00:07
みなさん、おはようございます。
今日も、礼拝にようこそ。
それでは、メッセージに入る前に、隣の方々と挨拶しましょうか。
はい、そうしましたら、一言お祈りさせていただきます。
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
神、主よ、この朝も我々に、主よ、あなたへの信仰を我々にお与え下さいました。
主の御前に御礼をし、下り下って、恵みを切なくこの朝となりますように。
一人の一人の魂を、主よ、変えりみて、また癒やして、なしなって、
本当に我々の信仰が、今日学ぶところの絵の具のように、
イエス様のように、引き分けて下さいますように、心からお願い申し上げます。
感謝して、真摯待ち望んで、イエス様の御名によってお祈り致します。
おめでとうございます。
はい、今日は、荘石、それからヘブル人への手紙の御言葉から、
神様を喜ばせる信仰者、絵の具という題にしまして、
共に恵みを受けたいと思います。
清書には、二千名以上の人物が出てきますけれども、
その中の一人、今日の絵の具は、彼についての記事は、とても短いですね。
しかし、とても強い恵みとインパクトを、私たちに示していると、そういうふうに思います。
今日、荘石において、絵の具について、一言でこのように言っています。
絵の具は、神様と共に歩んだ。神と共に歩んだ人、その人が絵の具です。
03:00
そして、彼は、この水上で、手を水に、手に引き上げられた、少ない人数の一人でもあります。
ですから、今日頂きました、荘石、それからヘプロビテの手紙が示している、絵の具の人生は、
神様を愛し、神様を経験し、神と共に歩む人でした。
今日、絵の具の人生と彼の信仰として、恵みと共にチャレンジを受けたいと、そう願っております。
今日もヘプロビテの手紙の5節を、もう一度、ご一緒にお読みしたいと思います。
ヘプロビテの手紙、11章、5節。
ご一緒に。
信仰によって、絵の具は、死を見ることのないように映されました。神に映されて、見えなくなりました。
映される前に、彼は神に喜ばれていることが明かしされていました。
ですから皆さん、絵の具はどのような人だったのでしょうか。
それは、5節の、それから6節から分かることは、絵の具は神様に喜ばれている人でした。
神に喜ばれている人。
この日本語の聖書は、神に喜ばれていると訳していますけれども、
このように訳されてもよいのですが、神を喜ばせていた。
神を喜ばせていたとも訳されるの、この言葉であります。
つまり、絵の具から教えられる信仰とは、自分自身を喜ばせるのではなく、神様を喜ばせる信仰なんです。
皆さん、いかがでしょうか。
普段、神様を喜ばせているでしょうか。
自分自身を喜ばせているのでしょうか。
聖書は、確かに語っています。
神を喜ばせることが、誠の信仰であると。
ですから皆さん、私たちが捧げる礼拝とか、
説教も含めて賛美、あるいは奉仕、あるいは献金、すべてが神様に喜ばれるものでなければ、ある意味で捧げる必要もありませんし、
そういうふうに捧げてもいけない。
これらすべては、自己満足のためにあるものではない。
自分を喜ばせるそのためにあるものではなく、
06:00
神のためにあるものであって、神様を喜ばせるためにあるものであって、
神様に捧げられる生贄でなければならないのです。
これらを神様が喜んで受け取ってくださるということではないでしょうか。
絵の具を持っていた神様に喜ばれる信仰、神様を喜ばせる信仰はどういった信仰なんでしょうか。
6節をご覧ください。
セブル11の6節もご一緒に読みたいと思います。
ご一緒に。
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
求める者には、報いてくださる方であることを信じなければならないのです。
アーメン。
まず第一話、絵の具の信仰は、神様がおられること、それを信じる信仰でした。
神様は今も生きておられます。
生きておられ、働かれる神様です。
神様は全知全能なる神様です。
神様には不可能なものは一切ありません。
この真理を信じて、信じている通りに生きることです。
そして、この神様を日々経験する、その恵みに預かることです。
死んだ神ではない。生きて作った神ではない。
生きておられて、私と共に歩んでおられ、助けてくださる。
そして、私の人生の中に介入してくださって、私の祈りを助けてくされる神様。
その神様を味わうこと、神様を経験することこそ、神様がおられることを信じる信仰ではないでしょうか。
ある姉妹の若しです。
