1. 名谷教会 podcast
  2. 2015/11/22:聖日礼拝(旧音源)
2015-11-22 30:22

2015/11/22:聖日礼拝(旧音源)

2015/11/22 聖日礼拝(旧音源)




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改めて皆さん、おはようございます。聖日礼拝にようこそいらっしゃいました。
それではですね、メッセージに入る前に隣の方々と挨拶しませんか。
ようこそいらっしゃいました。よくいらっしゃいました。
それでは一曲お祈りいたします。
神様、数えてみよ主の恵み。本当に三明の書き通りに、今年一年間も神様が私たち一人一人を守って祝福してくださったことを感謝いたします。
今から神の御言葉に耳を傾げます。どうか一人一人の心の中に主が語りかけてくださいますように。
神様の御名によってお祈りいたします。
アーメン。
今日は今年一年間の恵みを感謝する修学関西礼拝、それからスイエス合同礼拝でした。
今年ももうひと月、一ヶ月しか残っていませんが、今日の礼拝が毎日の礼拝そうですけれども、一年間の神様の恵みを思い起こして、そして感謝する礼拝でありたいと願っております。
それから先ほど祝福の祈りをさせてもらいましたけれども、子どもたち一人一人が本当にイエス様を信じる子どもになって、そしてこの神戸とこの日本とこの世界を担う神の素晴らしい人物になってほしいなと思っております。
どうか皆さん、教会学校のために、子どもたちのためにも、どうか皆さんが覚えてお祈り下さればと思います。
今日は先ほどお読みいただけました御言葉から、先行の模範として、空の鳥、物、花という体を持って共に恵みをお受けしたいと思います。
皆さんは皆さんにとって最も大事で最も大切なものは何でしょうか。
イエス様は私たちにこのように言われました。
二十五節ですけれども、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また体のことで何を食用かと心配したりしてはいけません。
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命は食べ物より大切なもの、体は着物より大切なものではありませんかとあります。
ここに命という言葉が出てきます。
ちょっと勉強っぽく申し上げますと、このテーマが書かれている言葉はギリシャ語といいますが、そのギリシャ語には命を意味する言葉が二つあります。
一つは私たちのこの身体的生理学的な命を意味するヒオスという言葉があります。
それと区分してプシュケという言葉があります。
どこかで言っていたことがあるかもしれませんが、このプシュケという言葉は先ほどのヒオスとしての命を含む私たち人間の全存在、
これはかけがえのない価値、かけがえのなさを意味する命というプシュケという言葉があります。
ですからこの25節に出てくる命は単なるこの肉体の命ではなく、それも含む全存在の命が食べ物より着物より大切なものではないか。
ではこれはどういう意味なんでしょうか。
ここでイエス様は私たちにこのように進めています。
私たち一人一人の存在そのものが食べ物以上に、また私たちを覆っているこの着物以上にずいぶんもっと大事であって大切なものであるということを語っているんです。
今日の朝皆さんもしかして教会に来るときに何を着ようかと悩んだ方いらっしゃいますか。
教える中で今日はこれにしようかあれにしようか、今日は暑いかな寒いかなと。
それは悪いことではないんですけれども、実は私たちが何を食べるか何を着ようか、この食べ物や着物に対して思い患っているときに、
実は最も大事な私たちの命と私たちの体に対して心配してくださる方が、そして心配してくださるだけではなく、
守ってくださる、助けてくださる良き父なるお父さんが、神様がおられるということなんです。
06:03
それに対して気づくようにとイエス様が進めているのです。
その中でイエス様がその気づきを促すためになされたことは、空も鳥よ、桃花を見なさいとおっしゃいました。
皆さん空も鳥よ、道端のあるいはお家にあるお花を見られたことあるんですよね。
それを注意深く観察されたことはあるでしょうか。空も鳥や桃草やお花を注意深く観察した結果、何がわかるのでしょうか。
実はそこにですね、空も鳥、桃、花の無力者ということなんです。
いかがでしょう皆さん。私たちは種をまいたり、あるいは借り入れや蔵に蓄えることができます。
