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暑くなりました。これからもっと暑くなっていくと思います。
礼拝の時、すらメッセージの時も含めて、ぜひ、体調がしんどくなったら、遠慮なく、ご自分の楽な姿勢をとってください。
後ろで休んでいただいても大丈夫ですし、お茶もありますので、水分補給自分が必要だと思うときは、ぜひ遠慮なくなさっていただければと思います。
一言お祈りをして、メッセージをしたします。
愛する天の父なる神様、今日もまた私たちを主の御前へと招いてくださってありがとうございます。
暑くなり、私たちの心も体も礼も弱りやすい時期になってまいります。
主がお一人一人をこの暑さからお守りくださいますように、そしてその体が弱る中にあっても、主は私の鳥で矢倉であると呼んでいただきましたが、
いつも主が共にいてくださることを覚えて、あなたの愛と恵みによって支えられて、この季節を過ごすことができますよう助けてください。
あなたは限りない愛を持って私たちを愛し抜いてくださいました。
十字架の父様により私たちを罪許し、復活の命によって主と共に私たちを生きる者へと変えてくださいました。
あなたは今も念ごろ私たちに、あなたの愛を語り続けてくださいます。
そのような恵みの世界にあって、私たちの本当に様々な痛みが癒されていっていることも感謝いたします。
あなたが憎ぬ気づくようにと私たちを召し出し、用いてくださっていることもありがとうございます。
神様がどうかこの礼拝の時を祝してください。
しもべはここにおります主をお語りくださいと、あなたの前に神戸を垂れることができますよう帰りみてください。
ここに来たくても来れないお一人一人、施設におられる方、ご家庭におられる方、思いがあっても来れない方、どうか主がお一人一人を覚え、あなたの身元へとまた招いてくださいますように。
お仕事でおられない方も、どうかその働きを守ってください。
神様、祈られたように世界の平和のために主が働き続けてくださっています。
祈りの手を挙げ続けます。
どうか世界を憐れんでください。
新しいことをなされる主に期待をかけ続けることができるように、私たちに信仰を与えてください。
お願いをいたします。
これからの時を御手に委ねます。
御言葉を主がお開きくださいますように。
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アメン。
今朝は実会の最後にあたります。
本当に一緒に読むことができて感謝です。
少し一つのお話をして始めたいと思いますが、
私は福島県にいたときに、ある少年の方と仲良くなって聖書の話をたくさんしました。
その方は教会の女性の役員の方のご主人だったんですけれども、書道家の方なんですね。
何よりも字を書くのが好きという方でして、
その方はご自身で世界の名作を書き写すということを好きでずっと続けておられて、
あるときから奥様が聖書を読んでおられるということで、
聖書を書き写そうと始めて、私が会ったときにはすでに先生7週目だと言っていました。
6回、聖書のすべての言葉を書き写したという方です。
日本で一番聖書を書いているんじゃないですかということを、
そういう方とお話ししたことがありますけれども、
書き写しでどうですかということを聞くと、
先生、聖書は面白いねということをおっしゃられる。
で、こう言われました。
先生、結局聖書が言いたいことは、樽を知るってことだなって言われたんですよ。
樽を知るってことだなってことを言われたんですね。
樽を知るですか?
