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2021-10-31 45:07

2021/10/31:創世記(35)人間の過ちと神の恵み

2021/10/31 聖日礼拝

尹善鎬牧師

創世記 -30,35-41

00:00
皆様、おはようございます。
先週は、皆さんに祈っていただいて、六港みどり深井での報酬を恵みのうちにさせていただきました。
向こうも岡本先生を含めて、信徒の皆さんが温かく迎え入れてくださりました。
病気ですから、とても心配されて、泣いても怒られてもいいのかな、とも心配されたようですけれども、
意外と元気で行きましたから、みんな驚いたようです。
一緒に歌詞を交えて、ともに恵みのときを持たせていただきました。
皆さんの背後のお祈りも、これから感謝いたします。
では、一言、密着お祈りさせていただきます。
神様、感謝します。
今日も、このように主が私たちに、新しい一日を、新しい命を、新しい礼を注いでくださって、
ともに主の御前に招かれ、また心を注ぎ、喜びをもって礼拝できるこの幸いを、恵みを、心から感謝いたします。
どうか主よ、私たちが神の御前に捧げる賛美、祈り、
また捧げるものが、本当に香ばしい香るものとして、主の心にかなえものになって、主に受け入れられることを信じて感謝いたします。
どうか主よ、今から神様御自身が、その命の御言葉を持って、私たちに主をどうぞ語ってくださいますように。
かたくなで悟り、みぶい子の私たちですけれども、主をどうぞ、その鋭い剣のような主の御言葉が、私たちの思いを、肉を、罪をすべて収め、
神の心に、どうか私たちを変わらせて下さいますように。深き悟りを与えて下さいますように。
あなた様の心を知ることができますように。 主をどうぞ、一人一人の魂に、主がお語り下さいますように。
弱い体を、精神を強めて下さって、あなたに向かって、耳を傾けて、心を低くして、共にお聞きすることができますように。
主をどうぞ、我々を憐れんで満たして下さい。 イエス様の皆によってお祈り致します。
アーメン、感謝します。
漱石の35回目、人間の過ちと神の恵み、人間の過ちと神の恵みというタイトルです。
イサク、リベカ、エサオ、ヤコブ、この4人の話が続いています。
03:06
今日はこの中で、イサクとリベカの過ち、それに対する神様の憐れみについて一緒に学んでいきたいと思います。
まずイサクのことです。 イサクは年をとって、目もよく見えない老人になりました。
自分が年老いて、いつ死ぬかわからないというくらいでした。
そこでイサクは、自分が愛している長男エサオを呼びます。
それはエサオを祝福するためです。
ただエサオが猟で、どういう動物なのかわからないけれど、肉料理が好きだから、それももちろん食べたいのですけれども、
イサクはエサオを祝福するためでした。
そしてこの祝福というものは、前回でお話しましたように、
長男の権利に対する神様の祝福を、父親のイサクがそのエサオに祝福をしようとするということです。
しかし前回で学んだように、既に長男としての権利、そしてその祝福はどうなりましたか。
もうヤコブに売られてしまったわけです。
もうエサオのものではなくなってしまったんです。
ヤコブのものになっているんですね。
これが神様の主権的な許しの中でなされたということなんです。
それをイサクはわかっているんです。
神様の長男への祝福は、実際の長男エサオではなく、ヤコブに流れていくんだという。
この父親のイサクはそれをわかっているんです。
知れないわけではないんです。
わかっているんですね。
しかしイサクは、この神様の主権的な働きに逆らおうとしているわけなんです。
イサクはヤコブよりエサオを愛していたとしても、どうですか。
神の心に従うべきなんです。
そうでしょう皆さん。
06:03
神の心はエサオではなくヤコブにあるんだ。
俺はヤコブよりエサオの方が好きなんだけれども、
神の心がヤコブにあるんだったら、それに従おうとするんじゃないですか。
でもどうですか。
イサクはそれより、神の思いより、自分の肉の思いや愛情が強すぎて、神の思いに逆らおうとしているんです。
肉の思いというものは、本当に強いものです。
ここに父イサクの過ちがありますね。
神の心がわかっているにもかかわらず、それに従わないだけではなく、逆らうイサクの頑固さがここに現れているんです。
