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引退してから、一日に二回目を御用するというのは、昨年四国政界に頼まれていた時にはありましたけれども、そうありませんので、二回目というのが大変だなと思いながら、
今、皆さん方がお祈りくださっておりますので、支えられて与えられた御御の仕留めを全うしたいと願っております。
私の家内が、六校にある小学校の時の他人の先生が後に校長になりまして、それでその校長さんがいろいろな線流を作って、そしてそれをメモにしたのを送ってくれました。
見ておりましたら、まあ本当に吹き出すような、そういういくつかありまして、私は今これを見ながら気をつけなければいけないなと思って、それはこの間と五十年前の話をするという。
ついついそういうふうなことで、自分にとってはこの間のつもりなのが、信仰に入った当然のことが出てきたり、いろいろあります。
また、この後もそういうようなことがあろうかと思いますが、古い話をする男だと諦めてお聞きいただけたらと思います。
このけさの出来事は、これは下松崎の三章で、一人の葦名への人が、ペトロとヨハネによって癒されて、そしてその後の事柄がそこに記されております。
けさも申し上げましたが、今年は一人が一人を、この箇所では二人で一人をということにも言えるかと思います。
しかし、一人の人が救われるということは、こんなにまでも大きな事柄が過ぎずに、そこに起こされていくんだなと。
四章の初めの方を見てまいりますと、この一人の葦名が癒されたということならば、後にエルサでも全体に噂となっていく。
そしてそういう中から、五千人の人々が救われた。
当時の最高機会であるサンヘイドリンのこの人たちも、これ以上彼らを那須が守りさせはならないだろうということで呼び出して、いろいろと質問していくのですが、そのやりとりが今のその後に続くわけです。
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一人の人が救われたということが、こんなにまで大きな事柄として後々に及んでいる。
随分これは大きな出来事、人の働きの時代にしても大きな働き。
一人の人が救われるということは、そんなにまでも大きな働きとなって身を結んでいくんだなということを、読みながら改めて教えられております。
神様がそういう噂を行うということにおいては、やはりそのために立てられたペトロヨハネという、彼らの信仰とその姿勢というのが大きな働きとなって身を結んでいく。
私は高槻に失礼しました。平方におりました時に、高槻から宴城の方に向かうその山道ですが、そこにやる高山うこんにまつわるいろいろとそういう遺跡がそこにありましてね。
確かに教会の夫人会がそういうところに行ったかと思います。
明石に参りますと、当時その高山うこんという人は、いわゆる高槻のお城を任せられていた。
けれども、たくさんの武功を立てて、秀吉の殉大を得た彼は、その後本土は明石六門国ですか、そこの城市として迎えられたという、そういうこの高山うこんの失礼となりがそういうところに表されておりますが、
この人の信仰の姿勢というのは一貫しているんです。
この午後のこの歌唱にもありますように、神に、人に従うよりは神に従う。
このペトロス・ヨハネは、自分たちを報復する祖の議会に対して、その筆先に行ったことが、今のこの二十節、失礼しました、十九節、ペトロス・ヨハネは彼らに答えていった。
神に従うより、あなた方に聞き従う方が、神の前に正しいかどうか判断してください。私たちは自分の見たことまたは聞いたことを話さないわけにはいかない。
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この中でも、ペトロス・ヨハネのこの失礼は、あなた方のその声に従いよりも、命令に従いよりも、私たちは神様が私たちのうちに成させてくださったこの事実をそのまま使える。
そういう点において、私たちはあなた方の言い分に従いではなくして、神が私たちに成し掛かった言葉にこれを覚えてそれに従うだ。そう言いつつて。
そして言うならば、迫害する方が、その後手の施しようがなくなって、囚われ人のはずのペトロス・ヨハネの方が、まるで外戦将軍のようにその場を殺されていく。
神様は、事の起こりは山椒で美しる門というところに行ったときに、一人の姉妹が物声をしていた。そこにこのペトロス・ヨハネが通りかかった。