その心はと聞くとですね、
いや、聖書は神さえいれば全部足りる。
大丈夫だって言ってんだよと。
うちは貧乏だけど神様いるから大丈夫だってことを言われたんですね。
で、隣で奥様がそれを聞いてて、
お父さん、もうお父さん神様のことを信じてるじゃない。
宣伝受けたらってことを言ったら、その方は、
いや、神様と俺のことは神様が知ってるからいいんだって。
そう言って、でもこの方も神様信じてるなと思いながら、
すごく嬉しい交わりの時でした。
優しい方で、いろんなことを教えていただきました。
来た方から去る際に一枚絵をいただきましたが、
今も上の牧師室に飾っております。
で、聖書が言いたいことは、樽を知るってことだ。
この言葉は私はその通りだなと思いました。
聖書の神様は恵みの神様、羊飼いなる神様。
この方と共に生きていく中で、
私たちはこの方の中に全てが満ちたれていること、
そしてこの方と共に生きていくから、
私たちもまた満たされていくんだということを、
私たちは味わっていく、そのような歩みを歩んでいると思うんですね。
だから私たちも樽を知る、
樽ているというのは一体どこにあるのかということを、
そしておそらくその逆もしっかりですね、
逆に神様を知らないということは、
言い換えるならば足りないということです。
足りない。何かが足りないとずっと思い続けるということです。
それが何かを奪ってしまうのではないでしょうか。
それがおそらく罪に悩む、
いや罪の歪みを抱える人間の根本的な思いではないかなと思うんです。
今朝は実会の最後の言葉です。
二十章の十七節に目を求めてまいりますが、
あなたの隣人の家を欲してはならない。
あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、老婆、
全てあなたの隣人のものを欲してはならないと言われます。
欲してはならない。
この言葉はこれまで読んできました実会を総括するような言葉です。
今日で実会も最後になりますが、
最後の言葉は実に本質的な私たちの内にあるものを示している言葉。
この言葉からご一緒に今日は二つのポイントで見ていこうと思っております。
人間の埋めようとする欲望
一つ目のポイントは何かというと、
私たちには穴があるということです。
私たちには穴があるということです。
欲してはならないと今日の箇所は言っていますが、
罪に歪む私たちの歪みは時に足りないという思いをずっと引き起こすということ。
その行動はおそらく与えることよりも誰かから奪う方へと向きやすいということなのでしょう。
これまで見てきました実会の第6回から第9回というものは、
全部何かを奪ってはならないという言葉でしたね。
そうではないでしょうか。
殺してはならないは命を奪ってはならないということです。
会員してはならないというのはパートナー以外の人を取ってはならないということ。
盗んではならないというのは財産と自由を奪ってはならないということでした。
そして偽証するなというのはある種相手からの事実を盗んではならない、奪ってはならない。
それぞれ奪ってはならない、奪ってはならないです。
でもそう禁じるのは先ほども申し上げましたが、
罪に歪んでいる人間というものが本質的には何かの足りなさを持っていて、
何かをそれらで埋めたいという思いが本質的にずっとあるからではないか。
その思いに突き動かされるからではないでしょうか。
これは罪に今なお痛み続けている私も含めてですけれども、
私たちも同じではないかなと思うんです。
一つのお話をしますならば、
ある若いクリスチャンの女性の方と話をする機会がありました。
その方はいわば失恋直後だったんですね。
先生、寂しいんですって言われました。寂しいんですと。
ただその方のこれまでの動きを見ているときに、
ちょっと私の目から見ても、そんな人と付き合って大丈夫っていう人と付き合っては別れても繰り返しておられたんですね。
寂しいんですね。
私はその人にそう言われたときに、こう言いました。
確かに誰かと一緒にいれる時間というのは素晴らしいけど、
一人の時間も大事じゃないって話をしたんです。
一人の時間も大事じゃない。
誰かと一緒にこれから生きるためにも、少し一人の時間も大事にしてみてはと。
すると激しく怒られました。激しく怒られました。
そんなこと簡単に割っておいてくださいって言われました。
そしてこう言われました。
どうしようもないほど寂しいんですと。どうしようもないほど私は寂しいんですと。
どうしようもないって言われたんです。どうしようもない。
それほど自分を突き動かす寂しさがある。
いや、それだけではないでしょう。
いろいろな方と関わる中で、これは私自身もありますが、もっと褒められたい。
もっと私は認められたい。もっと私は満ち足りたい。
そのような思い、そういう思いを持っていらっしゃる方々に出会います。
そういうときに私自身がその方々に会いながら思うのは、
その一人一人の中に大きな穴が開いているように見えるんです。
大きな穴が開いている。
何かがこの穴を埋めてくれないとどうしようもなくつらすぎるから、
