00:01
アーメン
はい、挨拶します。
それでは、今日もメッセージに入る前に、隣の方々と挨拶しながら、挨拶としていきたいと思います。
よろしくお願いいたします。
よくいらっしゃいました。
はい、挨拶します。
それでは、一言お祈りいたします。
愛する好きな神様、今日もこうして、神様が世の前からお選びになり、
目指して下さり、神の民として、神の子として下さった、あなたの民たち、主の兄弟姉妹たちが、
主を覚え、聖日を覚え、礼拝を覚えて、このところに集まってまいりました。
今から、二言に決まる。
神様ご自身が、私たちに二言を持って養って下さい。
励まして下さり、また、神の奥義を教えて下さいますように、お願いいたします。
主への礼が注がれて、二言を正しく、よく深く知ることが出来ますように、感謝して、
神様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
はい、今日は、私が信じるのは、十一番です。
我は罪の許しを信ず。
と題を、資年103.1から十四節の見事をもて、ともに恵みをいただきたいと願っております。
神様が私たちに与えられた祝福の中で、最も大きな祝福は、罪許しの祝福だと思います。
イエス・キリストを信じて、私たちに与えられた、この罪の許しの祝福は、他にはない、神の内にある、最も素晴らしい祝福です。
神様はですね、私たちが弱いものであること、つまずきやすいものであること、
あるいは、私たちの内に悪があることを知っておられる。
03:02
だから、私たちを捨てるのではなく、許すことを喜んでおられる。
許したいと、許したいと望んでおられるということなんですよね。
神様は、罪許しのお母さんです。
今日の御言葉にもありましたように、恵み豊かなお母さんです。
怒るに襲いお母さんです。
その許しは、皆さん、無限なんですね。
あわりにも無限なんです。
この神様を知り、信じ、信頼することは、なんと大きな祝福なんでしょうか。
聖書1カ所ですね、一緒に見てみたいと思います。
今日は式編のところをお開けしたいと思いますが、式編32編です。
式編32編1節、旧約聖書934ページです。
1節だけをご一緒にお読みしたいと思います。
3節、幸いなことよ、その背きを許され、罪を覆った人は、アーメン。
皆さん、背きを許され、罪を覆われた人は、なんと幸いな人なんでしょうか。
皆さん、この歌は、ダビデが歌った歌なんですよね。
ダビデのマスキルと書いてありますが、
ダビデのことを考えてみたいと思います。
皆さん、よくお存知ですか。
ダビデはイスラルの王様でした。
しかし、王様になって、国の極力も強くなって、
その素晴らしい姿勢があった時に、彼は大きな大きな罪を犯してしまったんですね。
フクワの将軍ウリアの妻と、王の権力をもって、性的な罪を犯してしまった。
そのウリアの妻が、ダビデの子を見こもったことを知ったダビデは、
それを誤魔化すために、その戦後に出ているウリアを呼んで、
家に行って、休ませてあげようと。
06:04
自分の罪を起こすつもりだったんですね。
しかし、忠実な将軍ウリアは、自分の部下が先祖で戦っているのに、
自分は家で休むわけにはいかない。
で、私を戦わせてくださいと願ったんですね。
ダビデは、彼を最前線に立たせて、死なせたわけなんですよね。
罪といえば、彼は下院の罪、また今法にいえば殺人、凶殺の罪を犯したわけなんです。
そのダビデが、当時の預言者マタンから罪が指摘された時に、
その預言者の前で、神様の御前で徹底に悔い改めたんですね。
彼は悔い改めた時に、神様が自分の罪を許して許してくださったこと、
雪のように白くしてくださったこと、
その罪許しの恵みを大きく体験したわけなんです。
だから彼は、さっきの32編の数のように幸いなことよ、
その罪を許され罪を覆われた人はどう?