そこの二人は彼を覚えて、そして両脇から支えて、彼が歩けるように、そしてまたそこには神様の力が伴って、そして癒された。事の起こりはそこから始まっている。
神様は、祈りのあるところからこのように思いもしないような事柄をそこで始めなさる方だ。もしこのペトロス・ヨハネが、この時間神殿に来るのを何かのことで持って来ていなかったならば、どうだったんだろうかな。
何も起こっていないではないだろうか。彼らはそこに祈るためにやって来た。神様は祈ってからその後なしがされたんじゃなくて、祈るために来たそのところから、この二人を持ちなさって、そしてここに新たな事柄を展開されたわけですね。
この事においても教会が、皆さんがそうであるように、何事においても祈りを持ってなさる時に、神様はそれだけでとどめなさらないで、そこからさらに大きな技を起こしなさる方。
祈りのあるところから、精霊が働いてくださって、そして彼らが思う異常の事柄がそこに展開していく。しかもそのペトロスが語るメッセージの中でもって、今申し上げましたように、人に従うよりも神に従うという彼らの確信。
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そしてまた同時に、この二人を通して教会が立つべきべつというのは、それはこの方、雨の下でこの皆のほかに私たちが救われる名は人に与えられていないという、この名言とも言うべき言葉が語られた。
やはり教会はこの立場で、そしてまたこの信仰に立って、教会に与えられたその使命を果たしていく。教会にだけこの方によって御言葉が伝えられる。あるいはこの方の名によって救われる人が起こされる。
よく本田先生が特別伝道集会をやったかと思いますけどね。神様はね、パチンコ屋には働きなさらない。神様は教会を通して働きなさるんだ。
人は一発儲けようと思ってそういうところに行くだろうけども、しかしそこには救いも喜びも何もない。希望だけがある。しかし教会にだけはこのイエス・キリストの名によって救いに預かる新たな人生とその救いの喜びがあるんだということを、本田先生一流のそこにわかりやすく、面白おかしくというのがちょっと表現があるんですけども、
それぐらいわかりやすく先生が語ってらっしゃった。もちろん教会の使命というのはこの方の名によって、この方によってなされたこの救いを述べ伝える。それが一番優先されることだというそういうことです。
本当に申し上げましたこの高山勲という人は、そういう点においては、彼は当時の同じような立場にある他のこの武将たちにも、彼は伝えるというよりも感化を与えた人のようです。
そして彼を取り巻く大名たちの中には、同じようにイエス・キリストを信ずる、そういう武将たちが多く起こされた。しかしその後、秀吉が新勢を引いて、そしてその後を継いだ徳川家康もまたそういう姿勢をやりましたから。
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ついにはこの高山勲は、彼はこの秀吉から、証状をとるか信仰をとるか、二者卓一でどちらかを捨てなさいと言われた時に、ひとりぞはまさかこの六万石の証を捨てて、と思ったのでしょうけれども、
その時にこの高山勲はね、彼は痛みよくこの証を捨てて、そしてイエス・キリストに従う道を彼は歩んだ。信仰の加渡で成敗を受けてもやむなし、信仰を守る限り天国行きは保護されます、というのが彼の最後の言葉だったようです。
彼を使う大名たちが、最後には金沢の前駆けがこのを迎えて、そしてそれなりの身分と保証を与えて、そしてやったそうですけれども、しかしそこも長く居ることができない。
彼は他のクリスタルたちに簡単な船に乗せられて、そして間に間に流されて行く。そして流されて行って、間無しに病で持って、そこから彼は滅されるという、そういう生涯を送った人ですが、
しかしその面とそれは、この聖書の言葉のように、彼はそのこの聖書の言葉の通り、人に従うよりは神に従う道を私は喜びを持って選ぶ、そう言ってその道を歩んで行った。
この言葉ももとよりとなったのが、今読んでいただきました、そこに書いてある出来事です。
それが一つはこの十四節の、十三節から読みますと、
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と書いてあります。