だからこれが欲しい、これが欲しいと求め続けていく。
穴埋めを何かでしようとするけれども、穴が開いてますから、
仮に何かでそれが満たされたとしても、
またそれがスポットどこかから漏れ出ていってしまうようなことがあって、また足りない。
欲望による穴の開き
足りないと再び反射的にその穴を埋めるために生きてしまう。
そういうことがある人たちを見ることがあります。
断罪しているのではありません。
私もそういうところがあるなと自分で思います。
それはきっと何かに、誰かに穴を開けられたような、
そういう傷がもしかしたらあるのかもしれないなとも思います。
そしてそういう穴を前にするときに、私自身正直無力感を覚えることがあります。
それはどうすればこの穴が埋まるんだろうかということがわからないということです。
どうすればこの穴が埋まるんだろうか。
先ほどの女性の話だと、一時的な寂しさはしのげるかもしれません。
褒めてほしいのであれば、褒められればそれは一時的に満たされるのかもしれません。
けれども一時的ですね。
そのときは満足できるのですが、埋めようとしてなおなお足りない足りない、
私は足りないと思い続けて、いつまでも埋まらない、その穴を前に。
罪との葛藤と立法
この穴は一体どうすれば埋まるんだろうかということに途方にくれるときが私自身あります。
欲してはならないという今日の言葉を見るときに、これまでの箇所でも見てきましたが、
何かを奪いたいというのは人間の本質的な自己中心性の問題ですね。
でも言い方を変えるならば、大きな穴が開いているんです。大きな穴が開いている。
誰かがその人の心を砕いてしまって開けた大きな穴かもしれませんし、
そして根本的にそれは神様から離れてできた穴である。
どうすればいいんでしょうね。
本当にそう思いますが、私たちは聖書を読み進めるしかない、そう思います。
少し聖書を見ていきますが、
欲してはならないという言葉に目をとめるときに、これは神戸役聖書ではむさぼってはならないという言葉でした。
そしてむさぼりという言葉を聞くときに私たちがふと思い出すのは、パウロの姿ですね。
一箇所神役聖書を読ませていただきますが、
ローマ人への手紙の7章の7節から13節というところを少しお読みいたします。
ローマ人への手紙の7章の7節から13節というところをお読みいたします。
神役聖書の307ページですが、お読みいたします。
ローマ人への手紙の7章の7節から。
それではどのように言うべきでしょうか。
立法は罪なのでしょうか。
決してそんなことはありません。
むしろ立法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。
実際立法が隣人のものを欲してはならないと言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。
しかし罪は今しめによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。
立法がなければ罪は死んだものです。
私はかつて立法なしに生きていましたが、今しめが来たとき、罪は生き、私は死にました。
それで命に導くはずの今しめが死に導くものであるとわかりました。
罪は今しめによって機会をとらえ、私を欺き、今しめによって私を殺したのです。
ですから立法は聖なるものです。また今しめも聖なるものであり、正しくまた良いものです。
それではこの良いものが私に死をもたらしたのでしょうか。決してそんなことはありません。
むしろ罪がそれをもたらしたのです。
罪はこの良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされました。
罪は今しめによって限りなく罪深いものとなりました。
ちょっと難しい言葉が続いておりますが、何が彼は言いたいかというと、立法は私の罪を明らかにしたというわけです。
確かに私たちもこれまで実戒を読んでまいりました。
そのような中で私たちは自分の罪というものを示されることがありました。
実戒によって罪が指摘されるときに初めて、私の中にこういうものがあったんだということを初めて気づくことができました。
そしてパウロ自身もそうですけれども、欲しがる思い、欲望に自分がとらわれているということを彼も立法とし、自覚をし、
それは立法が悪いのではなくて、罪の力がそのように私にさせているんだということも彼は気づくことができました。
ただ、パウロは嘆くんです。
イエス様による穴の埋め方
十五節をお読みしますと彼はこう言います。
私には自分のしていることがわかりません。
自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っています。
自分にはむさぼりがあるということがわかった。それも罪によるんだ。
じゃあそれをやめたいけど、それがわかってなおやめられないということか。
先ほどの話を言うならば、穴が空いているんです。穴が空いていて、穴を埋めるためにむさぼりたくなんかない。
何かを満たすために何かを得る。そんなことはおかしいんだ。だからそんなことはしなくてもいいんだ。