彼はなんと歌っているんですね。
みなさん、罪許し、また悔い改めは、神様からの大きな大きな祝福なんです。
今日は3つについてお話したいと思いますが、
まずは悔い改め、それから罪許し、それから罪を許された者に与えられる喜び自由、
この三本柱、三脚貝のような、この3つについてお話したいと思います。
この3つは、どれ一つも欠けてはいけないことです。
悔い改めも大事です。
罪許しも大事です。
その後、私だけに与えられる自由と喜び、それも同じ、等しく神様からの恵みなんですね。
ではまずは、悔い改めについてお話したいと思います。
みなさん、この罪許しの祝福は、私たちが何もしなくても、ただで与えられる、ただの祝福ではありません。
罪許しの祝福をいただくためには、私たちが必ずクリアしなくならないプロセスがあります。
09:07
それが、悔い改めということです。
悔い改めは、神様が設けられた罪許しの祝福をいただくための唯一の霊的補強と言えるでしょう。
では、もっと詳しくお話したいと思います。
1つ、悔い改めとは、神様が私たちにくださった祝福です。
祝福として受け止めていただきたいんです。
みなさん、考えてみてください。
もし、悔い改めがなかったならば、私たちはどうやって罪を解決することができるのでしょうか。
どうやって許していただけるのでしょうか。解決もできない。
それで、我ら人間は、心も体も腕も痛んでしまうことです。
せいぜい1ページをもう1ページ見てみたいと思います。
同じ記念の38ページです。
この38ページも、ダビデの詩ですが、自分が罪を犯したときに、
自分の状態がどんな状態だったのか、それを彼は詩で歌っているわけです。
では、その中の3節、それから4節を一緒に読みたいと思います。
あなたの一通りのため、私の肉には完全なところがなく、
私の罪のため、私の骨には健全なところがありません。
私のトガが私の頭を超え、おもにのように私には重すぎるからです。
皆さん、罪というものは、それは悔い改めて、罪許しの恵みをいただくまでには、
その罪のため、骨には健全なところがないとあります。
罪は心だけではなく、この体にも悪影響を及ぼすということです。
12:05
4節、私のトガが私の頭を超え、おもにのように私には重すぎるからです。
罪はこのようなものです。
しかし、主はこのような苦しみの中から、私たちを救い出すことを望んでおります。
これ以上、悩むことがないように。
これ以上、自分が自分を苦しめること、悩ますことがないように、
そこから救い出したいと神様は望んでおられるのです。
そして、私のことを私よりよくご存知の神様が、
この罪の問題を解決するために設けられた、開いてくださった道が、悔い改めという祝福なんです。
皆さん、悔い改めは決して呪いではありません。
悔い改めは祝福であり、希望であります。
悔い改めは私たちを悩ますための、あるいは私たちを苦しめるためのものではありません。
私たちの魂を生き返らせる祝福なんです。
ただ、悔い改めて、ダメでのような罪か、あるいはそれ以上酷い罪をも許していただける、
その方法が悔い改めということは、なんと大きな恵みなんでしょうか。
他の宗教では、自分のこの悪を取り除くために、
成人になるために苦行、修行をするわけなんですね。
十何年前、韓国でとても有名な僧侶が亡くなったわけですが、
彼は何と、それが事実なのか分かりませんけれども、
四十年間、座ったままで寝たわけです。
それができるかどうか分かりませんけれども、
それほど自分が強くなるために、
横になって寝る寝落ちなんて自分にはない。
それで、座って四十年間寝たわけです。
15:02
もう一度、皆さんがですよ、私が罪を許していただくために、
さあ、これから四十年間ずっと座って寝なさいとしたら、できる人はいません。
しかし、神様が設けられた罪許しの方法は、
何と、心から自分が罪人であることを認めて、
口で、私の罪を許してくださいと、
あなたは私の罪を許される方であることを禁じますと、
口で告白することだけで全ての罪が許されるなんて、
これは何と大きな至福なんでしょう。
2番目、悔い改めとは、
自分が犯した過ちから立ち返ることです。
方向、向きを変える。
罪に向かっていた自分が、悪に従っていた自分が、
その悪を遠ざけ、向きを変えて、神様に向くことです。
そして、神様の身元に行って、
神様の身元に、神様の懐に留まっていること、
それは悔い改めです。
ただ、心を空っぽにすることは、悔い改めの前の段階に過ぎます。
悪を空っぽにして、取り除いて、
そして神様の身心に、懐に抱っこされて、
まるでですね、赤ちゃんがお母さんの胸に抱っこされているときに、
世界一番の安定感、幸せ、心安らぎを感じるわけなんですよね。
同じなんです。
悔い改めというものは、皆さん、
単純に考えるだけであるわけではありません。
考えとか想像ではありません。
悔い改めは、日本語もよくいい言葉で訳されたと思いますが、
悔いることだけでは不十分です。
改めなければなりません。
自分の悪を、自分の過ちを悔いる。
18:04
そして、改めることです。