働くこともできます。紡ぐこともできます。しかし空も鳥、桃、花たちには実はそのような意思も能力もないということです。
なのに、なぜイエス様は空も鳥よ、桃花を見なさいと促しておられるのでしょうか。
さらに深く観察して、深く考えてみたら、空も鳥たち、桃花や草たちから、その姿からですね、信仰の模範を私たちは見ることが、知ることができるんです。
それは皆さん、本当に神様に、作り主なる神様に委ね切った姿です。委ね切った姿。
空も鳥や桃花たちは徹底的に無力で受け身なんです。
つまりそれはですね、全てを神様に委ねるしかないのです。
神様を信頼するしかない姿です。
それを見なさいと観察してごらんとイエス様が語っておられるんですね。
実は皆さん、これが信仰の美しい姿であって、また平安でいられる秘密なんです。
しかし、そんな受け身で委ね切った彼らの姿には、何もできない、どうしよう、どうしようといってですね、
思想感に満ちて、思いをあずらって、もう不安でいっぱいという姿ではないんです。
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むしろ、先ほどもですね、お母さんのですね、この、あの、抱っこされてもしやしやとですね、
あの、眠っているあの子供たちのように、平安でいられるような、あの姿ではないでしょうか。
イエス様は、このような彼らの姿から学ぶようにと進めているんです。
では皆さん、なぜ、空の鳥や野菜の花たちは平安でいられるのでしょうか。
それは皆さん、今から大事な話ですよ。
それは、自分たちが委ね切っている相手のお方が、どんなお方なのか、よく知っているからです。
つまり、それは、自分自身をですね、委ね切っているその相手、その父なる神様がどんなお方なのか、よく知っていることなんですね。
信仰の始まりは、ああ、私たちの父なる神様がどんなに素晴らしいお方なのか、それを知ることだね。
空の鳥たちは、神様が自分たちを焼きなしてくださること。
桃花たちは、神様が映画を極めたそのも以上に、自分たちを装ってくださることを知っているから、
安心して空を飛び、安心してそこで咲いていることができているのだと。
それを見なさいと、イエス様が言われました。
森の奥深く咲く桃花、あるいはこの土砂、一度も火の芽を見るようなことがなかったとしても、
そんなことにはお構いなく、置かれているところで、輝いて咲いていることができる。
それが皆さん、今日の御言葉で、イエス様が空の鳥、野の花を見なさい、
彼らの信仰の模範を学ぶようにと勧めているイエス様のお言葉であります。
今日のですね、箇所の前の方の19節が出てきますが、そこをですね、一緒に読みましょうか。
私の6一章、今日の6一章の19節、先生の持ちの方はご一緒に読みましょう。
3回、自分の宝を地上に蓄えるのはやめなさい。そこには虫とサビで傷者になり、また盗人が穴を開けて盗みます。
12:12
3つの宝を読みますね。自分の宝は栓に蓄えなさい。そこでは虫もサビもつかず、盗人が穴を開けて盗むこともありません。とあります。
そもそも皆さん、私たちはですね、なぜこの地上に宝や富を蓄えようとするのでしょうか。
そこにはいろんな理由があるでしょうけれども、その中心にある理由は、実は明日のことが心配だからではないでしょうか。
一生懸命働いて、お金を貯めて、あるいは家を買って、あるいは年金もたくさん納めて、
そしたらこの宝が、この富が明日の自分を守ってくれるだろうと思って、それがないと不安で不安でどうしようもないからと思っていることではないでしょうか。
だから絶対にこの富がなければならないんだという、そういった思い、その思いのこの根どころには、実は明日のことが心配だから、そういうふうに必死になって働いて、必死になって蓄えているのではないでしょうか。
この点と関連して、神様は空の鳥どの話を見なさい。
我々人間は必死になって富を蓄えようとするのは、もう一つの根どころにこういった意義があると思うんですね。
それは、私たちは自分の努力で明日をコントロールできると、どこかで考えているからではないでしょうか。
実は、でもそのことのゆえに、私たちは思い患いを、心配を経験しているのではないでしょうか。
しかし、空の鳥、野の花たちから学べる信仰の模範は、神様に全てを委ねきっている姿です。
だから、平安でいられるのです。だから、思い患いがないのです。
ソロモンの映画でさえ、それより勝る神様が、よそおって守ってくださるから、その方を知っているから、思い患いがないのです。