本当に生きておられる神様、祈りが聞かれると経験していた姉妹の若しなんですけれども、ちょっと読ませていただきます。
会う度に信仰の話をする学生時代からの友人がいるのですが、
彼女は神の導きなどこの世にはなく、全てが無理あると仏教の教えを信じていました。
私とは神の話をしたり、御言葉を送ったり、聖書の話をしたり、一度一緒に地元の教会にも行きましたが、受け入れられないまま3年過ぎました。
目に見えないものは信じられないし、この世も人類も偶然の産物でしかないと固くなった彼女ですが、
09:04
今大きな試練にあっていて、数日前から電話がかかってきていました。
連日話をする中、今日突然神様の光に照らされ、みるみるうちに彼女の目から目が開かれて、
今まで気づかなかったことを泣いて悔やむため、神の存在を認めて感謝するところに導かれました。
神様、あいつらただし一人一人の助けを求める叫びを聞かれた、との今日の御言葉に見事なほどにあっていて、生きておられる神様に感謝しました。
これからも御言葉を伝え続け、イエス様を救い主だと確信する日を増し求めたいと思います。
友人と私にとって感謝と感激の一日となりました。
皆さん、神様は生きておられます。
この生きる日を日々経験し、感謝し、感激することが、まことの信仰ではないでしょうか。
絵の具の信仰の二番目、それは六書に書かれているように、神を求める者には報いてくださる方であることを信じなければならない。
つまり、絵の具は皆さん、神様は信仰を持って求める者に報いてくださる方だ。
それを信じる信仰です。
単純に神様がおられるだけを信じるのでは十分ではないでしょう。
神様は報いてくださる方。
つまり、票を与えてくださる神様ということなんですね。
皆さんよく考えてみたら、これはとても革命的な言葉だと思います。
日本中に石で火で作った軍曹の神が数多くあります。
その軍曹の神は神ではないんですけれども、私たちに報いてくれることはできません。
神なものであるからです。
ただし、生きる神様は働いておられ、人格を持っておられますから、私たち、求める私たちには報いてくださる方である。
そして、報いてくださる主と共に歩むこと。
そして日々、「ああ、主がこれも報いてくださった。これも助けてくださった。これも聞いてくださった。」と明かしできる信仰を持たなければならないんです。
このように神は生きておられ、自分の生活に介入してくださって、自分を良い道に、緑の牧場に導いてくださる神様。
12:09
時には誇りを与えてくださる神様。間違った時には悔やかにさせ、そしてよくやったと賞を与えてくださる神様。
その神と共に歩むこと、それが絵の具の信仰でした。
大きく2番目、絵の具は神と共に歩む信仰の一つでした。
今日の荘石を見たら、絵の具は、メトセラを生んでから300年、神と共に歩んだと書かれていました。
ですから、その以前はどうなったのか、それは私たちには分かりませんが、少なくとも荘石5章22節によりますと、
メトセラを生んで持ち、300年、神と共に歩んだ。絵の具の言葉を神と共に歩んだと、5節にも6節にも2回も出てきます。
この神と共に歩むという言葉の語源をちょっと調べてみたところ、それは自分の足と神の足を一緒に縛って、
そして縛っておいて、一緒に行くということです。ですから、神の足が行くと、私の足もそこに行くんですね。
神の足がそこに留まると、私もそこに留まること。それが、共に歩むという言葉の意味なんです。
つまり、神様がおられるところにはいつも、私もそこにおる。神様が迎われる向きに、方向に、私もそこに歩んでいる。
神様が、ここに泊まりましょう。そしたら、私もそこに泊まる。それが、共に歩む信仰なんです。
ですから、これは注意標的なものです。実際的な言葉です。神の御言葉があるところに、私がそこにおる。
神様が喜ばれるところに、私もそこにおる。神様が喜ばれる礼拝に、私もそこにおる。これが、共に歩むという言葉の意味であります。
絵の国のように、神様が共に歩む人は、神の関心が私の関心であります。イエス様の目が見ておられるところを、私もそこを見ておる。
生命の心が注がれるところに、私の心もそこに注ぐ。これが本当の意味で、共に歩む信仰ではないでしょうか。
15:04
皆さんの最近の関心時は何でしょうか。どこに皆さんの情熱と関心とエネルギーと考えがそこに向いているのでしょうか。
絵の国は、神と共に歩みました。神様が見つめておられるところを、絵の国も見つめて。そういうふうに歩む信仰者になりたいですね。