本当に痛快なこの言葉ですよね。
自分たちの権限を持って、そしてこれらの言論を封じ落とした当時のこの指導者たちは、彼らのこの大惨さを見た時に、それを阻止することはできなかった。
そしてそこには、彼らによって救われた、癒やされた、生きた聖人がそこに立っているので、どんなにこれを屈返し、あるいは反存し、あるいはそれを除外しようとしても、それは人々に、人々を説得させることにはならなかったということです。
この救われた人が、葦名でいつも福祉の物でもって人々に物恋をして生活しておった人が、癒やされて、しかもその癒やされたこの事実を、ペトロとユカネと一緒にそこに立って、そのことを見せている。
どんな言葉よりも、そこにいつか表人として立っている彼のこの立場、これは権力者のどんな言葉よりも説得力のある言葉だったのです。
ですから教会というのは、信じて救われた者がそこに一緒に居るということが、これが大きな教会にとっての周囲に対する力強い宣教の力踏まり。
そしてまた、大勢の人々が関心を持つ一つの手段と言いましょうかね、説得力を持つ、そういうことになっていくわけです。
ですから、救われた人が一緒にそこに集い、そして礼拝をするという、今朝申し上げましたけれども、これは神様がそこを通して、そこから新たな働きを始めなさい。
申し上げましたように、この四章に入って、そしてこの一人のこの人の救いが、やがて五千人ほどの人々が救われていく一つの大きなきっかけになっていくわけです。
一人が五千人というのはですね、もう考えられない。しかし聖書がそこに記されている限りでは、この言葉らがなされないはずがないと、私たちは信じてこの出来事に根拠を置いていきたいと、そう思うんです。
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私は、今朝も話しましたように、教会が教会から始める、彼は救いに預かったクリスチャンたちが、二千年の長きにわたって、しかも神様を礼拝するという、ただ一つの事柄に、クリスチャンたちがいつの時代でもその姿勢を変えずにこれた。
変わらないでその信仰を明かしていくかということが、今日のこの礼拝、あるいは教会というものの存在なんですね。
私は改めてですから、一人の人が救われて礼拝に集うという事柄が、こんなにまで周囲に大きな動きを表していく。
私が以前に放出しました、岡山にあります大原教会という、私どもがおりました時は、まだ電車も通っておりませんし、高速道路も今までこそ西洋というところから高速を降りて行ったらすぐ近くなんですけれども、その中国道もない。
それこそ姫路から新規バスで乗って、特急バスですけれども、しかし4時間ほどかかって3つぐらい峠を越えて行くという、そういうところです。
そこに小さな教会がありました。ありましたというより、今でもあるわけですね。設計者は、こういう山への教会だから、北欧風の教会ではどうだろうかということで設計してくださったそうです。
確かに田舎にしか珍しい、そういう教会堂がそこに建っております。この教会がそこに今も存在しているという事の一つは、そこに助産婦をなさっていた一人の婦人がおられまして、その方がお医者さんであります、そのお医者さんのところに助産婦さんとしている時に呼ばれて、お手伝いに行く。
昔のことですから、50年目のところではないですね。今で言うならば100年にはなっていないでしょうけれども、当時津山に牧師さんがおられて、そしてその大原でもって周回しようとすると、その津山から馬に乗って沿って牧師さんがわざわざ大原にまでやってきたそうです。
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家庭集会をする。その母さんというこのお医者さんが住むので、いつもお手伝いに行っておりますから、この石丸さんというこの彼女もそこにいろいろとつながりがありますから出るようになった。そこで初めて福井に触れたんですね。戦前の話です。
戦後まなしですが、この夫人がせっかく私がいただいたこの家様のことをこの大原の人たちにも知ってほしいということで、家庭集会を始めなさった。ことの最初は本田先生が係りを持ったのでしょうか。
その後は橋本達美という今の東張間中央教会、前身の尾上精愛教会という教会がありました。その教会の牧師さんで橋本達美という先生がおられましてね、その人が関わりを持って、そしてずっとこの閣側から大原まで行って家庭集会を月に一回はかる。