正すということです。
立ち返るということです。
立ち切るということです。
まずは考えを、そして行いを変えること。
それが悔い改めではないでしょうか。
あの有名なルカーノ憲章に記されている、母と息子の避難の話が記されていますね。
何度も聞かれたかもしれませんけれども、
彼はお父さんのもとから離れてしまった。
そして、世の泥沼のような罪をこの後に溺れてきた彼が。
そこで、ただ考えだけでですね、悔いだだけではなく、
そこから抜け出て、自分のお父さんの家に帰ってきたんですね。
これが悔い改めということです。
泥沼から抜け出て、そして死の身元に帰ってくること。
これが悔い改めなんです。
3番目、悔い改めとは、神様の御前に比例付することです。
神様の御前に比例付することです。
神様の御座に進み出ることです。
皆さん、罪、過ち、悪は闇の世界です。
ですから、罪は光が嫌いです。
神様を避けます。
神様は光で現れるからなんですね。
ですから、罪を犯した人は光より闇が、
罪を犯した人は神様から遠ざかおうとします。
離れようとします。避けます。
ですから、私たちは誠の悔い改めをするためには、
何とかしても死の御前に、死の御座の前に出てこなければなりません。
今日も言う言葉を、八節を一緒に読みたいと思います。
八節、中節です。
3回、死は憐れみ深く、情け深い。
21:00
怒るのに遅く、恵み豊かである。
死は絶えず争ってはおられない。
いつまでも怒ってはおられない。
アーメン。
皆さん、神様が、私たちが信じる神様が、
憐れみ深い怒ったであること、情け深い怒ったであること、
怒るに遅い、恵み豊かであることを、
信じて信頼して死の御前に進み出ることです。
そして神の御座に進み出て、
そこに罪許しの恵みがあることを信じて悔い改める。
そして悔い改めれば、必ずどんな罪であろうが、死は許して下さい。
その罪許しの恵みは、自分の感情に基づくわけではありません。
例えば皆さん、何か罪を犯した。
謝っちゃったとしましょう。
そして神様の御前に祈るんですね。
私のこの罪を、死を許して下さいと。
時には何だったり、祈るんですね。
その後、私たちが何に基づいて、この罪許しの喜びを味わうのか。
自分の感度ではないです。
人間の感度というものは、ローマ族からも教えていただいたんですけど、
肉の性質は、悪の性質がある。
だから私たちは、悔い改めて、死は許されたのにもかかわらず、
心に気まずい気持ちがあるかもしれません。
これ許されたんだろうか。ほんまか。
そういう自分の感情に基づくのは、それは正しいことではありません。
悔い改めたならば、死が許されるという二言葉。
真理に基づいて、私たちは自由である喜ぶことです。
十節を見てみましょう。
では、十節一緒に読みましょうか。
十、十一、十二一緒に読みましょう。
三、私たちの罪に従って、私たちを扱うことをせず、
私たちのとばに従って、私たちに報いることもない。
天が地上はるかに高いように、
24:01
御恵みは死を恐れる者の上に大き。
東が西から遠く離れているように、
私たちの背きの罪を、私たちから遠く離される。
この御言葉に信頼しろ。
悔い改める者には、皆さん、神様がどのように扱ってくださるんですか。
罪に従って扱うことをなさらないのです。
とばに従って報いることがありません。
ありません、ありません、ありません。
そして、天が地上はるかに高いように、
東が西から遠く離れているように、
私たちの背きの罪、すべての罪を、私たちから遠く離される。
そして、何も関係もなかったように、主は扱ってくださるんですね。
皆さん、ですが、私たちにはできないことがあります。
例えば、自分の昔の罪とか、あるいは家族の誰々の自分に悪いことをしたことを、
忘れたいんだけれども、忘れられないことがありますよね。
まじですか、皆さん。ありますよね。
例えば、自分はですね、小学生の時に、
今も覚えているあやまちが、いたずらのようなあやまちが、多くありますけれども、
自分がですね、あえて思い起こそうとしなくても、
頭の記憶の中にそれがあるんですよね。
あるいは、結婚してですね、夫婦の間でですね、
何かのあやまちとか、悪いことをですね、許していらっしゃるかと、
そうしたいんだけれども、心の中に記憶が残っていたりするんです。
しかし、神様には、もう覚えていない、記憶がない、許したと、
許したとしたら、その通りにおできになる。
あたたきが、心から徹底に悔やらされたならば、
記憶は覚えていないんですね。
例えば、何かですね、あたたきが小さいあやまちが来たとしましょう。
そしたら神様が、あたたきの手帳をですね、持ってですね、
27:01
生まれから今までの手帳を持って、
君、10年前こんな罪を犯しただろう、まだわしは覚えているよ、とか、
そういうふうに責めさせるあたたき。
御言葉に基づいて、罪許しの祝福をいただこうではありませんか。
では、1ページをもっと見ましょう。
951ページです。
旧約聖書954ページです。
この51ページは、先ほど申した、
ダビデがバテシェバのもとに通った後に、
預言者ナサンが彼のもとに来たとき、