もうちょっと、この神と共に歩んだという意味を、もうちょっと深く掘り下げて、一緒に考えていきたいと思いますが、そのために、
まず、九百世書のアモス書がありますが、そこで開きましょう。アモス書三章三節。1501ページです。
よろしくですか。アモス書三章三節を一緒に見ましょう。私が一緒に読みましょうか。
二人の者は仲が良くないのに、一緒に歩くだろうか。
つまり、これを共に歩むという意味に考えてみたら、同意なくしては、あるいは仲直り、和解なくしては、共に歩むことはできないという意味です。
例えば、夫婦も、あるいは友達も、家族も、仲直りをしていないと、心が一つになっていないと、仲が良くないと、共に歩むことはできないですね。
ですから、エマグが神様と共に歩んだという意味は、それは根本的に彼が神様と和解した、和解されたという意味です。
皆さん、私たちは本質上、神の怒りの子でありました。
罪を持ったまま生まれた存在であります。
ですから、イエス様の十字架の父親によらなければ、神と和解できない存在です。
ところが、イエス様の十字架の子によって、私たちはイエス様と仲直りされて、そして、神と共に歩むことができたんです。
ですから、これを言い換えて申し上げれば、イエス様を通してでなければ、新しく生まれなければ、神と共に歩むことはないということであります。
2番目、神と共に歩んだという言葉は、神の水準、神のレベルで生きたということであります。
18:09
レベルが高い、低いと言いますね。皆さん、絵の具の人生の水準、レベル、彼の信仰のレベルは、神のレベルでした。
絵の具は、神の信仰、神様の人格に似ていたと思います。
彼が神の御言葉、神の人生を支配求めていたものですから、彼の信仰のレベルも、人生歩みのレベルも、神のレベルに達していたということではないでしょうか。
神様が見られる水準を絵の具も見る。神様が夢見る水準を絵の具も夢見る。
これは、人間のレベルに、自分のレベルに、神の信仰やそれを引きずり下ろすのではなく、神のレベルに自分を引き上げていただくことなんですよね。
これが、神と共に歩むことであります。
例えばですね、夫婦もですね、夫あるいは妻がですね、いつも私に合わせて、私に合わせてって言ったら、そしたら何が起こるでしょう。
喧嘩が起こる。自分の水準に合わせて、合わせて、合わせて、喧嘩になるわけなんです。
絵の具は、神のレベルに合わせて歩むことです。
三つ目、神と共に歩んだという言葉の意味は、神に従った、従う心を持っていた、こういう意味であります。
皆さん、私たちが神の前に、あるいは人の前に、自己主張ばかり言うならば、神と共に歩むことはできます。
その人と共に歩むこともできないんですね。
聖書の人物を、その部類を二つで分けるならば、神に従った人、従わなかった人に分けることができると思うんですね。
その代表的な人物が二人あると思います。
旧約聖書に出てくる、サウル王、それからダビデ王ですね。
サウルはですね、神様にせっかく油を注がれただけだったのに、神様に従わなかった。
それで、彼の結末はどうなったんでしょうか。
悲しいことですけれども、神に捨てられてしまったんですね。
21:00
ダビデはどうだったんでしょうか。
いつも神様に従うものでした。
しかも、あの自分を殺そうとするサウル王にも従うものでした。
だから彼は復讐され、持ち入られたのではないでしょうか。
神様にも、私はいつもですね、この従う信仰を持っていなければならない。
ある意味でですね、当然なんですね。神様に服従しないと、神様と共に歩むことはできないんですね。
つまり、謙遜な者、従う者が、神と共に歩む人である。
だから、聖書は正しくこのように語っています。
神様は高慢な者を知りづけ、謙遜な者に恵みをさづけると語っています。
高慢な者は、神様を信じることも、申し出ることもありません。
謙遜な人が、絵の具のように、あるいはダビデのように、祝福されます。
逆に行けますと、パオロになったサウルは、最初はどうだったのでしょうか。
彼はですね、もう天を尽くうほど高ぶりの者でした。
キリストを迫害し、キリスト社を迫害する者でした。
自分がやることは、もう当時だと思ってですね、殺意を持ってやり続ける、やりまくる人でした。
その時、イエス様は、彼に出会って下さって、彼のその高慢さを砕いて、
彼はそこで砕かれて、謙遜な者になって、そして神に申し入られる人物になったのではないでしょうか。
謙遜な者が、神と共に歩むことができます。
4番目、神と共に歩んだという言葉の意味は、
神に似ているということであります。
簡単に言いますとね、神様の姿、神様の人格、神様の品性、神の御言葉、