その程度ですけれども、その家庭集会がだんだん人が集まるようになって、そして新学生が応援に行く。そういう形から教会として教会道を建てようというのがこの皆さんの中に起こってきて、
そしてやがて教会が、そうですね、私が行った年が1947年、とにかく50年、60年近く前の話ですね、しっかり昔の話になっちゃいますけれども、申し上げたいことはね、
家庭集会で旗で敷いていた一人の婦人がイエス様を信じた。そしたら戦後、このイエス様のことをこの近所の人たちにも伝えたいというところから一人の先生を招く。そしてやがてそこへ新学生も手伝いに行くという形から少しずつ少しずつ教会が成長してきまして。
そしてやがて一人の子の牧師を迎えるようになってきた。その頃に私は卒業しておりましたから係を持って、そしてその教会で奉仕をするようになり、またその教会ができて、まなしにそこで結婚を引き上げた。
そこにはいろいろあるんですけれども、両親が初めて行ったときに、いったい山奥に、こんな山奥に本当に教会ってあるんだろうか、娘が問いでいるけれども、どこなんだろうかという、そういう不安が、後で聞きましたらそんな思いがあったそうですけれども、しかしそこでもって私どもはその働きを5年間奉仕することができました。
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しかしその教会のことを思うとですね、一人の人が救われるということが、やがて一つの教会を案内ながらそれが生まれてくる。そしてそこからさらに広がっていって、献身者も起こされたりして、そしてこの教会として小さくはありますけれどもね、良い実を結んできているというこの証を私もそばにおってさせていただきましたけれども。
説得というよりもね、やっぱりそういう古いこの町ですから、そういう中では何よりも人間関係においての信頼というものが必要なわけですよ。福音を説く前にそれが大切、求められるんですね。
ですからそういう関係でもって非常に良い人間関係が生まれておりましたから、やはりクリスタントになる人たちもそういうふうにして少しずつ少しずつ増えていったんでしょう。
昔もそして今日においても、そこに一人の人が救われ、その救われた人が教会の赤人として立たされていくときに、神様はそれを用いださって、後々にまでその教会というものをそこに立てなされた。
この大原というところは別の面で大変有名なところでありまして、私がそこに救わされてきましたときに、一人の方から吉川英二の天の薪、地の薪、死の薪か、とにかく分厚い冊子をくれて、先生この薪で伝説しようと思ったら、この吉川英二の宮本の冊子を読み出さないと。
読まれて一生懸命それを読みました。あそこに出てくる地名がそのまま今もその大原の地名として今も残されておりますし、そしてだんだんいきますとですね、ちょっと話がずれちゃいますけれども、あそこに出てくる本院でまた入ってですね、ろくでもない息子がおるわけですけれども、その流れの人もおるんですよ。極刑。
それから、暴刑ではありますけれどもね、宮本武蔵の流れを汲む人もおるんですね。宮本武蔵といったらいろんなところに行きましたからね。しかし、生まれたところはその大原の宮本というところで。
そして、彼はそこで中に伊藤陸が読み出したとか、吉川英二の宮本武蔵に書いてあるような事柄がすると、そこに伝説のようにして残っております。
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私はそんな田舎で、しかも交通機関も何にもないそういうところでも、ひとりの人が救われることによってひとつの教会が生み出されるようになった。
私たちの教団にはいくつかそういう教会があるんですよ。中川先生が申し出した川本教会ね。元は沢谷教会。そこもやはり吉川英二さんのその方が救われて、そして高橋虎夫というひとりの青年が救われ、やがてひとつの教会が生まれる。
その高橋先生は今引退されておりますけれども、川本の教会の協力牧師として、もう救急事態ですけれども、今もそこで奉仕なさっておられる。
その教会も、御遺産はひとりの御産婦さんが、その人が信仰を持つことによって、やがて水面の輪が広がるようにして衆議を呼んでいって、そしてこの二つの例は、最初に申し上げましたように、