あなたが罪を犯したと、その罪が指摘されたときに、
彼は神様の御前で徹底に悔やらされています。
そのところをちょっと見てみたいと思いますが、
2節、まず2節を一緒に読みたいと思います。
3回、どうかわたしの徒がをわたしから全く洗い去り、
わたしの罪からわたしを清めて下さい。
みなさん、このように祈ることができるのは、
神様は全く洗い去ってくださる、
清めてくださることを信じるから、
このように祈っているわけなんです。
そしてダビデは、その預言者の前で、
いや、神様の御前で、自分の罪を正直に認めています。
それがクリアータヴェなんですね。
3節をわたしが読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
30:00
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
読みます。
悔い改めるものは、主が清くしてくださること、その罪を洗ってくださること、雪よりも白くしてくださることを信じて死の御前に進み出ることです。
悔い改めと罪許しの恵みは、その根拠は二言葉にあります。
私の記憶や考えや感受に基づくものではありません。
もう一度申しますが、神様の罪許しは限界がありません。
どんな罪も、いつの罪も、主は許されるお方です。
4番に行きましょう。
悔い改めとは、精霊十万の助けをいただくということです。
なかなか、誠の悔い改めは、母と息子が、お父さんのもとに帰ろうと決心しました。
そして、自分の足でお父さんのところに帰ってきたんですね。
このように、まずは自分の決心が、しかしこの決心だけでは不十分です。
この決心以前に、精霊十万の恵みがなければなりません。
私たち人間は、心に秘めて決心をするのですが、また倒れたり、また何かを犯してしまったり、そんな時があり得るということです。
だからこそ、精霊十万の恵みが必要なんです。
自分も自分をコントロールできない自分があるわけなんですね。
だから、ローマ図でシト・パウルが叫んだように、なんと惨めな人間なのかと。
上に従って、御言葉通りに生きたい自分があります。
しかし、同時に自分の中には、悪に従って背くようとしている自分がある。この戦いがある。
だから、自分の御力では、これをクリアできないことを私たちが認めるならば、精霊十万の恵みをいただいて、精霊様に支配していただく必要があります。
33:02
皆さん、もう経験終わりでしょう。なんとかこれをしないように。
いや、しない、しない、しないと決心するんだけれども、また犯している自分があるんですよね。
だから、精霊、清い霊の空っぽにして、そして精霊に満たされて、そして自分の思いも行いも霊も、すべてを見たまによって収めていただく道が、清やかにの道なんですね。
先ほどの四年五十一篇の十節を見てみたいと思います。
四年五十一篇の十節には、その精霊十万のことをこのように記されています。
十節を一緒に読みたいと思います。
三杯。神よ、私に清い心を作り、揺るがない霊を私の内に新しくして下さい。
三杯。神よ、私に清い心を作り、揺るがない霊を私の内に新しくして下さい。
それではその次に、なぜ私たちが食い上がったのだけではならないのでしょうか。その理由は何でしょうか。
それについて二つお話したいと思います。
まず一つは、罪・過ちとかというものは、私と神様との関係、また人との関係を破壊する、滅ぼしてしまう。
だから私たちは食い上がらなければなりません。
罪というものは、神様との関係、人との関係、またこの自然世界とのすべての関係を破壊してしまうから、私たちは食い上がらなければなりません。
それを聖石のアダムとエヴァも、あの罪からよく知ることができました。
彼らが罪を犯した結果、どんなことが起きましたか。神様との関係が廃れました。
また自分の夫と妻とのその愛の関係が、それもダメになってしまった。
神様との従順の関係も、それが愛の関係が、恐れの恐怖も、逃げる関係になってしまった。
36:10
すなわち、神様との関係が破壊されたということは、死を意味します。
人との関係が破壊された、それはお互いに罪の責任を人に負わせる天下と言いますが、その悪が起きない。
人のせいにしてしまう。
愛の関係、支える関係が、呪いの関係に破壊されてしまいました。
また、人間とこの地球と言いましょうか、自然世界との関係も破壊されたんですね。
罪というものは、人間関係の破壊、自然世界との関係の破壊を起こしたわけなんです。
だから、この罪を私たちは食い温めて許していただかなければなりません。
また、神様は食い温めるものに罪を許すという約束の言葉を与えてください。
2問です。
私たちが食い温めなければならないその理由の2つ目は、罪の結果は死であるからです。
そのところ、聖書を見てみましょう。
ローマ書第6章23節。
新約聖書298ページです。
では、ローマ人への手紙第6章23節を一緒に読みたいと思います。
3、罪から来る報酬は死です。
しかし、神の下さる賜物は、私たちの主シリストイエスにある永遠の命です。
皆さん、罪から来る報酬は何でしょうか?
