かにいただいて、そしてその恵みの素晴らしさを経験して、その恵みのうちに生きること、歩むことではないでしょう。
そして、この神の豊かな恵みのうちに歩む人こそ、本当に神に祝福された信者であります。
ところで、神の恵みは、大きく二つで区別することができます。
一つは、私たちを救ってくださる、救いの恵みです。
この恵みは、本当に神の一方的な主見によって、私たちに授けられる神の恵みです。
そしてこれは、救いに関する恵みであります。
もう一つ、これは救われた者が、クリスチャーとして歩んでいく、生きていくために与えられる神の恵みです。
09:07
今日はこの二番目の恵みについてお話をしたいと思います。
本当に救われた者が、まるで生まれたばかりの赤ちゃんのような子供が、1歳、2歳、5歳、10歳、20歳、成長していくように、
クリスチャーとして生きるためには、そこに神の恵みが必ず、神の子として生きるために、イエスの弟子として生きるために、なくてはならない、最も大事なことは、神様の恵みであります。
では皆さん、どのような人が、神様の恵みを豊かにいただいて、
そしてその豊かな恵みの中に、豊かに生きる、歩むことができるのでしょうか。
今日を含む三つでお話したいと思います。
第一、純真で素直で謙遜な人。純真であって素直であって謙遜な人が、神の豊かな恵みをいただいて、そのまた豊かさの中に歩む人です。
一箇所、聖書を開きたいと思います。
新約聖書のヤコブの手紙、4章6節です。ヤコブの手紙、4章6節。
新約聖書の449ページです。ヤコブの手紙、第4章6節です。
では、ご一緒に読みたいと思います。4章6節、ご一緒に。
しかし、神はさらに豊かな恵みを与えて下さいます。ですから、こう言われています。
神は高ぶる者を退け、減り下る者に恵みをお授けになる。アーメン。
皆さん、神の御言葉をその通りによく理解していただきたいんですけれども、ここに、神様はどんな人を退けられますか。高ぶる者を退けられます。
そして、どんな者に恵みをお授けになりますか。減り下る者に恵みをお授けになる。
12:03
神様は、減り下る者、謙遜な者、純真で素直に神の恵みを求める者に、主は恵みをお授けになる。
これは実は本当に大事な法則なんです。
では皆さん、なぜ、減り下る者、謙遜な者に主が恵みを授けて下さるのでしょうか。
それはまずその1、減り下る者、謙遜な者が神の恵みを次第求めるからなんです。
謙遜な人、減り下る者、心砕かれた者は、自分の弱さを知っている者です。
自分の無能力を知っている人である。
自分には何もすることができない。
だから、神の前に減り下って、跪いて、ただ主が恵みを下さるようにと、ひたすら謙遜に減り下って、主体を求めるその人なんです。
だから、主体を求める減り下る謙遜な者に、神様は恵みを喜んで、気づきを与えて下さる。
その境界を祝福して下さるんですね。
またその2、なぜ謙遜な減り下る者に主が恵みをお授けになるのでしょうか。
謙遜な人こそ、よく聞いて、よく学んで、よく悟るからなんです。
つまり、減り下る謙遜というのは、聞く耳があって、心が開かれている人のことではないでしょうか。
たとえみんな耳は2つ持っています。
しかし不思議にも、この身体の耳が2つ付いてあっても、心の耳が開いているその人が、神の声を聞くんです。
だからその人は恵まれ、その人は豊かな恵みのうちに生きるように生まれます。
私たちの周りを見ても、その通りだと思うんですよね。
本当にですね、心が純真で素直で、本当に学ぼうとする、聞こうとする、従おうとする、減り下る者には、
15:05
不思議にも神様が恵みをさらにさらにさらに与えて与えて与えてくださるから、
その人は恵まれてその恵みが豊かになり、あふれてあふれて、その味をわかるからまた求めて、またさらに与えられて、
だからいつも豊かにあふれるんですね。オーバーフローするんです。
今回ですね、清宗の教会のセミナーの中に、札幌からお命になった多教団の先生ですけれども、
名前は言いませんが、80歳、82か83歳の先生なんです。
私から見ればもうお父さんのような先生ですけれども、その先生、3回もお命になって、
2回目は息子さんの牧先生も連れて来られたんですけれども、この先生は3回私にお会いして、
3年前か一度招かれて、聖実礼拝のご用に行かせていただいたことがありましたけれども、