わかっているのにもかかわらず、逆らおうとしている頑固さがここにあるんですね。
皆さん、私たちの頑固さまで言わなくても、肉の思い、自分の思いは本当に強いものだなと思うんですね。
でもまた人によって違うんだなということもあります。
プサにいるときに数学者がいて、そしてまた新しく、信じたばかりの姉妹が数学を後にしましたけれども、
前の姉妹に、私は担当牧師だから土曜日とか礼拝が2時にありましたからちょっと早めに来て練習したらどうですかと言っても、
彼女はもう大丈夫ですよ、私は自分でやるからと言って、全然聞いてくれないんです。
自分のやり方があるわけなんですね。
それが罪とは言わないんだけれども、自分の肉の思いがあるわけなんです。
その姉妹が結婚して日本に行きましたから、その次に先年を間もなく受ける姉妹が新しくピアノの数学校になったんです。
彼女にもピアノは上手でしたけれども、進行は今から始まる姉妹でしたから、
彼女に同じく土曜日とか日曜日早く来て練習したらどうですかと言ったら、はいわかりました、素直に早く来て一生懸命練習をするんですね。
それを見ながら、人の肉の思いというものは意外と強いんだなと、その時思ったことがあるんです。
09:07
今日の遺作は、この思いをですね、この頑固さをですね、もう死ぬまで諦めないんです。
けれどもどうですか皆さん、これは遺作だけの過ちではないと思うんですね。
遺作の中に私があります。私たちの過ちでもありましょう皆さん。
ある信学者がこう言いました。
自分が偽人だと思えば思うほど神様からどんどん遠くなるし、
自分が罪人だと思えば思うほど神様にどんどん近くなる。
どうですか皆さん、そう思いますか。
自分が偽人だと私は正しい、私は大丈夫と思えば思うほどどんどん神様から遠くなってしまうんですね。
しかし私は罪人である。
いや私が今日だったらですね、遺作より私の方がもっと頑固だと。
罪深いものだとですね、思えば思うほど神様に近くなるのではないでしょうか。
アメリカのドック先生の本を日本語で翻訳したものを読んだことがありますね。
そこに神の品性、その品性という言葉をですね、その日本語の本は品性の川に美徳と翻訳していました。
美しい徳、美徳。品性も素晴らしいんですけど、美徳という言葉もいいなと思いました。
皆さん、神様の美徳の中に人間の言葉として表している要素がいくつかありますけれども、
その中の一つが謙遜というものだと思うんですね、謙遜。
イエス様が人になられて十字架で死なれたことだけを見ても、
神の美徳の一つは確かに謙遜だと思います。
そうでしょう、皆さん。
そうすれば、イエス様にならう私たちもこの謙遜の人になりたいです。
つまり私たちはイエス様の心は謙遜だとわかっているんです。
これをわかっていて、それに本当に立派に従っているならば、
家庭においても教科においても、そこには一切争いも分裂もなくて、本当に平和が満ちると思うんですね。
12:00
お互いに謙遜し合っていれば。
しかし私たちはどうでしょうか。
神の心が謙遜だとわかっているにも変わらず、しばしば私たちは人の頭の上に立とうとしたり、
人を自分の思い通りに操ろうとしたり、自分の頑固さで物事を押し通そうとしたりする私たちがおります。
遺作の中に私があります。
これを見る目は実は幸いです。
それは私は本当に過ちの多いものだと悟ることができるからです。
それが恵みなんです。
本当に私は謙遜になるのはとても難しくて、高慢になるのはとても優しいものなんだと認めて、
神の前にも人の前にも自分自身をへり下らせて、本当に謙遜な人になりたいんです。
そしてこう祈りたいんです。主よ、イエス様にならって謙遜なものにならせてくださいと。
こういうふうに皆さん祈るのではないでしょうか。
聖書一箇所一緒に開きたいと思います。
新約聖書第一ペテロ三章の八節です。
第一ペテロ三章八節。
第一ペテロ三章八節です。
では一緒にお読みしたいと思います。せーの。
最後に言います。
皆一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。
アーメン。
本当にこうなりたいですね。
夫婦の間が親子が兄弟姉妹がですね。
いやこの町中世界中がですね、こうなりたいんですね。
皆一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示して、心の優しい人となって、謙虚でありなさい。