死です。
罪がもたらすものは死です。
他には?
ですから皆さん、私たちが食い温めなければ、自分の家に死を積み立てることなんです。
39:02
罪を犯したのに食い温めていない。
それは自分の家に、自分の人生に死を貯蓄することと一緒です。
英語のメッセージ聖書という主役の聖書がありますけれども、そのところはこの23節をこのように訳しているんですね。
罪のために一生懸命に働いてみてください。
その人が受ける、もらう年金は死です。とあります。
一生懸命に罪のために、悪のために働いて働いて頑張った。
そして老後になってもらえる年金は、しかし神のために働く者がもらえる年金は命であるということです。
ヒント来ますか?皆さん。
皆さん、誰もが自分の家に自分の人生に呪いを死を積み立てたい人はいないんですよね。
であるならば、食い当てはめる。
そうすると、主がその罪を許してくださる。
そして、許してくださるだけではなく、その上にイエス・キリストにある永遠の命を与えて。
この永遠の命はただただ、ずっと永遠に生きるだけの教授のものだけではありません。
今、ここでイエス・キリストにある富に富んでいる豊かな祝福、恵みを自分が受けて、
今、これを、その豊かさを、その祝福を喜びあげよう。
喜び、楽しむこと、それが永遠の命なのです。
ですから私たちは、食い当てはめるんです。
皆さんが食い当てはめなければならない過ちとか、背き、罪は何でしょうか。
さあ、大きく二つ申しました。
一つは、罪は何なのか。食い当てはめは何なのか。
そして、なぜ食い当てはめなくならないのかを、お話ししましたけれども、
最後にお話ししましたように、この食い当てはめ、そして罪許し、この二つだけでは不十分です。
42:01
その罪許されたものに、主が降り注いでくださるその喜び、自由も等しく重要なことです。
三つは三脚と同じなんです。
一つだけが足が短かったり、壊れたりしたら、立つことができないんですよね。
私たちの信仰も同じなんです。
食い当てはめ、罪許し、それから罪許されたものに、主が降り注いでくださる喜び、自由、平安、この三つが大事なんです。
簡単にまとめますと、こんなことです。
罪を犯しました。食い当てはめました。罪を許されました。
ここで終わりであります。
許されたならば、与えられる喜び、自由、平安がある。それをもって喜んで主に誓えよ。
そこまで行くことが、罪許しの福と恵みなんです。
皆さん、神様の御心はこれなんです。
私だけは何か過ちをしました。罪を犯した。
もう一生がい自分を責めて、責めて、苦しめて、苦しめて、苦しめて、食い当てはめて、食い当てはめて、また食い当てはめない、10年後も30年後も50年後も、食い当てはめない、食い当てはめない。
それは神様の身もではありません。
徹底に忍び前に食い当てはめましょう。
そして、食い当てはめならば、主は許してくださる。
日が日が道から遠く離れているように、記憶もしない。
あなたの罪はない。
罪を犯した者と認めない。
という罪許しの恵みをいただいて、そして思う存分味わう、喜び楽しむ。
そして平安のうちに、喜びのうちに、喜びをもって主に誓える。
使徒に誓える。
そして主が許されたこの人生を、キリッとイエスにあって喜び楽しむことが、神様の身もねではないでしょう。