この先生は本当にあの年であっても本当に謙遜で、よく聞こうとする日、学ぼうとする日、
もうあの年であれほど謙遜に人がなれるんだと思って、私が本当に頭が下がる先生でした。
どれくらいなのかと言ったらですね、2回目の、今回じゃなくて2回目の時に、
その先生が私に頭を下げて、言う先生は私の頭に手を置いて、もう安心してくださいと言われたんです。
80歳の牧先生。もう、だから私は安心したわけではないんですよ。
もう先生の手を取ってですね、私がもっと広くて一緒にお祈りをさせていただきましたけれども、
今回もその先生は、もう会うたびにですね、そこに行った日本の先生やら、もう通訳する先生やら、
もう主任牧先生、聖先生にも会うたびに頭を下げて、先生、私のために祈ってください。
この日本の福井のために祈ってくださいとですね、その姿勢を見てですね、
本当に謙遜な先生だなと私は思ったんですね。
皆さん、神様は謙遜な人に恵みを与えて、そして謙遜な人が祝福される最も大事な、
もう決定的な理由が一つあります。まず聖書を開きたいと思いますね。
旧約聖書の伊沢書五十七章、開きましょう。旧約聖書の伊沢書五十七章十五節です。
伊沢書五十七章十五節、1220ページですね。
18:06
1220ページ、伊沢書五十七章十五節、よろしいですか。これを一生読みたいと思います。
伊東高く崇められ、永遠の住まいに住み、その名を聖と唱えられる方が、こう仰せられる。
私は高く聖なるところに住み、心砕かれて、へり下った人と共に住む。
へり下った人の礼を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。
皆さん、この御言葉をよくご覧ください。神様こう言われました。
私は高く聖なるところに住んでいる。ところが、この地上に心砕かれて、へり下った人と共に住む。
皆さん、神様は絶対に高慢な高ぶる人と共にいて下さらないんですよね。
誰と一緒に住んで下さるのでしょうか。心砕かれて、へり下った人と共に住んで下さる。
そして、そのへり下った人の礼を生かして、心砕かれた人の心を生かして下さる。
だから、へり下った人は主が神様と共に住んで下さる。高ぶる者は決して神様と共に住んで下さらない。
へり下った人はその礼も心も主が生かして下さる。
逆に言いますと、高ぶる者は決して神様に生かされることがないということなんです。
だから皆さん、これは生きるか死ぬかというとても大事なことではないでしょう。
この御言葉を皆さん、真剣に心に留めていただきたいんですね。私も含めて。
私たちがへり下るときに、神様が私と共に住んで下さるんです。
もう手なんぼこって一緒に住んで下さるんです。
私たちがへり下ったときに、私たちの礼も心も主が生かして下さるから、
その人は祝福され、その人は癒やされ、その人はもう永遠の泉が湧いてくるその豊かさの中に生きるようになる。
なぜでしょうか。神様がその心を、礼を生かして下さるからなんです。
21:14
神の恵みをいただくその手段を大切にする人が、神の恵みを豊かにいただきます。
つまり、祈りと御言葉と礼品です。
皆さん、よく恵まれて豊かに恵みをいただく人のそこにはその理由があるんです。
なぜなら、その人々は謙遜であって、神に祈ること、神の御言葉を黙想し読むこと、神を礼拝することを喜んでいるからなんです。
そしてその人々は豊かな恵みをいただくんです。
私は、私って一体何を一番喜んでいるんでしょうか。
恵まれる人には特徴があるんです。
豊かな恵みのうちに生きる人にはその特徴がある。
それは、もう神に祈ることを何より喜ぶんです。
神の御言葉を開いて、その御言葉を読み、黙想すること、そこからいただくこと、そこから導いていただくことを何より、どんな活動より喜んで喜んでいる。
また、恵まれる人は礼拝することをどれにも変えることはしない。絶対に変えない。その人が恵まれる。
恵まれる信者は恵まれる秘訣を知っている。そして恵みを求める。そして必ず自分が、自分の気分や感情や健康や都度がどうであっても、必ず恵まれる恵みの座に、恵みの場所に自分をそこに置くわけ。
だから恵まれるでしょう。
何より神様の恵みを受けることを最優先に一番にする。だから何もそれを妨げることは許さない。
自分の気分であろうが、感情であろうが、健康であろうが、都度であろうが、そういったものが、自分が神の恵みをいただくこと、神を礼拝すること、神に祈ること、それを妨げること、邪魔することを許さない。