わかっているけど、やめられない。
パウロはそういう自分を指して、二十四節に総括して彼は自分のことをこう言います。
私は本当に惨めな人間ですと、私は惨めである。
この手紙を書いているパウロはキリスト者です。
しかしキリスト者であってなお、このような葛藤があるとパウロはセキララに語ります。
自分の穴も自覚し、このままではいけない。
まあ、説教でも何か痛いことを言われる。
変わりたいけど変われない。私は本当に惨めである。
そう嘆くその嘆きというのは、私たちにとって実に本質的で根源的な嘆きですよ。
変わりたいけど変われない。
ただパウロは嘆いて終わるのかというと、皆さんよくご存知だと思います。
ここで一つお読みしますと、私たちの宗イエスキリストを通して神に感謝します。
こうしてこの私は心では神の立法に仕え、肉では罪の立法に仕えていますと。
これちょっと事細かに読まなければ意味が分かりづらいところですが、
しかし彼自身が言うのは、私は十字架のイエスをそれでも知りました。
そして、そこがどうしようもない私の変わり目でしたと彼は言うのです。
同じパウロが書いたピリピビトへの手紙で、彼はこういうことも言いますね。
まあ開きません。まあ簡単に聞いていただける。ピリピチョの3章の8節というところに。
私の主であるキリストイエスを知っていることの素晴らしさのゆえに、私は全てを損と思っています。
いや、それらをチリアクタだと考えていると彼は言います。
彼自身を立ててきた自分の血筋であったり、学歴であったり、何かを成し遂げてきたということ、
それをこれまで私は誇っていたけれども、キリストイエスを知ったその素晴らしさゆえに、
そんなものは全てチリアクタになったと彼はピリピチョで語ります。
穴を埋めるために集めてきたものがチリアクタに変わった。
穴を埋める鍵はイエス・キリストにあるとパウロは言うのです。
この歌詞を見るときにローマ書のこの7章とピリピチョの3章と言っていることはバラバラじゃないか。
でも私は信仰者の中に両方あるんだと思います。
ザーカイの姿とイエス様の呼びかけ
キリストを知るゆえに満たされるけど同時にどうしようもない自分自身の姿を見る。
両方あるのだと思います。
ただ彼が言うのです。イエス・キリストに穴を埋める鍵がある。
イエス様によって穴を埋められた人ということを想像するときに私がすぐ思い起こすのはザーカイという人物です。
一箇所彼の姿に目をとめて終わりたいと思いますが、ザーカイの姿はルカの福音書の19章の1節から10節に出てまいります。
皆さんよくもご存知かと思いますが、さらっとザーカイの話をするならば、ザーカイにもおそらく穴が開いていました。
彼はきっと誰かから認められなかったのかもしれません。
背が低かったと聖書は語ります。
ですから人々から馬鹿にされないように、強いてあげられないように、彼は主税人という、いわばこれは言葉があれですが、
ヤクザな世界です、主税人というのは。実にヤクザな世界に彼は足を突っ込んでいきます。
しかしその世界の中で彼は出世をしました。
彼は自分の何者であるかをなろうとして、頑張って主税人になった。
でもなったはなったで、同胞たちからは主税人、主税人と罵られる。
実に彼自身の中の葛藤は書いていませんが、おそらく私であれば、自分は何のために生きているのかと思ったかもしれません。
生きていていいのか、死ぬべきなのか、わからない。
ただ、おそらく彼自身の穴を埋めるために、穴が埋まるようにと山ほど集めた財産があります。
それはきっと彼自身を支えるものだったのではないでしょうか。
しかし、その雑貝が住んでいるエリコの町にイエス様がやってきました。
背の低い彼は木の上に登りました。
この木に登る雑貝の姿というのは、彼の心そのものを表しているといった先生がいます。
実に見事な理解だなと思います。
いわばそれは、木に登って人々の上からイエス様を見ようとする彼というのは、自尊心ばかりが高くなって他者を見下している。
そのような雑貝の姿。
しかし、自分の姿は木の間に隠してしまう雑貝の姿。
それはきっと不安で寂しい心を誰にも見られたくはないのです。
ただ、イエス様が雑貝の木の下に足を止めます。
イエス様は木の上を見上げて雑貝に呼びかけました。
19章の5節というところにありますが、
雑貝急いで降りてきなさい。私は今日あなたの家に泊まることにしているからとイエス様は言われました。
この話は、実は雑貝が救いを求めた話以上に、イエス様が足を止めて雑貝を呼んだ話ですね。
雑貝を呼んだのです。
ある種、自分の穴を埋めるために降りたくても降りれないほど、自分がそういうところに行ってしまっている。
救いを素直に求めることができない。
でもそのようなものを見つめて、イエス様は言われたということですね。
雑貝降りてきなさい。私は今日あなたと一緒に食事をし、あなたの家に泊まりたい。そう願っていると。
私たちは皆、この声を聞きたいのではないかなと思うのです。
私たちは時に何かを埋めたいというその衝動で動き、それをレースであるかのように考え、