この心がですね、この許されたものに与えられる喜び自由を、主にあって喜び楽しむことが、
特にこの東洋人、私も東洋人、アイシャ人ですけれども、東洋人には祝いているんじゃないかなと思うんですよね。
それが昔ながらの儒教やあるいは仏教のせいであるかもしれません。
自分を食い当てはめで、食い当てはめで、そして自分を本当にもうキリ殺す、キリ殺す。
45:04
それも儒教ですよ。それもしなくなりません。しかしそれだけで終わりではないのです。
イエス様がお入れになったことは、イテライトにもまたいに分かれていますけれども、自由を与えるためなんですよね。
解を知るためなんですよ。
お前は罪を犯した。だからもう食い当てはめなさい。
そしてあたたかを拘束、束縛するために、主がお入れになったわけではないんですよね。
その罪の奴隷から、その鎖から解き放たれて、自由を味わいなさい。
主にあって喜びを味わいなさい。あなたの人生をキリストにイエスにあって喜んで楽しみなさい。
それが主の恵みなんですよ。
ですから皆さん、罪を犯しました。そしたら徹底に食い当てはめてください。
増えたならば、主が許されたことを信じてください。
そして、許されたものには、主が喜びと自由と解放と回復を与えてくださったと信じて、それを楽しみなさい。
喜びを楽しんでください。
だから、それが神様の恵みなんです。
ペサロニカみたいな手紙に、いつも喜びなさいという言葉があります。
いつもですから、いつもなんです。
罪を許された後も、いつもに入っているわけです。
だから、その時にも、許されたと主を感謝しますと、喜びを楽しむことができる。
ダビデは、その重大な重大な罪を犯したんです。
その後、彼は何度も何度も自分の罪がどれほど人に罪なのか、歌を持って歌ったわけですけれども、
その後のダビデは、自分の人生を苦しめて苦しめて苦しめて、ダメにしたわけではない。
だから、聖書の中にダビデを挿して、神の心にかなったものだと、あさかつに陥っているんです。
聖書の一箇所を見てみたいと思います。
四編、すいません、ローマ書。
ローマ書、八書、一節、二節です。
古典にローマ書を毎日一節一節と開発していますけれども、とても恵まれているんですね。
48:05
この八書において、今日の御言葉とピッタスの御言葉が書かれています。
八書、一節、二節を一緒に読みたいと思います。
こういうわけで、今はキリスト・イエスにあるものが、罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにある命の御霊の原理が、罪と死の原理からあなたを解放したからです。
アーメン。アーメン。
皆さん、キリスト・イエスにあります、あたさちは。アーメンですか?
キリスト・イエスに結ばれています。
あたしたちには何がないんですか?
罪に定められることは決して決してありません。
神様も誰もあたしたちを罪に定めることはできません。
この一節と言語を見ますと、言葉の順番がありますけれども、
何を先に頭に置くかによって何を強調するのかがわかりますが、
この発祥一節の一番頭に来る言葉はいない、ありませんが、何をパウロ先生が言いたいのでしょうか?
キリスト・イエスにあるものには決して罪に定められることはないんですよ。
これを強調しているわけなんです。
見言葉に信頼します。見言葉に信頼します。
なぜですか?