やはりその人たちの人柄と言いましょうか、信仰からにじみ出るそういったものが、非常に大きな説得力となって、誘ったときに、「じゃあ私も行きます。私もそれじゃ滑ってください。」と言って、あす御礼になって、そしてこの二つの教会も、それぞれ御遺産を同じようにするんですけれども、今日もそれぞれの教会で奉仕がなされております。
教会は、神様が人を通してなかった事柄を、それこそ私たちとしては、自分の見たことを聞いたことを語らないわけにはいかない。教会はいつもそれなんですね。
教えとしてのそれよりも、自分に与えられたキリストの救いを伝えざるを得ない。キリスト教ではなくして、キリストその方を私たちは、この方を明かしするということによって、今日まで教会はその使命を果たしながら、そうしてやってきました。
この説得力というのは、彼らが無学の定人だと軽んじた、そういう最高議会の人たちを、それこそ説得させて、もう二度かが出ないぐらいに、彼らは返す言葉もないぐらいに、この二人の前には、それこそ自分たちの権力、あるいはそういう権勢、
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それも何の幅も聞かない。ただ脅した上で彼らを訪問した。それぐらいしかできなかった。教会の勝利、それがそこに記されている。そう申し上げてもよいかと思います。
私たちは、このペトロとヨハネの大探査、そしてこの二人と共に、おる傍らにおる、彼らによって救われた、もう一人の第三の男と言いましょうか、その三人の、この明かしが、教会をして教会からしめ、そしてまた人の働きが、そこを基にとしてさらに広がっていく。
最初救われた時はそんなにまで、この足の屋の人は思ってもいなかったでしょう。人の世話にならなければ、その美しの門にまでたどり着くこともできないような人でした。
けれども、イエス・キリストによっていらされた彼は、今度は自分の足で持って立ち、または自分の言葉で持って、自分の姿で持って、反対する人々の前で、ペトロヨハネと一緒に、この宣教の噂を彼は成してきた。
そして、申し上げたように、人に従うよりも、神に従うこそが、私たちの本分だ、最も大きいことだと言って、それを述べてきた。それぞれの時代に、当時のこの権力というものが物言い出して、そして教会は沈黙せざるを得なかったという時代があります。
日本においてもそうです。戦時中、教会はそういう時代を過ごしました。そして日本の教会は、一つの日本キリスト教団という中にまとめられて、そしてそれ以上のことはしてはならない。
大勢の牧師さんたちが投獄され、帰らざる人となった。あるいは、クリシャンの中にもそういうことでもって、ゆながら巡教していった。教会はそれ以上ものが言えなかったのか。
しかし、確かにそういう時代はありましたけれども、その後、教会は教会として、その選挙のその子にもう一度加わって、今日にまで至っております。
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もう10年以上になりましょうか。映画としてはもっと前ですけれども、映画は炎の乱丸という、あるいはご覧になった方もおられるかわかりませんが、私も梅田の映画館でそれを見ました。
もう、やはりキリスト教一曲のそんな感じの映画ですよね。ですから、今の人たちに果たしてそれを受けられるんだろうかと思って行きました。満席でした。そして、炎の乱丸という映画はその後もロングラウンドを続けて、そして見る人たちに大きな希望を与えさせるでしょうかね。
一般の評価は、やはりキリスト教信仰とは言わないでね。その人の一玉、その人の一つに欠けた信念というのが、こんなにまで今の人々の共感を呼ぶようになった、あるいは共感を与えた、そういう論評をそこで表しておりました。
その主人公でありますエリック・リデルというこの選手は、彼は英国を代表して、彼は100メートルのランナーとしてオリンピックに出る。そして、そこには金メダルが約束されたぐらいに彼の記録はずっと残っているわけですね。
ところがその時代はオリンピックが始まって、そして行った時にこのリデルは一つの事柄に迷ってしまう。ちょうど自分が出るそのレースの日は日曜日だった。
彼はそこでもって自分は英国から送られて、そして来ているけれども、私のなぜ走るのかというならば、神様の栄光のために自分は走る。それでもって今日まで来た。しかしそのお方を代理において走ることを選んでいいんだろうかという、そういう迷いが来る。