家庭においても教会においても、そこにですね、私たちがそうなればですね、本当に穏やかで幸せな日々が続くのではないでしょうか。
遺作の。
この神の心がわかっているにもかかわらず、逆らっている遺作。
15:06
その人間の過ちが、この草積二十六七、この章にですね、本当にもう、何と言いますかね、もうセキララにですね、もう暴露しているように書かれているんですね。
その中で自分自身を見出せるのは恵みなんです。
次はリベカのことを見てみたいと思います。
今日の読んでないですけれども、二十七章の誤説を読むとですね、
リベカは遺作がその子エサウに話しているのを聞いていた。
それでエサウが獲物を仕留めて父のところに持ってこようとのに出かけた時とありますね。
母親のリベカは長男のエサウより次男のヤクボの方を好んで愛していたんですね。
そしてもうですね、もう遺作がエサウを祝福しようとすることをもう止めて、そしてエサウじゃなくてヤクボを祝福させようとするんです。
彼女はそれが神の心だと思ったからです。
しかしどうですか。もう一部始終長いから省略しますけれども、エサウが野に出かけているうちに、もうすでにお家にある肉でですね、
それでお父さんが一番好きな肉料理をお母さんが作って、そしてヤクボはこの肌がツルツルだからですね、もう本当に毛の衣をかぶってですね、
エサウのふりをした。遺作はだいぶ目が霞んで見えなかったんですね。
これが長男か次男か顔もわからないくらい香りを嗅いで、長男かみたいにそうなったわけなんです。
それでもう遺作はヤクボがエサウだと思って、自分は祝福を長男に自分がしてあげたいエサウに祈るんだと思って、思い切り全部祝福の祈りを仕切った。
しかしそれは長男じゃなくて次男のヤクボだったということなんです。
この騙しを奪い取りをですね、母親のリベカとヤクボが企んでこれをやっちゃったわけなんです。
18:03
もう親子詐欺師なんです。親子詐欺師なんです。
それがヤクボが長男の祝福を受けるのが神様の心だとしてもですね、このリベカとヤクボのやり方は正しくないんです。
そこに騙しがある、偽りがある、奪い取りがある。どうですか皆さん。
遺作の過ちが神様の心に逆らうものだとすれば、
リベカの過ちは神様の心を成し遂げようとするんですけれども、そのやり方が悪いんですよ。
そこに偽りがあって、騙しがあって、奪い取りという人間の過ちのこの臭い臭いがひどいんですね。
いくら良い目的を持っていたとしても、それを成し遂げるやり方が悪ければ、
それも神の心に反するものになるんです。
妻リベカは夫を騙しまして、自分の息子エサウも騙したわけなんです。
それはヤクボに祈らせたいという、この押し通す頑固さ、この思いを変えない人間の過ち、
固くななこの人間の性質がここにセキュララにリアルに描かれているんですよ。
イサクもリベカもそういった面では似ているんですね。
自分の肉の思いをもう諦めない、変えない、考える余地もない、
もう最後までそれをプッシュして、それをやらせるという人間の頑固さ、肉の思い。
皆さん、リベカは神様の心がヤクボにあると信じたならば、
彼女は神様がなさること、自分がこんなに無理に祈らせなくても、
ちゃんと神様がヤクボを選んだならば祝福してくださるに違いない。
神の時は必ず来ると、その神様の祝福を祈りつつ待ち望むべきだったんじゃないですか。
それが信仰でしょ、神様を信じるならば。
そして神様がこのヤクボをどのようにして祝福してくださるんだろうか。
21:02
私には分からないんだけど、もう神様がきっとこの子を祝福してくださるだろう。
それが神の思いであれば必ずそうなるんだとね。
ある意味で楽しみながら待ち望むべきじゃないですか。
そうしてくださる死を信じるべきじゃないですか。
でもリベカはどうですか。一切そうしなかったんですね。
待ち望むところか、自分の人間の思いで、自分の強い意志で、物事をさせてしまった。
肉の思いが本当に強すぎる夫婦ですね。イサクもリベカも。
ヤクボもそうですね。今日もヤクボの話はしませんが。
もしお父さんがそうしようとしても、お母さんがそうしようとしても、もしヤクボに少しでも信仰があって、
神様が私を祝福してくださるなら、お母さんは待ちましょうよ。
そんな騙し取りはしたくないし、そんなしたくないんです。
もう神の時を待ちましょう。お母さんやめましょうと言ったら、この葬石のストーリーはぐるっと変わったと思いません。
でもヤクボもそう、もう持ってしまったんです。