それに自分の考えも、姿も、人格も、品性も似ている、似ることであります。
エノクは、そのようにですね、300年、神と共に歩みました。
神に似るものでした。
いつも神の考えを抱き、神の心を抱いて、生きていて、死を見ぬことなく、天にしてやられました。
何と素晴らしい人生でしょうか、皆さん。
24:00
皆さん、あたし達はどうでしょう。
あたし達の伝道、人格、あるいはお顔、あるいは普段の姿勢は、
イエス様に似ているでしょうか。
あるいは、どんどんどんどんイエス様に似てきたんでしょうか。
よくも言いますけれども、皆さんがイエス様を信じるあの頃の20年、30年前と今と比べて、
本当にイエス様のように輝く人生に変えられているんでしょうか。
皆さんを見る人々が、皆さんに会う人が、
ほんま、あなたはイエス様やと言われるほど変えられているんでしょうか。
イエス様の香りをしているんでしょうか。
絵の具は、メトセラを生んで300年、神と共に生えました。
そこには一つの、とても大事な理由がありました。
メトセラという言葉の名前の意味は、
終わりが来る、簡単に言いますと、終わりが来るという意味がそこに含まれていました。
実際に、あのメトセラが、一番長い人なんですよね。
彼が死んだ年に、ノアの大行進が起きました。
ですから、イエス様のイタリア人は、子供の名前をつくる時に、
親がつけたい名前をつくるんじゃなくて、
神様から示されたまま、名前をつくっている。
ですから、絵の具は、自分の子供の名前ですね。
終わりが来る、そんな子供の名前は皆さんつけないでしょう。
例えば、終わり子とか、姉妹子とか、そんな子供はつくらない。
名前は姉妹。ところが、終わりが来る。
だから、少なこともこのメトセラが生まれてから、絵の具は、
最後が来る、神の審判が必ず来る、その絵がいつなのか知りませんが必ず来ると、
彼はいつも、最後、終わりを待ち望みつつ、終末論的信仰を持って、
だから彼は、神と共に歩まざらをなかったんじゃないでしょう。
もしですね、一年後、イエス様が再現されますよ。
もしですよ。私、大好きな人でもありますね。変な星がいますから。
もしそうならば、今日から皆さんの生き方はどうなるのでしょうか。
全く変わると思いますね。
27:02
今まで風には、生きなんですよ。絵の具がそうでした。
そして実際に、神の裁きが始まったわけなんですね。
私たちも日々送るときに、日々歩むときに、今日が我々の人生の最後だ。
今日のこの礼拝が、神の前に捧げる最後の礼拝だ。
今日の祈りが、神様に捧げる最後の祈りだ。
今日のこの交わりは、神様との前の最後の交わりだと思うなら、どういう風に行うのでしょう。
絵の具の寸法は、根本的にはそこにありました。
皆さんどうか、絵の具のように、
今日の一日を、今日のこの礼拝を、今日の捧げ物を、
私の人生において最後の物であるかもしれないと、
そういう風に終末論・信仰を持って捧げるようではありません。
絵の具は、神と共に歩む人です。
彼は300年、緩きのない信仰を持っていたに違いないと思います。
それを共に歩んだという言葉には、ずっと一直線歩み続けたという意味があります。
ある本で読んだ、こういう文章があります。
信仰がなぜ揺るがされるのか、その理由。
人々は信仰が揺れてしまう理由を、このように説明します。
ある人に傷つけられたから、環境が難しから、
誰のせいだ、あるいは願いが叶えられたからと言います。
しかし、本当の理由はここにあります。
1.キリストを愛する心が小さくなるときに、私の信仰は揺れてしまいます。
2.聖像読み、黙想する時間がなかったり減ってしまったら、私の信仰は揺れてしまいます。
3.イエス様と一対一の真剣な交わる時がないとき、私の信仰は揺れてしまいます。
4.御言葉、説教を聞く時間をないがちろんにするとき、私の信仰は揺れてしまいます。
5.真実な信仰の人々と交わりをしないとき、私の信仰は揺れてしまいます。
6.人や環境だけ見て神様を見上げないとき、私の信仰は揺れてしまいます。
皆さん、本当にそうではないでしょうか。本当にそうなんです。
皆さんは神と共に歩んでおられるでしょうか。
30:04
皆さんの心は神様の心でしょうか。皆さんの歩みが神の歩みなのでしょうか。
どうか皆さん、絵の具を持って、神と共に歩むように。
そして、神様から素晴らしく彼が味わったように、
私たちも皆さんも絵の具のように、神と共に歩むクリスタルでなりたいと。
皆さん、神と共に歩む信仰、これこそ神様に喜ばれる信仰。
神様に喜ばれる信仰、神様を喜ばせる信仰であります。
お祈りしましょう。