で、この団地をはじめ、当時皇太子もそこに来て、そしてリデルを何とかあなたの責任は100メートルでもってこの金メダルを取るのが、それがこの大英国への恩返しだと説得するんですけれども、彼はやはりそれができなかった。
それを見兼ねたもう一人のハロルド、エイブラハムという、この人はイゼネア系の英国人なんですが、彼は400メートルで金メダルを約束されているようなこの人で、リデルは100メートル、そしてこのもう一人のハロルドの方は400メートル、この二人の金メダルが確実化されていた。
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ところがこの彼は、じゃあ私はクリスチャンじゃないのでね、じゃあ私が代わって100メートルに出よう。それでこのリデルは、じゃあ私が400メートル。
本当はこんなことは、同じランナーでも100メートルと400メートルでは違いますから、両方ともこのメダルを失うという可能性の方が高い。
でももう一人の人のそういう生き方に、このエイブラハムも共感して、そして、じゃあ私が代わってその日曜日やる。その代わり私が引き寄せるその時は、あなたにやってくれと言って。
で、この二人ともそこで持って金メダルを取るわけですね。そういう映画なんですね。で、二人の友情とか、その一人の人の信念というものがそこで持って背の抜かれていく。一般に言うその信念。
私たちがクリスチャンとして、そしてその信仰者としての生き様というのを非常にそこで持って教えられたわけですね。で、昨年ですか、最後のランナーという映画ができたそうですよ。
で、私はそれはまだ見ておりませんけども、実はこのエリック・リエルというこの選手は、彼はオリンピックが終わって、もともとこの人は上海かなかお父さん達と一緒にそこにおった時に生まれて育ってきた。
で、彼は自分はこの中国の人々に対してこの選挙への信念があるということで、彼はいろんなスポンサーがですね、これからのスポーツ界でもってということで持って申し出たそうですけども、全部お断りして、彼は選挙主として中国に渡ってきた。
そしてその選挙に来たそのところでもって、彼は脳腫瘍でもって亡くなっていくんですが、その日本軍がその上海や天津やそういうところをこの制覇しておりました時のそのある捕虜収容所にリテルがですね、捉えられて、そしてそこにおりました時に、
その両親と一緒に中国に来ておりました一人の少年がですね、その収容所でもってこのリテルさんと出会った。この少年はもう日本人に口だけで凝り固まっていた。
もう見るところにおいても日本軍がですね、もうどんなに悪いことをしているかということを思うと、もう気持ちは収まらない。いくか自分も今度は控えしてやろうというそういう気持ちだった。その時にですね、このリテル選手と出会った。
一緒に走ろうと言われて走った時もあったそうですけれども、最後にですね、私の靴をね、あれを記念にあなたにあげようとしてもらったそうですけれども。
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この少年こそ、その後、主に38年40年近くですね、北海道であるとか、それから千葉であるとか、そういうところでもって選挙区として、日本での選挙区としての働きを全うされて、そしてこのアメリカに戻ってきました。
この人がですね、闇に輝く光として、そのリテル選手との出会い、その本がありましてね、それを私が改めて読み出した時に言うならば、その後のリテル選手のそれを、それは今映画になって、そして昨年始まったそうですけれども。
この少年はリテル選手から、どんなことがあっても人は恨んではならない。神様が私たち全ての人に与えなさったこの素晴らしいエスティンスの救いをね、全ての人にこれを伝えなければいけない。私はそのためにこの中国に来た。
私の生涯はここで終わるかもわからないけれども、それが神様が私に委ねてくださったこの日での責任。それがですね、少年の心をとらえていった。
で、アメリカに帰りましてね、そして改めて彼はそこで、今度はクリスチャンとして、それで日本に行くと言って、日本でこの選挙を人々の障害のほとんどをですね、全く抑えた方です。
そういう形でね、一人の人が人に従うよりも神に従うという、その貫いた信仰の姿勢が、やがて一人の固くなった少年の心を開き、そしてその少年をして二人この選挙士として、この日本においてのその働きを継続するという。