イサクもリベカもヤクボも、神の思いを仰ぐよりは肉の思いを実行させてしまったんです。
悲しいストーリーなんです、実はここに。悲しいストーリーなんですよ。
ところで、またこれはもしもの想像ですけれども、リベカが自分の夫、イサクを騙すんじゃなくて、
夫とイサクと十分に話し合って、説得するとしましょう。
お父さん、あなたはエサが好きかもしれませんけど、神の心はヤクボにあるんじゃないですか。
あなたはわかっているでしょう。あなたの気持ちは十分わかるんだけれども、
神様は長男じゃなくて、弟、ヤクボを祝福してそうなさろうとするから、お父さん、もう神の時を待ちましょう。
エサを神様が守ってくださるでしょう。祝福してくださるでしょう。そうしましょうよというふうに、
イサクと十分話し合ったら、またこの結果は違ったかもしれませんね。
騙しも奪い取るも、ヤクボが逃亡することもしなくてもよかったかもしれません。
24:07
しかし、全部、イサクもリベカもヤクボも肉の思いが強すぎて、
神の思いより、家族の平和より、こうならなければならないと思った肉の思いが全部勝ってしまった。
そして、その結果は非常に悲しい結果になってしまったんですね。
一度思ったら、何が何でも方向を変えない。間違ったやり方なのに、絶対に変えない。
人を騙してでも押し通す愚かさ、固くなさがここにあります。
ヘブル書3章8節を見ると、「あなた方の心を固くなにしてはならない。あらのでの試みの日に、神に逆らった時のように。」と。
そして皆さん、これらは、同時に私たちの過ちをも表しているように思います。
どうですか、皆さん。私はこのメッセージを準備しながら。
もうイサクの中に、リベカの中に、ヤクボの中に私がある。
何が何でもエサを祝福しようとするイサク。
何が何でもヤクボに祝福させようとするリベカ。
それから私たち。本当に私がここにありますよ。
神の御心がわからないわけではない。知っている。わかっている。
にもかかわらず、この肉の思いが強すぎて、神の思いをも抜けてですね、自分の思いをも貫こうする。
無理をしてでも、イサクが、リベカが、私の中にあります。
皆さんはいかがですか。
やがては、ヤクボは本当につらいつらいみじめな経験をさせられて、やっと少し変えられるようになります。
しかし、残念ながら、イサクとリベカの最後は、ある意味でそんなに美しくはなかったんですね。
27:04
これが人間の過ちであれば、これに対する神の恵み、憐れみはどのようなものでしょうか。
今からそれを見ていきたいと思います。
しかし、ここで、とんでん返しが起こるわけですね。
神様は、こんなにも過ちだらけのイサクやリベカを諦められませんね。
アブラムから始まるこの信仰の経図に、神様はイサクもリベカも、そこにその信仰の祖先の中に入れてくださるんですよ。
皆さんだったら、皆さんの自分の祖先の名前に、こんな願望で、こんな人の名前を入れたいんですか。
もし、これを差し控えることができるなら、歴史中で立派な人を自分の祖先の名前に入れたくなるでしょう。
神様、過ちだらけのイサク、リベカ、頑固で堅くなな、
こんな彼らを憐れんでくださって、やがてはイエス・キリストの経図に、その名前に載せてくださいました。
ここに神様の驚くべき憐れみが、恵みがあるんですよ。
この前、あるミシンジャから、こういう質問を受けました。 何が根拠で恵みがいただけるのかわからない。
そういった質問を受けました。 いい質問だと思いました。
この話をちょっと話したいと思います。 その方は、このYouTubeを見ているかどうかわかりませんけれども、
まず、このような考え方には、今の私たち人間には、その前提になる考え方を皆持っていることを、まず認めなければならないんです。
皆、前提を持っているんです。
それは、何かをもらうには、それに相当する代価を払うべきだ、という考え方を皆持っているんです。
特に日本の方には、ほとんどの方が、このような考えを持っているように思います。
それから、それに伴って、特に日本の思想の中では、
ただでもらうものには価値がない、あるいは危ない、怪しい、後から厄介なことになるという先入観を、大体皆さん持っているんですね。
30:00
このような前提や先入観を持っているから、神様からの恵みはただでいただくんだ、信じるだけでいただくんだとしたら、
普通の日本の方は、これはもうどこに根拠があるの?
何でただでくれるの?あり得ないでしょう。後から怪しくて何かがあるんじゃない?