キリスト・イエスにある命の御霊の原理、法則が、罪と死の原理からあなたを解放したからです。解放したからです。
ですから皆さん、神様も、サタンも、あるいは人も、
私たちが神様の御前に本当に悔いを改めたならば、その罪を罪に定めることはありません。
ですから皆さん、これからは皆さんが神様の御前に徹底に悔いを改めて下さい。
そうしたならば、自分が自分を苦しめること、あるいは自分の罪に自分を定めることはしないで下さい。
また、人へも同じなんですよ。その人が神様の御前に悔いを改めたならばしましょう。
そうすると神様もその罪に定めることはしないんですよね。
サタンがいくら訴えても許されているから、サタンの訴えも、起訴もそれは無効なんですよね。
だから、私たちも人を罪に定めることはやめましょう。
51:02
神様も定められないから、人を罪に定めること。
それが奥さんであろうが、ご主人であろうが、子供であろうが、親であろうが、知り合いの人であろうが、
キリストだとして、その人が本当の意味で死の御前に悔いを改めたならば、死は許されたわけですから、私たちも許すべきなんですよね。
どうか皆さん、自分を罪に定めること、あるいは使徒を罪に定めること、それはまた他に鎖で拘束することと同じなんです。
神様の罪許しの恵みは、その鎖を一切解き放す。それが神様の罪許しの恵みなんですね。
ですから皆さん、二度と自分自身や人を、またその裁く鎖で拘束束縛ないように、メッセージを送りたいと思います。
今日はメッセージの後に、次のこの話を少し申したいと思いますので、皆さん悔やかにしてください。
そうしたら、罪は許されることを信じましょう。
罪許されたものには、人間が与えることができない、天の喜び、自由、解放が与えられていることを信じて、
そして主にあって喜ぶ、主にあって楽しむ、そしてその愛をもって主を愛します、主に伝えますと応答する歩みをしていきたいと、そう願っております。
メッセージここまでして、今日はメッセージの後半に、教団で新学校デーとして祈ってほしいということがありまして、
先日に新学校デーについてお配りしましたが、もしお持ちの方は開いていただいて、また先週もKBCニュースもありましたけれども、
そのところをもって少し新学校の話をして、ともに祈りの時を持ちたいと思います。
私も今年から研究生で勉強させてもらっているものですから、こんなに詳しくは知りませんけれども、知っている先に新学校のことをお話したいと思います。
今、新学校の中の新学生は全部で17名ですよね。17名の中に他教団からの委託教育もしているわけですから、
54:12
日本イエスキリスト教団の新学生は研修生の私含めて7名でした。なんと全国の教団の教会が131名ですかね。
131名の中で新学生が1年生から3年生、私を除いたら6人なんですね。本当に少ない人数なんです。
来年も卒業生はただ1人だけです。しかし、ご委員会に任せる先生方は結構多くいらっしゃる現状なんです。
だから、委員会される先生よりもっと多くの新学生が入ってほしいんだけれども、もうはるかに少ない現状を覚えて、
特に今日の資料にも書いてありますが、多くの献身者が起こされるように、皆さんぜひぜひお祈りください。
この日本の福音言語のためには、この仏会者が足りないと開拓もできませんし、ある教会の仏会もできなくなってしまうんですね。
建牧が増えていくこともあるかもしれません。ですから、1人でも多く、若い人でもあるいはご時代であろうが、ぜひぜひ祈って祈ってください。
新学校では来年には10名の新入生が入学するように祈っておりますので、皆さんもぜひ覚えてお祈りください。
また2つ目は、私も塩屋新学校に去年初めて休止に行ったときに、塩屋生会に休止のせいになって、初めて新学校に行って、
びっくりしました。こんなに古い建物で勉強している。大変だなと思ったんですけれども、今、塩屋生会をしていた高度はもう老朽化のことで安全性のために今使っていません。閉鎖しました。
そのところもありまして、教団では2020年だったと思いますが、新しい校舎を建築することを目指して祈って祈っています。皆さんも祈って。
そしてまた私から示された中、新学校のために、新しい校舎のためにも研究していただきたいと願っております。
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また教えていらっしゃる先生方は、国会とともに教授の働きもしていらっしゃるわけですから、それも実は大変だったと思うんですね。
アメリカとか韓国だけ見ても、教授は新学校の教授のあれだけですから、研究に教えることに専念できるわけなんですよね。
しかし今の日本の事情は、お金を持ちなくてはならない。教えることを持ちなくてはならない。もう働きが過剰の現実もあるわけなんですよね。
ですから、これもまず教えていらっしゃる先生方が、国会とともに教えることもできるようになった。
これからはもっともっと日本のリバイバルが起きて、新学校の教授の働きだけできるという日が来たらいいなと私は祈っておりますけれども、
そういう日が来ることができるように覚えて祈っていきたいと願っております。どうか新学校のためにぜひぜひ覚えてお祈りください。
ではここまでしまして、一緒にお祈りしたいと思いますが、まず一つは今日の御言葉を覚えて、まず死の御前に悔やかめましょう。