24:06
だからその人が恵まれるんです。皆さんどうでしょうか。
私たちは時に、たまにでも、何かの自分の気分や、何か自分の感情や、あるいは自分の都度によって、礼拝を休む、祈りを休む、止める、そういった時があったりするんですよね。
恵まれる人は、そういったことを許さないんです。何より、自分の気分や、感情や、健康、都度より、神の恵みをいただくことが一番だから。だからその人が恵まれるんです。
そしてその人は、御言葉の恵みを、その味を、祈りの恵みのその深い甘い味を知っているから、何者もそれを変えることをしない。恵まれるんですね。
だから恵まれる人は、神の御言葉を司会求める熱心がひとりしない。
いつも神の御言葉を開いて、純真で素直な心を持って御言葉を読み、そこから恵みをいただくこと。
それを何より大事にするんです。だからその人が恵まれるんです。
一ヶ所聖書を読みましょう。
新約聖書のペペロの手紙第一。ペペロの手紙第一。
二章、一節と二節。新約聖書の453ページです。
第一ペペロ、二章、一節と二節です。新約聖書の453ページです。
一緒に読みましょう。
ですから、あなた方はすべての悪意を、すべてのいろいろな偽善や妬み、すべての悪行を捨てて、
生まれたばかりの血の御子のように、純粋な御言葉の質を主体求めなさい。
それによって成長し、救いを得るためです。
そこにね、生まれたばかりの血の御子のように、純粋な御言葉の質を主体求めなさい。
それによって成長し、救いを得るためです。
27:04
皆さん、私たちにですね、この生まれたばかりの血の御子の赤ちゃんのように、
もう純粋な心で御言葉の質を主体求める、その純粋さ、その熱心さ、
この本当に神の御言葉を主体求める、そういう信仰、冷静があっていただきたい。
皆さんに祈っていただいている大本隆雄と兄弟ですね、仕事上礼拝に出席できなくているんですけど、
12月から礼拝出席できるようになりましたけれども、
キュードをしていてですね、今毎週金曜日、昨日は土曜日に来ましたけれども、
8回のキュード性の学びを一緒に今、とても真剣にしています。
ここちょっと弱い、28からの青年ですけれども、
もう一回一回学ぶときに、この生まれたばかりの血の御子のように純粋で御言葉を求めて、
もうそのまま丸飲みするんです。
学びをするときにもう私が感動するほど、自分のことも帰りぬというか、
こんなにも神の御言葉を下に求めて、そのまま純粋に、
ああだこうだ考えないで、そのまま受け入れて、そのまま神の御言葉として心に留める、
あのピュアさというか純粋さというか、それはすごいなと思ったんですね。
それでふと思いました。
私たちが信仰生活を5年、10年、20年、30年、40年、50年、60年していくうちに、
もしかしたらこのような血の御子のように純粋な御言葉の父を下に求める心が薄くなっているかもしれない。
皆さんいかがでしょうか。
この前の教団牧師会である老お年寄りの先生が、若い牧師にこういう話をしました。
30年50年前よりは今の時代の牧会がもっと難しいんですね。
なぜですかと。
昔はそんなキリスト教の本もあまりないし、ネットなんかYouTubeなんかそういう説教を聞くこともないから、
30:01
その教会の先生が語る神の御言葉が、聖書の御言葉もそれだけでもう十分だった時代だった。
でも今は牧師がこう言っても、YouTubeのあの先生はそう言ってないんだけど、
あの本にはそう書いていないんだけど、そういうふうにいろんなことが、ボールがあちらこちらに入ってくるから、
今の牧師は大変ですねと言われたことがある。
でも冗談でYouTube牧師、偉い牧師がいるかもしれないねと言われて、わかりますか。
大事なのは、情報が多いからいいんじゃなくて、
血の実語のように純粋にそのまま御言葉をしたい、求めて、受け止める、
その自分に純粋さ、減り下る心があるかどうかが最も大事なことではないです。
このように御言葉をしたい、求める人は、毎日毎日新しい泉の水を汲んで飲む人と同じ。
そして精霊様は知恵と経緯の二玉ですから、その方がくださる知恵に与えられ満ち溢れ、
そして本当に、皆さん先生を読むと、精霊様は知恵と経緯の二玉とあります。
そうですか。
だから皆さん、誰が知恵ある人なんでしょうか。