私は、一人の人の働きというのは、どんなにそのように大きな働きとして身を結ぶのか、ビデルが一人の少年に対してのその感覚と、そしてまた信仰というものを継続させたということが、後の日本においての大きな刺客となってこの日に伝わっている。
私は最後にもう一つのことを申し上げて終わりたいと思うんですが、大阪でこの牧師たちのための一日研修会というのがありましてね、百人ほど牧師が大阪であるホールを借りて、そして講演会があった。
フランシー学校のその教会経験をそういう立場で持って教えなさっているこの先生が、その最初に私たちに問いかけたのは、皆さん方は最初どういうことがきっかけで教会に行くようになったのでしょうかという、あるいは前に一度そういうことを話を聞かせたのかわかりませんけれども、それでいくつかの問いかけがありました。
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教会で映画があるので教会に行くきっかけになったとか、あるいは音楽会があるとか、あるいはバザーがあるとか、あるいは特別な集会があるとか、そういうことで誘われていった。
そういういくつかの例を挙げて、そして教師を求めたところがそれぞれありました。
最後に問われたのは、誰かが自分を誘ってくれたという、それがきっかけで教会に行くようになったという人はどのくらいおりますかと。ほとんどがそうでした。
私もそうですよね。ほとんどの人が、誘ってくれた人がいたので教会に行くようになった。そういう人がおってくれたのでイエス様を信じるようになった。
それぐらい私たち自身が誰かによって導かれ、誰かの手助けによってイエス様を信じることができるようになっていった。
もちろんそこには友達もおりますし、家族もおりますし、親であるかもわかりませんし、あるいは子供さんが導いたのかわかりますが、
誰かによって自分が教会に行くきっかけを得て、そしてイエス様を信じるようになったというそういうケース、これが圧倒的に多かった。
それぐらい私たちは誰かによって導かれる。そして今ならば私たちは誰かを導くことによって、同じように助けに預かる人々がそこに起こされていくという、これは紛れもない事実です。
ここでもですね、そういう意味に皆さんがでも聞いていたならば、あるいはそれが一番多いかもしれませんよ。
誰か家族が誘ってくれた友達が誰かと、そういう人間関係で教会に行くきっかけを得た人は何人おりますかと言ってあげたならば、おそらくほとんどのそうだと思います。
中には特例はありますよ。あの刑務所で連絡しております、あの選挙主。彼は刑務所で渡すように救われましたと言って、ある時総理赤字をしたのでみんなで大笑いしちゃいました。
そして後で、あの先生今どこに行ってますかと言って、また刑務所ですと言って、一般的にわからない人はね、また何回やって刑務所に入ったんだろうかと思うかわかりませんけれども、名前出てきませんけれども何と仰ってました。
英国の選挙主で、日本連動隊の選挙主ですけれどもね、覚えてませんかね。ブラウン選手。この方がね、ここに入れずになんですよ。元テロリスト。
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で、いろいろ問題があった時に、テロリストは、そういう経歴のある人は国外追放という事柄で決まったんですよ。ところがですね、その時に協会が、それこそブラウン先生がいろんな刑務所を回ってやっておりますから、その刑務所の署長たちがですね、何とかこの人は日本実をやってほしいという困難事をですね、当時の女性の法務大臣に送ると。
私も証明しましたよ。そしてそういうようなことが起こりまして、彼は英国に帰らずにそのまま日本に行くと思って、そして今もパクマの方でですね、連動しておりますけれども、この人は刑務所で救われた。
ベンハーという英語を見たそうです。それから刑務所に行った時に、教会に行ってみようと思って。これは特別な例が分かりません。けれども、誰かが誰かを導いたということで、私たちが今日あるんじゃないでしょうか。
この出来事は、そういう一つの生きた例を、証を、私たちにしておりますし、またイエス様は、こういう傾向を通して私たちを用いようとされているんだということを、私たちは今日改めて理解を受けております。