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ですから皆さん、空の鳥、野の花たちが持っている素晴らしい、とても大切な二つの知識があると思います。
その一つは、自分たちの無力さを知っている知識です。
明日のことをコントロールできない、その自分の無力さというものを知っている知識です。
認める知識とも言えるでしょう。それを認めるのです。
それからもう一つは、そんな無力な自分自身を活かして、栄えさせてくださる神様の優しさ、偉大さ、その強力さを知っていて、
そして、そのような神様を知る知識なんです。この二つの知識。
もう一度繰り返して申し上げますと、彼らは徹底的に無力で受け身です。
だからこそ、すべてを神様に委ねるしかないのです。神様を信頼する方法、他には道がないのです。
それを知っているのです。
ですから、そのような受け身でいざねきた彼らの姿は、まさに平安、喜びそのものではないでしょうか。
いかがでしょうか、皆さん。
今年一年間、皆さんは平安で平安でいられて、何の思い患いもなく、心配もなく、今日まで歩んで来られたでしょうか。
あるいは、もう不安いっぱいでここまで歩んで来られたでしょうか。
皆さん、私たちが自分の力で何とかしてやっていこうとする時に、必ずのように思い患ってしまい、不安を覚えるものだと思うんですね。
よくから私たちは、だいたいこういうふうに考えたりするかと思います。
一つは、もしもこのようにならなかったらよかったのに、と思ったりします。
あるいは逆にですね、仮にこうなったらよかったのに、と思ったりしませんか。
私たちが願うようになってもならなくても、つまりどちらに転じても、私たちは明日のことを考えたり準備したりすることで、本当に時には心の余裕がないのではないでしょうか。
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ある人々の場合には、次第に思い患いが重なって重なって、いわゆる現代人の病気の一つである不眠症を病んでいる人々が大勢いるかなと思います。
思い患いがあるんです、根本的に。
ところが皆さん、聖書ですね、荘石、一番最初の神様の創造の記事を書かれている聖石という聖書がありますが、
そこでですね、神様が私、人間を最初にお作りになった直後、一番最初に人間にさせたのは何なのか皆さんご存知ですか。
それは人間を眠らせた、眠るようにしていました。
そしてその間に神様は、人間が平安でハッピーに過ごせるように、自然界のために主が働きかけて、安心して、平安中に過ごせるように、全ての環境を整えてくださっています。
ここに秘密があるんです。
どうしたら平安でいられるのでしょうか。
どうしたら明日のことは明日が踏ん張ってくれて、喜びのうちに過ごせるのでしょうか。
イエス様は、そんな思い患いを抱えている私たちに、自分の力で自分の努力で頑張りなさいとか、どうにかしなさいとか、進めるおっしゃる方ではありません。
イエス様は、この時代の人々に、そして今日の私たちにも、空の鳥のように、桃花のように、神様を信頼しなさい。
その方は、あなたたちにとっては、母、父、お父さんである、お父ちゃんである、だからこの方に委ねきて、願い縋って生きるようにと語っておられます。
皆さん、泳ぎが上手ですか。ある牧田者が、泳ぎに例えて言われました。スイミングですね。
泳ぐためには、あるいは泳げるようになるためには、ある程度の水の深さが要りますよね。足引き込みくらいの深さでは泳げないんですよね。ある程度の深さが要ります。
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だから、いくら水が海であれ川であれ深さがあったとしても、でも自分の足、自分の武力という足に頼って歩いてばかりしたら、残念ながら泳ぎは学べません。
では何が必要なんでしょうか。それはその水に自分の身体を委ねることです。そして浮かぶことです。そうすると泳げるようになるでしょう。
信仰はこのようなことと似ていると思います。ところがある人々は、神様を信頼する必要はないんじゃないかと。人間は偉いから自分で頑張ったら何とか行けるんだと、やっていけるんだと、そう思ったりするのは、我々人間の複数の考えであるかもしれません。
まるで水の深さがあるにもかかわらず、自分の足で歩いてると言って、頑張って頑張って歩いてるような人間の仕方がそこに見えるのです。
だからこの企業に富や宝や成功をどうにか蓄えてやっていこうと、やっていけるんだと思っているのではないでしょうか。でも実はイエス様はそれは勘違いですよとおっしゃっています。