誰が賢い人なんでしょうか。
東大学生の人でしょうか。
勇気ごとを持っている人でしょうか。
あるいは古い信者なんでしょうか。
違いますよ。
大事なのは、精霊に満たされた人が賢い人であって、知恵ある人です。
神様は万物をお作りになり、万物を保っておられる方であるから、
神様より、その礼の三玉様より賢い者はいないでしょうね。
それから、私たちが神様をたっとぶことがどれだけ大事なのか、
その人がなぜ恵まれるのかを一箇所、聖書を開きたいと思います。
第一サムエル記二章三十節を開きましょう。
旧約聖書第一サムエル記二章三十節。
第一サムエル記二章三十節です。
私の聖書では469ページです。
33:03
第一サムエル記二章三十節。
よろしいですか。
これを一緒に読みたいと思います。
それゆえイスラエルの神主の御告げだ。
あなたの家とあなたの父の家とは永遠に私の会をはない。
と確かに言ったが、今や主の御告げだ。
絶対にそんなことはない。
私は私をたっとぶ者をたっとぶ。
私を避けすむ者は軽んじられる。
これはサムエル時代の話ですけれども、
エリーサイチとかそのムキコたちのことで、
こういう御言葉が与えられました。
最後の部分に注目していただきたいのですが、
私は神様ですね。
神様は神様をたっとぶ者その者主がたっとんでくださる。
しかし神様を避けすむ者、
神様を軽んじてないがしろにする者は、
その人もその人生も軽んじられるということです。
皆さん、この御言葉は非常に大事なんです。
私たちが神様に祈り、神の御言葉を目指し、
このように神を礼拝するということは、
簡単にわかりやすく言って、
神様を尊敬すること、
神様をリスペクトするわけない。
皆さん、誰かが誰かを尊敬する、尊重する、
リスペクトするならば、
もうその人の顔を見るだけでワクワクする。
その人と会うことが期待になって、
例えば明日会うんだったらもう寝れない、寝れない。
ワクワクして、
もう本当に心の準備をする、
いろんな準備をする。
そしてもう遅れることは絶対ないです。
もう迷ってその約束のその場所に行って、
もう待って待って、いつその方が来るんだろうか。
もう会ったらですね、遠から見たら、
うわー、もう駆け引けていてですね。
尊敬する自分がリスペクトする人の言葉であれば、
もう意思で納豆を作ると言っても、
それを信じるほど信頼するわけなんです。
皆さん、覚えていてください。
私たちが本当に本当に神様を愛して、
神様をたっとんでいるならば、
私たちが神に礼拝すること、
神に祈ること、
36:02
その方の御言葉を守る、実践することを、
第一にするんです。
もちろんでしょうか。
神様をリスペクトする、たっとぶけ。
そこには自分の都合のいいように、
好き勝手に行うことは欠点ないんです。
神様をたっとぶから。
皆さん、神様をたっとぶものとなってください。
私たちが神様を軽んじる、
ないがちろんにするならば、
もう私たちの人生は祝福されないんですよ。
神様に軽んじられるから。
さみゆきに話しておきませんが、
あのエリサイジも、その二人の息子たちも、
神様をもうからかっていたんです。
軽んじてしまったんです。
神のものを神に捧げない。
捧げない。
そうしてももう平気である。
神様に軽んじられて、捨てられて、
呪われたんじゃないでしょうか。
皆さん、神様をたっとぶもの、
神様を大切にするものは、
礼拝も祈りも御言葉も、
あるいは捧げ物も、
大切にするんですよ。
神様を見守るから。
尊敬するから。
だから皆さん、
今日の私たちのこの礼拝の皆さん、
一人一人の姿が、
祈りが、
あるいは献金が、
あるいは十一が、
あるいは我々の日頃の生き方が、
自分自身が神様をどれだけ
たっとんで、
リスペクトして、
尊敬しているかが、
もう毎週毎日表されているんです。
そうでしょう。
今日の私たちのこの礼拝の姿が、
自分の心が、
自分の献金が、
今日皆さんね、
献金が用意されたと思うんです。
その献金が、
あるいは十一が、
あるいは感謝が、
自分が神様をどれだけ尊敬して、
たっとんでいるかの証なんです。
それは隠すことはできない。
偽ることはできないんです。
そのままも、
関七に現れるはたっとんでいるか。
人の目はね、
人の目に隠されることは、
あるかもしれませんが、
主が御存じで、
自分が知っている私が、