いや、だからただのものには、そんな価値がないのよ。もう無価値なんだからでしょう。そういうふうにしか聞こえないんです。
おそらく皆さんも、信じる前の方も、そういうふうに思っていたんじゃないですか。
でも、そのような考えは、その根底に先ほど申しました、そういった前提をみんな持っているからです。
例えば、黒いサングラーかけてみると黒く見えるでしょう。
赤いサングラーかけてみれば赤く見えるんですね。同じなんです。
だから、これはこの心理自体が間違っているんじゃなくて、今の我々が持っている考え方の限界を、実は自分の話で表していることなんです。
そして自分がそれに実は気づいていないということなんです。
例えば、同じ話でも、日本ではただのものには価値がないんだ、怪しいと思うでしょう。
でも、以前私が見た選挙史の報告の動画を見たら、アフリカのとある部族では、ただのものには無限の価値がある。
お金では買えないから、だからただと言われるんだ。
ただで与えられるのは、もう神の恵みだと思うので、神の恵みはただですよ、そう言われて、
みんな喜んで感謝で溢れていただいて、部族をまるごと救われることが起こるということなんです。
どう思いますか、皆さん。
同じ話をしても、例えば日本では、今申しましたように、ただは怪しいものだ、価値がないんだからそうでしょう。
街で配るティッシュみたいなものを、貧しい人はちょっともらうかもしれませんけど、
そこまで余裕がなければ、もらわないんじゃないですか。
しかし、同じ話をしても、神の恵みはただで与えられるんですよ。
いや、それはもう無限のものだからでしょう、いただきましょうとする国々、部族があるんですよ。
人間の言葉で、神の恵みをただでいただきようと言われるのは、価値がないからではなく、
人間の価値判定では、神の恵みを測ることも記すこともできないからなんです。
33:06
あまりにも大きいから、それを寸法、最上ですね、測ることができないんですよ。
だからもう、ただとしか言いようがないんです。
皆さん、人間の言葉には、我々の言葉には、神の恵みを表しきれるものがないんですよ、そもそも。
だから、日本語で言えば、永遠、無限、ただ、それぐらいでしょう。
言葉の限界があるからなんですよ。でもその言葉で表しきれないんですよ。
もう言葉以上のものなんだけれども、我々が認識できる言葉は、それしかないんだから。
さて、このように、永遠であり無限である恵みと憐れみをもって、神様はイザクやリベカだけではなく、
私たちをも、変えりみてくださるんですね。 過ちだらけの私たち。
時には、イザクとかリベカより固くなな私たち。
時には、神の前に跪くよりは、自分の思いをお人を外す頑固な私がいるにも関わらず、
主は諦められない。
変えりみてくださるんです。 皆さん、考えてみてください。
なぜ私たちが救われたんですか。なぜ私たちが罪許しの恵みをいただいているんですか。
私たちにそれに相当する資格があるからですか。それに相当する偉いことをしたからですか。
一生懸命に努力したからですか。多くの人にいいことをしたからですか。
二代三代目のクリスチャンだからですか。研究をたくさんしたからですか。教会の初代メンバーだからですか。
牧師だからですか。役員だからですか。あるいは私たちに過ちがあまりないからですか。
とても良心的だからですか。いえ、全然違います。
神様は、私たちのような罪深いものを、
ただ、神の無限の忍耐と愛をもって、変えりみてくださるし、
何度も何度も神様に背いたり逆らったりしている私たちを、
神様は、今日も見捨てず、
諦めず、ずっと握ってくださっておられるから、
今ここに私たちがおるわけなんです。
安眠ではないでしょうか。
36:00
これを知ること、大きな恵みなんですね。
神様は、私たちの過ちを耐えしのんでくださっておられるんです。
イサク、リベカ、ヤコブ、タケではなく。
今日も私たちを憐れんでくださるし、許してくださるし、恵んでくださるから、
この世にはばかることなく大胆に主の御前に出て、礼拝できているんじゃないでしょうか。
最近、いろいろ、大地震、皆さんのようにワクチンも打つことができないし、
感染の危険性も高いわけですから、
家で本を読む時間が多いんですけれども、
最近読んだ本のタイトルが、「宝刀する神、宝刀息子」ありますね。
その宝刀の宝刀ですよ。宝刀する神という本です。
アメリカの先生の本を翻訳した本ですけれども、
それはルカノフクイン書15書の、よく言われる宝刀息子の例と言われる、
施設を開くなっていいんですよ。宝刀息子の例の話が出てくるんじゃないですか。
でも実際に、ルカノフクイン書15書をいくら読んでも、宝刀という言葉は出てこないんです。
出てこないんですよ。父に二人の息子がいた、そういうふうに始まっているんですね。
だから、誰かが、日本から始まったのかアメリカから始まったのかどこか分かりませんけど、