そのような思いを持っている人々にイエス様はこのようにお語りになりました。もう一箇所、聖書を開きたいと思います。新約聖書の中にルカノ福音書という聖書があります。十二章の十八節から二十節、139ページです。
ルカノ福音書、十二章、十八から二十節。私が十八、十九節を読み始めたので、よかったら二十節をご一緒に読み始めたいと思います。十八節。
そして言った。
皆さんはこの御言葉をお読みになってどういう思いになるのでしょうか。まったく同じではないかもしれませんが、どこか似ているところが我々の心の中に奥底にあるのではないでしょうか。
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あるいは逆にこういう場合があるかもしれません。自分ではどうしようもなくて、そして何かそういった出来事に匿名してですね、その中で悩みに悩んで、その中で神様により頼まざるを得ない、そうなってその出来事を通して神様にお会いする人がいるんです。
そしてその後真剣に祈るようになって、神様に慰めを助けを求めるようになって、あるいは自粛になって、聖書を通して神様に向かうようになる人がいるんです。
あるいは信仰の兄弟姉妹たちに私のために祈ってほしいとお願いする。そうすると信仰の兄弟姉妹たちか信仰の友が本当に自分の課題家のように涙をもって必死に祈ってくれるんですね。
そのようにして皆さん実は信仰のギアが入る、信仰のギアが切り替える景気がするようになるんです。今の車はほとんどオートマックだからですね、ギアが入っているかどうかわかりませんけれども、昔のマニュアルですね、ギアを1段、2段、3段、4段、5段、6段、7段、8段、9段、10段、11段とならなかったんですよね。
信仰のギアが切り替えられて入りますと信仰の道を道路をですね、立派に素晴らしく走れるようになるのです。でもギアが入っていないといくらアクセラターを踏んでも走れないんですよね。いくら踏んでも踏んでもですね、それが人間の努力というものではないでしょう。
ところが皆さん、今日の御言葉を通してイエス様が私たちに教え起こしておられるのは、信仰さえあれば食べ物とか着物とかそんなものなくても耐えられるのだ、そういう話ではありません。
何を食べようか、何を着ようか、明日はどうなるんだろうか、そういった心配はあなたたちのものではない。その心配は私のものだ。私が心配するから、あなた方は別のことを心分けなさいというメッセージなんです。
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だからこのメッセージの最後の結論には、今日の6章33節にイエス様はこのように言われました。私の国語6の33節を一緒に読みたいと思います。そういえば、今思いつきました子供のメッセージをうっかり忘れてしまいましたね。人間はこんなもんですね。
33節一緒に読みたいと思います。
ここにですね、神の国、神の義を求めなさいと言います。
簡単に申し上げますと、神の国とは神様の愛による御支配です。神の愛の御支配、それから神の義は神様との正しい関係です。つまり神様の存在を認めて、神様を意識して生きることです。
ですから皆さん、私たちが神様の子供であるならば、私たちがこれが欲しい、あれが必要、これを求めて、あれを求めているその必要を、主は既に知っておられて、そして必ず将来にわたって必要なものを満たしてくださる、それを信じること、
それが信仰の必要なのです。
そのような時に、神様は、私たちが空のぽり、物花鉢のように神様に作られて、神様に愛されて、生かされている存在として、そして神様の素晴らしさを明かしするものとして輝くことができるようになる、それが許されていることをわかって歩めるようになるのです。
まとめて終わりたいと思います。
皆さんは何のために思いをずらって、あるいは心配を抱えていらっしゃるのでしょうか。
空のぽり、物花鉢は、すべてを神様に委ねきて、その方がよそって、食べさせて、着させて、守ってくださる、それを知って、その方を知って生きているのです。
30:03
その信仰が、その知識が、私たちにもいっぱいになります。
そして、ひとりぬちなる神様を知る知識と知恵が、皆様の上にいっぱいになりますように、心からお祈り申し上げます。お祈り致します。
30:22

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