神様をどれだけたっとんでいるか。
本当にあえてリスペクトしているから、
39:02
現れるんです。
もしも皆さん、
私たちが祈ること、
主の前に集まること、
集会に接敵すること、
御言葉を黙想すること、
恋愛すること、
あるいは十一献金、
誠実恋愛の献金に対して、
それをしない、
あるいはできない、
何かの理由をつけているならば、
実は我々神様をリスペクトして、
たっとんでいる心が減っている、
その証拠なんです。
理由がどうであろうがなんです。
神様を本当に愛して、
神様を賛美して、
神様を育む者には、
それをしない理由を持っていないんです。
何とかして、
何とかして、
主の前に参る、
御方が愛する、
それを守る、
それを恋愛して、
恵みの御座に、
そこに行くんです。
マジでしょ。
神様をたっとぶ、
もう答えは簡単です。
神様をたっとぶ、
我々に本当に必要なこと、
神様を本当に応える、
神様を本当に愛することであります。
皆さん、私たちは、
受け身的にクリスタルになりやすいなと思いますね。
神様に許される、
憐れまれる、
恵みをいただく、
誰かに祈ってもらう、
愛されることが悪いことではありませんが、
いつになっても、
受け身であって、
自分が神様を愛すること、
自分が神様に捧げること、
御言葉を守ること、
祈祷のために取り成して祈ること、
そこまで私たちは、
生としていかなければならないんじゃないでしょうか。
最後に3番、大きい3番ですが、
神の恵みを豊かにいただいた人が、
その恵みを分け与えることができません。
お金のない人はお金を貸すことはできません。
知識のない人は知識を与えることができません。
恵みに満ちていなければ、
恵みを分け与えることができません。
法則は簡単です。
自分自身が神の恵みに満ちていれば、
自分を通して神の恵みが、
42:00
他の人に溢れ流れるんです。
分け与えることができるんです。
私に神の恵みが溢れているから、
主の命が溢れているから、
それを分け与える、与える、与える、与えることができる。
そして周りの人が潤うされる、
その人も恵まれるようになるんです。
だから、このクリスタルアイドルにおいて、
一番大事なことは、
自分自身が、皆さん一人一人が、
神の恵みをいただいて、豊かにいただいて、
そして豊かさの中で歩むこと以外に、
大事なものはない。
願わくは、私一人一人が、
神様の恵みを豊かにいただいて、
その恵みの中に歩んで、
豊かさの中に生きていってですね、
そしてその恵みを溢れ流す、
与える、与える、
それでも自分は十分溢れている、
そういうものになりたい。
三国の法則の中で、
大事なポイントの一つは、
この溢れる、自分の内側に、
神の恵みが満ち溢れていれば、
人を潤しても余るんです。
豊かに与えても余るんです。
もう一瞬溢れているから。
しかし、枯れていて、枯れていて、
枯れていたら、
もう自分も生きることができないし、
周りの人に与えることができない。
皆さん、この溢れて与えることが、
なぜ大事なんでしょうか。
イエス様がそうなさったからですし、
エレ様がそうしてくださる方だからなんです。
一箇所説明書に書きましょう。
新約聖書、ヨハネの福音書、
十章、十節、開いてください。
ヨハネの福音書、十章、十節、
198ページです。
ヨハネの福音書、十章、十節、
198ページです。
一緒に読みましょう。
結びとが来るのは、
旗結んだり、殺ったり、滅ぼしたりするだけのためです。
私が来たのは、羊が命を得、
またそれを豊かに持つためです。
アーメン。
皆さん、イエス様は、
45:01
私たちに命を得させてくださるだけではなく、
それを豊かに持たせてください。
神様には乏しさがない。
窮屈・窮暴さがない。
欠乏がない。
豊かに持たせてくださる方です。
精霊の命も同じなんです。
イエス様は、この新約聖書の時代だけではなく、
今も私たちに命を、
恵みを豊かに生み出してくださる方です。
だから、イエス様を模範として見習って歩む人は、
我々も神の恵みに満ちあふれて、
その恵みをあふれ流す、
与えて与えて、
周りの人々が潤され、
その人の命が生かされる、
豊かに持つことができるようにすることが、
これが神様に喜ばれるクリスチャンライブなのです。
皆さんどうでしょうか。
皆さんのゆえに、
家族が、教会の信徒さんが、
あふれていますか?