誰かがこれを宝刀息子という名前をつけて、それが日本語の訳に宝刀という言葉に変わったと思うんですね。
その一人は、次男が父の信頼をもらって、全部を使ってしまって、
あとは物売りのようになって、我に代わって父の元に家に帰ってきた。
父はあざかく迎えて、宴会を開いてくれた。
そして長男に対する話もありますけれども、私がお話したいのは、この著者の僕先生は宝刀する神と言っています。
宝刀は息子じゃないんですよ。宝刀する神と日本語の訳はそう訳されていますが、
ここで言おうとする宝刀という言葉の意味は、実は気まぐれとかわがままという意味ではないんです、実はね。
言おうとする意味は、こういう意味ですよ、実は。
向こうを見ずに浪費する、向こうを見ずに浪費するという意味です。
それは、もう無一文になるまで持っているものを使い果たすという意味なんです。
39:05
つまり、食い改めた次男を父親が大歓迎する。
その行為は文字通り、向こうを見ずです。
父親は次男が浪費した損失に対する説明を求めることもしません。
今までの悪しき罪状を数えることもしません。
損失に対する賠償を要求することもしません。一切問いません。
大歓迎してくれる。もう息子の地位を復帰してあげる。
大宴会を開いてくれる。喜んで受け入れてくれる。
これこそ皆さん、神様の哀れみを表しているものだと思いませんか。
イエス様はあえて神様を大浪費家として表現したわけなんです。
神の子供たちである私たちのためにも、神様はどうでしょう。
向こうを見ずに浪費、つまり放盗するようなものでなければ、
むしろ神とは言えないのだとイエス様は言われたと思います。
ここで一箇所、聖書を開きたいと思います。
新約の第二コリント五章十九節です。
新約聖書第二コリント五章の十九節。
第二コリント五章十九節、一緒に読みたいと思います。
すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、
そむきの責任を人々に負わせず、和解の言葉を私たちに委ねられました。
アーメン。
皆さん、よくご覧ください。
神様はキリストにあって、この世を私たちをご自分と和解させるためにどうされたんですか。
私たちにある、私たちのそむきの責任を人々に負わせず、私たちに負わせないんですよ、神様。
誰に負わせるんですか。イエス様に負わせて、そして和解させてくださったわけなんです。
本当にね、無垢水の恵みがここにあります。
豊闘するほどの神の恵みがあります。
だから皆さん、愛する皆さん、神のこの無垢水の恵みは、私たちに大きな希望になるんですよ。
42:02
私たちがどうして今日この世に裸ることなく、今のように神の前に出て礼拝できるんでしょうか。救われたんでしょうか。
資格があるからでしょうか。代価を払ったからでしょうか。そんなことありません。
ただ、イエス様が身代わりになって、罰を受けられ、死なれたからです。
つまり、私たちは罪のあるものですけれども、イエス様の義、イエス様の誠という義の衣が、風呂敷のような衣が私たちをかぶっているんです。
覆われているから、神様が私たちの皆さんを見るときには、私たちの罪が見えなくて、イエス様の義だけが見えるんですよ。
だから私たちを正しい人、義人と認めてくださるんです。
だから大胆に主の御前に近づくことが許されているんですよ。
躓くこともありましょう。過ちを犯すこともありましょう。嘘つくこともありましょう。逆らうこともありましょう。
しかし、イエス様の義が覆われているから、主は私たちのその過ち、罪を見るんじゃなくて、イエス様の義を見て、正しい。
あなたは私の目に尊いものだと、そう認めてくださるんですね。
なんという大きな恵みでしょうか。
過ちのない人は一人もいません。
イサクもリベカもラクボもエサウも、私もあなた。
神様はこんなに過ちの多い私たちを持つようとしておられますし、憐んでくださるし、祝福してくださるんです。
過ちだらけの私たちですけれども、不思議に神様は弱いときこそ、神の栄光を表してくださるんですね。
メッセージを終わりたいと思います。
過ちのない人は一人もいません。
過ちのない人だけ、神を礼拝できるとしたら、私たちは行くところがないんですね。
信仰の人にも過ちがありました。
アブラハムにも、ノアにも、イサクにも、リベカにも、ヤコブにも、ダビデにも、ペテロにも、私にも、皆さんにも。
そう思いません?
それでも、私たちをこの礼拝に招いてくださった、この神様、今日も生かしてくださったその恵み、この神様を賛美しようではないでしょうか。
愛する皆さん、勇気を失わないでください。
恐れないでください。
神様は決して私たちを諦められません。
45:01
祝福してくださるし、用いてくださるのです。
アメン。お祈りしましょう。
45:07

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