人と比較をしながら、私はあの人よりも満ち足りているんだというレースから外れられなくなる時がある。
そしてそのような不安と恐れの中で、時に隣人を敵に変えてしまう私たちがいます。
過剰なまでに自分自身をかばってしまうことがあり、
同時にいつも足りないと思う自分のことを過剰なまでに鞭打ってしまうことが私たちにはありますね。
しかしこのような私たちにキリストは呼びかけるのです。
私はあなたのところに来た。そしてあなたの人生に私は宿りたいのだとキリストが言われる。
それがこの箇所の話ではないでしょうか。
そしてイエス様が人生に宿る時に、私たちは本当はどのような声を聞かなければならないのか。
それはイエス様ご自身も道から聞き続けてきた言葉です。
あなたは私の愛する子、私はあなたを喜んでいるという声です。
これは言い方を変えるならば、ザーカイの話で言うならば、ザーカイよ、あなたはもう十分なんだと言っている。
あなたはもう十分なんだ。穴埋めのために頑張らなくてもいいんだ。
パスカルの言葉
もう自分を何者かであるように肯定しようとしなくてもいいんだ。
そうではない。私が十分だとあなたのことを言っているならば、あなたはもう十分なのだ。
そう私たちに語りかける。
哲学者のパスカルという人が、彼はヘプトパスカルでも有名なパスカルですけれども、
彼は人間には神にしか埋められない穴があると言いました。
彼は神学者でもありました。
人間には神にしか埋められない穴がある。
しかしその穴を埋めるのは神様の愛ですよ。
あなたは十分なんだということ。
これは自分の存在の支えであったはずの財産を全部手放すというのが、ザーカイのストーリーの最後でしたね。
それはパオロと同じです。
自分を今まで支えてきたものが、チリアクタにもう見えるんです。
そうじゃない。このために私は自分は何者かであると示そうとしたけれども、
穴を埋める力
そうじゃない。それはチリアクタだ。
なぜならキリストイエスが私のために命をしてて、私を十分いいと言ってくださり、
神が私といつもそばにいてくださる。
いわばこれで十分だ。私はタルを知る。それでいいんだ。
そのことをマザーカイもパオロも知っていったのではないでしょうか。
そして穴を塞がれた人間というものは、何かを発するという力を、自分の穴を埋めるためではなくて、穴はもう埋まってますから。
今度はその発するという力を正しい方向に使うことができる。
これ開きますが聞いててください。
四編の十九編の七節から十節というところ。
四編の十九編の七節から十節というところ。
さらっとお読みしますが、十節をお読みしますね。
それらは菌よりも多く、純菌よりもしたわしく、蜜よりも蜜鉢の質の滴りよりも甘いと。
欲してはならないというヘブル語は、聖書の中ではネガティブなイメージなだけで使われているのではありません。
四編の十九編の十節の、この菌よりも多くの純菌よりもしたわしいという言葉、これ同じ言葉です。欲するです。
じゃあこの歌詞は何を起こしているのか。
主の教え。主の教えは完全で、主の証は確かで、主の忌めはまっすぐで、主の往生は清らかで、主の恐れは清く徳永までも変わらない。主の裁きは誠である。
何が言いたいのか。
神によって穴が埋められ満たされたものは、神の義を正しくしたい、求める、欲するように変えられていく。今度は神のために生きるものとされていく。
そう言えるのではないでしょうか。
もう終わりますが、皆さんは、これは私もそうですが、あなたはもう十分なんだよと言われる神様の御声を聞いていらっしゃるでしょうか。
しかし私も経験があります。それと同じぐらい、いやそれ以上に大きな声が穴から聞こえてくるのです。
いいや私は足りない。私はこのぐらいできなきゃダメなんだ。足りない、足りないと。
ただ、実会の総括と申し上げましたが、実会の第1回から第5回が言いたかったのは何か。神を神としなければ、あなたはいつまでも正しい位置に戻れないということです。神を神としなければ。
自分の声以上に、神の愛の働きかけ、神の愛の語りかけの前に、跪かなければこの穴はどうしようもないと言っているのです。
あなたはもう十分だという声を私たちは聞けるでしょうか。
今朝は生産式です。あなたは私の愛する子。私はあなたを喜ぶ。
そう、隔てを取り除いて私たちに語りかけるために、イエス様は十字架にかかり、体を裂かれ血を流されました。
なお私は足りないという声に聞き続ける時に、私たちはこの十字架を時に無駄にしてしまうんです。そうではないでしょうか。
十字架の死と復活は私たちにとっては無駄ではなかったはずです。
そうであるならば、裂かれた体、流された血をは無駄ではないのであれば、私たちは向きを変えて、私たちの穴からする声ではなくて、神様にあなたは私にとって十分だと言われるその御声に聞き、穴を埋められて、主よ、ただただあなたに感謝します。あなたの義を下に求めます。
そのように歩んでいく一歩を私たちは祈り求めるのではないでしょうか。どうか穴がありますお互いに。しかし神は穴を埋めるために御子を捧げてくださった。聖三式をご一緒に覚えながら、そのことを深く感じていきたいと思います。一言お祈りをしてメッセージを終わります。