潤されていますか?
これは大事なことなんです。
あふれていないと、
奇跡は教えることができるかもしれませんが、
決して命を与えることはできないです。
精霊の恵みがそこにある。
クリスチャンとは何でしょうか。
信仰とは何でしょうか。
自分の内側に、
神の恵みが満ちあふれて、
その恵みをまた分け与えて、
あふれ流すことなんです。
それは、
キリストの品性であって、
精霊様の品性であるからなんです。
あふれて満たされている人は、
分け与えることは難しくないんです。
しんどくないんです。
もう優しいんです。
あふれているから。
しかし、もう枯れて、枯れて、枯れて、
枯れていたら、
与えることはできないんです。
何ででしょうか。
持っていないから。
与えたくても。
ネカワークは、
私たち一人ひとりになる。
お子様も、
私たちの人も、
みんな、
神の恵みに満ちあふれて、
自分がまず、
神の恵みをいただくことを優先にして、
そこにいれば、
そこに人、
そこに御言葉があって、
何がどうなっても、
それを妨げられることを許さなくて、
第一にして、
恵みを主体に求めていただいて、
そして、
あふれる、
48:00
ひとりひとり、
あふれる明太に教会でありたい。
そして、多くの人々に、
命を与えることができる。
そういった意味として、
今回、
スカント総理に行って、
2回の説教、
デビューセーションをさせていただきました。
その中で、
その御言葉を準備する中で、
私に神様から示されたメッセージがありました。
それは、
かなり前ですけれども、
福岡にいるときに、
子孫も、
子供も、
ハンナも、
いろいろ病気を患っていて、
泣いて泣いて、
神様の前に祈っていたときが、
意識がありました。
そのときに、
この後に、
神様が私に、
こういうメッセージを語ってくださいました。
私が、
あなたが、
君が、
自分の妻や子供の病気のために、
泣いて祈るように、
私は、
この日本のために、
日本に死んでいく魂のために、
泣いて、
祈っている。
心を痛めている。
あなたは、
この日本の多くの人々のために、
霊的な月になりなさい。
そして、
涙を流して、
泣いて、
鳥の巣ものになりなさい。
そういうことが、
特に今回のディフェクテーションの中で、
メッセージとして与えられた、
それを向こうで、
分かっていただきました。
その中で、
私自身、
本当に皆さんに申し訳ないなと、
イエス様のように、
聖霊様のように、
恵みが、
愛が、
あるいは哀れみが、
あるいは命が、
あふれて、あふれて、
皆さんにもっと豊かに、
お与えることが、
できたらよかったのに、
私の自分自身が、
おこしくて、
あけ与えることが、
まともにできたくて、
満たすことができなくて、
本当に申し訳ないと思います。
私は、
以前も今も、
蒼天のたんびに、
神の前で、
胸をたたきながら、
祈っております。
神様、
この地の人々を、
胸に抱いて、
涙をもって祈る、
霊的実と習って下さい。
51:03
神の恵みを、
生命の命を、
豊かに与えることのできる、
霊的実として下さい。
私には、
神の恵みが、
とこしくて、
あなたの愛と哀れみが、
とこしくて、
死を許して下さいと、
誠に祈っております。
皆さん、この時代に、
教える人は多くて、
判断して非難する人は多いですが、
涙をもって、
心を痛めて、
祈る人は、
少ない時代なのではないでしょうか。
みなわくは、
私一人一人が、
神の恵みに満たされて、
その恵みを次第求めて、
その恵みを、
命を、
多くの人々に、
分け与えることのできる、
それでも自分はあふれる、
そういう一人一人の、
平壇教会でありたいと、
誠に願います。
お祈り申し上げます。
52:18

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