また罪許しの恵みを確信しましょう。そして罪許された者に死が与えてくさる喜びと開放と平安と楽しみを思いどんぶん私たちが味わうことができるように、
この恵みのためにその愛をもって死にますます仕えていけるようにお祈りいたしましょう。そして二つ目は死んだことのためにお祈りいたしましょう。
多くの検診者が犯されるように、来年は10名以上犯されるように入学できるようにお祈りください。また2020年に目指してのこの新校舎の研究家のためにお祈りください。
また教えていらっしゃる先生方、また学校の校長先生、あるいは学官や社官の先生のためにも覚えてお祈りください。
また進学生のためにも是非是非覚えてお祈りください。合わせてご一緒にお祈りして最後に私はお祈りしたいと思います。ご一緒にお祈りいたします。
ああねえ、我々は神様天皇と神様、今日の御言葉をお一緒にお感謝いたします。一人一人をあなたが覚えて、どうぞ主よ、我々にあなたの恵みを作って下さいますようにお願いいたします。
主よどうぞ、我々は本当に弱い者です。本当に、我々は本当に幸せです。主よどうぞ、我々にあなたの恵みが知りたがってありますように、共に歩むことができますように。
主よ、神様どうぞ、我々は罪をあなたの御前に食いやすめて、そして罪に許された者として、この自由を解放、喜びを罪にあって、きれいにあってあげることができますように、主よどうぞ助けて導いて下さい。
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あなたのその測りしない恵みを本当に罪に許し、哀れに向かい、怒るのを襲うその神様、慈しんで神様の恵みを心から感じさせます。
どうぞ主よ、我々は一人一人が主にあって、もっともっと愛をもって主に仕えることができますように、あなたに主を、あなたを愛することができますように、主よどうぞ助けに導いて下さい。
よろしくお願いいたします。どうぞ神様に祝して豊かに祝して下さいますように。お願いいたします。神様のためにお祈りします。主よどうぞ、関西政策神業と、神様豊かに祝して下さい。
17名の進学者ら、主よどうぞあなたが、本当にあなたが気まぐとして養って下さって、その御本能を受けるために、将来に尊く用いて下さいますように、お願いいたします。
教えていらっしゃる先輩方も、主よどうぞあなたが主に与えて下さい。霊力ども、あなたが強めて下さいますように、お願いいたします。
また本当に主よ、学校の校舎が本当に古くなって大変な中にありました。主よ、全教会が祈りをもって、また献金を捧げて、新しく校舎を建てて、
中で本当にもっとも良い教育環境が整えられますように、そしてもっとも素晴らしい、主よ、学生たちが、主よ、僕会社が、主よそこからお送り出されますように、
主よどうぞ優しくして下さい。また学校の校長の先生、学生の先生、生徒の先生、また職員の方々、主よどうぞあなた豊かに祝して下さいますように、
どうぞ主よ、本当に多くのこの主よ、伝説者が、主よ卒業されて、日本中に使わされて、この日本が主よ福音を伸べ伝えて、そしてこの福音を聞いて救われるものが、主よ次から次へ起こされますように、
どうぞ主よ、豊かに豊かな恵みを与えて下さい。献金も主よ、あなたが本当に多くの巨大事務所を通して、あなたが捧げて下さいまして、どうぞ主よ、全ての本当に予算が満たされますように、
あなたが用いて下さいますように、お願いいたします。どうぞ主よ神様、あなたが豊かに祝して下さい。感謝します。感謝します。アーメン主よ、一言お祈り致します。
日が日が日から遠く離れているように、あたしたちのともきの罪を、あたしたちから保護される。アーメン主よ、あたしたちに罪を許していただける道を申し上げて下さい。ありがとうございます。
アーメン主よ、あたしたちがいつも死の御前に下り下って、罪を悔い改めることができますように。そして、神様の儚しれないその罪許しの恵みを、あたしたちが信じて信頼して、そして罪許された者として、その愛に応答できますように、お答えできますように、罪お仕えできますように、主を導いて下さい。
そして、あたしたちも自分自身を罪に定めること、あるいは人を罪に定めることは一切これからしないように、どうぞ主よ、神様の罪許しの恵みを、あたしたちも少しでもいただいて、そのような許し、愛、寛容、寛大の聖霊のものとして、主を歩ませて下さい。
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御言葉を感謝します。また、今日は神楽のために共にお祈りしました。
それで、この日本有機物教団が、また他の教団が恵みをいただいているわけです。
主よ、多くの新学生が、また来年は10名以上入学できますように、主をどうぞ祝して下さい。
また、校舎が古くなっているところですが、主をどうぞ、祈るともに、教会が沈黙を捧げて、新しい校舎を建築できますように、そして良い環境の中で、本当に神楽を勉強して、さらにさらにますます前進して、日本の伝のために用いられますように、
主をどうぞ、あなたが豊かに祝して下さいますように、お願いをいたします。
どうぞ主よ、今日の御言葉を感謝し、イエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン。